第160回
元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦。
源氏の軍船が迫り、平家の敗北は決定的となっていた。
安徳天皇は祖母の二位尼に抱かれて海へ入り、平家一門の人々も次々と後を追った。
その中に、二人の兄弟がいた。
平経盛と平教盛。
ともに清盛の弟である。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」によれば、二人は鎧の上に碇を背負い、互いの手を取って海へ身を投げた。
弟の教盛は58歳。
かつて朝廷で中納言を務め、六波羅の総門近くに屋敷を構えたことから「門脇中納言」と呼ばれた人物だった。
前年の一ノ谷では、長男の通盛と三男の業盛を失っている。
次男の教経についても、戦死したという知らせが伝わっていた。
兄の経盛もまた、一ノ谷で息子たちを失っていた。
二人は平家が京都を追われた後も一門と行動をともにし、最後に壇ノ浦へたどり着いた。
教盛には、それ以前にも家族の命を守るため、清盛へ必死に嘆願した過去がある。
治承元年(1177年)の鹿ケ谷事件。
教盛の娘婿が、平家打倒を企てた者の一人として捕らえられた。
そのとき教盛は、長年仕えてきた兄に出家を口にするほど強く訴えたと『平家物語』は伝えている。
清盛の弟として生まれる
平教盛は大治3年(1128年)、平忠盛の子として生まれた。
母は待賢門院に仕えた女房で、藤原家隆の娘とされる。
清盛とは母を異にする兄弟だった。
父の忠盛は白河院・鳥羽院に仕え、軍事や警護を担いながら朝廷で地位を高めた武士である。
忠盛には清盛のほか、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度らの息子がいた。
清盛が平家の中心となった後、その弟たちも朝廷の官職を得て、一門を支えるようになる。
教盛が従五位下に叙されたのは久安4年(1148年)。
蔵人を務め、その後は国司などを歴任した。
後白河上皇の院司としても活動しており、宮廷との関わりが深い人物だった。
保元元年(1156年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起こる。
清盛は後白河天皇方に加わり、源義朝らとともに崇徳上皇方を破った。
教盛も兄に従って戦い、戦後は左馬権頭に任じられた。
続く平治元年(1159年)には、藤原信頼と源義朝が挙兵する。
熊野参詣の途中だった清盛は急いで京都へ戻り、六波羅を拠点として反撃を開始した。
『平治物語』には、教盛も重盛や頼盛らとともに出陣した様子が描かれている。
平家軍は義朝らを破り、義朝は東国へ逃れる途中で殺された。
清盛が朝廷で勢力を強めるなか、教盛も官職を重ねていった。
しかし平治の乱から二年後、皇位継承をめぐる争いによって官職を失うことになる。
憲仁親王の擁立と解官
応保元年(1161年)。
二条天皇と後白河上皇の対立が続くなか、後白河上皇の皇子・憲仁親王を皇太子に立てようとする動きが問題となった。
後の高倉天皇である。
この動きに関わった平時忠らが処罰され、教盛も官職を解かれた。
後白河上皇の院司として活動していた教盛は、皇位継承をめぐる政治的対立に巻き込まれたのである。
しかし翌応保2年(1162年)には復職を許され、内蔵頭に任じられた。
その後も昇進を続ける。
仁安3年(1168年)、憲仁親王が高倉天皇として即位すると、教盛は参議となり、正三位に叙された。
後白河上皇の近臣として活動してきた教盛が、公卿の一員に加わった。
さらに養和元年(1181年)には権中納言、寿永2年(1183年)には中納言へ進んでいる。
