【人物編Vol.79】平頼盛――都落ちから引き返した清盛の弟、母が救った源頼朝を頼って鎌倉へ

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人物

第153回

元暦元年(1184年)6月1日、鎌倉。

源頼朝は、京都へ帰ろうとしていた平頼盛のために送別の宴を開いた。

『吾妻鏡』によれば、小山朝政、三浦義澄、畠山重忠ら有力御家人が集まり、酒が振る舞われた。

宴が進むと、頼朝は頼盛へ餞別を贈った。

金作りの剣一腰。

砂金一包み。

鞍を置いた馬十頭。

さらに頼盛に付き従ってきた家人たちにも、贈り物が用意されたという。

頼盛は平清盛の異母弟だった。

このころ、清盛の子・平宗盛や平知盛らは安徳天皇を奉じ、屋島で源氏との戦いを続けていた。

その清盛の弟が、敵方の頼朝から手厚いもてなしを受けていたのである。

そこには二十四年前の出来事が関わっていた。

平治の乱の後、源義朝の三男・頼朝は平氏方に捕らえられた。

数え13歳の少年だった。

その助命を清盛へ願い出たのが、頼盛の母・池禅尼だったと伝わる。

頼朝は処刑を免れ、伊豆国へ流された。

それから二十余年。

伊豆で挙兵した頼朝は鎌倉に入り、東国の武士たちを従える立場となった。

一方、頼盛は寿永2年(1183年)の平氏都落ちで一門から離れ、京都へ引き返している。

八条院の保護を受けた後、息子たちを伴って鎌倉へ向かった。

頼朝は池禅尼への恩を忘れていなかった。

しかし、この日の宴には、もう一人の人物をめぐる話が残されている。

平宗清である。

宗清は池禅尼に仕え、平治の乱の後には頼朝の助命にも関わったと伝わる武士だった。

頼朝は宗清にも恩を報いようとしていた。

ところが宗清は鎌倉へ来なかった。

平氏一門が零落した今になって、昔の功績に報いてもらうため鎌倉へ向かうのは恥ずかしい。

宗清はそう語り、屋島にいる宗盛のもとへ向かったという。

頼盛は鎌倉で頼朝の厚遇を受けた。

宗清は戦いを続ける平氏のもとへ去った。

同じ池禅尼に縁を持つ二人の男は、平氏の没落を前に別々の道を選んだ。

平忠盛の五男――母は池禅尼

平頼盛は長承元年(1132年)ごろ、平忠盛の子として生まれた。

生年には異説があり、1131年や1133年とする資料もある。

父の忠盛は、鳥羽院に仕えた伊勢平氏の有力武将だった。

西国の海賊追討や院領の管理などで功績を挙げ、朝廷で官位を重ねた人物である。

頼盛は忠盛の五男にあたる。

兄には平清盛、平家盛、平経盛、平教盛らがいた。

そのうち家盛は同母兄であり、清盛、経盛、教盛は異母兄だった。

母は藤原宗子。

後に池禅尼と呼ばれる女性である。

宗子は藤原宗兼の娘で、忠盛の正室となっていた。

その宗子が産んだ家盛は、忠盛の家で重んじられていた。

家盛は若くして朝廷へ出仕し、右馬頭などを務めた。

しかし久安5年(1149年)、鳥羽院の熊野参詣に同行する途中で病に倒れる。

家盛はそのまま亡くなった。

まだ二十代の若者だった。

母の宗子は、若い息子を失った。

頼盛も同母兄を失い、忠盛の家に残された宗子の子となった。

さらに仁平3年(1153年)、父の忠盛が死去する。

平氏一門の棟梁となったのは、長男の清盛だった。

頼盛は異母兄の清盛に従うことになる。

しかし、母の宗子には宮廷での人脈があり、その息子である頼盛も独自の家人や所領を持つようになった。

清盛が率いる一門の中で、頼盛の家は別の基盤を育てていく。

「小烏」と「抜丸」――兄弟の不和を伝える太刀

清盛と頼盛の関係には、平氏の重宝をめぐる逸話がある。

「小烏」と「抜丸」という二振りの太刀である。

『源平盛衰記』によれば、どちらも平氏に伝わる名刀だった。

抜丸は、もともと「木枯」という名の太刀だったという。

ある日、忠盛が池のほとりで昼寝をしていると、大蛇が現れた。

すると太刀がひとりでに鞘から抜け、大蛇を退けた。

忠盛はこの出来事から、太刀を抜丸と名付けたと伝わる。

