【人物編 Vol.13】坂上田村麻呂――阿弖流為の降伏と胆沢城、征夷大将軍から薬子の変まで

人物

第26回

【人物編 Vol.13】坂上田村麻呂――阿弖流為の降伏と胆沢城、征夷大将軍から薬子の変まで

延暦21年(802)4月。

陸奥国胆沢を拠点として朝廷軍に抵抗してきた阿弖流為と盤具公母礼が、500余人を率いて降伏した。

降伏を受け入れたのは、征夷大将軍・坂上田村麻呂である。

田村麻呂は二人を伴って都へ戻った。

そして、阿弖流為と母礼を陸奥へ帰し、残る蝦夷を招き寄せる役割を担わせるよう求めたと伝えられている。

しかし、その意見は採用されなかった。

同年8月、二人は河内国で処刑された。山川日本史小辞典でも、田村麻呂が二人の助命を嘆願したものの認められなかったと整理されている。

坂上田村麻呂は、「征夷大将軍」の名とともに知られている。

しかし、この称号を最初に与えられた人物ではない。

794年の蝦夷征討では大伴弟麻呂が征夷大将軍で、田村麻呂はその副将軍だった。

田村麻呂自身が征夷大将軍となるのは797年である。征夷大将軍の称そのものも、田村麻呂以前から確認できる。

その後、801年の遠征、802年の胆沢城造営、803年の志波城造営を経て、朝廷の政治・軍事拠点は北上川流域をさらに北へ広がっていった。

しかし、田村麻呂の生涯は東北での軍事活動だけでは終わらない。

中央政界では参議、中納言、大納言へ進み、晩年の810年には薬子の変にも関わった。

さらに死後には、清水寺創建や悪路王討伐など多くの物語がその名に重ねられていく。

史料から確認できる坂上田村麻呂と、後世に形づくられた英雄像。

その二つを分けながら生涯を追っていく。

1.758年――坂上氏に生まれる

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758)に生まれた。

父は坂上苅田麻呂。

坂上氏は渡来系氏族の東漢氏につながる家で、軍事に関わる官人を多く出していた。

父・苅田麻呂もその一人である。

天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱では朝廷側として戦い、その後、陸奥鎮守将軍などを歴任した。

