時代別

人物

【人物編 Vol.7】蘇我蝦夷――蘇我馬子の権力を継いだ男、乙巳の変で自害

645年6月。飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。中大兄皇子、中臣鎌足らによる乙巳の変である。入鹿の遺体は父・蘇我蝦夷のもとへ送られた。蝦夷の周囲には、まだ武装した東漢氏らが集まっていた。戦おうとすれば、抵抗する力は残されていた。しかし兵たち...
人物

【人物編 Vol.6】山背大兄王――なぜ蘇我入鹿に滅ぼされたのか? 聖徳太子の一族、最後の日

643年11月1日。蘇我入鹿の命を受けた軍勢が、斑鳩の山背大兄王を襲撃した。王に仕える三成は数十人の舎人を率いて迎え撃ち、攻撃側の将・土師娑婆連を戦死させる。その間に山背大兄王は妃や子どもたちを連れ、斑鳩から脱出した。逃れた先は生駒山だった...
人物

【人物編 Vol.5】聖徳太子(厩戸皇子)――推古天皇・蘇我馬子と築いた飛鳥時代の政治

冠位十二階、十七条憲法、遣隋使。日本史では、これらの政策とともに「聖徳太子」の名が語られてきた。一度に多くの人の話を聞き分けた。幼いころから並外れた知恵を持っていた。仏教を深く理解し、日本の政治制度を整えた。後世の聖徳太子は、飛鳥時代を代表...
戦い・事件

【戦い・事件編】隼人の反乱――大伴旅人が率いた南九州征討、「斬首・捕虜1400余人」

養老4年、720年2月29日。九州を統轄する大宰府から、平城京の朝廷へ報告が届いた。「隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺す」南九州で隼人が反乱を起こし、朝廷から派遣されていた大隅国守・陽侯史麻呂が殺害されたという。2月29日は、大宰府が事件...
戦い・事件

【戦い・事件編】壬申の乱(後編)――大和・近江の激戦、最後の瀬田橋へ

672年7月22日、大海人皇子の軍が瀬田川へ到達した。川の西側には、大友皇子と近江朝廷の群臣がいた。『日本書紀』は、軍勢の後方が見えないほど兵が並び、旗が野を覆い、鉦や鼓の音が響いたと記している。大軍を印象づける表現を含むとはいえ、近江朝廷...
人物

【人物編 Vol.4】崇峻天皇――なぜ蘇我馬子に暗殺されたのか? 臣下に殺された第32代天皇

592年11月3日、大臣・蘇我馬子は群臣に「今日は東国からの調を献上する日である」と告げた。人々が集まるなか、馬子の命令を受けた東漢直駒が崇峻天皇を殺害した。『日本書紀』は、この事件について「馬子宿禰、群臣を欺きて曰はく、『今日、東国の調を...
戦い・事件

【戦い・事件編】壬申の乱(前編)――大海人皇子はなぜ吉野を脱出し、不破を押さえたのか?

天智天皇10年(671年)10月、大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。大海人皇子は天智天皇の同母弟である。兄の政権を長く支えてきた有力皇族だったが、天智天皇の晩年には、その息子である大友皇子が政権の前面へ出ていた。大友皇子は大化4...
人物

【人物編 Vol.3】蘇我馬子――なぜ崇峻天皇を暗殺できたのか? 聖徳太子と飛鳥時代を動かした男

592年11月3日。第32代・崇峻天皇が殺された。実行したのは、東漢直駒。そして『日本書紀』は、その背後にいた人物の名を明確に記している。蘇我馬子である。崇峻天皇は、馬子自身が即位に深く関わった天皇だった。その天皇と対立すると、馬子は東漢直...
戦い・事件

【戦い・事件編】白村江の敗戦後――天智天皇の防衛網と、壬申の乱への道

天智2年(663年)8月。倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。倭国軍は朝鮮半島から撤退し、百済の人々の中には海を渡って倭国へ移る者も...
戦い・事件

【戦い・事件編】白村江の戦い――なぜ日本は戦ったのか?

天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。唐軍は百済復興勢力の本拠・周留城へ向かう陸軍と歩調を合わせながら水路を進み、倭国から来...
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