やがて忠盛は、小烏を清盛へ、抜丸を頼盛へ与えた。

このことが兄弟の不和につながったという話も残されている。

ただし、大蛇を退ける太刀の逸話は伝説である。

重宝をめぐって清盛と頼盛が争ったという詳しい経緯も、同時代の記録から確認できない。

一方、二人が後に異なる政治的な立場を取ったことは、官歴や行動からたどることができる。

清盛は平氏一門全体の棟梁として朝廷で権力を強めていった。

頼盛は母・池禅尼の人脈を受け継ぎ、後白河院や八条院との関係を築くようになる。

その頼盛が初めて大きな戦乱に加わったのは、保元元年(1156年)のことだった。

保元の乱――母が仕えた崇徳上皇の皇子

保元元年7月。

崇徳上皇と後白河天皇の対立から、保元の乱が起こった。

清盛は後白河天皇方に加わり、源義朝らとともに崇徳上皇方を破った。

頼盛も兄に従って出陣した。

このとき、頼盛の母・池禅尼には難しい事情があった。

池禅尼は、崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母を務めた女性だったのである。

重仁親王は、崇徳上皇が将来の皇位継承を期待していた皇子だった。

池禅尼にとって、崇徳上皇の家は深い関係を持つ相手だった。

しかし、保元の乱では頼盛が後白河天皇方に加わっている。

池禅尼が崇徳上皇方の敗北を予想し、頼盛に清盛へ従うよう勧めたという話も伝わる。

結果として頼盛は、兄とともに勝利した側に立った。

その後も頼盛は常陸守などの官職を歴任し、宮廷での地位を高めていく。

しかし清盛と源義朝の関係は、保元の乱の後に悪化した。

平治元年(1159年)12月。

藤原信頼と源義朝が兵を挙げる。

平治の乱である。

この戦いが、頼盛の母と源頼朝の運命を結びつけることになった。

平治の乱――捕らえられた源頼朝

平治元年12月。

藤原信頼と源義朝は後白河上皇を幽閉し、京都の主導権を握ろうとした。

熊野参詣の途中だった清盛は都へ引き返し、反撃の準備を進める。

頼盛も平氏方として戦った。

清盛の子・重盛らが出陣し、京都では激しい戦いが続いた。

やがて信頼と義朝の軍勢は敗れる。

信頼は処刑され、義朝は京都から逃れた後、尾張国で殺害された。

源氏方の武士たちも次々に捕らえられた。

義朝の長男・義平は後に処刑される。

そして三男の頼朝も、平氏方の手に落ちた。

頼朝は数え13歳。

父の義朝を失い、兄の義平も処刑された少年だった。

『平治物語』では、頼朝を捕らえた人物として平宗清の名が登場する。

宗清は池禅尼に仕える武士だった。

捕らえられた頼朝は、清盛の判断を待つことになる。

源義朝の息子を生かしておけば、将来、平氏に敵対する可能性があった。

そこへ池禅尼が助命を願い出たという。

池禅尼の嘆願――十三歳の頼朝を救う

『平治物語』によれば、池禅尼は捕らえられた頼朝の姿に、亡くなった息子・家盛の面影を見たという。

家盛は久安5年に病死していた。

その家盛と頼朝がよく似ていると聞き、池禅尼は頼朝の命を救いたいと考えたと伝わる。

池禅尼は清盛へ助命を願い出た。

しかし清盛は、源義朝の息子を生かすことに難色を示した。

池禅尼は何度も願いを重ねたという。

『平治物語』では、頼朝を処刑するなら自分も生きてはいないとまで訴えたと描かれている。

ついに清盛は助命を認めた。

頼朝は処刑を免れ、伊豆国へ流された。

もっとも、池禅尼が家盛の面影を見たという場面や、清盛との詳しいやり取りは軍記物語の伝承である。

頼朝の助命が決まった背景には、当時の政治的な判断も関わっていたと考えられる。

ただ、池禅尼が頼朝の助命に力を尽くしたという認識は、後の『吾妻鏡』にも残されている。

頼朝自身も、池禅尼から受けた恩を忘れていなかった。

このとき頼盛が母の嘆願にどこまで関わったのか、詳しい記録は残されていない。

頼盛は平氏の若い武将として兄に従い、母の池禅尼は頼朝の命を救おうと動いた。

それから二十余年。

頼朝は伊豆で暮らし、頼盛は京都で官位を重ねていく。