天応2年(782)の氷上川継事件では連座して一時官職を解かれたが、その後復職している。

田村麻呂が後に東北で軍事指揮を担った背景には、こうした坂上氏の官人・武官としての蓄積があった。

ただし、父の経歴だけから田村麻呂本人の進路まで説明することはできない。

田村麻呂自身の官歴が本格的に確認できるようになるのは、20歳代に入ってからである。

2.780年――近衛将監から始まった官歴

宝亀11年(780)。

田村麻呂は近衛将監となった。

宮中の警備を担当する近衛府の官人である。

延暦4年(785)には従五位下。

延暦6年(787)には近衛少将へ進んだ。

この時点では、田村麻呂はまだ征夷大将軍ではない。

中央の武官として官歴を積んでいた人物だった。

一方、東北では朝廷と蝦夷の対立が続いていた。

780年には伊治公呰麻呂の反乱によって多賀城が攻撃される。

789年には紀古佐美率いる朝廷軍が胆沢地方への進出を試みたものの、阿弖流為らの抵抗によって大きな損害を受けた。

この敗北から数年後、田村麻呂も東北への軍事行動に加わることになる。

3.791年――征東副使として東北へ

延暦10年(791)。

朝廷は新たな東北遠征の体制を整えた。

征東大使となったのは大伴弟麻呂。

田村麻呂は征東副使の一人に任命された。

793年には征東使が征夷使へ改められ、翌794年には大伴弟麻呂が征夷大将軍、田村麻呂が副将軍となる。

この段階で田村麻呂は、遠征軍全体の最高指揮官ではない。

大伴弟麻呂のもとで軍事行動に参加する副将格だった。

後世の知名度では田村麻呂の方が高いが、最初から単独で蝦夷征討を指揮していたわけではなかった。

4.794年――大伴弟麻呂のもとでの征討

延暦13年(794)。

大伴弟麻呂を征夷大将軍とする遠征軍が東北へ向かった。

副将軍の一人が坂上田村麻呂である。

朝廷側が報告した戦果として、

斬首457級。

捕虜150人。

馬85頭。

焼いた拠点75か所。

という数字が伝えられている。

これらは朝廷軍全体の戦果として記された数字であり、田村麻呂個人の戦果ではない。

また、この時期の東北での戦闘経過を詳しく記した『日本後紀』の該当部分は失われている。

そのため、田村麻呂がどの地点で、どのような戦術を用いたのかまで詳しく復元することは難しい。

確認できるのは、朝廷側が大きな戦果を報告し、その後、田村麻呂が東北政策の中でより重要な立場へ進んだことである。

5.796〜797年――陸奥行政と征夷大将軍

延暦14年(795)。

田村麻呂は従四位下へ進んだ。

翌796年には陸奥出羽按察使・陸奥守を兼ね、鎮守将軍も務める。

軍事指揮だけでなく、陸奥・出羽の行政と現地支配にも関わる立場となった。

そして延暦16年(797)。

田村麻呂は征夷大将軍に任命された。

「征夷大将軍」という言葉は、後世には源氏や足利氏、徳川氏など武家政権の首長と深く結びつく。

しかし桓武朝の征夷大将軍は、東北への軍事行動を指揮するために置かれた職だった。

田村麻呂が後世の幕府の将軍と同じ立場だったわけではない。

また、征夷大将軍という称号も田村麻呂から始まったものではない。

田村麻呂の名が特に知られるようになったのは、この後の遠征と東北政策で大きな役割を担ったためである。

6.801年――史料に「4万人」と記された遠征

延暦20年(801)。

田村麻呂は征夷大将軍として再び東北へ向かった。

史料・辞典では、この遠征軍を4万人としている。

ただし、この数字を一つの戦場で同時に戦った実人数として考える必要はない。

大規模な遠征には各地からの兵士だけでなく、輸送や兵站に関わる人員も必要だった。

記録に残る動員規模と、実際の戦闘参加人数は区別して考える必要がある。

さらに、801年の戦闘についても詳しい経過は残っていない。

田村麻呂は2月に東北へ向かい、秋には蝦夷を討ったことを朝廷へ報告し、10月に帰京した。

この遠征を経て、朝廷側の軍事的進出は胆沢地方まで達する。

そして翌802年。

長く戦場となってきた胆沢に、新たな政治・軍事拠点が築かれた。

7.802年――胆沢城を造る

延暦21年(802)。

田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として陸奥へ向かった。

現在の岩手県奥州市に胆沢城を造営するためである。

胆沢城は一辺およそ670メートルの方形で、内部には政庁や官衙が置かれた。

外周には築地がめぐらされ、軍事施設であると同時に、行政や儀式を行う役所としての性格を持っていた。

同年には、東国10か国の浪人4,000人を胆沢城へ移すよう命令が出されている。

ここでいう「浪人」は、中世以降の主君を失った武士という意味ではなく、本来の戸籍地を離れて生活していた人々を指す。史料には駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10か国が挙げられている。

