第30回
大同5年(810年)9月6日、平城上皇は平安京から平城京へ都を戻すよう命じた。
桓武天皇が平安京へ遷都してから16年。
皇位にはすでに弟の嵯峨天皇がつき、平安京で政務を行っていた。
嵯峨天皇は当初、上皇の命令を受け入れ、坂上田村麻呂や藤原仲成らを造宮使に任じて平城宮の整備にあたらせた。
9月10日、嵯峨天皇は伊勢・近江・美濃三国の国府と旧関を固め、藤原仲成を拘禁した。藤原薬子も官位を奪われる。
翌11日、平城上皇は薬子らを伴って平城京を出発し、東へ向かった。
嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣する。
平城上皇の一行は大和国を出ることができず、翌12日に引き返した。
上皇は出家し、薬子は自ら命を絶った。
平城上皇と嵯峨天皇。桓武天皇の二人の皇子が対立した、薬子の変である。
桓武天皇の皇子・安殿親王
のちの平城天皇となる安殿親王(あてのみこ)は、宝亀5年(774年)に生まれた。
父は桓武天皇、母は藤原乙牟漏。
同母弟には、のちの嵯峨天皇となる神野親王がいる。
延暦4年(785年)、皇太弟だった早良親王が廃されると、安殿親王が皇太子となった。
同じ785年には、長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺されている。
藤原薬子は、その種継の娘だった。
藤原薬子と安殿親王
薬子の生年は伝わっていない。
藤原式家の藤原種継の娘として生まれ、藤原縄主の妻となった。
縄主との間に生まれた娘が皇太子安殿親王の東宮へ入ると、薬子も東宮に仕えるようになる。
やがて安殿親王と薬子自身が深い関係を持った。
『日本後紀』の逸文によれば、桓武天皇は二人の関係を問題視し、薬子を東宮から退けたという。
薬子には兄の藤原仲成がいた。
仲成は天平宝字8年(764年)生まれ。薬子と同じ藤原種継の子である。
のちに薬子とともに平城上皇の近くで活動することになる。
806年、平城天皇即位
延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が亡くなった。
皇太子安殿親王が即位する。
平城天皇である。
数え33歳だった。
桓武天皇によって東宮から退けられていた薬子も、再び天皇の近くへ戻った。
薬子は尚侍となり、従三位まで昇った。
尚侍は内侍司の長官で、天皇への奏請を取り次ぎ、天皇の命令を伝える役割を担った。
兄の仲成も平城朝で昇進を重ねる。大同4年(809年)には北陸道観察使となった。
平城天皇の在位は3年で終わる。
809年、弟の神野親王へ譲位
大同4年(809年)、平城天皇は病に苦しんでいた。
4月1日、弟の神野親王へ皇位を譲る。
嵯峨天皇の即位である。
平城天皇は上皇となり、皇太子には平城上皇の皇子・高岳親王(たかおかしんのう)が立てられた。
退位後も平城上皇の体調は安定せず、居所を移して療養を続けた。
同年12月、上皇は旧都の平城京へ入った。
薬子や仲成らも上皇の周囲にいた。
平安京で嵯峨天皇が政務を行う一方、平城京へ移った平城上皇も政治への関与を続けた。
翌810年、その動きが朝廷の制度にまで及ぶ。
810年3月、嵯峨天皇が蔵人を置く
大同5年(810年)3月。
嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)と藤原冬嗣を蔵人頭に任じた。
ここから蔵人所が始まる。
蔵人は天皇の近くで機密文書を扱い、天皇の命令伝達にも携わった。
平城上皇側との緊張が高まる中、嵯峨天皇直属の機密保持と命令伝達を担う仕組みが整えられていった。
藤原冬嗣は藤原北家の出身である。
この時点ではまだ30歳前後だったが、嵯峨天皇の側近として朝廷の中枢へ進んでいく。
6月、平城上皇が観察使を廃止
大同5年6月。
平城上皇は、観察使を廃止して参議を復活させるよう命じた。
観察使は平城天皇自身が在位中に設けた制度で、地方行政の監察などを担っていた。
退位後の上皇が、自らの治世に設けた制度を改める命令を出したのである。
参議が復活し、藤原仲成も参議に任じられた。
平城上皇による政治への関与は続き、9月には都そのものを動かす命令が出される。
