第15回
養老4年、720年2月29日。
九州を統轄する大宰府から、平城京の朝廷へ報告が届いた。
「隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺す」
南九州で隼人が反乱を起こし、朝廷から派遣されていた大隅国守・陽侯史麻呂が殺害されたという。
2月29日は、大宰府が事件を朝廷へ報告した日である。陽侯史麻呂が実際に殺された日について、『続日本紀』は記していない。
その4日後の3月4日。
朝廷は中納言・大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命した。
征討は夏になっても続いた。
8月、大伴旅人には帰京命令が出されたが、副将軍以下については「隼人がまだ平定されていなければ現地に留まれ」と命じられている。
そして翌721年7月。
副将軍たちが帰還した。
『続日本紀』が記した戦果は、
「斬首・捕虜あわせて1400余人」
720年の反乱に至るまで、南九州では何が起きていたのか。
その動きを追うと、反乱の7年前から朝廷と隼人の間で軍事衝突が起きていたことが分かる。
隼人――南九州に暮らした人々
「隼人」は、『日本書紀』『続日本紀』など朝廷側の史料に現れる呼称である。
主な活動地域は、現在の鹿児島県を中心とする南九州だった。
史料には大隅隼人、阿多隼人、薩摩隼人などの名も見える。
隼人と朝廷の関係は、720年の反乱に始まったものではない。
7世紀後半の『日本書紀』には、隼人が朝廷へ赴き、方物を献上した記事が残されている。宮廷では隼人による歌舞も行われた。
一方、7世紀末から8世紀初頭にかけて、朝廷は律令国家の地方行政を南九州へ広げていった。
その過程では、隼人との軍事衝突も起きている。
713年――大隅国が置かれる
和銅6年、713年4月。
朝廷は日向国の肝坏・贈於・大隅・姶羅の4郡を分け、新たに大隅国を設置した。
現在の鹿児島県東部を中心とする地域に、律令国家の行政区画である「国」が置かれたのである。
国には中央から国司が派遣され、地方行政を担った。
大隅国の設置は、朝廷による南九州統治が進められていく大きな節目となった。
しかし、この年の『続日本紀』には、もう一つ重要な記録が残されている。
大隅国設置の年、すでに隼人との戦いがあった
713年7月。
朝廷は、隼人を討った将軍や兵士のうち、戦陣で功績を挙げた者へ勲位を与えた。
その数は1280余人。
720年の反乱より7年前に、朝廷軍と隼人との間ですでに軍事衝突が起きていた。
ただし、『続日本紀』はこの戦いの経過を詳しく伝えていない。
どこで戦ったのか。
朝廷軍がどれほどの兵力を動員したのか。
隼人側がどのように戦ったのか。
その詳細は残されていない。
また、4月の大隅国設置と、この軍事衝突との直接的な因果関係も史料には記されていない。
確認できるのは、大隅国が置かれた713年に隼人との戦いがあり、戦功を認められた将軍・兵士だけで1280余人に達したということである。
714年――豊前国から200戸を移す
翌714年3月。
朝廷は南九州に関わる新たな政策を実施した。
『続日本紀』は、隼人が朝廷の法にまだ習熟していないという趣旨を記し、豊前国の民200戸を移して「勧導」させたとしている。
豊前国は、現在の福岡県東部から大分県北部にあたる。
移されたのは200人ではなく、200戸だった。
『続日本紀』本文は、その移住先を明記していない。前年に大隅国が設置されていることから、大隅国への移住とみるのが一般的である。
713年には大隅国が置かれ、同じ年に隼人との軍事衝突があった。
714年には豊前国民200戸が移された。
朝廷による南九州の行政編成が進められる中、隼人との関係も変化していった。
そして6年後。
再び大きな軍事衝突が起きる。
720年2月――大隅国守・陽侯史麻呂が殺される
養老4年2月29日。
大宰府は朝廷へ、
「隼人反。大隅国守陽侯史麻呂を殺す」
と報告した。
大隅国守は、朝廷から派遣された大隅国の国司の長官である。
その人物が殺害された。
反乱の発端について、『続日本紀』は詳しく記していない。
誰が反乱を主導したのか。
陽侯史麻呂がどこで殺されたのか。
国司と現地の隼人との間で、殺害に至るまで何が起きていたのか。
隼人側がどのような要求を掲げていたのか。
具体的な事情は伝わらない。
『続日本紀』に現れるのは、すでに隼人が反乱し、大隅国守が殺害された段階からである。
朝廷はすぐに動いた。
3月4日――大伴旅人、征隼人持節大将軍となる
大宰府からの報告から4日後。
3月4日、朝廷は中納言・正四位下の大伴宿禰旅人を「征隼人持節大将軍」に任命した。
副将軍には二人が選ばれた。
授刀助・従五位下の笠朝臣御室。
民部少輔・従五位下の巨勢朝臣真人。
大伴旅人は、後に『万葉集』を代表する歌人の一人として知られる人物である。
一方、大伴氏は古くから朝廷の軍事を担ってきた氏族でもあった。
旅人は朝廷から節を授けられ、征隼人持節大将軍として征討を指揮することになった。
この時、朝廷が実際に何人の兵士を動員したのか、『続日本紀』は記していない。
当時の軍制から大規模な兵力を想定する研究もあるが、具体的な出征兵数を示す史料は残されていない。
朝廷軍と隼人の戦い
征討軍は南九州で隼人と戦った。