軍を進めるだけでは、朝廷の支配を維持することはできない。

城柵を設け、官人を置き、人々を移し、周辺地域を行政制度へ組み込む政策が進められた。

802年の胆沢城造営は、朝廷による北上川流域への支配拡大を示す出来事でもある。

大同3年(808)までには、多賀城に置かれていた鎮守府も胆沢城へ移された。

その後、胆沢城は10世紀後半ごろまで、東北北部の重要な行政・軍事拠点として機能した。

8.阿弖流為と母礼、500余人の降伏

胆沢城の造営が進められた802年。

阿弖流為と盤具公母礼が500余人を率いて田村麻呂に降伏した。

阿弖流為は、789年に紀古佐美率いる政府軍へ大きな損害を与えた胆沢地方の指導者である。

田村麻呂は阿弖流為と母礼を伴って都へ戻った。

田村麻呂は二人を処刑せず陸奥へ戻すことを求めたとされる。

しかし朝廷側では、再び反乱につながる可能性があるとして反対意見が出た。

田村麻呂の主張は受け入れられず、同年8月13日、阿弖流為と母礼は河内国で処刑された。

ここから田村麻呂と阿弖流為の「友情」まで読み取ることはできない。

史料から確認できるのは、田村麻呂が二人を都へ連れ、その処刑に反対したという経過である。

田村麻呂が阿弖流為や母礼をどのように評価し、どのような感情を抱いていたのかまでは分からない。

9.803年――志波城、さらに北へ

延暦22年(803)。

田村麻呂は胆沢よりさらに北の志波地方へ進み、志波城を造営した。

現在の盛岡市付近である。

胆沢城と志波城の建設によって、朝廷の政治・軍事拠点は北上川流域をさらに北へ進んだ。

ただし、これによって東北全域が朝廷の直接支配下に入ったわけではない。

北方にはなお朝廷の支配が及ばない地域が残っていた。

胆沢城や志波城の造営は「蝦夷との戦争が完全に終わった」ことではなく、朝廷側の支配拠点が北へ広がったことを示している。

翌804年、田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられた。

しかし、大規模な征討政策そのものは転換期を迎えていた。

10.805年――征夷政策の転換

延暦24年(805)。

桓武天皇のもとで、藤原緒嗣と菅野真道による徳政相論が行われた。

緒嗣は、民衆を苦しめているものとして「軍事」と「造作」を挙げ、その停止を求めた。

軍事は蝦夷征討。

造作は平安宮・平安京の造営を指す。

桓武天皇は緒嗣の意見を採用した。

長年続けられてきた大規模な征夷は、ここで方針を転換する。

同じ805年。

田村麻呂は参議となった。

坂上氏では初めて公卿に列した人物である。

東北で軍を指揮してきた武官は、ここから中央政界でもさらに高い地位へ進んでいく。

11.参議・中納言・大納言へ

大同元年(806)。

桓武天皇が亡くなり、平城天皇が即位した。

田村麻呂は中納言へ進む。

その後も中央の武官・公卿として昇進し、大同4年(809)には正三位となった。

最終的には大納言・右近衛大将にまで進んでいる。

田村麻呂の経歴を東北征討だけで終わらせると、この時期が抜け落ちる。

801〜803年の大規模な東北政策を終えた後も、田村麻呂は朝廷の中枢で活動を続けていた。

そして810年。

中央政界で大きな政変が起こる。

薬子の変である。

12.810年――薬子の変

大同5年・弘仁元年(810)。

平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化し、朝廷内部の対立が表面化した。

平城上皇は平城京への遷都を命じる。

これに対し、嵯峨天皇側は藤原仲成を捕らえ、藤原薬子の官位を奪った。

平城上皇は薬子とともに東国へ向かおうとしたが、朝廷側は各地へ兵を送り、その進路を封じた。

田村麻呂も嵯峨天皇側の軍事対応を担い、美濃路を固めるなどして上皇側の行動を阻止した。

最終的に平城上皇は大和国内で進路を阻まれ、平城京へ戻ることになる。

この政変の中で、田村麻呂は大納言へ昇進した。

また文室綿麻呂は、当初平城上皇側にいたとして拘束された。

田村麻呂はその武芸を惜しんで赦免を求めたとされ、綿麻呂は許された。

その後、綿麻呂は嵯峨天皇側で軍事的役割を担うことになる。

東北で長く軍を指揮した田村麻呂は、晩年には中央の政変でも軍事を担う立場にあった。

13.811年――坂上田村麻呂の死

弘仁2年(811)5月23日。

坂上田村麻呂は粟田の別邸で亡くなった。

54歳とされる。

死後、従二位を贈られた。

758年に坂上氏の家に生まれ、近衛府の武官として官歴を始めた。

791年に征東副使として東北遠征へ加わり、794年には大伴弟麻呂の副将軍として戦う。

797年に征夷大将軍となり、801年の遠征を指揮。

802年には胆沢城を造り、阿弖流為らの降伏を受け入れた。

803年には志波城を造営する。

その後は参議、中納言、大納言へ進み、810年の薬子の変にも関わった。

そして田村麻呂が亡くなった同じ811年。

文室綿麻呂が征夷将軍となり、爾薩体・閉伊方面への軍事行動を進めた。

田村麻呂の死によって、東北への軍事政策そのものが即座に終わったわけではない。

一方、桓武朝以来の大規模な征夷は、この時期に一つの区切りへ向かっていった。

14.清水寺と、後世に広がった田村麻呂伝説

坂上田村麻呂には、史料上の官人・武将としての姿とは別に、多くの伝説が残されている。

その代表が京都・清水寺との関係である。

清水寺の縁起では、音羽山へ鹿狩りに訪れた田村麻呂が僧・賢心、後の延鎮と出会い、妻の三善高子とともに寺院建立へ協力したと伝えている。

現在の清水寺も田村麻呂を「大本願」と位置づけている。

ただし、これは清水寺の縁起に伝えられた創建説話である。

征夷へ向かう田村麻呂を地蔵菩薩と毘沙門天が助けたという話も、清水寺縁起に基づく後世の伝承として残されている。

さらに中世以降になると、田村麻呂には悪路王を討ったという物語も重ねられた。

悪路王を阿弖流為が伝説化した姿とみる説もあるが、両者を直接同一人物と確認できるわけではない。

歴史上の坂上田村麻呂は、鬼や怪物を退治する伝説上の武将として記録されている人物ではない。

朝廷の武官として官歴を積み、大伴弟麻呂のもとで蝦夷征討へ参加した。

後に征夷大将軍となり、801年の遠征を指揮する。

胆沢城と志波城を造営し、朝廷の政治・軍事拠点を北へ広げた。

802年には降伏した阿弖流為・母礼を処刑せず陸奥へ帰すよう求めたが、二人は処刑された。

東北での大規模な軍事活動を終えた後も中央政界で公卿として働き、晩年には薬子の変にも関わった。

その死後、こうした経歴に清水寺の縁起や悪路王討伐などの物語が重なり、「征夷大将軍・坂上田村麻呂」という後世の英雄像が形づくられていったのである。

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