教盛の屋敷は、平家一門の拠点である六波羅の総門近くにあった。
そのため「門脇殿」と呼ばれ、参議になってからは門脇宰相、のちには門脇中納言と称された。
清盛が太政大臣に昇り、重盛が内大臣となるなど、平家一門は朝廷の要職を占めていた。
教盛もその一員として、長く宮廷の政治に携わった。
そして治承元年(1177年)、教盛は兄・清盛との間で苦しい立場に置かれる。
娘婿が謀反の疑いで捕らえられたのである。
鹿ケ谷事件――捕らえられた娘婿
治承元年6月。
後白河法皇の近臣たちが、平家打倒を企てたとして捕らえられた。
鹿ケ谷事件である。
藤原成親、西光、俊寛、平康頼らが関わったとされ、多田行綱の密告によって計画が露見したという。
清盛は関係者の捕縛を命じた。
西光は処刑され、藤原成親も捕らえられた後、備前国で殺害された。
その成親の息子が藤原成経だった。
丹波少将と呼ばれた成経は、教盛の娘を妻としていた。
『平家物語』巻第二「少将乞請」には、成経が捕らえられたときの様子が詳しく残されている。
成経は後白河法皇の御所に宿直していた。
そこへ教盛の使者が現れた。
清盛が西八条の邸宅へ出頭するよう命じているという。
成経は父・成親が捕らえられたことを知り、自分も同じ罪に問われると悟った。
教盛の屋敷へ戻った成経は、妻との別れを惜しんだ。
妻は身重だった。
成経は、まだ生まれていない子どものことを案じ、もし自分が死んだら父の成親の菩提も弔ってほしいと願ったという。
その後、教盛は成経を伴い、西八条の清盛邸へ向かった。
しかし清盛は、成経を屋敷の中に入れることさえ許さなかった。
成経は外で待たされ、教盛だけが屋敷へ入った。
ところが、清盛は教盛にも直接会おうとしなかった。
「叶わぬなら出家する」
教盛は使者を通じて、成経の助命を願い出た。
成経を自分に預けてほしい。
身柄を引き受けた以上、勝手な行動はさせない。
教盛はそう訴えた。
しかし清盛の怒りは激しかった。
父の成親が平家打倒を企てた以上、その息子も容易には許せない。
『平家物語』によれば、清盛は教盛に対し、成親の企てが成功していれば、教盛自身も無事では済まなかったはずだと非難した。
それでも教盛は引き下がらなかった。
保元・平治の乱以来、兄に従って戦ってきたことを語り、これまでの奉公に免じて成経を助けてほしいと願った。
そして、願いが聞き入れられないなら、自分も出家して世を捨てると訴えた。
清盛は驚き、そこまで言うなら成経をしばらく教盛に預けるよう命じたという。
教盛はようやく娘婿を連れて帰ることができた。
しかし成経の罪が許されたわけではない。
成経はその後、平康頼や俊寛とともに鬼界ケ島へ流されることになった。
娘婿の命を救おうとした教盛の嘆願は、当面の処刑を免れさせることはできても、流罪を取り消すところまでは至らなかった。
鬼界ケ島から戻った成経
治承2年(1178年)。
清盛の娘で、高倉天皇の中宮となっていた徳子が懐妊した。
皇子の無事な誕生を願って赦免が行われることになり、教盛も成経の帰京を求めた。
『平家物語』では、重盛らの取りなしもあり、清盛が成経と平康頼の赦免を認めたと伝える。
しかし俊寛は許されなかった。
鬼界ケ島へ流された三人のうち、成経と康頼だけが帰ることになったのである。
『平家物語』には、迎えの船に取り残された俊寛が必死にすがりつき、海辺で泣き叫ぶ場面が描かれている。
成経は九州を経由して京都へ戻った。
帰途には、教盛に関係する肥前国鹿瀬荘にも立ち寄ったと伝わる。
そして京都で妻との再会を果たした。
鹿ケ谷事件の発覚から一年余り。
教盛は、清盛に捕らえられた娘婿をようやく取り戻した。
しかし平家を取り巻く情勢は悪化していた。
