第135回
元暦2年(1185年)6月23日、山城国の木津川河畔に、一人の武将が連れてこられた。
平重衡。平清盛の五男である。
『平家物語』によれば、重衡は処刑を前にして、阿弥陀如来の像を拝みたいと願った。
その場に駆けつけた旧臣が仏像を用意すると、重衡は仏像の手から伸ばした紐を握り、念仏を唱えたという。
かつて重衡は、平家軍の大将として奈良へ攻め込んだ。
治承4年(1180年)12月28日、重衡が率いる軍勢と南都の寺社勢力が衝突し、東大寺と興福寺の主要伽藍が焼失した。
大仏殿は炎に包まれ、奈良時代以来の盧舎那大仏も大きく損傷する。
数え24歳だった重衡は、この戦いによって平家の有力な将軍として軍功を挙げる一方、南都の僧侶たちから激しい憎しみを向けられることになった。
その後も重衡は墨俣川や室山で源氏軍と戦い、平家一門の軍事行動を支えた。
しかし、寿永3年(1184年)2月7日の一ノ谷の戦いで捕らえられ、源頼朝のもとへ送られる。
鎌倉では千手前という女性との交流が生まれ、処刑場へ向かう途中には、妻と最後の対面を果たしたと伝わる。
清盛の子として朝廷の高位に上り、平家軍を率いて各地で戦った重衡。
その生涯は、平家の権力が頂点に達した時代から、一門が滅亡するまでの激動と重なっていた。
平清盛の五男として生まれる
平重衡は保元2年(1157年)、平清盛の五男として生まれた。
母は平時子。平時信の娘で、清盛の正室となった女性である。
徳子は後に高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産む。重衡にとって、安徳天皇は甥にあたる。
異母兄には平重盛や平基盛がいる。
とりわけ重盛は清盛の嫡男として朝廷の要職を歴任し、平家一門を支える中心人物となった。
重衡が生まれた前年の保元元年(1156年)、京都では保元の乱が起こっている。
後白河天皇と崇徳上皇の対立から戦闘が始まり、清盛は後白河天皇方として勝利に貢献した。
源義朝も同じ陣営に加わり、崇徳上皇方の源為義らを破っている。
さらに平治元年(1159年)、平治の乱が勃発した。
清盛は藤原信頼・源義朝らの軍勢を破り、京都での軍事的な地位を高める。
義朝は敗走の末に殺害され、その子の頼朝は伊豆へ流された。
重衡が幼いころ、父の清盛はこうした内乱を経て朝廷内で急速に力を伸ばしていた。
仁安2年(1167年)には太政大臣に就任。
平家一門の子弟にも高い官位が与えられるようになり、朝廷の重要な役職を清盛の親族が占めていく。
重衡は、平家の権力が拡大する時代に成長した。
ただし、幼少期にどのような教育を受け、誰のもとで武芸や学問を身につけたのか、詳しい記録は残っていない。
その後の官歴から、清盛の子として幼いころから朝廷内で地位を与えられていたことがわかる。
数え6歳で従五位下――進み続けた官位
応保2年(1162年)12月23日、重衡は従五位下に叙された。
数え6歳のころである。
翌長寛元年(1163年)1月には尾張守となった。
その後も昇進は続き、仁安元年(1166年)12月には左馬頭に任じられる。
左馬頭は、朝廷の馬を管理する左馬寮の長官である。
幼少の重衡が自ら尾張国の行政や馬の管理を行っていたとは考えにくい。こうした官職は、清盛の子として朝廷内に地位を与えられていたことを示している。
仁安3年(1168年)には従四位下、嘉応3年(1171年)には従四位上へ進んだ。
さらに承安2年(1172年)2月、中宮亮に任じられる。
このとき中宮となったのが、重衡の姉・徳子だった。
徳子は高倉天皇の中宮として朝廷に入り、清盛は皇室との結びつきを強めていた。
重衡が中宮亮を務めたことも、平家一門と皇室の関係を背景としている。
治承2年(1178年)11月、徳子が言仁親王を産んだ。
後の安徳天皇である。
