第80回
1070年――前九年の役から8年、さらに北で軍が動く
延久2年(1070)。
前九年の役が終わってから8年。陸奥国で、再び大規模な軍事行動が始まった。
今度の戦場は、安倍氏が支配した奥六郡よりさらに北である。
史料に現れる名は、
「衣曾別嶋の荒夷」「閉伊七村の山徒」である。
軍を率いたのは陸奥守・源頼俊。その軍事行動を支えたのが、前九年の役の勝者である清原氏だった。
後世「延久合戦」「延久蝦夷合戦」と呼ばれるこの戦いは、前九年合戦ほど詳しい戦闘記録が残っていない。兵数も、戦場ごとの動きも、敵将の名も分からない。それでも、頼俊自身に関わる文書と国府で起きた事件の記録から、1070年に朝廷側の軍勢が北奥州へ大規模な遠征を行ったことは追える。
そして、この戦争でさらに力を伸ばしたのが清原氏である。
安倍氏が消えた奥州――清原氏が次の主役になる
康平5年(1062)。
厨川柵が陥落し、安倍貞任と藤原経清が死んだ。
前九年の役は終結する。
この戦争で決定的な役割を果たしたのが、出羽の清原武則である。
源頼義が長年苦戦していた安倍氏を、武則は1万余の兵を率いて参戦すると、一気に追い詰めた。
翌康平6年(1063)、武則はその功績によって鎮守府将軍となる。
そして清原氏は、もともとの勢力圏だった出羽仙北地方に加えて、安倍氏が支配していた奥六郡にも力を伸ばした。
胆沢。江刺。和賀。稗貫。斯波。岩手。
現在の岩手県内陸部を縦に貫く奥六郡である。
安倍氏が消えたあと、その巨大な空白を埋めたのが清原氏だった。
さらに、処刑された藤原経清の妻――安倍頼時の娘は、清原武則の子・武貞と再婚する。
その連れ子が藤原清衡である。
当時7歳ほど。
父を源頼義に殺された少年は、前九年の役で父を滅ぼした側の清原家で育つことになった。
清衡は清原家の中で成長し、後三年合戦を生き残って平泉を築くことになる。
その清原氏が、1070年には朝廷の北方遠征を支える側に立っていた。
「閉伊七村」と「衣曾別嶋」――戦場はどこだったのか
前九年の役以前、朝廷の北方支配の大きな拠点は胆沢城だった。
安倍氏の時代には、そのさらに北に奥六郡が広がっていた。
1062年に安倍氏が滅亡すると、朝廷と清原氏の影響力は奥六郡へ一段深く入る。
そこで次に問題となったのが、さらに北にある地域だった。
延久合戦を知る鍵となる地名が、「閉伊七村」と「衣曾別嶋」である。
閉伊は現在の岩手県東部、北上山地から三陸沿岸にかけての地域である。
岩手大学の研究でも、1070年の時点で閉伊地方が独自の鉄生産を基盤とし、強い自立性を保っていたことが指摘されている。
一方の衣曾別嶋の比定地には議論がある。下北半島周辺から津軽海峡・北海道方面まで複数の説があり、場所を一点に決めることはできない。
青森県史は、この遠征を北緯40度以北の広い地域を視野に入れた軍事作戦として復元している。少なくとも、朝廷側の軍事行動が奥六郡を越え、北奥州へ向かったことは確かである。
源頼俊――頼義とは別の源氏が陸奥へやって来た
軍を率いた源頼俊は、前九年の役の源頼義とは別系統の源氏である。
頼義が河内源氏。
頼俊は大和源氏。
治暦3年(1067)に陸奥守となり、多賀城の国府を預かった。
つまり1070年の奥州には、もう源頼義はいない。
頼義は前九年の役を終え、伊予守となっていた。
息子・義家もこの時点では陸奥守ではない。
新たな陸奥守・頼俊が、清原氏という巨大な現地勢力と組み、北方へ軍を進める。
ここは前九年の役との大きな違いである。
頼義は安倍氏という奥六郡の支配者と戦った。
頼俊は、安倍氏を倒して奥六郡を握った清原氏を味方にして、そのさらに北へ向かったのである。
1069年――後三条天皇の「東夷征討」祈願
当時の天皇は後三条天皇である。
延久元年(1069)5月、後三条天皇は石清水八幡宮へ行幸し、「東夷征討」を祈願したことが記録に残る。北方遠征の準備はこの頃から進んだとみられ、翌1070年6~7月ごろ、源頼俊が「大将軍」「追討使」として出陣したと復元されている。
北奥州へ軍を進めるには、兵だけでなく、食料、馬、輸送路、地理を知る案内役が必要になる。そこで頼俊の遠征を支えたのが、出羽と奥六郡に地盤を持つ清原氏だった。
清原貞衡――史料に現れる清原氏の武将