治承3年(1179年)、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を幽閉した。
翌治承4年(1180年)には以仁王が挙兵する。
平家と源氏の戦いが各地へ広がっていった。
清盛の死と息子たちの出陣
平家軍はこれを破ったが、反平家勢力の動きは収まらなかった。
8月には源頼朝が伊豆で挙兵する。
北陸では木曾義仲が勢力を伸ばし、各地の武士たちが平家に反抗し始めた。
治承5年(1181年)閏2月、清盛が死去する。
64歳だった。
平家一門の中心は宗盛へ移った。
教盛は兄の経盛らとともに宗盛を支え、京都の守備や一門の軍事活動にも関わった。
そのころ、教盛の息子たちも各地で戦っていた。
長男・通盛は越前守を務め、北陸で木曾義仲の軍勢と戦った。
次男・教経は能登守として知られ、『平家物語』では弓の名手として描かれている。
三男・業盛も、平家の武将として戦場へ向かった。
教盛は長く院司や公卿として朝廷の政務に携わってきた人物だった。
その息子たちは、源氏との戦いで前線へ送り出されることになった。
寿永2年(1183年)5月、平家の追討軍が倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗する。
続く篠原の戦いでも敗れ、義仲の軍勢は京都へ迫った。
7月、宗盛は安徳天皇と三種の神器を伴い、都を離れることを決めた。
教盛も息子たちとともに西国へ向かった。
六波羅の総門近くに構えた屋敷を捨て、長く暮らした京都を去ったのである。
室山での勝利と福原への進出
平家は都落ちの後、九州で再起を図った。
しかし豊後国の緒方惟義らが抵抗し、大宰府を離れざるを得なくなる。
その後、一門は讃岐国屋島を拠点とした。
寿永2年閏10月、平家軍は備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破った。
11月には、播磨国室山で源行家の軍勢と戦う。
行家は義仲と対立し、独自に兵を率いて西国へ向かっていた。
『源平盛衰記』などによれば、平家軍は五つの陣を構え、教盛は後方に大軍を控えさせていたという。
前方の陣が退却するふりをして行家軍を誘い込み、教盛の陣で迎え撃つ。
そこへ前方の部隊も引き返し、行家軍を包囲して破ったと伝えられる。
軍勢の数や戦いの詳しい経過は軍記物語の記述によるものだが、平家軍が室山で源行家に勝利したことは知られている。
教盛もこの戦いに加わった武将として伝えられた。
平家は西国で勢力を盛り返し、やがて摂津国福原まで進出する。
清盛がかつて都を置こうとした土地だった。
しかし京都では、源範頼・義経の軍勢が木曾義仲を破り、平家追討へ向かっていた。
福原に進出した平家は、再び源氏との決戦を迎えることになる。
大納言を辞退した教盛
寿永3年(1184年)2月。
平家は安徳天皇を奉じ、福原周辺に陣を構えていた。
京都を失った後も、安徳天皇のもとで官職を与える叙位・除目が行われたと伝わる。
『平家物語』や『源平盛衰記』に基づく記録では、このとき教盛は正二位大納言に任じられたという。
しかし、教盛は辞退した。
その際に詠んだとされる歌がある。
「今日までも あればあるとや 思ふらむ
夢のうちにも 夢を見るかな」
今日まで生きながらえた身を、今も確かなものと思っているのだろうか。
夢の中で、さらに夢を見ているようだ。
教盛は清盛のもとで昇進を重ね、参議、中納言へと進んできた。
ところが今は都を追われ、源氏の軍勢に攻められようとしている。
その福原で、新たに大納言へ任じられたというのである。
後世の史書『大日本史』も、軍記物語に基づいてこの辞退と和歌を記している。
ただし、実際にどのような任官手続きが行われたのか、教盛がその場で歌を詠んだのかについては、同時代の記録から詳しく確かめられない。
