第67回
998年、伊勢で平氏同士が激突した
長徳4年(998)。
伊勢国で、二人の武人が兵を率いて衝突した。
平維衡(たいらのこれひら)と平致頼(たいらのむねより)である。
ともに桓武平氏の流れをくむ軍事貴族であり、自らの周囲に武装した郎等を抱える存在だった。
この争いが朝廷で正式に問題となるのは、同年12月14日。
藤原行成の日記『権記』には、維衡と致頼が「多くの部類」を率いて伊勢国神郡へ赴き、現地の人々を苦しめているとして、朝廷が二人を召喚する方針を決めたことが記されている。
伊勢国神郡とは、伊勢神宮と深い関係を持つ地域である。
そこで朝廷に仕える五位クラスの武人が、それぞれ武装集団を率いて争った。
京都にとって放置できる事件ではなかった。
そして平維衡の系統は、この伊勢との結びつきを深め、後に伊勢平氏と呼ばれる一族へ発展する。
そのはるか先に現れる人物こそ、平清盛である。
平維衡――将門を討った平貞盛の孫
平維衡の祖父にあたるのが、平貞盛である。
天慶3年(940)、貞盛は藤原秀郷らとともに平将門を討った。
平将門の乱から58年。
貞盛の孫の世代になると、平氏の一族は各地へ活動範囲を広げていた。
維衡もその一人である。
998年当時、維衡は下野守の地位にあった。
ただし、任国へ常駐する受領として下野を治めていたわけではない。『権記』に現れる維衡は遥任の下野守である。
そして維衡が勢力を伸ばしていた場所の一つが伊勢だった。
ここが後世から見ると非常に重要になる。
維衡の子孫は伊勢を重要な活動基盤とし、
平維衡
↓
平正度
↓
平正衡
↓
平正盛
↓
平忠盛
↓
平清盛
と続く系統が生まれる。
清盛が太政大臣になるのは、維衡の時代から約170年後。
998年の時点では、その一族はまだ天下を動かす「平家」ではない。
朝廷と貴族社会の中で、武力を武器に生きる一族である。
もう一人の武人、平致頼
平致頼もまた、桓武平氏につながる武人である。
この人物を知ると、10世紀末の「武士」がどのような存在だったのかがよく分かる。
致頼は朝廷の外側にいる反乱者ではない。
京都の貴族社会とつながりながら、自らは武力を担う軍事貴族である。
当時の政治の中心にいるのは、天皇と公卿たち。
藤原道長が権力を伸ばしていた時代である。
その一方で、貴族たちは警護や追捕、地方の治安維持といった場面で、武芸を専門とする人々を必要としていた。
そこで力を持ったのが、致頼や維衡、そして同じ頃に活動した源満仲・頼光・頼信らである。
政治を動かすのは貴族。武力を担うのは武士。
10世紀末は、まだこの力関係がはっきりしていた。
なぜ維衡と致頼は戦ったのか
ここは慎重に見たい。
998年当時の記録から、二人が伊勢で武力衝突を起こしたことは確認できる。
一方、「伊勢の覇権をめぐって戦った」と原因まで単純に断定できる史料状況ではない。
後世に成立した『今昔物語集』には、もっと人間臭い話が残っている。
維衡と致頼はともに武勇を競う人物であり、周囲にはそれぞれ相手の悪口を吹き込む者がいた。
それを聞くうちに関係が悪化し、ついには敵同士になったという。
さらに説話では、致頼側が維衡を攻めようとして戦いとなり、双方の「子孫・従類・郎等・眷属」から多くの死者が出たと描かれている。
朝廷が動く――「勝手に兵を動かすな」
998年12月14日。
維衡と致頼の行動が朝廷で問題になった。
朝廷が問題視したのは、二人だけではない。
二人が多数の部類を率いて伊勢へ入り、現地の人々に負担を与えていたことである。
さらに当時、五位以上の者がみだりに畿内を離れることも問題になった。
朝廷は二人を京都へ召喚する方針を決める。
12月26日には宣旨が下され、29日には伊勢国司から改めて報告が行われた。
ここから事件は、地方の私闘から朝廷による裁判へ移っていく。
