第24回
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658年、阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて北へ向かった。齶田・渟代・津軽の蝦夷との交渉、渡嶋蝦夷との接触、660年の粛慎との戦いまで、『日本書紀』から7世紀の北方遠征を追う。
斉明天皇4年(658年)4月、180艘の船団が日本海を北へ進んだ。
率いていたのは阿倍臣。『日本書紀』の別の記事には、その名を阿倍引田臣比羅夫と記している。
船団の先には、齶田、渟代、津軽、渡嶋と呼ばれた北方世界が広がっていた。
『日本書紀』には翌659年にも180艘、660年には200艘の船団が北へ向かったと記される。
齶田では現地の首長が服属を表明し、渟代や津軽では郡領が定められた。さらに北では渡嶋の蝦夷と接触し、粛慎と呼ばれた人々との戦闘へ発展する。
7世紀半ば、朝廷は日本海を通じて北方の人々との接触を重ねていた。
658年――阿倍比羅夫、180艘の船団で北へ
斉明天皇4年(658年)4月、『日本書紀』は阿倍臣が船師180艘を率いて蝦夷を討ったと記す。
同じ年の別の記事には「越国守阿倍引田臣比羅夫」が粛慎を討ったとの記録があり、この阿倍臣を阿倍比羅夫とみるのが一般的である。
記録に最初に現れるのは齶田と渟代だった。
齶田は現在の秋田周辺、渟代は能代周辺に比定されることが多い。
180艘の船団が現れると、齶田・渟代の蝦夷は服属を申し出た。
比羅夫は齶田浦に船を並べる。
そこで齶田の蝦夷を率いていた恩荷が進み出た。
恩荷は、自分たちが弓矢を携えているのは獣肉を得るためであり、官軍と戦う意思はないと誓った。
齶田では、180艘の船団を背景に服属と交渉が進んだ。
恩荷に与えられた「小乙上」
朝廷側は服属を表明した恩荷に小乙上の冠位を与えた。
さらに『日本書紀』は、渟代と津軽に郡領を定めたと記している。
7世紀半ばは律令国家の地方行政制度が整備されていく時期にあたり、ここに記された「郡」や「郡領」の実態については研究上の議論がある。
記録からは、朝廷が現地の有力者に地位を与え、北方の人々との政治的な関係を築いていく姿が読み取れる。
比羅夫はさらに北へ進み、有間浜で渡嶋の蝦夷を集めて大規模な饗宴を開いた。
軍船を率いて北上し、服属を受け入れ、現地の首長に冠位や役職を与え、宴を開いて物品を贈る。
658年の遠征では、軍事力を背景としながら交渉と饗応によって関係を結ぶ朝廷の姿が記されている。
658年7月――200人を超える蝦夷が朝廷へ
同年7月、『日本書紀』には200人余りの蝦夷が朝廷を訪れたことが記されている。
朝廷は彼らを饗応し、冠位や物品を与えた。
渟代では沙尼具那が大領、宇婆左が少領、津軽では馬武が大領、青蒜が少領として記録された。
沙尼具那には蝦夷と「虜」の戸口を調査するよう命令も出された。
同じ年に、軍船の派遣、現地首長への冠位授与、郡領の任命、蝦夷の来朝、戸口調査が相次いで記録されている。
朝廷と北方の人々との関係は、軍事行動に加えて饗応、任官、貢納などを伴いながら広がっていった。
生きた羆2頭と70枚の毛皮
『日本書紀』は658年について、もう一つ興味深い記事を残している。
越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討ち、生きた羆2頭と羆の皮70枚を献上したという記録である。
ここで阿倍比羅夫の記事に「粛慎」という名が現れる。
粛慎が具体的にどの集団を指したのかについては研究が続いている。北海道北部からオホーツク海沿岸に広がったオホーツク文化の人々との関係を指摘する説もある。
羆の献上記事も、比羅夫の活動範囲を考える手掛かりとなってきた。
