第62回
皇族の血を引く「六孫王」
平安時代中期。
京都の朝廷で生きる男の中に、一人の皇族の子孫がいた。
源経基。
父は清和天皇の第六皇子、貞純親王。
そのため経基は、後世に「六孫王」と呼ばれる。
生年は確定していない。
『尊卑分脈』は延喜17年(917)生まれとするが、経基の子・源満仲の年代と合わないため、この年をそのまま採用することはできない。経基は10世紀前半に生まれ、朝廷の官人として成長した人物と考えるのが適切である。
経基の家系を追うと、日本史の景色が一気に変わる。
息子は源満仲。
満仲から頼光・頼親・頼信が出る。
頼信の系統から頼義、義家へと続き、後の河内源氏へつながっていく。
さらにその先には、源頼朝がいる。
つまり経基は、後世に「武士の源氏」として巨大化する家系の初期に位置する人物である。
ただし、経基の時代に「武士の源氏」が完成していたわけではない。
経基自身は、あくまで朝廷に仕える貴族官人である。
その男が、関東で平将門と出会う。ここから人生が大きく動き始める。
武蔵介として関東へ
天慶元年(938)、経基は武蔵介として武蔵国へ赴任する。
武蔵国は現在の東京都・埼玉県を中心とする地域で、当時から人口も多く、重要な国の一つであった。
国府は現在の東京都府中市付近に置かれている。
経基はここで、武蔵権守の興世王と行動をともにする。
ところが、着任して間もなく現地勢力と衝突した。
相手は武蔵武芝。
足立郡の郡司を務める在地有力者である。
問題の背景には、国司側と郡司側の対立があった。
中央から派遣された国司と、代々その土地に根を張る在地勢力。
平安時代の地方政治では、こうした二つの勢力がぶつかることが珍しくなかった。
そして、この揉め事に割って入った男がいる。
平将門である。

平将門、仲裁に入る
当時の将門は、まだ「新皇」ではない。
朝廷に反旗を翻した人物でもない。
関東の有力者として、地域の争いを調停できるだけの力を持っていた。
将門は経基・興世王と武蔵武芝の間を取り持とうとする。
興世王は将門の仲介を受け入れた。
ところが、経基は警戒する。
将門と武芝が結びつけば、自分が危険になる。
経基は自分の営所に入った。
そして武芝側の兵が経基の営所を包囲する。
ここで経基は決断した。
京都へ戻る。
関東から逃れ、朝廷へ訴える道を選んだのである。
「将門が謀反を企てている」
京都へ戻った経基は、朝廷へ重大な訴えを出す。
平将門と興世王が謀反を企てている。
この訴えは、朝廷に大きな衝撃を与えた。
関東の有力者が兵を集め、国司側と衝突している。
もし経基の訴えが事実なら、国家への反逆である。
ところが、朝廷は経基の言葉をそのまま信用しなかった。
将門側も弁明する。
諸国の国府から「将門に謀反の意図はない」という説明が届けられる。
結果、経基は逆に疑われる立場となった。
『将門記』には、経基を評して、「介経基、未だ兵の道に練れず」という趣旨の記述が残る。
意味は、
「経基はまだ兵の道に熟達していない」というものだ。
関東から逃げ帰った経基に対する、かなり手厳しい評価である。
この時点では、経基は英雄でも名将でもない。
むしろ、地方で恐怖を感じて京都へ逃げ帰った官人として見られていた。
ところが、翌年、状況が一変する。
将門、本当に反乱を起こす
天慶2年(939)12月。
将門が常陸国府を攻撃する。

そして国府を占領。
その後、下野・上野へと勢力を広げる。
翌天慶3年(940)正月、上野国府で、将門は自らを「新皇」と称した。
坂東諸国の国司を独自に任命し、朝廷とは別の支配体制を作ろうとする。
ここで、前年に経基が訴えた言葉が現実になった。
「将門が謀反を企てている」
経基が逃げ帰ってまで訴えた内容が、現実の反乱として姿を現したのである。
朝廷の経基に対する評価も一気に変わった。
経基は従五位下に叙せられる。
そして将門追討のために編成された征東軍の副将として、東国へ向かうことになる。
ところが、将門はもう死んでいた
経基が東国へ向かった時には、戦況はすでに決着していた。
天慶3年(940)2月。
平貞盛と藤原秀郷が将門を追い詰める。
そして、将門は討ち取られた。
経基が現地へ到着した時、最大の敵はすでに消えていた。
将門の首級が京都へ送られ、乱は終息へ向かう。
経基自身が将門を討ったわけではない。
しかし、彼は「将門謀反」を朝廷へ最初に知らせた人物として、その功績を認められた。
この事件が、経基の人生を変えた。
次の敵は藤原純友
東国の平将門が倒れる。
しかし朝廷には、もう一つ巨大な問題が残っていた。
藤原純友である。

純友は瀬戸内海を中心に勢力を広げ、西日本を大きく揺るがしていた。
天慶4年(941)、朝廷は小野好古を中心に追討軍を派遣する。
経基もその軍事行動に加わった。
将門の乱では東国へ。
今度は西国へ。
経基は朝廷の軍事官人として、再び戦場へ向かう。
941年、経基は西国へ
純友追討では小野好古が中心となって朝廷軍を率いた。