二人が再び顔を合わせるのは、平氏一門が京都を追われた後のことだった。

「池殿」と呼ばれた頼盛――正三位から参議へ

平治の乱の後、清盛の勢力は大きく広がった。

頼盛も朝廷での昇進を続ける。

常陸守、安芸守、三河守、尾張守などを歴任し、永万元年(1165年)には修理大夫に任じられた。

翌仁安元年(1166年)には大宰大弐となり、同年8月に従三位へ昇る。

公卿の位階を得たのである。

仁安2年(1167年)正月には正三位。

翌仁安3年(1168年)10月18日には参議に任じられた。

このころ清盛はすでに太政大臣まで昇っていた。

清盛の長男・重盛も高い官位に進み、弟の宗盛も参議となっている。

頼盛は忠盛の正室が産んだ息子だったが、一門の中での昇進は必ずしも最も早かったわけではなかった。

しかも参議となった直後、頼盛は官職を解かれている。

後に参議へ復帰し、官位を重ねていくことになるが、宮廷での地位はたびたび揺れ動いた。

頼盛の邸宅は「池殿」と呼ばれた。

母・池禅尼が暮らした六波羅の邸宅にちなむ名前である。

その後、権大納言まで昇ると「池大納言」とも呼ばれるようになった。

頼盛の家には平宗清らの家人が仕えていた。

また各地に荘園を持ち、年貢の収納や土地の管理にも関わっていた。

頼盛が権利を持つ所領は、畿内から西国、九州まで広がっている。

清盛を中心とする平氏一門の中で、頼盛の家も独自の家人と経済基盤を備えていた。

八条院との関係――妻・宰相局の実家

頼盛の政治的な立場を考えるうえで、八条院との関係は欠かせない。

八条院は、鳥羽上皇と美福門院得子の間に生まれた暲子内親王である。

広大な荘園群を受け継ぎ、独自の家政機関を持つ有力な女院だった。

頼盛の妻は、八条院の乳母の娘・宰相局と呼ばれる女性だった。

宰相局は、鹿ケ谷事件で鬼界ヶ島へ流された僧・俊寛の姉妹でもある。

頼盛はこの婚姻を通じて八条院の周辺と深く結びついた。

さらに頼盛自身も、後白河院庁の別当を務めている。

清盛が娘の徳子を高倉天皇へ入内させ、皇室の外戚として勢力を強める一方、頼盛は八条院や後白河院との関係を保っていた。

頼盛の家が関わる荘園には、八条院を本家とするものも多かった。

そうした荘園では、八条院の家政機関と頼盛家が、それぞれの立場から管理や収益に関わっていた。

八条院との結びつきは、頼盛の妻の実家との縁だけで終わらなかった。

頼盛の家にとって、重要な所領と人脈を支える関係だったのである。

そして治承3年(1179年)。

清盛と後白河法皇の対立が深まると、頼盛は兄の手によって官職を奪われる。

治承三年の政変――兄・清盛に解官される

治承3年6月。

清盛の娘・平盛子が亡くなった。

盛子は摂関家の藤原基実に嫁ぎ、夫の死後、多くの摂関家領を管理していた。

その盛子が亡くなったことで、所領の扱いをめぐる争いが起こる。

続く7月29日には、清盛の長男・平重盛も死去した。

重盛家が保持していた越前国も後白河院の分国となり、清盛と法皇の対立はさらに激しくなった。

11月、清盛は福原から軍勢を率いて京都へ入る。

関白・松殿基房を退け、近衛基通を新たな関白とする。

院近臣たちも相次いで解官され、後白河法皇は鳥羽殿に幽閉された。

治承三年の政変である。

11月17日。

頼盛も右衛門督を解任された。

清盛の異母弟でありながら、後白河院に近い人物として処分されたのである。

当時、清盛が頼盛を討つのではないかという噂まで広がったと伝わる。

もっとも、清盛が実際に頼盛の殺害を命じたことを示す記録は見つかっていない。

頼盛は翌治承4年(1180年)正月に出仕を許された。

同年4月には従二位、6月には正二位へ進む。

兄の政変によって官職を奪われながら、朝廷での地位を取り戻した。

しかし同じ年、各地で反平氏の挙兵が相次ぐ。

そして伊豆国で、一人の武士が兵を挙げた。

かつて池禅尼が命を救った源頼朝である。

頼朝の挙兵――平氏の運命が変わり始める

治承4年(1180年)8月。