9月6日、平城京への遷都を命じる
大同5年9月6日。
平城上皇は平安京を廃し、平城京へ都を戻すよう命じた。
桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都したのは延暦13年(794年)。
それから16年しか経っていなかった。
嵯峨天皇側は上皇の命令を受け、平城宮の整備を始めた。
坂上田村麻呂や藤原仲成らが造宮使に任じられた。
官人や民衆にも平城京へ移る準備が求められ、朝廷は遷都に向けて動き始めた。
この状態は長く続かなかった。
9月10日、嵯峨天皇は上皇側を押さえるために動いた。
9月10日、伊勢・近江・美濃を固める
大同5年9月10日。
嵯峨天皇は伊勢・近江・美濃へ使者を送り、三国の国府と旧関を固めた。
いずれも平安京や平城京から東国へ向かう交通路に位置する地域だった。
同時に、平城上皇側にいた官人への処分が進められた。
藤原仲成は捕らえられ、右兵衛府に拘禁された。
参議から佐渡権守へ落とされる。
薬子も官位を奪われ、宮中への出入りを禁じられた。
嵯峨天皇は詔を出し、薬子と仲成の罪を示した。
9月6日に出された平城京への遷都命令も停止された。
翌朝、平城上皇は平城京を出た。
9月11日、平城上皇が東へ向かう
9月11日早朝。
平城上皇は薬子らを伴い、平城京を出発した。
東国方面へ向かうためだった。
嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣した。
田村麻呂は延暦16年(797年)に征夷大将軍となり、801年には蝦夷征討を行った。
802年には胆沢城、803年には志波城の造営に関わっている。
810年には大納言として朝廷の中枢にいた。
田村麻呂は東へ向かうにあたり、一人の人物を同行させるよう願い出た。
文室綿麻呂である。
綿麻呂は平城上皇側との関係を疑われて拘禁されていたが、田村麻呂の要請によって同行を許された。
同じ9月11日、平安京では藤原仲成への処刑が行われた。
藤原仲成、射殺される
右兵衛府に拘禁されていた藤原仲成は、射殺された。
前日に参議から佐渡権守へ落とされたばかりだった。
仲成は天平宝字8年(764年)生まれとされ、数え47歳。
妹の薬子とともに平城上皇の近くで政治に関わり、政変の最中に命を落とした。
そのころ、平城上皇の一行は東へ進んでいた。
嵯峨天皇側はすでに伊勢・近江・美濃方面を固めている。
上皇の一行は大和国から出ることができなかった。
9月12日、平城上皇が引き返す
9月12日。
平城上皇の一行は大和国添上郡越田村まで進んだ。
その先へ進むことを断念し、平城京へ引き返した。
上皇は剃髪して出家した。
薬子は毒を飲み、自ら命を絶った。
平城京への遷都命令が出された9月6日から6日後だった。
平城上皇はその後も平城京で暮らすことになる。
政変の決着は、上皇の皇子にも及んだ。
高岳親王、皇太子を廃される
平城上皇の皇子・高岳親王は皇太子を廃された。
代わって皇太弟となったのが大伴親王である。
大伴親王は桓武天皇の皇子で、平城上皇・嵯峨天皇の異母弟にあたる。
のちの淳和天皇である。
高岳親王はその後出家し、空海の弟子となった。
平城上皇は政変後も平城京で生活し、弘仁15年(824年)に51歳で亡くなった。
嵯峨天皇のもとでは、蔵人頭を務めた藤原冬嗣がその後参議へ進み、藤原北家も朝廷で勢力を伸ばしていく。
9月19日、「弘仁」へ改元
薬子の変が決着してから7日後の9月19日。
元号が「大同」から「弘仁」へ改められた。
そのため、平城京への遷都命令、仲成の拘禁と射殺、平城上皇の東行、薬子の死まで、政変の中心となった出来事は大同5年(810年)に起きている。
翌弘仁2年(811年)5月23日、坂上田村麻呂が54歳で亡くなった。
同じ年、前年の政変で田村麻呂と行動した文室綿麻呂が征夷将軍となり、爾薩体・幣伊方面へ軍を進めた。
平城上皇が平城京への遷都を命じた810年9月6日から、東行を断念して出家した9月12日まで6日。
平安京から平城京へ都が戻ることはなく、嵯峨天皇は平安京で政務を続けた。
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