翌12月、重衡は皇太子となった言仁親王に仕える春宮亮へ移った。
治承3年(1179年)1月には左近衛権中将に任じられる。
左近衛府は天皇の警護や宮中の儀式を担当する組織であり、中将はその高位の官職だった。
同年12月に中将を辞したものの、翌治承4年1月28日には蔵人頭となる。
蔵人頭は天皇の側近として政務に関わる重要な役職で、重衡は数え24歳でこの地位に就いた。
2月には言仁親王が安徳天皇として即位し、重衡も新帝の蔵人頭を務めることになる。
清盛の子として生まれた重衡は、20代前半には宮廷の中枢に近い位置まで昇進していた。
やがて源氏との戦争が始まると、朝廷の官人としてだけでなく、軍勢を率いる武将としても活動していく。
重衡の妻・大納言佐局
重衡の妻として知られるのが、大納言佐局である。
藤原輔子とも呼ばれる女性で、『平家物語』では「大納言の佐殿」などの名で登場する。
同書によれば、父は鳥飼中納言惟実。
五条大納言藤原邦綱の養女となり、安徳天皇の乳母を務めたと伝わる。
邦綱は平清盛と親しい関係にあった公卿で、平家政権を支えた人物の一人だった。
清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだことで、平家と関係の深い公家たちも朝廷内で重要な地位を占めるようになった。
重衡の妻も、こうした宮廷社会に属する女性だった。
二人がいつ結婚したのか、詳しい経緯は明らかでない。
また、子どもについても史料上の問題がある。
『平家物語』では、重衡が処刑前に妻との対面を願う際、自分には子がいないと語っている。
一方、系図類には重衡の子とされる人物の名も残されており、家族関係を完全に確定することは難しい。
少なくとも『平家物語』は、重衡と大納言佐局の間に子がいないものとして、最後の別れを描いている。
この妻が再び重衡の生涯に登場するのは、一ノ谷で捕虜となった後のことである。
治承三年の政変――平家の権力が頂点へ
治承3年(1179年)、清盛と後白河法皇の対立が深刻化した。
6月には清盛の娘・平盛子が死去する。
盛子は摂政・近衛基実の未亡人で、基実の死後、摂関家領の多くを管理していた。
その死によって所領の処理をめぐる問題が生じ、清盛と法皇の関係はさらに悪化していく。
7月29日には清盛の嫡男・平重盛も病死した。
重盛は清盛と朝廷の間で調整役を担っていた有力者であり、その死は平家一門に大きな影響を及ぼした。
11月、清盛は軍勢を率いて福原から京都へ入る。
関白・松殿基房を解任し、近衛基通を新たな関白に据えるなど、朝廷の人事に大きく介入した。
さらに後白河法皇を鳥羽殿へ移し、院政を停止させる。
治承三年の政変である。
重衡はこのころ左近衛権中将を務めており、平家の有力な公達として朝廷内に地位を得ていた。
ただし、政変当日に重衡がどのような行動を取ったのか、詳しい記録は確認できない。
清盛の政治支配は強まったが、反発も広がっていく。
特に寺社勢力との関係は悪化し、京都周辺では平家に抵抗する動きが続いていた。
翌治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が平家打倒を掲げて挙兵する。
このとき重衡も軍勢を率いる立場となった。
以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧
以仁王は園城寺へ逃れ、頼政もこれに合流する。
両者は比叡山延暦寺や南都の興福寺に協力を求めたものの、十分な支援を得ることができなかった。
その後、以仁王らは奈良へ向かう。
これを追撃したのが平家軍である。
九条兼実の日記『玉葉』には、平知盛、平維盛、平重衡らが追討軍の指揮官として予定されたことが記されている。
5月26日、平家軍は宇治川付近で以仁王・頼政方と衝突した。