頼俊と行動をともにした人物として史料に登場するのが、清原貞衡である。
この人物の実像には議論がある。清原氏の系図に「貞衡」の名が見えないことから、後三年合戦に登場する清原真衡の誤記・異表記とみる説がある一方、別人として系譜を組み立てる研究もある。ここは同一人物と断定しない方が安全である。
確実なのは、延久合戦で清原氏の軍事力が大きな役割を果たし、その戦功と結びついて清原氏側の人物が鎮守府将軍となったことである。
ここが重要である。
前九年の役では、清原武則が源頼義を助けた。
8年後の延久合戦でも、清原氏の武将が源頼俊の遠征を支えている。
清原氏は、朝廷が北奥州で軍事行動を起こす際に欠かせない勢力へ成長していた。
「三方之大賊」――遠征軍はどう動いたのか
延久合戦の戦闘を、前九年の役の黄海や厨川柵のように一日単位で追うことはできない。
残っている史料が少ないからである。
兵力も分からない。各戦場の位置も特定できない。敵将の名前も残っていない。
それでも、頼俊が後年提出した申文には重要な表現が残る。
「三方之大賊」
これは、頼俊が後年の申状で用いた表現である。
青森県史はここから、頼俊の国府軍が気仙方面から閉伊へ進み、清原氏の軍勢が出羽側から津軽方面へ向かったという三方面作戦を復元している。ただし、これは残された断片的な史料から組み立てた推定であり、各部隊の実際の行軍経路を記した軍記が残っているわけではない。
延久合戦の戦場が一つの城や一つの河川に集中したものではなく、北奥州の広域に及んだ遠征だったことを押さえておけばよい。
閉伊七村――詳しい戦闘記録は残っていない
史料には「閉伊七村山徒」とある。
「七村」が具体的にどの七つの集落だったのかは分かっていない。
ただし閉伊は、現在の岩手県沿岸部から北上山地に広がる地域である。
頼俊の報告には、敵が兵を起こし、民衆が騒乱状態になったこと、敵を本拠へ追い込み、首を取り、生け捕りにしたことが記されている。
黄海や厨川柵のように、誰がどこから攻め、何人が死んだのかを追える記録はない。だから延久合戦の戦闘場面を細かく再現することはできない。
その代わり、頼俊自身の報告には、敵を「本所」に追い込み、首級を挙げ、生け捕りにしたという記述が残る。武力衝突が起き、死者と捕虜が出たことまでは史料で確認できる。
1070年12月26日――頼俊が都へ送った戦果報告
延久2年(1070)12月26日。
源頼俊は陸奥国から朝廷へ報告書を提出した。
そこには、北方勢力を本拠へ追い込み、首を斬り、生け捕りにしたという趣旨が書かれている。
そして頼俊は、討ち取った者の首や捕虜を伴って上京することまで申し出ている。
ところが、頼俊自身はすでに遠征の途中で追討使を解任されていた。 戦果を報告した総大将が恩賞を得られないという、異例の結末である。
原因は戦場ではなく、留守中の陸奥国府で起きた事件だった。
国府から「国印」と鍵が盗まれた
頼俊が北方へ出陣した直後、陸奥国内で大事件が起きる。
在庁官人の藤原基通が、陸奥国府の「印鎰」を奪って逃走したのである。
印鎰とは、国印と国の正倉の鍵。
国印は陸奥国司が公文書を発行するために使う。
正倉の鍵は、国の物資や財政管理に関わる。
現代の感覚でいえば、県庁の公印と金庫の鍵を同時に奪われるようなものである。
しかも頼俊は陸奥守。
国府を預かる最高責任者だった。
北へ敵を討ちに行っている間に、自分の足元で国政の象徴を奪われたのである。
遠征を続けている場合ではなくなった。
藤原基通は源義家のもとへ逃げた
話はそこで終わらない。
国印と鍵を奪った藤原基通は、逃亡した。
そして逃げ込んだ先が、当時下野守だった源義家である。
前九年の役で黄海を戦い抜いた、あの八幡太郎義家だった。
基通は義家のもとへ入り、降伏する。
義家はすぐ朝廷へ報告した。
義家は朝廷へ事態を報告し、頼俊を北方征討から召還するよう求めた。
朝廷は動いた。
延久2年(1070)8月1日、源頼俊を追討使から解任する宣旨が出された。
頼俊が北方へ出陣してから、それほど時間は経っていない。
大将が途中でいなくなったのである。
義家黒幕説――史実ではなく、研究上の仮説
藤原基通がなぜ義家のもとへ逃げ込んだのか。この点から、義家が頼俊の失脚を狙って事件の背後で動いたという説が研究上提示されている。
