第12回
天智天皇10年(671年)10月、大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。
大海人皇子は天智天皇の同母弟である。
兄の政権を長く支えてきた有力皇族だったが、天智天皇の晩年には、その息子である大友皇子が政権の前面へ出ていた。
大友皇子は大化4年(648年)生まれ。671年正月、まだ20代前半で太政大臣に任じられている。
左大臣には蘇我赤兄、右大臣には中臣金が置かれ、近江朝廷では大友皇子を中心とする政治体制が形を整え始めていた。
同じ年の秋、病が重くなった天智天皇は大海人皇子を呼び寄せた。
『日本書紀』では、天智天皇が後事を託そうとしたのに対し、大海人皇子は皇位を辞退し、皇后の倭姫王を即位させ、大友皇子に政務を執らせるよう勧めたとする。
そのうえで自ら出家を願い、その日のうちに髪を剃り、私有していた武器を官司へ納めた。
10月19日、大海人皇子は近江を発つ。
蘇我赤兄や中臣金らが菟道まで見送り、翌日には吉野へ入った。
『日本書紀』は、このとき近江の人々が、
「虎に翼を着けて放つようなものだ」と語ったと伝えている。
後に勝者となった天武天皇の側から編纂された史書である以上、この場面の会話をそのまま当日の記録とみることはできない。
それでも、671年秋に大海人皇子が近江朝廷を離れ、吉野へ退いたことは、翌年の内乱へつながる大きな節目となった。
大友皇子と大海人皇子
同年12月3日、天智天皇が近江大津宮で崩御した。
大友皇子は蘇我赤兄、中臣金らとともに近江朝廷の政務を担う。
後世、大友皇子には弘文天皇の追号が贈られたが、『日本書紀』には即位の記事がない。
壬申の乱当時に正式な天皇だったかどうかは古くから議論されてきたため、ここでは大友皇子と呼ぶ。
大海人皇子は吉野に留まった。天智天皇崩御後、すぐに兵を挙げてはいない。
671年の暮れから翌672年の初夏まで、近江と吉野の間に大きな戦闘は起きていなかった。
その間、大海人皇子の息子である高市皇子、大津皇子らは近江に残っていた。
吉野にいる大海人皇子の周囲にも舎人たちがいる。
美濃や伊勢には以前から大海人皇子と結びついた土地と人々があり、後の挙兵ではその関係が表へ出てくる。
美濃・尾張で人が集められている
672年5月ごろ、大海人皇子のもとへ近江朝廷の動きを知らせる情報が入った。
『日本書紀』によれば、美濃と尾張では天智天皇の陵墓を造るためとして人夫が集められていた。
その者たちには武器が持たされているという。
近江から倭京へ続く道には監視が置かれ、菟道橋でも大海人皇子の舎人が食糧を運ぶのを妨げられているとの知らせがあった。
大海人皇子は、近江朝廷が自分を討とうとしていると受け取った。
この情報が本当に大海人皇子討伐の準備を示していたのか、それとも『日本書紀』が挙兵を正当化する形で整理したものなのか。
後に戦争へ入る両陣営の動きを見る限り、672年初夏には近江と吉野の間の緊張がかなり高まっていたことまでは確かである。
壬申の乱そのものも、大友皇子の皇位継承に対する大海人皇子の反乱と単純に括れる事件ではなく、その発端をどう捉えるかについて研究が続いている。
6月22日、大海人皇子は最初の具体的な軍事行動に出た。
6月22日、美濃へ三人の使者を送る
吉野から送り出されたのは、村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広の三人だった。
行き先は美濃国。
三人は安八磨郡の湯沐令・多臣品治へ大海人皇子の命令を伝え、まず安八磨郡の兵を起こすことになった。
さらに美濃国司を通じて軍勢を集め、急いで不破道を塞ぐよう命じられている。
安八磨郡は現在の岐阜県西南部にあたる。
ここには大海人皇子の湯沐があった。
湯沐は皇族の経済的な基盤となる土地・戸を指し、多臣品治はその管理に携わる人物だった。
大海人皇子は縁のない土地へ突然使者を送ったのではなく、以前から結びつきのあった人物を頼って兵を動かしている。
三人に与えられた命令には「不破道を塞げ」とある。
後世、この地域には律令国家の三関の一つ、不破関が置かれた。
ただし672年の段階で、後の制度化された不破関がそのまま存在していたとはみなせない。
関ケ原町史でも「不破道を塞ぐ」という壬申紀の記事と、後の不破関設置は別の史料として扱われている。
近江と美濃の境に近いこの道を押さえれば、近江から東へ向かう軍勢も、東国から近江へ向かう軍勢も動きにくくなる。