この展開は、後世の武家社会と比べると非常に興味深い。
維衡も致頼も武力を持っている。
郎等もいる。
地方で実際に戦うこともできる。
それでも、朝廷から呼び出されれば裁かれる側だった。
武士は強くなっている。しかし、政治の主導権はまだ朝廷にある。
998年という時代の立ち位置が、ここにはっきり表れている。
999年――維衡は謝った。致頼は謝らなかった
翌長保元年(999)。
二人に対する取り調べが本格化した。
検非違使庁で尋問を受けた際、二人の対応は分かれる。
維衡は「過状」を提出した。
過状とは、自分の過失を認めて差し出す文書である。
一方の致頼は過状を提出しなかった。
3月26日には明法博士が罪名を検討し、5月5日には藤原道長以下9人の公卿による陣定が行われた。
さらに7月、12月と審議は続く。
一地方で起きた武人同士の私闘を、朝廷が何か月もかけて審理している。
それだけ、武力を持つ者同士の衝突は重大な問題だった。
一度は「死罪」が検討された
そして12月。
処分は重い方向へ進んだ。
12月15日の陣定では、法家の判断に従えば両者を死罪とする内容が検討されたとされる。
しかし最終的に、一条天皇の意向もあって処分は変更された。
12月27日。
致頼は位階を奪われ、隠岐国へ配流。
維衡は五位の位階を保ったまま、淡路国へ移郷となった。
二人の処分には明確な差がついた。
後世の『今昔物語集』では、その理由をさらに分かりやすく語っている。
先に攻撃を仕掛けた致頼の罪は重い。迎え撃った維衡の罪は軽い。
そのため致頼は遠国の隠岐へ流され、維衡は淡路への移郷で済んだという。
説話らしく整理された筋書きではあるが、実際の処分にも軽重があった。
維衡が過状を提出し、致頼が提出しなかったことも処分を考えるうえで重要である。
隠岐へ流された致頼は、わずか2年後に戻ってくる
致頼は隠岐へ送られた。
現在の島根県隠岐諸島である。
ところが、そのまま生涯を終えたわけではない。
長保3年(1001)、致頼は赦免され、京都へ戻った。
処分からわずか2年ほどである。
しかも致頼の「武人」としての評判は消えなかった。
後世の『十訓抄』では、致頼は「世に勝れたる四人の武士」の一人として名を挙げられている。
朝廷から流罪にされた人物が、後世には一流の武士として記憶された。
ここにも、この時代の価値観が見える。
1007年――「藤原道長を殺す」という噂に致頼の名前が出る
致頼には、さらに強烈なエピソードがある。
寛弘4年(1007)。
藤原道長が金峯山へ参詣した際、京都で不穏な噂が流れた。
道長の政敵だった藤原伊周・隆家兄弟が、平致頼を使って道長を殺そうとしているというのである。
実際に暗殺が行われたわけではない。
道長は無事に参詣を終えている。
重要なのは、噂の「実行役」として致頼の名前が挙がったことだ。
島根県古代文化センターも、『御堂関白記』に残るこの話を紹介している。
なぜ、致頼だったのか。
彼が武力を持った人物として知られていたからである。
貴族同士が権力を争う。
そこへ武力が必要になれば、武人が登場する。
実行された事件ではないとはいえ、この噂は当時の貴族と武士の距離をよく表している。
その頃、源頼光は道長の側にいた
ここでもう一人を見ると、時代の構図がさらに分かりやすい。
源頼光である。
源満仲の子で、後世には酒呑童子退治で有名になる人物だ。
1007年、道長が金峯山から戻る際、迎えの人々の中には頼光の名前も記録されている。
一方では、
「致頼を使って道長を襲うらしい」という噂が流れる。
もう一方では、
源頼光が道長の近くにいる。
どちらも軍事貴族である。
つまり、武士が一枚岩になって貴族と対立していた時代ではない。
それぞれの武人が有力貴族と関係を結び、その関係を通じて自分たちの地位を高めていた。
ここが重要である。
淡路へ移された維衡も、消えなかった