都を失った教盛が、栄達を辞退したという逸話が後世に伝えられたのである。
そして2月7日。
源範頼・義経の軍勢が、平家の陣地へ攻めかかった。
一ノ谷――二人の息子を失う
寿永3年2月7日。
源氏軍は摂津国生田の森から一ノ谷にかけて布陣した平家軍を攻撃した。
平家は各地で防戦したが、源氏方の攻撃によって陣が崩れた。
多くの公達が討ち取られ、一門は大きな損害を受けた。
教盛の長男・通盛も戦死した。
通盛は越前守として北陸で木曾義仲と戦い、西国へ移ってからも平家軍を率いていた。
『平家物語』によれば、湊川付近で敵兵に囲まれ、討ち取られたという。
教盛の三男・業盛も、この戦いで命を落とした。
業盛は蔵人大夫と呼ばれ、『源平盛衰記』には17歳で戦死したとする記述が残る。
通盛と業盛。
教盛は一日の戦いで、二人の息子を失った。
さらに長男・通盛の妻にも悲劇が訪れる。
上西門院に仕えた女房、小宰相局である。
『平家物語』によれば、通盛は長く小宰相局に思いを寄せ、三年にわたって恋文を送り続けた末に結ばれた。
都落ちの際には小宰相局も通盛に付き従い、一ノ谷の戦いが始まるころには身重だったと伝わる。
しかし通盛は帰らなかった。
家人の君田滝口時員から夫の戦死を知らされた小宰相局は、船上で悲しみに暮れた。
乳母は思いとどまるよう説得したが、夫の後を追う決意を変えなかったという。
『平家物語』では、通盛の戦死から数日後、小宰相局は夜の海へ身を投げたとされる。
通盛と小宰相局の詳しい経緯は軍記物語の描写によるもので、会話や入水時の様子まで史実として確定できるものではない。
それでも、教盛の一家にとって、一ノ谷の敗戦が大きな損失となったことは確かだった。
長男の通盛と三男の業盛は戦死し、通盛の妻も海へ沈んだと伝えられた。
そして次男・教経についても、戦死の情報が届いていた。
次男・教経は生きていたのか
一ノ谷の戦いでは、教盛の次男・教経も討ち取られたとする記録がある。
『吾妻鏡』には教経の戦死が記され、その首が京都へ送られたという情報も残っている。
しかし寿永3年2月19日、九条兼実の日記『玉葉』には異なる知らせが記された。
「於教経者一定現存云々」
教経は確かに生存しているという情報が伝わったのである。
この一節については解釈上の問題もあるが、教経の生存を知らせる風聞として読む見解がある。
『平家物語』では、教経は一ノ谷を生き延び、その後も平家の武将として戦ったことになっている。
屋島では源義経を狙って矢を放ち、佐藤嗣信を討ったという。
壇ノ浦でも義経を追いかけ、最後は源氏方の武士を道連れに海へ沈んだと伝えられる。
こうした活躍は軍記物語に描かれたものであり、『吾妻鏡』の戦死記録と一致しない。
教経が一ノ谷で討ち取られたのか、それとも生き延びて壇ノ浦まで戦ったのか。
史料によって伝わる経過が異なる。
教盛自身がこの知らせをどう受け止めたのか、記録は残されていない。
ただし、一ノ谷で通盛と業盛を失った後も、教盛は一門と行動をともにした。
福原を失った平家は、再び屋島へ退いた。
屋島から壇ノ浦へ
一ノ谷の敗戦後、平家は讃岐国屋島を拠点に勢力の回復を図った。
しかし元暦2年(1185年)2月、源義経の軍勢が四国へ渡り、屋島を攻撃する。
平家は海上へ退き、屋島を失った。
その後、一門は長門国彦島方面へ移動した。
教盛も宗盛や知盛らとともに西へ向かった。
京都では後白河法皇のもとで源氏方の勢力が強まり、西国でも平家に従う武士は減っていた。
一門は安徳天皇と三種の神器を奉じ、海上での決戦に望みをかけることになる。
3月24日。
長門国壇ノ浦で、源氏と平家の船団が激突した。