大海人皇子自身は、この時点ではまだ吉野にいた。
6月24日、吉野を出る
三人を美濃へ送ってから二日後の6月24日、大海人皇子も吉野を発った。
当時の暦の6月24日は、ユリウス暦では7月24日、現在一般に使われるグレゴリオ暦では7月27日にあたる。夏の暑さのなかで行われた行軍だった。
出発時に従った人数は多くない。
『日本書紀』に名前が挙がるのは、草壁皇子、忍壁皇子をはじめ、朴井連雄君、県犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友国、稚桜部臣五百瀬、書首根摩呂ら二十人余り。
これに鸕野讚良皇女と女官十人余りが加わった。
鸕野讚良皇女は後の持統天皇である。
出発が慌ただしかったことも『日本書紀』は伝えている。
大海人皇子の乗馬が間に合わず、最初は歩いて吉野を出た。
途中で県犬養連大伴の馬に乗り、津振川付近でようやく自分の馬が追いついた。
この一行を、挙兵時から整った軍隊と呼ぶのは難しい。
東へ進む途中で、人も馬も集めていくことになる。
宇陀で馬を得る
一行は吉野から宇陀へ進んだ。
菟田の吾城付近では大伴馬来田らが加わり、甘羅村では大伴朴本連大国を長とする二十人余りの猟師に出会った。
彼らもそのまま大海人皇子に従ったと『日本書紀』は記す。
さらに菟田郡家付近では、伊勢から湯沐の米を運んできた馬の一団に遭遇した。
積んでいた荷を下ろし、徒歩だった者たちを馬へ乗せる。
一行はそのまま東へ急いだ。
日が暮れるころには宇陀の大野へ着いた。
山道は暗い。『日本書紀』には、村の垣根を壊して松明代わりに燃やし、その火を頼りに夜道を進んだとある。
吉野を出たその日のうちに、伊賀へ向かった。
名張では誰も加わらなかった
夜半、一行は隠郡、現在の名張周辺へ入った。
そこで隠の駅家を焼いた。
駅家は官道を行く公的な使者に馬や食糧を供給する施設であり、近江朝廷にとっても連絡と移動の拠点になる。
大海人皇子一行が各地の駅家を焼きながら進んだことは、『日本書紀』にも記されている。
名張では周囲へ兵を募った。
結果は芳しくなかった。
『日本書紀』は、一人も応じなかったとする。
672年の夏、近江には天智天皇の政権を引き継いだ朝廷がある。
大海人皇子はそこを離れて吉野にいた皇族で、これからどちらが勝つのか分からない。
その段階で大海人皇子の側へ加われば、近江朝廷への反逆とみなされる。
後の勝敗を知らない人々にとっては、簡単に決められる選択ではなかった。
横河付近へ進むと、『日本書紀』は空に黒い雲が現れたと記す。
大海人皇子は自ら占いを行い、天下が二つに分かれるものの、最後には自分が天下を得ると判断したという。
天武天皇が天文や遁甲に通じていたという人物像は『日本書紀』巻28の冒頭から描かれている。
この占いも、後に勝者となった天武天皇を語る壬申紀の一場面として読む方がよい。
伊賀で数百人が加わる
夜が明けるころ、一行は伊賀国の中へ入っていた。
名張では人が集まらなかったものの、伊賀では状況が変わる。
『日本書紀』によれば、阿拝郡などの郡司が兵を率いて加わり、その数は数百人に達した。
6月25日の朝、一行は積殖、現在の伊賀市柘植付近へ進む。
そこで近江から脱出してきた高市皇子と合流した。
高市皇子は大海人皇子の長男である。民直大火、坂上直国麻呂、古市黒麻呂らも従っていた。
父子はそのまま鈴鹿山地を越え、伊勢へ入る。
吉野を出てまだ二日目だった。
鈴鹿の山道を500人で塞ぐ
伊勢へ入ると、国司の三宅連石床、三輪君子首、湯沐令の田中臣足麻呂、高田首新家らが一行を迎えた。
大海人皇子はここでもまとまった兵力を得る。
『日本書紀』によれば、500人を出して鈴鹿の山道を守らせた。
美濃では先に送った村国男依らが不破道へ向かっている。
伊勢では鈴鹿の道が塞がれた。
大海人皇子の一行がさらに北へ進む間、近江側の軍勢が背後から追ってきた場合にも備える形になった。
この日は天候が崩れた。
激しい雷雨の中を進んだ一行は衣服まで濡れ、三重郡家へ着いたころには寒さに震えていたという。
そこで建物一棟を焼き、その火で体を暖めた。
暦を現代に換算すれば7月末である。
それでも豪雨の中を昼夜続けて移動した一行には、かなり厳しい行軍だったことがうかがえる。
6月26日、迹太川から伊勢神宮を拝む
26日、大海人皇子は朝明郡へ進んだ。
途中、迹太川のほとりから天照大神を遥拝したと『日本書紀』は記す。