純友は瀬戸内海を舞台に抵抗する。
海を自由に移動する純友軍に対して、朝廷側も船を用意して対抗した。
最終的に純友軍は敗北する。
純友本人は逃亡し、伊予へ戻った。
そして同年6月、伊予で橘遠保に討たれる。
ここで経基の役割を正確に押さえる必要がある。
小野好古が純友軍の主力を破り、橘遠保が純友本人を討った。
経基は、その後に残った純友勢力の掃討を担当する。
豊後・佐伯院――経基、ついに実戦で戦う
天慶4年(941)、豊後国で純友の残党が活動していた。
その中心人物が桑原生行である。
経基は大宰権少弐として、この残党勢力を追撃した。
戦場となったのは、豊後国海部郡佐伯院。
現在の大分県佐伯市周辺にあたる。
ここで経基は桑原生行と戦う。
戦闘は長時間に及んだ。
そして経基は、桑原生行を生け捕りにした。
さらに馬や船、絹などを戦利品として押収した。
戦闘後には、合戦の経過を記した報告を提出している。
この戦いは、経基の人物像を考えるうえで重要である。
武蔵では将門を恐れて京都へ逃げた。
ところが数年後には、自ら兵を率いて西国の反乱勢力と戦っている。
経基はここで、単なる「将門の密告者」から、実際に戦場へ出る軍事官人へ変わったのである。
経基、地方を渡り歩く
純友の乱が終わった後も、経基は朝廷に仕え続ける。
武蔵。信濃。筑前。但馬。伊予。
各地の国司を務めたとされる。
地方へ赴任し、行政を担当する。そして必要とあれば軍事力も使う。
経基のキャリアは、平安時代の地方官人の姿をよく表している。
京都の貴族でありながら、地方政治の現場へ出る。
そこで現地勢力と接触する。さらに軍事力を背景に秩序を維持する。
この経験が、後の清和源氏にとって大きな意味を持つことになる。
「源氏の武士」は、ここから育っていく
経基の最大の歴史的意味は、本人の戦功だけではない。
息子の源満仲である。
満仲は摂関家との結びつきを強め、中央政界で勢力を伸ばす。
その子孫から、源頼光、源頼信らが出る。
さらに頼信の系統から、
源頼義。源義家。と続く。
義家の時代になると、源氏は東国の武士たちとの結びつきを強め、後世の武家社会へ大きく踏み込んでいく。
そして12世紀末、その流れから源頼朝が登場する。
「武士の時代」という言葉さえ、後世の視点である。
経基自身は朝廷の官人だ。
しかし、地方へ赴き、軍事力を使い、反乱を鎮圧し、その功績によって地位を上げる。
その姿は、後の武士団へつながる源氏の初期段階を考えるうえで非常に重要である。
鎮守府将軍へ
経基はその後も昇進を続けた。
最終的には正四位上に進み、鎮守府将軍も務めたとされる。
鎮守府は東北地方の軍事を担当する重要な機関である。
将門の乱で関東へ向かい、純友の乱では西国へ向かった経基が、晩年には東北の軍事を担う立場へ進んだ。
その生涯をたどると、経基が朝廷の軍事と地方支配の両方に深く関わっていたことがよくわかる。
和歌を詠む顔もあった
経基には、戦場とはまったく違う顔もある。
歌人としての顔である。
『拾遺和歌集』などに経基の歌が残されている。
弓矢を扱う。兵を率いる。国司を務める。
その一方で、宮廷文化の中心にある和歌を詠む。
これが平安時代の上級官人の姿である。
「武士」という言葉から、後世の鎧武者を思い浮かべると経基の実像を見誤る。
経基はまず朝廷の官人であり、そこに軍事能力が加わった人物である。
晩年――
経基の晩年については、史料が若い頃ほど詳しくない。
それでも、官位を上げ、鎮守府将軍にまで進んだことは確認できる。
そして、応和元年(961)。
経基は死去する。
享年については、生年が確定しないため断定できない。
没年961年は史料上確認できるが、経基の正確な生年については後世の系図に食い違いがある。
経基の死後、家は息子の満仲へ受け継がれる。
満仲は摂関家との関係を深めながら勢力を拡大。
その子孫は摂津・河内・東国などへ勢力を広げていく。
そして数世代後、源氏は日本史の主役へ躍り出る。
平将門との出会いが、人生を変えた
源経基の人生で最大の転機は、武蔵国で平将門と出会ったことだった。
武蔵では将門を恐れて逃げた。
京都へ戻り、将門の謀反を訴えた。
ところが、最初からその訴えが信用されたわけではない。
経基自身が疑われた。
それでも翌年、将門は本当に反乱を起こす。
「新皇」を称し、坂東を朝廷から切り離そうとする。
経基の訴えは、結果として現実のものとなった。
経基は将門追討軍に加わる。その後、藤原純友の乱にも参加する。
さらに豊後では純友の残党・桑原生行を生け捕る。
そして国司を歴任し、鎮守府将軍へ進む。
一度は「兵の道に未熟」と評された男が、朝廷の軍事を担う人物へ成長した。
ここが源経基の面白さである。
将門を討った男ではない。純友を討った男でもない。
それでも、二つの大乱に関わり、その経験を自分の出世につなげた。
そして息子の満仲へ家を残した。そこから清和源氏は、さらに大きな歴史へ入っていく。
源経基は、平将門と源頼朝の間をつなぐ人物であるといえよう。
その人生は、まだ「武士の時代」ではない平安時代の朝廷社会から、やがて武士が日本政治の中心へ進んでいく過程を映し出している。
「源経基が朝廷へ訴えた『将門謀反』。その後、将門の乱はどのように展開したのか――」


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