源頼朝が伊豆国で挙兵した。

頼朝は石橋山で大庭景親らに敗れたものの、安房国へ逃れて再起する。

千葉常胤、上総広常らが味方につき、武蔵国でも有力武士たちが頼朝に従った。

10月6日、頼朝は鎌倉へ入る。

その後、清盛が派遣した平維盛らの追討軍は富士川で敗走した。

同じころ、信濃国では木曾義仲が勢力を広げていた。

翌治承5年(1181年)閏2月4日。

清盛が亡くなる。

平氏一門の棟梁となったのは、清盛の三男・平宗盛だった。

頼盛は宗盛より年長の叔父であり、正二位という高い位階も持っていた。

しかし、一門の指揮を執ったのは宗盛である。

宗盛は清盛の正室・平時子の子であり、安徳天皇の母・徳子の兄でもあった。

頼盛は引き続き朝廷で昇進する。

寿永元年(1182年)には陸奥出羽按察使、中納言などを歴任し、翌寿永2年(1183年)4月5日には権大納言となった。

正二位・権大納言。

母の池禅尼が亡くなった後も、頼盛は朝廷で高い地位を保っていた。

しかし、その翌月、平氏が北陸へ派遣した追討軍が大敗する。

倶利伽羅峠の戦いだった。

木曾義仲の軍勢が京都へ迫り、頼盛も都落ちの渦中に置かれる。

寿永2年7月――山科へ出陣した頼盛

寿永2年5月11日。

平維盛らが率いた北陸追討軍は、倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。

続く加賀国篠原でも敗れ、義仲の軍勢は越前から近江へ進む。

平氏は京都周辺に軍勢を配置し、義仲の進撃に備えた。

頼盛も山科方面へ出陣する。

京都の東側を守るためだった。

『愚管抄』などには、このとき頼盛が山科に出ていたことを伝える記述がある。

7月24日。

京都では宗盛らが安徳天皇を奉じ、西国へ退く準備を進めていた。

しかし頼盛は山科にあり、一門中枢の動きから離れていた。

その夜、後白河法皇は京都を抜け出し、比叡山へ移る。

翌25日、宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴い、京都から退去した。

頼盛が一門の都落ちを知ったのは、その動きが進んでからだったという。

『愚管抄』では、宗盛らが頼盛へ十分に知らせないまま都落ちしたことが語られている。

頼盛はその対応に憤ったと伝わる。

清盛の弟であり、正二位・権大納言まで昇った頼盛が、都を離れる一門から取り残されかけたのである。

頼盛は宗盛らの後を追うことにした。

しかし、ただ合流するつもりだったわけでもなかった。

今後どう行動すべきか、宗盛自身の意向を確かめようとしたという。

そのために息子を使者へ立てた。

息子・為盛を宗盛へ遣わす――返答を待った頼盛

『愚管抄』によれば、頼盛は息子の平為盛を宗盛のもとへ遣わした。

自分たちは今後、どのように行動すればよいのか。

一門とともに西国へ向かうべきか。

それとも京都周辺にとどまり、別の役目を担うのか。

頼盛は宗盛の判断を求めた。

ところが宗盛は、はっきりした返答をしなかったという。

都落ちの混乱の中で、宗盛自身も心を失ったような状態だったと『愚管抄』は語る。

為盛は頼盛のもとへ戻った。

頼盛はなお一門を追おうとしたが、やがて京都へ引き返すことを決める。

『延慶本平家物語』には、赤井河原付近で頼盛が家人たちに命じ、平氏方を示す赤い印を捨てさせたという場面が残る。

軍勢を識別するための印を外し、京都へ戻ったというのである。

赤い印を捨てる場面は軍記物語の描写による。

一方、頼盛が宗盛らとともに西国へ向かわず、京都へ戻ったことは公家日記にも記録されている。

吉田経房の日記『吉記』7月28日条では、頼盛の離脱をめぐって公卿たちが議論している。

清盛の時代から頼盛と一門中枢には不和があった。

しかし今回の都落ちについて、頼盛に特別な謀略があったという話は聞かない。

そのような趣旨の意見も出た。

山科で守備を任されていた頼盛は、宗盛らの退去を知り、息子を使者へ立てた。

その後、一門から離れて京都へ引き返した。