頼俊は大和源氏。義家は河内源氏。
頼俊が大規模な蝦夷征討を成功させれば、軍事貴族としての名声は一気に高まる。
前九年の役で武名を上げた義家にとって、頼俊は競争相手になり得る。
ただし、義家が基通を動かしたことを示す直接史料はない。 確認できる事実は、基通が印鎰を奪ったこと、義家のもとへ逃げたこと、義家が朝廷へ報告したこと、そして頼俊が8月1日に追討使を解任されたことまでである。
大和源氏の頼俊と河内源氏の義家が武門の名声を競う関係にあったことを踏まえると興味深い事件だが、黒幕説そのものは仮説として扱う必要がある。
頼俊は途中で解任――それでも戦功を得た清原氏
頼俊は遠征を最後まで指揮できず、国府へ戻ることになった。それでも北方での軍事行動は続き、結果として存在感を強めたのが清原氏だった。
後世の記録・研究では、延久合戦で功績を認められた清原氏側の人物が鎮守府将軍となったとされる。名は貞衡と伝わる一方、真衡との同一人物説もあり、人物比定にはなお議論がある。
一方、総大将だった頼俊には、それに見合う恩賞が与えられなかった。
戦功を得た清原氏。途中で指揮権を失った源頼俊。
この差は大きい。
前九年の役で清原武則が鎮守府将軍となり、その次の世代でも清原氏が再び鎮守府将軍の地位を得る。
朝廷が任命する官職と、現地で持つ巨大な軍事力。
両方を清原氏が握り始めたのである。
16年後――頼俊は「頼義に劣らない」と訴えた
延久合戦から16年後。
応徳3年(1086)、源頼俊は再びこの戦争を持ち出した。
目的は任官である。
頼俊は関白・藤原師実に申状を提出し、自分を讃岐守に任じてほしいと訴えた。
その根拠として挙げたのが、1070年の北方遠征だった。
頼俊は、自分が陸奥守として挙げた功績は源頼義の前九年合戦の功績に劣らないと訴えた。頼義が戦功で伊予守となった以上、自分にも国守任官の資格があるという論理である。
16年たっても、頼俊は「自分は十分に評価されなかった」と考えていた。
前九年の役の英雄・源頼義を比較対象に持ち出すあたりにも、当時の武将にとって奥州での戦功がどれほど大きな意味を持ったのかが表れている。
戦果はあった。しかし北奥州を制圧したわけではない
青森県史では、頼俊自身が途中で解任され、当初目指していた北方支配を完全には実現できなかったと整理している。
頼俊の1070年の報告も、敵の首や捕虜については強調する一方、どの地域を完全に支配下へ入れたのかという記述は乏しい。
さらに13年後。
後三年合戦の時代になっても、北奥州には朝廷の支配に簡単には組み込まれない勢力が残っていた。
延久合戦は「朝廷が北奥州を完全征服した戦争」と書けるものではない。頼俊自身の報告は斬首や捕虜を強調する一方、どの地域を恒久的に支配下へ組み込んだのかは明確でない。
それでも、前九年合戦から8年後、朝廷側の軍勢が奥六郡を越えて北奥州へ大規模に動いた事実は重要である。
延久合戦のあと――膨らみ続ける清原氏
源頼俊は途中で追討使を解任された。
北方勢力も完全には消えなかった。
この戦争を境に、北奥州で清原氏の存在感はさらに大きくなる。
戦後、武則は鎮守府将軍となり、奥六郡へ進出した。
その8年後の延久合戦でも、清原氏は朝廷側の軍事行動を支え、戦功と鎮守府将軍職を結びつけていく。
出羽仙北。奥六郡。さらに北奥州。
清原氏の影響力は、安倍氏の時代より広い範囲へ伸びていく。
出羽仙北から奥六郡、さらに北奥州へ。清原氏の影響力が広がるほど、一族内部の継承問題は重くなる。
清原氏の内部には、安倍氏の血を引く清衡がいる。
清原家の血を引く家衡もいる。
そして嫡流の座には真衡が立つ。
清原氏の内部には、藤原経清と安倍頼時の娘の間に生まれた清衡、清原氏の血を引く家衡、そして一族の中心に立つ真衡がいた。
前九年合戦で勝者となり、延久合戦でさらに勢力を広げた清原氏。その巨大な一族の内部で、やがて亀裂が走る。
そして1083年、陸奥守として、一人の男が奥州へ戻ってくる。
前九年の役で19歳の若武者として黄海を戦った男。
源義家。
延久合戦から13年後。
今度の戦場では、前九年合戦を勝利へ導いた清原氏そのものが内側から割れる。
後三年合戦の幕が開く。


コメント