阿倍比羅夫が現在の北海道まで到達したとする説は古くからあり、渡嶋や後方羊蹄などの地名も北海道との関係から論じられている。
それぞれの地名には複数の比定説が残る。
『日本書紀』から読み取れるのは、7世紀半ばの朝廷が本州北部よりさらに先の北方世界を認識し、そこに暮らす人々との接触を記録していたことである。
659年――再び180艘の船が北へ向かう
斉明天皇5年(659年)3月、『日本書紀』には再び阿倍臣の遠征が現れる。
船団は前年と同じ180艘。
この遠征では、比羅夫のもとに集められた人々の数が細かく記録されている。
飽田・渟代の蝦夷241人と「虜」31人。
津軽の蝦夷112人と「虜」4人。
胆振鉏の蝦夷20人。
記録に登場する蝦夷だけでも373人に達する。
比羅夫は彼らを一か所に集め、盛大に饗応して禄を与えた。
さらに船1艘と五色の布を土地の神に捧げ、北へ進んだ。
その先で『日本書紀』に現れるのが「肉入籠」と「後方羊蹄」である。
後方羊蹄を「政所」に――現地の蝦夷が進言
比羅夫が肉入籠に到着すると、問菟の蝦夷である胆鹿嶋と菟穂名の2人が進み出た。
2人は後方羊蹄を「政所」とするよう比羅夫に進言した。
比羅夫はその言葉に従い、郡領を置いて帰還したと『日本書紀』は記す。
後方羊蹄には「しりへし」と読む注が付されている。
現在の北海道には後志という地名があり、古くから両者の関係が注目されてきた。
肉入籠、胆振鉏、後方羊蹄の所在地には複数の説があり、阿倍比羅夫の船団が実際にどこまで北上したのかは現在も議論が続く。
この時期の「政所」や「郡領」の実態についても、後世の律令制下の行政制度と同じ形で捉えることには慎重な検討が必要となる。北方の有力者との貢納や交易を管理する拠点として捉える研究もある。
同じ659年の記事には、もう一つの伝承が残されている。
『日本書紀』は「ある本には」として、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰還し、捕虜49人を献上したと記した。
同じ年について異なる内容の伝承が収められている点は、阿倍比羅夫の北方遠征を考えるうえで重要である。
660年――200艘の船団と粛慎
斉明天皇6年(660年)3月。
阿倍臣は200艘の船を率いて粛慎を討つために出発した。
今回は陸奥の蝦夷も比羅夫の船に乗っている。
朝廷と関係を結んだ蝦夷が、比羅夫の北航に加わっていた。
船団が「大河」のほとりへ到着すると、海辺には渡嶋の蝦夷1000人余りが集まり、川に向かって陣営を構えていた。
その中から2人が比羅夫のもとへ走り寄る。
彼らは粛慎の船団が多数現れ、自分たちを襲おうとしていると訴えた。
比羅夫が粛慎の居場所と船数を尋ねると、船は20艘余りだという。
200艘を率いる阿倍軍。
20艘余りの粛慎。
海辺に集まった1000人余りの渡嶋蝦夷。
660年の記事には、朝廷・蝦夷・粛慎という複数の勢力が北方の海域で向き合う姿が描かれている。
海辺に積まれた布・武器・鉄
比羅夫は使者を送り、粛慎を呼び寄せようとした。
粛慎が応じなかったため、比羅夫は海辺に彩色した布、武器、鉄などを積み上げた。
やがて粛慎の船団が姿を現す。
彼らは木に羽を結びつけて旗とし、船を並べて浅瀬まで近づいた。
一艘の船から2人の老人が上陸する。
老人たちは海辺に置かれた品物を詳しく確認すると、自分たちの衣服を脱いで置かれていた衣服に着替え、布を手にして船へ戻った。
しばらくすると再び岸へ現れ、着替えた衣服と持ち帰った布を元の場所へ戻して去った。
比羅夫は再度船を送り、粛慎を呼び寄せようとしたが、彼らは弊賂弁島へ戻った。
品物を海辺に置き、互いに確認しながら接触する一連の行動は、研究上「沈黙交易」と関連づけて論じられている。
やがて粛慎は和を求めた。
比羅夫はこれを受け入れず、粛慎は柵に立てこもって戦いに入った。
能登臣馬身龍の戦死