一方の維衡も復活する。
そして、こちらはさらに興味深い。
寛弘3年(1006)1月28日。
朝廷で、次の伊勢守を誰にするかが議論された。
そこで名前が挙がったのが平維衡だった。
これに強く反応した人物がいる。
藤原道長である。
道長は『御堂関白記』に、維衡を伊勢守にすることについて、
「宜しからざる事なり」という趣旨の反対意見を書き残している。
理由として大きかったのが、維衡がすでに伊勢と深い関係を持ち、そこで事件を起こした人物だったことである。
ところが道長の反対は通らなかった。
維衡は伊勢守に任命された。
998年に伊勢で私闘を起こし、淡路へ移された男。
その人物が8年後、今度は朝廷から正式に伊勢国を治める国司に任じられた。
平安中期の武士を考えるうえで、これほど分かりやすい話も少ない。
「危険な武士」でも、朝廷は使う
維衡の経歴を見ると、朝廷と武士の関係がよく分かる。
勝手に兵を動かせば処罰する。
地方で騒乱を起こせば召喚する。
必要なら流す。
しかし、それで終わりではない。
能力があり、利用価値があれば、再び官職を与える。
維衡は後に上野介・備前守・常陸介なども歴任している。
朝廷にとって武人は、ただの厄介者ではない。
地方支配や治安維持に必要な存在でもあった。
そして武人側も、朝廷や貴族との関係を利用した。
官職を得る。任国へ行く。現地の有力者と結びつく。郎等を増やす。経済的な基盤を作る。
それによって一族の力を強くする。
この循環が、11世紀に入るとさらに大きくなっていく。
この時代の武士は「貴族に使われる側」
998年という年を、日本史全体の中に置いてみる。
平将門が討たれた940年から58年後。
平清盛が生まれる1118年までは120年。
源頼朝が鎌倉へ入る1180年までは182年ある。
武士が政治の主役になる時代は、まだ遠い。
この頃の武士は、朝廷の官職を得て、貴族と主従関係を結び、その中で活動する存在である。
貴族が武士を利用する時代。
警護させる。盗賊を追わせる。地方の治安を維持させる。必要なら軍事力として使う。
その代わり、武士は貴族とのつながりから官職や経済的利益を得る。
維衡や致頼、源頼光らは、この仕組みの中で力を伸ばした。
ただし、ここに後の大変化につながる種がある。
利用されるためには、力が必要だった。
強い武士ほど重宝される。重宝されれば官職を得る。
官職を得れば地方との結びつきが強くなる。
地方との結びつきが強くなれば、さらに郎等が集まる。
そして、ますます強くなる。
貴族が武士を利用する仕組みそのものが、結果として武士を育てていったのである。
維衡の先に、平清盛がいる
そして維衡の系統は、伊勢との関係を深めながら成長していく。
維衡から数代後に現れるのが平正盛。
正盛は白河院との関係を深め、伊勢平氏を中央政界で大きく飛躍させる。
その子が平忠盛。
そして忠盛の子が、平清盛である。
998年、維衡は朝廷に呼び出されて裁かれる側だった。
それから約170年後の仁安2年(1167)。
その子孫・平清盛は太政大臣に昇る。
同じ一族が、朝廷に裁かれる武士から、朝廷最高位の官職に就く武士へ。
この間に、日本社会における武士の立場は大きく変わった。
そして、その変化は維衡一族だけで起きたものではない。
もう一方では清和源氏も成長していた。
源満仲の子、源頼信。
998年の伊勢で維衡と致頼が争ってから30年後。
長元元年(1028)、東国で大規模な反乱が起こる。
平忠常の乱。
朝廷はその鎮圧に苦しみ、最後に頼ることになる。
相手は、源頼信。
「貴族が武士を利用する時代」から、「朝廷が武士の力なしでは地方を抑えられない時代」へ。
武士の立場は、ここからさらに変わっていく。
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