頼盛が最初から源氏へ味方するつもりだったと決めつける根拠はない。

都落ちの混乱と一門内部の関係が、その決断に重なっていた。

八条院の保護――京都へ引き返した清盛の弟

頼盛は京都へ戻ると、後白河法皇へ事情を伝えた。

『愚管抄』によれば、法皇は頼盛に八条院のもとへ身を寄せるよう命じたという。

頼盛にとって、八条院は以前から深い関係を持つ人物だった。

妻の宰相局は八条院の乳母の娘であり、頼盛自身も八条院領の荘園に関わっていた。

頼盛はその縁を頼り、八条院の保護を受ける。

しかし、京都に戻ったからといって、ただちに官位を回復できたわけではなかった。

8月6日。

頼盛は権大納言を解官された。

安徳天皇とともに西国へ向かった平氏一門に対する処分が進む中、頼盛もその対象となったのである。

そのころ京都では、木曾義仲と後白河法皇の関係が悪化しつつあった。

義仲の軍勢は食糧の確保に苦しみ、京都周辺の武士たちとの争いも広がっていた。

頼盛は八条院の保護を受けながら、政情の不安定な京都にとどまっていた。

西国では宗盛らが安徳天皇を奉じ、なお勢力を立て直そうとしていた。

東国には頼朝がいる。

その頼朝は、かつて池禅尼が助命を願った少年だった。

同年秋、頼盛は息子たちを伴って鎌倉へ向かった。

平氏の棟梁・清盛の弟が、源氏方の頼朝を訪ねることになったのである。

寿永2年11月――頼朝との対面

寿永2年11月。

頼盛は鎌倉へ到着した。

九条兼実の日記『玉葉』11月6日条には、頼盛が頼朝と対面したという知らせが記されている。

頼盛は唐綾の直垂を着け、立烏帽子をかぶっていた。

息子たちと二人の家人を従えていたが、刀剣は帯びていなかったという。

頼朝は白糸葛の水干に立烏帽子という姿で迎えた。

その後ろには五十人ほどの郎従が控えていたと伝わる。

頼盛は武装せず、息子たちとともに頼朝の前へ現れた。

『玉葉』は、頼朝が頼盛を父のように扱ったという話も書き留めている。

頼盛には相模国府付近の宿所が用意され、滞在中の世話も整えられたという。

ただし、この対面を兼実自身が見たわけではない。

鎌倉から京都へ伝えられた情報である。

頼盛が鎌倉へ下ったころ、頼朝は後白河法皇との交渉を進めていた。

寿永2年10月には、東国における荘園や公領の支配をめぐる宣旨も出されている。

さらに頼朝は、木曾義仲と対立する京都の情勢を注視していた。

頼盛は八条院や後白河院との関係を持ち、長年朝廷で官職を務めてきた公卿である。

その頼盛を迎えることには、頼朝にとっても政治的な意味があった。

そして頼朝には、頼盛の母・池禅尼への恩義があった。

その恩義は翌年、頼盛家の所領を守るための措置として記録されることになる。

寿永3年4月6日――旧領三十四か所の返還

寿永3年(1184年)4月6日。

『吾妻鏡』に、頼朝が頼盛の所領について行った処置が詳しく記されている。

平氏一門の都落ち後、その所領は没官領として扱われていた。

頼盛や妻が権利を持つ荘園も、没収の対象となっていた。

しかし頼朝は、これらの所領を従来どおり頼盛家に管理させようとした。

『吾妻鏡』に記された理由は明確だった。

「故池禅尼恩徳」

亡き池禅尼から受けた恩に報いるためである。

頼朝の働きかけを受け、頼盛家の所領三十四か所について、従来の権利を認める措置が取られた。

その内容は『吾妻鏡』に一覧として残されている。

頼盛が直接関わる所領には、河内国走井荘、伊賀国長田荘、伊勢国木造荘、播磨国在田荘、備前国佐伯荘などがあった。

さらに筑前国香椎荘や安富領、肥後国の球磨郡に関わる荘園も含まれている。

一方、頼盛の妻が関係する所領には、八条院領の摂津国兵庫荘、加賀国熊坂荘、筑前国宗像社領、日向国国富荘などがあった。

こうした荘園では、女院や寺社などが本家となり、頼盛家は領家職や管理に関わる権利を持っていた。

頼朝は、それらの権利を従来どおり認めさせようとしたのである。

池禅尼が頼朝の助命を願ったのは、平治の乱の後だった。