平家は海上で戦いを挑んだが、やがて源氏方の攻勢を受け、軍船を次々と制圧されていった。
勝敗が決すると、一門の人々は海へ身を投げ始める。
『平家物語』によれば、二位尼は安徳天皇を抱いて海へ入った。
建礼門院徳子も入水を図ったが、源氏方に引き上げられたという。
教盛は兄の経盛とともに、壇ノ浦で最期を迎えることになった。
兄・経盛と手を取って海へ
平経盛は教盛の兄にあたる。
二人は清盛の弟として、平家一門の勢力拡大を支えてきた。
経盛もまた、一ノ谷で多くの息子を失っている。
長男の経正。
経俊。
そして、熊谷直実に討たれたと伝わる敦盛。
いずれも一ノ谷で命を落とした。
教盛も長男の通盛と三男の業盛を失っていた。
兄弟は息子たちを戦場へ送り、その死を経験した後も平家と行動をともにした。
そして壇ノ浦。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」には、二人の最期が次のように記されている。
「門脇の平中納言教盛卿、修理大夫経盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取り組んで、海へぞ入りたまひける」
教盛と経盛は、鎧の上に重い碇を背負った。
そして互いの手を取り合い、そのまま海へ身を投げたという。
教盛は58歳だった。
経盛は教盛より年長で、同じく清盛の弟として平家一門を支えてきた人物だった。
都落ちの際にも西国へ従い、一ノ谷では息子たちを失い、最後に壇ノ浦までたどり着いた。
『平家物語』は、その二人が最後に手を取り合って海へ沈んだ姿を描いている。
ただし、教盛の最期については記録に違いがある。
『吾妻鏡』には入水したとする記事がある一方、『醍醐寺雑事記』などには自害したとする情報が残る。
『大日本史』も両者を紹介し、詳しい死に方については判断を留保している。
教盛が壇ノ浦で命を落としたことは伝えられているものの、最期の具体的な状況を一つに定めることは難しい。
それでも、兄の経盛と手を取り合って海へ沈む場面は、『平家物語』に残された平家滅亡の印象的な一節となった。
門脇中納言が迎えた最期
教盛が生まれた大治3年(1128年)、父の忠盛は朝廷で勢力を伸ばしていた。
教盛も清盛に従って保元・平治の乱を戦い、その後は院司や国司を務め、参議から中納言へと昇進した。
六波羅の総門近くに屋敷を構え、門脇中納言と呼ばれた。
治承元年の鹿ケ谷事件では、娘婿の藤原成経が捕らえられた。
教盛は兄・清盛に助命を願い、聞き入れられなければ出家するとまで訴えたという。
清盛が亡くなると、今度は宗盛を支え、息子たちを源氏との戦いへ送り出した。
長男・通盛は北陸で木曾義仲と戦い、西国でも平家軍を率いた。
次男・教経は弓の名手として伝えられ、一ノ谷での戦死説と壇ノ浦まで生き延びたとする伝承が残る。
三男・業盛も一ノ谷へ出陣した。
寿永3年2月7日、通盛と業盛が戦死する。
通盛の妻・小宰相局も夫の後を追って海へ身を投げたと伝えられた。
教盛はその後も一門に従い、屋島から長門国へ移った。
そして元暦2年3月24日、壇ノ浦で平家が敗れた。
兄の経盛も、一ノ谷で息子たちを失っていた。
『平家物語』には、教盛と経盛が鎧の上に碇を背負い、手を取り合って海へ入ったと記されている。
鹿ケ谷事件では、娘婿を救うために清盛へ出家を口にするほど嘆願した教盛。
その八年後、息子たちを失い、兄・経盛とともに平家最後の戦場へ向かった。
都落ちから一年八か月。
かつて六波羅の総門近くで門脇中納言と呼ばれた男は、兄と手を取り合い、壇ノ浦の海に沈んだと伝えられている。
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