しかし、720年の戦いについて、後世の軍記物のような詳しい戦闘記録は残っていない。
どの道を進軍したのか。
どこに隼人側の拠点があったのか。
どのような攻防が繰り広げられたのか。
『続日本紀』の記事だけから、一つ一つの戦場を再現することはできない。
それでも、征討の進展を伝える記録は残っている。
6月17日。
元正天皇は、征討を指揮する大伴旅人を労う詔を出した。
その詔では、旅人が兵を整え、軍勢を率いて反乱勢力を討ったと記されている。
さらに隼人側について、
「酋帥面縛」
「寇党叩頭」
と記す。
朝廷側の詔によれば、隼人側の首長が後ろ手に縛られて命を請い、反乱勢力の中から朝廷に服従する者が現れていた。
3月から続く征討は一定の戦果を挙げていた。
しかし、これで完全に終わったわけではなかった。
8月――大伴旅人に帰京命令
720年8月。
朝廷は大伴旅人に都へ戻るよう命じた。
同じ月、右大臣・藤原不比等が死去している。
『続日本紀』の勅は、旅人について、
「ひとまず京へ入るべし」
と命じた。
続けて副将軍以下について、
「隼人未だ平らがずは、留まりて屯すべし」
と記す。
隼人がまだ平定されていなければ、副将軍以下は現地に留まるよう命じたのである。
大伴旅人が都へ戻ることと、隼人征討の終了は同じではなかった。
少なくともこの命令が出された時点で、朝廷は隼人が完全には平定されていない状況を想定していた。
笠御室、巨勢真人ら副将軍以下は現地に残ることになった。
副将軍たちの帰還は翌721年
大隅国守殺害の報告が届いたのは720年2月だった。
3月、大伴旅人を大将軍とする征討軍が編成された。
6月には、朝廷の詔に隼人側の服従が進んでいる様子が記された。
8月、大伴旅人には帰京命令が出されたが、隼人が未平定の場合は副将軍以下を現地に残すよう命じられた。
そして『続日本紀』に副将軍たちの帰還が記録されるのは、翌721年7月である。
721年7月――「斬首・捕虜1400余人」
養老5年、721年7月。
征隼人副将軍・笠朝臣御室、巨勢朝臣真人らが帰還した。
『続日本紀』は、その直後に戦果を記している。
「斬首獲虜、合わせて千四百余人」
斬首された者と捕虜となった者を合わせて1400人余り。
1400余人すべてが殺されたという意味ではない。
斬首された者と、捕虜となった者を合わせた数字である。
713年の隼人征討では、戦功者だけで1280余人。
720年から721年にかけての征討では、斬首・捕虜あわせて1400余人。
『続日本紀』に残された数字からも、8世紀初頭の南九州で朝廷と隼人の間に大きな軍事衝突が起きていたことが伝わる。
なぜ隼人は反乱したのか
720年の反乱について、『続日本紀』は隼人側の主張を記していない。
そのため、反乱の直接的な原因を一つに定めることはできない。
史料から確認できるのは、720年以前の南九州で大きな変化が続いていたことである。
713年、大隅国が設置された。
同じ年、朝廷軍と隼人との間で軍事衝突が起きた。
714年、豊前国民200戸が移された。
そして720年、大隅国守・陽侯史麻呂が殺害された。
律令国家による地方行政が南九州へ及んでいった時期と、隼人との軍事衝突が重なっている。
研究上では、戸籍編成をはじめとする律令国家への組み込みが反乱の背景にあったとみる見解もある。
戸籍は、朝廷が人々を把握し、税や労役などの制度を運用する基礎となる。
こうした支配体制が南九州へ及んでいく過程で、現地社会との緊張が高まったと考える見方である。
ただし、『続日本紀』が「戸籍作成に反対して隼人が反乱した」と記しているわけではない。
陽侯史麻呂殺害へ至った直接の事情は、史料には残されていない。
反乱後も続いた隼人と朝廷の関係
721年7月、副将軍たちが帰還した。
『続日本紀』に残る「斬首・捕虜1400余人」という数字は、征討によって隼人側に大きな犠牲が出たことを伝えている。
それでも、隼人そのものが歴史から消えたわけではない。
723年には、朝廷が隼人を饗応し、それぞれの風俗歌舞を披露させた記事が『続日本紀』に残っている。
その後も隼人は朝廷との関係を持ち続けた。
大隅国も存続した。
713年、大隅国が設置された年には、すでに朝廷軍と隼人が戦っていた。
714年には豊前国民200戸が移される。
720年、大隅国守・陽侯史麻呂が殺害されると、朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命した。
旅人が都へ戻った後も、副将軍以下には必要に応じて現地へ留まるよう命令が出された。
そして721年7月、副将軍らが帰還する。
『続日本紀』が記した戦果は、「斬首・捕虜1400余人」。
大隅国の設置から国守殺害、そして朝廷による征討へ。
720年の隼人の反乱は、律令国家が南九州へ支配を広げていく過程で起きた、大きな軍事衝突だった。
ちなみに、今回の舞台となった南九州。
現在の鹿児島といえば、やっぱり焼酎も有名ですよね。
古代の隼人たちが暮らした土地に思いを馳せながら、鹿児島の名産を味わってみるのも、歴史の楽しみ方のひとつかもしれません🍶
南九州の歴史を読んだあとは、鹿児島の焼酎を一杯。
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