源氏方は宇治橋の橋板を外すなどして防戦したが、平家軍は川を渡って攻撃を続ける。
戦いは平家方の勝利に終わった。
頼政は平等院で自害し、以仁王も奈良へ向かう途中で討ち取られた。
重衡は兄の知盛らとともに、この追討に関わった。
ただし、宇治川のどの地点でどの軍勢を指揮したのか、重衡個人の詳しい行動は明らかでない。
以仁王の挙兵そのものは鎮圧されたが、平家への反抗は各地へ広がった。
伊豆では源頼朝、信濃では木曾義仲が勢力を伸ばし始める。
一方、南都の興福寺を中心とする僧徒たちも、平家への抵抗を続けていた。
同年末、清盛は南都を制圧するため軍勢を派遣する。
その大将に選ばれたのが重衡だった。
南都焼討――東大寺と興福寺を焼いた軍勢
治承4年12月28日、重衡が率いる平家軍は南都へ進軍した。
奈良の興福寺を中心とする寺社勢力は、以仁王の挙兵に関わり、その後も平家政権への抵抗を続けていた。
南都側は奈良坂や般若寺付近に防御施設を築き、平家軍を迎え撃つ。
『平家物語』によれば、道を掘り切って柵や楯を並べ、僧兵たちが進路を守っていたという。
重衡軍は、この防衛線へ攻撃を仕掛けた。
戦闘は夕刻まで続き、やがて奈良の町に火が上がった。
『平家物語』覚一本では、夜間の戦闘で明かりを得るため民家へ火を放ち、風によって寺院へ延焼したと描かれている。
一方、別の伝本や関連史料には、より意図的な焼討を示す記述もある。
誰が放火を命じたのか、重衡が最初から主要伽藍の焼却を意図していたのかについては、史料から確定できない。
しかし、重衡の率いた軍勢の攻撃によって、南都に甚大な被害が生じたことは確かである。
興福寺では中金堂や講堂、五重塔などが焼失。
東大寺でも大仏殿をはじめとする主要な堂塔が炎に包まれ、盧舎那大仏の頭部や左手なども大きく損傷した。
大仏殿には火を避けようとして逃げ込んだ人々がおり、多数の犠牲者が出たと伝えられている。
奈良時代以来の大寺院が、一夜のうちに壊滅的な被害を受けたのである。
重衡は南都制圧の大将として、これらの被害に関わる責任を負う立場にあった。
当時、数え24歳。
軍勢を率いて平家政権の命令を遂行した重衡は、南都の僧侶たちから激しい憎しみを向けられることになる。
この出来事は、一ノ谷で捕虜となった後も、最後まで重衡の運命に関わっていく。
清盛の死と重衡への評価
南都焼討から約2か月後、平家一門を支えてきた清盛が死去した。
治承5年(1181年)閏2月4日のことである。
『平家物語』には、清盛が激しい熱病に苦しみ、身体が火のように熱くなったという話が残る。
南都の大寺院を焼いた報いとして、その最期が描かれているのである。
ただし、清盛の病状や死因の詳しい実態は明らかでない。
父の死後、平家一門の中心となったのは平宗盛だった。
清盛の嫡男・重盛はすでに亡くなっており、宗盛、知盛、重衡らが一門を支えていくことになる。
このころの重衡について、九条兼実の日記『玉葉』に興味深い記述が残されている。
治承5年閏2月15日条で、兼実は重衡について「武勇の器量に堪ふる」と記した。
軍勢を率いる能力を備えた人物として、重衡が評価されていたことを示す言葉である。
南都焼討によって仏敵とされた重衡だが、平家軍の大将としては一定の能力を認められていた。
そして同年3月、重衡は再び源氏軍と戦うことになる。
墨俣川の戦い――源行家と義円を破る
治承5年3月、尾張国と美濃国の境に近い墨俣川付近で源平両軍が衝突した。
墨俣川の戦いである。
源氏方を率いたのは源行家。
行家は源為義の子で、頼朝や義経の叔父にあたる。
以仁王の令旨を各地の源氏へ伝え、平家打倒を呼びかけた人物でもあった。
行家軍には頼朝の異母弟・源義円らも加わっていた。
これに対して平家は、重衡を中心とする軍勢を派遣する。
『玉葉』閏2月15日条には、重衡を大将軍として1万余騎を下向させるという情報が記されている。