柵をめぐる戦いでは、阿倍軍にも死者が出た。
『日本書紀』に名前が残るのが能登臣馬身龍である。
馬身龍は粛慎との戦闘で命を落とした。
戦いはさらに続き、やがて粛慎側が敗れた。
『日本書紀』は、敗れた粛慎が自ら妻子を殺したと記している。
658年の齶田では服属と交渉が進み、659年には数百人の蝦夷を集めて饗宴が開かれた。
660年には粛慎との接触が武力衝突へ発展し、朝廷側にも戦死者が出た。
阿倍比羅夫の北航では、饗応や贈与を通じて関係を結ぶ場面と、交渉が決裂して武器を交える場面が続けて記録されている。
『日本書紀』が描いた阿倍比羅夫の北航
阿倍比羅夫の遠征を詳しく伝える中心史料は『日本書紀』である。
同書が完成したのは養老4年(720年)。
658〜660年の出来事から約60年後にあたる。
『日本書紀』は阿倍臣について「蝦夷を伐つ」「粛慎国を伐つ」と記した。
その本文には、軍船による北上とともに、現地首長への冠位授与、郡領の任命、饗宴、贈与、土地の神への祭祀、粛慎との接触と戦闘が並ぶ。
「征討」という一語に収まらない多様な行動が、3年間の記事に残されている。
阿倍比羅夫はどこまで北へ進んだのか
阿倍比羅夫の遠征をめぐる大きな論点が、その到達地点である。
齶田、渟代、津軽については、現在の秋田県から青森県にかけての地域との関係が考えられている。
胆振鉏、後方羊蹄、渡嶋、弊賂弁島などになると、比定地をめぐって見解が分かれる。
北海道との関係を考える説も有力で、阿倍比羅夫が北海道まで到達した人物として紹介されることも多い。
『日本書紀』に残るのは7世紀の地名であり、現在の地図上へ正確に置くことが難しい場所もある。
史料上確かめられるのは、阿倍比羅夫の船団が津軽よりさらに北方へ進み、渡嶋の蝦夷や粛慎との接触を重ねたことである。
遠征船団が到達した範囲と、朝廷による継続的な支配領域も区別して考える必要がある。
3年連続の遠征はすべて別の出来事だったのか
『日本書紀』には、
658年 180艘
659年 180艘
660年 200艘
と、3年続けて阿倍臣の北方遠征が記されている。
659年の記事には「ある本には」として、比羅夫が粛慎と戦い、捕虜49人を献上したという別伝も収録された。
658年にも粛慎討伐の記事があり、660年には粛慎との戦闘が詳しく描かれている。
似た内容の記事が複数年に配置されていることから、研究では一部を同じ出来事の重複記事とみる説があり、遠征を1回または2回と考える見解も示されてきた。一方、記載通り3回の遠征が行われたとみる研究もある。
約60年後に完成した『日本書紀』には、阿倍氏に伝わった記録を含む複数の材料が用いられたと考えられている。
3年間の記事は、こうした史料の成り立ちを踏まえて読む必要がある。
7世紀の北方世界と阿倍比羅夫
阿倍比羅夫の北航から約1世紀後、朝廷の蝦夷政策は城柵の設置と軍事遠征を大規模に伴う段階へ進んだ。
宝亀5年(774年)からは、後世に「三十八年戦争」と呼ばれる長期の抗争が始まる。
伊治呰麻呂の反乱、胆沢を拠点とした阿弖流為の抵抗、坂上田村麻呂による遠征へと続いていった。
その約100年前、658年に180艘の船団を率いて北へ進んだのが阿倍比羅夫だった。
齶田、渟代、津軽、渡嶋には、それぞれの首長と社会が存在した。そのさらに北方には、粛慎と呼ばれた人々がいた。
比羅夫の船団は彼らと接触し、宴を開き、地位や物品を与え、交易を試み、ときには武力を用いた。
658〜660年の北航は、8世紀以降に続く城柵支配や大規模な征夷とは性格を異にする。
『日本書紀』に残された3年間の記事は、朝廷と北方世界の人々が交渉、饗応、任官、交易、戦闘を通じて向き合った7世紀半ばの姿を伝えている。
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