それから二十四年ほどが過ぎていた。

頼朝は池禅尼の息子である頼盛を保護し、その家の所領についても朝廷へ働きかけた。

『吾妻鏡』は、その理由に池禅尼の恩を挙げている。

その一方、頼盛は長年にわたり朝廷で官職を務め、八条院や後白河院の周辺とも深い関係を築いていた。

頼朝は頼盛を通じて、京都の政治や荘園の事情を知ることもできた。

頼盛の保護には、母の恩義と当時の政治情勢が重なっていた。

鎌倉の海辺――頼朝とともに杜戸へ向かう

元暦元年(1184年)5月19日。

頼朝は頼盛らを伴い、鎌倉の海辺へ出かけた。

『吾妻鏡』によれば、一行は由比ヶ浜から船に乗り、杜戸の岸へ向かった。

現在の神奈川県葉山町周辺にあたる場所である。

御家人たちはそれぞれ船を飾り、競うように漕ぎ進んだ。

海上にはいくつもの船が並び、頼朝と頼盛もその様子を眺めた。

やがて杜戸の岸へ着く。

そこでは松の木の下に馬を走らせる場所が用意され、小笠懸が披露された。

小笠懸は、馬上から小さな的を射る武芸である。

頼朝はこれを武士の風俗だと説明し、ほかにはなかなか見られないものだと語ったという。

頼盛らも大いに興じたと『吾妻鏡』は記している。

頼盛は保元・平治の乱で清盛に従い、武士として戦場へ出た経験を持っていた。

その後は朝廷で官位を重ね、正二位・権大納言まで昇った公卿である。

鎌倉では、頼朝が率いる東国武士たちの武芸を目の前で見物した。

そして二日後、頼朝は京都へ書状を送る。

頼盛とその息子たちの官職を回復させるためだった。

5月21日――頼盛父子の任官を求めた頼朝

元暦元年5月21日。

頼朝は高階泰経へ書状を送った。

『吾妻鏡』によれば、頼盛と息子たちをもとの官職へ復帰させるよう求める内容だった。

さらに源範頼ら源氏一門の国司任官についても働きかけている。

頼盛は前年の都落ち後、権大納言を解官されていた。

その官職への復帰を、頼朝が朝廷へ求めたのである。

息子たちの任官も重要だった。

頼盛の家では、保盛、為盛、光盛、保業らが朝廷へ出仕し、官位を重ねていた。

平氏一門の敗戦が続くなか、頼盛は家の将来を息子たちに託す立場にあった。

所領を取り戻し、官職も回復する。

頼盛は鎌倉での滞在を通じて、その道筋をつけようとしていた。

頼朝もそれを後押しした。

やがて頼盛の帰京が決まる。

頼朝は出発を前に、送別の宴を開いた。

しかし、その宴に一人の武士が姿を見せなかった。

金作りの剣と馬十頭――頼朝が開いた送別の宴

元暦元年6月1日。

頼朝は頼盛を招き、送別の宴を開いた。

『吾妻鏡』には、この日の様子が詳しく記されている。

頼朝の側近や有力御家人たちが集まり、酒が振る舞われた。

小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、八田知家らが参列している。

宴では何度も酒杯が回り、世間の出来事について話が交わされたという。

やがて頼朝は、頼盛へ餞別を贈った。

金作りの剣一腰。

砂金一包み。

鞍を置いた馬十頭。

剣は時家が取り次ぎ、砂金は安芸介が届けたと記されている。

さらに頼盛に付き従ってきた家人たちにも、贈り物を与えようとした。

そこで頼朝は、一人の武士の名を呼んだ。

平宗清である。

宗清は、かつて池禅尼に仕えた武士だった。

平治の乱の後、頼朝の助命に関わった人物として知られている。

頼朝は宗清にも恩を報いようとしていた。

しかし、宗清は宴に姿を見せていなかった。

頼朝が尋ねると、頼盛は病のため出発が遅れていると説明したという。

頼朝は宗清が来なかったことを残念がった。

ところが宗清は、最初から鎌倉へ行くつもりがなかったと『吾妻鏡』は伝えている。

平宗清――頼朝の招待を断って屋島へ

宗清は池禅尼に仕え、平治の乱では頼朝の助命に関わったと伝わる武士だった。

頼朝はその恩に報いるため、頼盛が鎌倉へ下る際、宗清も同行させるよう求めていた。

しかし宗清は、鎌倉への招待を断った。

『吾妻鏡』6月1日条には、その理由が記されている。

