戦い・事件

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【戦い・事件編】刀伊の入寇――1019年、日本が襲われた。対馬・壱岐を蹂躙した50余隻の船団

元寇より254年前、日本はすでに海の向こうから大規模な襲撃を受けていた寛仁3年(1019)。京都では藤原道長が絶頂期を迎えていた。前年の寛仁2年(1018)10月、道長は娘・威子が後一条天皇の中宮となった夜、「この世をば わが世とぞ思ふ ...
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【戦い・事件編】平維衡・平致頼の争い――「武士の時代」はここから始まったのか? 平清盛へつながる平氏の内紛

998年、伊勢で平氏同士が激突した長徳4年(998)。伊勢国で、二人の武人が兵を率いて衝突した。平維衡(たいらのこれひら)と平致頼(たいらのむねより)である。ともに桓武平氏の流れをくむ軍事貴族であり、自らの周囲に武装した郎等を抱える存在だ...
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【戦い・事件編】尾張国郡司百姓等解文――31か条の告発が追い詰めた国司・藤原元命

――988年、尾張の人々は朝廷に「この国司を裁け」と訴えた永延2年(988)11月8日。尾張国から、朝廷へ一通の文書が提出された。差出人は、尾張国の郡司・百姓ら。訴えられたのは、尾張守藤原元命(ふじわらのもとなが)である。訴えの内容は明快...
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【戦い・事件編】安和の変――源満仲の密告で、左大臣・源高明はなぜ失脚したのか

一通の密告が、朝廷の勢力図を変えた平将門の乱からおよそ30年。東国で武士たちが勢力を伸ばしていた頃、京都の朝廷では別の戦いが起きていた。武器を手にした戦ではない。密告と人事によって、一人の左大臣を政界から追い落とす政治の戦いである。安和2...
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【戦い・事件編】藤原純友の乱(後編)――大宰府を襲った藤原純友はなぜ敗れたのか? 博多津の決戦と最期

天慶4年(941)5月。藤原純友の軍勢が、九州の政治・外交・防衛を担う大宰府へ攻め込んだ。政庁や周辺の役所は火災に見舞われ、財物が奪われる。現在の大宰府跡では、第Ⅱ期政庁を覆う火災の痕跡が確認されており、941年の藤原純友の乱による焼失と考...
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【戦い・事件編】藤原純友の乱(前編)――なぜ藤原純友は朝廷に反乱したのか? 海賊追捕から939年の蜂起へ

天慶2年(939)12月26日。摂津国須岐駅付近で、備前介・藤原子高の一行が襲撃された。襲ったのは、藤原純友と結んだ藤原文元らだった。子高は捕らえられ、その子も殺害されたと伝えられる。須岐駅は現在の兵庫県西宮市付近に比定される。伊予を拠点と...
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【戦い・事件編】平将門の乱(後編)――「新皇」平将門はなぜ敗れたのか? 藤原秀郷・平貞盛との最後の戦い

天慶3年(940)2月14日。下総国幸島郡の北山で、平将門は最後の戦いに臨んだ。将門のもとに集まった兵は400余人。迎え撃つのは、藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲らの軍勢だった。激しい風が吹き荒れるなか、将門軍は騎馬で攻め込み、追討軍を崩した。『...
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【戦い・事件編】平将門の乱(前編)――反乱の原因とは? 935年の一族争いから常陸国府襲撃へ

天慶2年(939)11月21日。平将門は千余の兵を率い、常陸国府へ進んだ。迎え撃った常陸国府側の兵は、『将門記』によれば3,000人。兵数では国府側が上回っていた。戦いは将門軍の勝利に終わる。常陸介・藤原維幾は捕らえられ、将門は国司の支配を...
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【戦い・事件編】昌泰の変―右大臣・菅原道真は、なぜ一夜で大宰府へ送られたのか

――宇多天皇の側近から「謀反人」へ。平安朝廷を揺るがした菅原道真失脚の真相平安時代の人物で、現代の日本人にも最も名前が知られている政治家の一人がいる。菅原道真。 現在では「学問の神様」として知られる。しかし、生前の道真は単なる学者ではない...
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【戦い・事件編】阿衡の紛議――藤原基経はなぜ宇多天皇の政務を止めたのか?

――陽成天皇の退位から、宇多天皇と藤原基経の対立まで元慶の乱が終わった。出羽で起きた大規模な反乱を朝廷が鎮めたのは、元慶2年(878)。そこからわずか9年。平安京では、今度は朝廷の内部で巨大な政治問題が起こる。戦場はない。軍隊も出ない。そ...
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