一方、『平家物語』の諸本には異なる兵力が登場し、実際の軍勢規模は明らかでない。
『吾妻鏡』治承5年3月10日条によれば、行家軍は夜間に墨俣川を渡り、平家の陣へ奇襲を仕掛けようとした。
ところが、重衡の従者が川辺で馬を洗っていた際、源氏方の動きを発見したという。
その知らせを受けた平家軍は攻撃に備え、行家方が十分に動く前に反撃へ移った。
戦闘は平家方の勝利に終わる。
行家軍は多数の兵を失い、義円も討死した。
『吾妻鏡』では、義円は平家方の高橋盛綱に討ち取られたと記されている。
一方、『平家物語』では義円が先陣を争って川を渡り、平家軍へ攻め込んだという場面が描かれる。
細かな戦闘経過には違いがあるものの、行家方が敗れ、義円が命を落としたことは共通している。
重衡にとって、南都焼討に続く大きな軍功となった。
同年5月26日、重衡は従三位に昇進し、左近衛権中将にも復帰する。
三位に達したことで公卿に列し、軍事面だけでなく朝廷でも高い地位を得ることになった。
翌養和2年(1182年)には但馬権守を兼ね、寿永2年(1183年)1月7日には正三位へ進む。
後に「本三位中将」と呼ばれる重衡は、こうして官位を高めながら平家一門の軍事行動を支えていた。
倶利伽羅峠の大敗――平家とともに都を離れる
寿永2年(1183年)、北陸道で木曾義仲の軍勢が急速に勢力を伸ばした。
平家は平維盛らを大将とする軍勢を北陸へ派遣したが、5月の倶利伽羅峠の戦いで大敗する。
続く篠原の戦いでも苦戦し、義仲軍の京都への進撃を止められなくなった。
7月、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴い、京都を離れた。
重衡も平家一門とともに西国へ向かう。
幼いころから官位を与えられ、清盛の子として朝廷で活動してきた重衡は、都を追われる立場になったのである。
8月6日には、重衡が西海へ赴いたことによる解官が『公卿補任』に記されている。
平家の公達として築いてきた官人としての地位は、都落ちによって失われた。
平家は九州で勢力の立て直しを図ったものの、豊後国の緒方惟栄ら在地勢力の抵抗を受け、安定した拠点を築くことができなかった。
その後、一門は讃岐国の屋島へ移る。
屋島は瀬戸内海に面した軍事拠点であり、四国や中国地方の武士を集めるうえで重要な場所だった。
平家は海上交通を利用しながら軍勢を再編し、西国での勢力回復を進めていく。
一方、京都では義仲と後白河法皇の対立が深まっていた。
源氏の内部で争いが激しくなるなか、平家は再び東へ進出する機会を得ることになる。
水島の戦い――瀬戸内海での反撃
寿永2年閏10月1日、備中国の水島付近で源平両軍が衝突した。
水島の戦いである。
源氏方は木曾義仲が派遣した足利義清、海野幸広らの軍勢。
これに対して平家軍は、瀬戸内海の船団を利用して迎え撃った。
『平家物語』には、平知盛や平教経らが船上で軍勢を指揮し、源氏方を攻撃する様子が描かれている。
重衡も平家方の有力武将としてこの時期の軍事行動に関わっていたとされるが、水島で具体的にどの部隊を指揮したのか、詳しい記録は乏しい。
『平家物語』では、平家軍が船を綱で結び、その上に板を渡して足場を確保したという話も残る。
海上での戦闘に慣れた平家軍は源氏方を破り、足利義清らが討死した。
この勝利によって、平家は瀬戸内海における軍事的な優位を回復する。
都落ちから数か月。
平家は西国の海上交通を利用して軍勢を立て直し、再び播磨方面へ進むことになった。
室山の戦い――五段構えの第四陣を率いた重衡
寿永2年11月、播磨国の室山で平家軍と源行家の軍勢が衝突した。
室山の戦いである。
行家は11月8日に京都を出発し、平家軍を攻撃するため播磨へ向かった。