戦場へ向かうのなら、進んで先陣を務めることもできる。

しかし、今になって頼朝が自分を招くのは、昔の助命に報いるためだろう。

平氏一門が零落した今になって、その恩賞を受けようと鎌倉へ向かうことは恥ずかしい。

宗清はそのように語ったという。

そして頼盛のもとを離れ、屋島へ向かった。

屋島には平宗盛がいた。

安徳天皇を奉じ、源氏との戦いを続けていた平氏一門の棟梁である。

宗清はその宗盛のもとへ向かったと『吾妻鏡』は記している。

頼盛は都落ちから引き返し、八条院の保護を受けた後、鎌倉へ下った。

そして頼朝の働きかけによって、旧領と官職を取り戻そうとしていた。

宗清は頼朝からの招待を断った。

同じ池禅尼に縁を持つ二人だったが、頼盛は京都へ帰り、宗清は平氏の陣へ向かった。

宗清がその後どの戦いに参加し、どこで最期を迎えたのか、詳しい記録は乏しい。

しかし『吾妻鏡』は、宗清が頼朝の誘いを断った理由まで書き留めている。

頼朝は宗清が来なかったことを惜しんだ。

そして数日後、頼盛は鎌倉を離れた。

元暦元年6月5日――鎌倉を離れた頼盛

元暦元年6月5日。

頼盛は鎌倉を出発し、京都への帰途に就いた。

『吾妻鏡』には、頼朝が頼盛の所領を保護し、滞在中は繰り返し酒宴を催し、金銀や織物などを贈ったことが記されている。

同じ6月5日、京都では頼盛の官職復帰を認める除目が行われた。

その結果が鎌倉へ届いたのは6月20日である。

『吾妻鏡』6月20日条には、頼盛が権大納言に還任し、息子の光盛が侍従、保業が河内守に任じられたことなどが記されている。

頼朝の働きかけによって、頼盛父子の官職が回復したのである。

頼盛は帰京後、朝廷での活動を再開した。

同年12月16日には、後白河法皇が八条室町にあった頼盛の邸宅を訪れている。

摂政・近衛基通の春日詣の行列を見物するためだった。

頼盛の邸宅は、再び法皇を迎える場所となっていた。

しかし、その数日後、頼盛は権大納言を辞任する。

12月20日のことだった。

辞任に際しては、息子の光盛を近衛少将に昇進させるよう願い出ている。

自分が官職を退く一方で、息子の地位を高めようとしたのである。

西国では宗盛や知盛らが、安徳天皇を奉じてなお戦いを続けていた。

頼盛はその一門から離れ、京都で所領と官職を守るために動いていた。

そして翌年、平氏は壇ノ浦で滅びる。

壇ノ浦の敗戦――生き残った清盛の弟

元暦2年(1185年)3月24日。

長門国赤間関の海上で、源氏と平氏の船団が激突した。

壇ノ浦の戦いである。

平氏は敗れ、安徳天皇は海に沈んだ。

清盛の妻・時子も入水し、知盛や教盛ら一門の武将たちも相次いで命を落とした。

宗盛は息子の清宗とともに捕らわれ、後に近江国で処刑された。

頼盛はこの戦いに参加していなかった。

寿永2年の都落ちで一門から離れ、鎌倉へ下った後、京都に戻っていたからである。

父の忠盛はすでに亡くなっていた。

同母兄の家盛も若くして死去し、異母兄の清盛も1181年に亡くなっている。

壇ノ浦では兄弟や甥たちが相次いで命を落とした。

頼盛がその知らせをどのように受け止めたのか、詳しい記録は残されていない。

一方、頼盛の家では息子たちが官職を得て、荘園の管理も続いていた。

頼朝の保護を受けた頼盛は、平氏の敗戦後も京都で暮らしていた。

そのおよそ二か月後、頼盛は出家する。

元暦2年5月29日――東大寺付近で出家する

元暦2年5月29日。

頼盛は出家した。

『吾妻鏡』6月18日条によれば、頼盛の使者が鎌倉へ到着し、前月29日に東大寺付近で出家したことを頼朝へ報告したという。

法名は重蓮。

頼盛は出家の意向を、あらかじめ頼朝へ伝えていた。

正二位・権大納言まで昇った頼盛は、髪を下ろし、仏門に入った。

出家の場所として記された東大寺は、かつて平氏の軍勢によって焼かれた寺院だった。

治承4年(1180年)の南都焼き討ちでは、大仏殿をはじめ多くの伽藍が焼失している。

