戦い・事件

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【戦い・事件編】承和の変から応天門の変へ――平安朝廷を変えた二つの政変

――嵯峨天皇の死後、藤原良房はどうやって権力を握ったのか前回は、嵯峨天皇を取り上げた。810年、嵯峨天皇は兄・平城上皇との対立を制し、薬子の変を終結させた。その後、嵯峨天皇は蔵人所を設置し、検非違使を整え、藤原冬嗣らを重用した。そして、嵯峨...
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【戦い・事件編】薬子の変――平城上皇と嵯峨天皇、兄弟が争った810年の政変

大同5年(810年)9月6日、平城上皇は平安京から平城京へ都を戻すよう命じた。桓武天皇が平安京へ遷都してから16年。皇位にはすでに弟の嵯峨天皇がつき、平安京で政務を行っていた。嵯峨天皇は当初、上皇の命令を受け入れ、坂上田村麻呂や藤原仲成らを...
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【戦い・事件編】藤原種継暗殺事件――長岡京を揺るがした785年の政変と早良親王

延暦4年(785)9月23日夜。新都・長岡京の造営を担っていた藤原種継が、何者かに矢で射られた。種継は桓武天皇の信任を受け、遷都後も続く宮都建設を指揮していた朝廷の中心人物だった。翌24日、種継は死亡する。山川日本史小辞典なども没日を9月2...
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【戦い・事件編】蝦夷征伐②――阿弖流為と坂上田村麻呂、774年から811年の三十八年戦争

774年、海道蝦夷が桃生城を襲撃した。伊治公呰麻呂の乱、阿弖流為が朝廷軍を破った巣伏の戦い、坂上田村麻呂の遠征、胆沢城造営、811年の文室綿麻呂による征討まで、38年間に及んだ朝廷と蝦夷の戦いを追う。宝亀5年(774年)7月25日。陸奥国か...
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【戦い・事件編】阿倍比羅夫の蝦夷遠征――658年、180艘の船団はなぜ北へ向かったのか

meta_description:658年、阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて北へ向かった。齶田・渟代・津軽の蝦夷との交渉、渡嶋蝦夷との接触、660年の粛慎との戦いまで、『日本書紀』から7世紀の北方遠征を追う。斉明天皇4年(658年)4月、...
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【戦い・事件編】隼人の反乱――大伴旅人が率いた南九州征討、「斬首・捕虜1400余人」

養老4年、720年2月29日。九州を統轄する大宰府から、平城京の朝廷へ報告が届いた。「隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺す」南九州で隼人が反乱を起こし、朝廷から派遣されていた大隅国守・陽侯史麻呂が殺害されたという。2月29日は、大宰府が事件...
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【戦い・事件編】壬申の乱(後編)――大和・近江の激戦、最後の瀬田橋へ

672年7月22日、大海人皇子の軍が瀬田川へ到達した。川の西側には、大友皇子と近江朝廷の群臣がいた。『日本書紀』は、軍勢の後方が見えないほど兵が並び、旗が野を覆い、鉦や鼓の音が響いたと記している。大軍を印象づける表現を含むとはいえ、近江朝廷...
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【戦い・事件編】壬申の乱(前編)――大海人皇子はなぜ吉野を脱出し、不破を押さえたのか?

天智天皇10年(671年)10月、大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。大海人皇子は天智天皇の同母弟である。兄の政権を長く支えてきた有力皇族だったが、天智天皇の晩年には、その息子である大友皇子が政権の前面へ出ていた。大友皇子は大化4...
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【戦い・事件編】白村江の敗戦後――天智天皇の防衛網と、壬申の乱への道

天智2年(663年)8月。倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。倭国軍は朝鮮半島から撤退し、百済の人々の中には海を渡って倭国へ移る者も...
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【戦い・事件編】白村江の戦い――なぜ日本は戦ったのか?

天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。唐軍は百済復興勢力の本拠・周留城へ向かう陸軍と歩調を合わせながら水路を進み、倭国から来...
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