この場面は後の天武・持統朝と伊勢神宮の関係を考えるうえでも知られているが、壬申紀そのものが天武天皇の正統性を意識して書かれていることは頭に置いておきたい。
朝明郡では、もう一人の皇子が合流した。
大津皇子である。
近江を離れてきた大津皇子が父のもとへ到着し、先に合流していた高市皇子とともに大海人皇子側へ入った。
そのころ、美濃から早馬が来た。
村国男依が知らせたのは、兵を集めることに成功したという報告だった。
『日本書紀』では、3000人を集め、不破道を塞いだとする。
6月22日に出した命令が、四日後には実際の兵力となっていた。
大海人皇子は高市皇子を先に不破へ向かわせる。
同時に、山背部小田と安斗連阿加布を東海道へ、稚桜部五百瀬と土師連馬手を東山道へ送り、沿道の諸国に兵を求めた。
大海人皇子自身は桑名へ入った。
近江朝廷も東国の兵を求めていた
近江朝廷も軍勢を集め始めていた。
東国へ向けて使者を送り、大海人皇子討伐のため兵を動員しようとしたことが『日本書紀』に記されている。
ところが東へ向かった近江側の使者は、不破付近で大海人皇子側に捕らえられた。
高市皇子から大海人皇子へ、その知らせが届けられる。
大海人皇子が吉野を出る二日前から進めていた美濃での募兵と不破道の封鎖が、ここで近江側の東国動員とぶつかった。
不破をどちらが押さえるかは、東国の兵を戦場へ送れるかどうかに直結していた。
6月27日、大海人皇子が不破へ入る
高市皇子から軍の近くへ来るよう求められた大海人皇子は、鸕野讚良皇女らを桑名に残して西へ向かった。
不破郡家付近へ差しかかったところで、尾張から軍勢が加わった。
率いていたのは尾張国司の小子部連鉏鉤。
『日本書紀』に記された兵数は2万人である。
この数字をそのまま実数と考えることはできない。
7世紀の軍勢について、名簿や兵站記録から2万人を裏付けられるわけではなく、『日本書紀』の兵数には史書としての表現も含まれる。
史料上は、尾張から非常に大きな軍勢が大海人皇子側へ加わったと記されている、と読むところまでが安全である。
大海人皇子は加わった兵を各地へ分け、道を守らせた。
そのころ、不破周辺では高市皇子が先に軍をまとめていた。
野上に行宮を置く
大海人皇子は美濃の野上へ入り、ここに行宮を置いた。
現在の岐阜県関ケ原町周辺である。
高市皇子は近くの和蹔に軍を置いていた。
『日本書紀』には、父子の会話も残っている。
大海人皇子は、近江朝廷には左右大臣をはじめ有力な臣下が揃っているのに、自分の側には若い者しかいないと語った。
高市皇子は自分が軍を率いると申し出る。
大海人皇子は軍事の指揮を高市皇子へ委ねたという。
会話の文言をそのまま史実とすることはできないが、高市皇子が壬申の乱で大海人皇子軍の中枢を担ったことは、その後の戦闘経過からも分かる。
28日、大海人皇子は和蹔へ出て軍勢を見た。
29日にも兵を集め、高市皇子に号令させている。
同じころ、大和では大伴吹負が動いた。
飛鳥にいた近江朝廷側の軍を混乱させ、兵を掌握して大海人皇子側へつく。
美濃と大和、それぞれで戦闘準備が進み始めた。
吉野を出て数日で軍が形になった
6月24日に吉野を出た大海人皇子の周囲には、二十人余りの男性と十人余りの女官しかいなかった。
自分の馬さえ出発に間に合っていない。
宇陀では猟師を加え、輸送用の馬を使った。名張では兵を募っても誰も応じなかった。
伊賀に入ると数百人が加わり、高市皇子と合流する。
伊勢では国司らが迎え、500人が鈴鹿の山道へ向かった。その間に村国男依らは美濃で3000人を集め、不破道を塞いでいた。
26日には東海道と東山道へ使者が走る。
翌27日には尾張の軍勢が加わったと『日本書紀』は記す。
これらは、最初から大海人皇子の指揮下にあった一つの軍隊が移動した記録ではない。
美濃の湯沐を管理していた多臣品治、先行した村国男依、伊賀の郡司、伊勢国司、高市皇子、尾張の勢力。それぞれ別の場所にいた人々が数日の間に動き、大海人皇子のもとへつながっていった。
近江朝廷も東国から兵を得ようとしていた。
その使者が美濃へ来たころには、不破道はすでに大海人皇子側の兵によって押さえられていた。
7月2日、大海人皇子は集まった軍を二つの方面へ送り出す。
一方は近江へ。
もう一方は大和へ。
吉野から不破まで続いた慌ただしい行軍はここで終わり、壬申の乱は各地で軍勢同士がぶつかる段階へ入る。
奈良山、箸陵、倉歴、息長。
そして最後には、大友皇子がいる近江大津宮の目前、瀬田橋で両軍が激突する。


コメント