頼盛が東大寺付近で出家することを選んだ理由は、史料には詳しく記されていない。

ただ、平氏の軍勢が大きな被害を与えた寺院の近くで、清盛の弟が出家したことは記録に残る。

出家した頼盛は、重蓮と名乗るようになった。

しかし、家の所領や息子たちの任官をめぐる活動は続いた。

同年6月には、後白河法皇が播磨国と備前国を院分国とし、その知行を頼盛に関わらせたことが『玉葉』に記されている。

頼盛は藤原実明を播磨守に、息子の光盛を備前守に推挙したとされる。

出家した後も、頼盛は朝廷との関係を保っていた。

そして晩年には、八条院領の荘園をめぐって書状を送っている。

その実物は今も残されている。

「沙弥重蓮書状」――晩年の頼盛が残した文書

国立歴史民俗博物館には、平頼盛が出家後に記した書状が保存されている。

高山寺文書に含まれる「沙弥重蓮書状」である。

法名を重蓮と名乗るようになった頼盛が、摂津国兵庫荘について書き送ったものだった。

作成年は文治元年(1185年)から翌文治2年(1186年)5月ごろまでと推定されている。

頼盛は八条院庁に対し、兵庫荘へ使者を派遣してほしいと求めた。

荘園の現地で生じた損害を調べてもらうためである。

さらに年貢や仏事に必要な経費について、負担を軽くしてもらうことも願っていたと考えられている。

兵庫荘は、頼盛の妻を通じて関係を持っていた八条院領の荘園だった。

清盛が福原への遷都を進めた摂津国の沿岸部には、平氏一門の所領が広がっていた。

その周辺は一ノ谷の戦いをはじめとする戦乱の影響を受けていた。

頼盛は出家後も、荘園の損害や年貢の問題をめぐって八条院庁へ働きかけていた。

この書状は、頼盛本人の行動を伝える貴重な史料である。

頼盛が鎌倉で頼朝の保護を受けたことは、『吾妻鏡』に詳しく記されている。

一方、この書状には、出家した頼盛が荘園の実情を調べさせ、負担の軽減を求める姿が残されている。

すでに平氏一門は壇ノ浦で滅びていた。

それでも頼盛の家には、各地に守るべき所領があり、朝廷へ仕える息子たちがいた。

頼盛は重蓮と名乗るようになってからも、家の経営に関わり続けた。

文治2年6月2日――平頼盛の最期

文治2年(1186年)6月2日。

平頼盛は亡くなった。

享年には異説があり、54歳や55歳などとされる。

生年も1131年、1132年、1133年と資料によって異なるため、正確な年齢は一つに定めがたい。

死去した場所や病状についても、詳しい経過は明らかでない。

頼盛が都落ちから引き返したのは、寿永2年(1183年)7月だった。

山科の守備に出ていた頼盛は、宗盛らの都落ちを知り、息子の為盛を使者として送った。

その後、一門を離れて京都へ戻り、八条院の保護を受けた。

同年秋には鎌倉へ下り、頼朝と対面する。

頼朝は池禅尼への恩義を忘れていなかった。

『吾妻鏡』には、その恩に報いるため、頼盛家の所領三十四か所を従来どおり管理させる措置が記されている。

さらに頼盛父子の官職復帰も後押しした。

元暦元年6月1日には送別の宴を開き、剣と砂金、馬十頭を贈っている。

その宴で頼朝が名を呼んだ平宗清は、鎌倉に来なかった。

かつて頼朝の命を救うために動いたとされる宗清は、平氏が零落した今になって恩賞を受けに行くことを恥じ、屋島の宗盛のもとへ向かったという。

頼盛は京都へ戻り、権大納言に復帰した。

その翌年、平氏が壇ノ浦で滅びると、東大寺付近で出家して重蓮と名乗った。

それから一年余り。

文治2年6月2日、頼盛は生涯を終えた。

母の池禅尼が助けた少年は、東国で武士を率いる源頼朝となった。

頼朝はその恩に報いる形で、清盛の弟・頼盛を保護した。

頼盛が亡くなる前に残した書状には、「沙弥重蓮」の名が記されている。

八条院庁へ兵庫荘の損害調査を求め、年貢や仏事費用の負担を軽くしてもらおうとする内容だった。

壇ノ浦の後も生き残った頼盛は、最後まで自分の家の所領を守ろうとしていた。

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