『玉葉』によれば、出陣時の行家軍は270余騎。
『吉記』でも300余騎とされている。
一方、『平家物語』覚一本では、室山に集まった平家軍を2万余騎、行家軍を500余騎と記す。
兵力の数字には史料による違いがある。
平家軍の中心となったのは知盛と重衡だった。
『平家物語』では、平家軍が五つの陣を構えて行家軍を迎え撃ったと描かれている。
第一陣は越中次郎兵衛盛嗣。
第二陣は伊賀平内左衛門家長。
第三陣は上総五郎兵衛忠光と悪七兵衛景清。
そして第四陣を率いたのが重衡である。
第五陣には知盛が控えていた。
行家軍が攻め寄せると、第一陣は左右へ分かれて中央に道を開けた。
第二陣、第三陣も同じように道を開き、行家軍を通過させる。
重衡の第四陣も中央を開けたという。
行家は敵陣を次々に突破しているように見えた。
しかし、その先には知盛の率いる第五陣が待ち構えていた。
行家軍が奥深くへ入り込んだところで、それまで道を開けていた四つの陣が一斉に反転する。
前方には知盛。
背後には重衡らの軍勢。
『平家物語』では、行家軍が平家の大軍に取り囲まれ、激しい攻撃を受けたと描かれている。
この五段構えの戦法を同時代の記録から詳しく確認することはできない。
ただし、行家軍が室山で大敗したことは『玉葉』にも記されている。
12月2日条によれば、11月29日の合戦で行家軍はたちまち敗れ、多くの家子が討たれたという。
重衡にとって、墨俣川に続いて行家軍を破った戦いとなった。
南都、墨俣川、室山。
重衡は平家軍の大将として各地の戦いに関わり、軍事面でも一門を支えていたのである。
福原への帰還――一ノ谷で源氏軍を迎え撃つ
室山の戦いに勝利した平家は、さらに東へ勢力を伸ばした。
やがて一門は福原周辺まで戻り、京都への再進出をうかがうようになる。
福原はかつて清盛が遷都を進めた土地であり、瀬戸内海の海上交通を利用できる重要な拠点だった。
一方、京都では木曾義仲と後白河法皇の対立が激化していた。
寿永2年11月19日、義仲は法住寺殿を攻撃し、法皇を武力で制圧する。
これに対し、頼朝は弟の範頼と義経を派遣した。
翌寿永3年1月20日、義仲方は宇治・瀬田方面で敗れ、義仲自身も近江国の粟津で討死する。
京都は頼朝方の支配下に入った。
範頼と義経は、間を置かず平家追討へ向かった。
平家側も源氏軍の接近に備え、福原周辺に防衛線を築く。
東の生田の森を守ったのは平知盛と重衡ら。
西の一ノ谷には平忠度らが布陣し、山側にも平通盛や平盛俊らが配置されていた。
『平家物語』では、重衡は生田の森の副将軍として登場する。
兄の知盛とともに、東から進んでくる範頼軍を迎え撃つ役割だった。
寿永3年2月7日、源平両軍は一ノ谷で激突した。
一ノ谷の戦い――崩れた平家の防衛線
一ノ谷の戦いでは、源氏軍が複数の方面から平家の陣地へ攻撃を仕掛けた。
東の生田の森には範頼軍。
西の一ノ谷口では熊谷直実や平山季重らが先陣を争っていた。
さらに山側からは義経の軍勢が迫る。
『平家物語』には、義経が険しい坂を駆け下り、平家の陣地を急襲したと描かれている。
後世に鵯越の坂落としとして知られる場面である。
ただし、『玉葉』には多田行綱が山手の陣地を最初に破ったと記され、義経と行綱の役割や実際の攻撃地点については議論がある。
源氏軍による各方面からの攻撃を受け、平家の防衛線は崩れていった。
生田の森で戦っていた知盛と重衡も、退却を余儀なくされる。
平家軍の多くは海岸へ向かい、船で脱出しようとした。
しかし、すべての武士が船へ逃れられたわけではない。
この戦いでは平忠度、平通盛、平敦盛、平師盛らが相次いで討死した。
知盛は船で海上へ逃れたものの、重衡は源氏軍に追いつかれることになる。
梶原景季の矢――重衡が捕らえられるまで
『平家物語』「重衡生捕」には、重衡が敗走する様子が詳しく描かれている。
重衡は乳母子の後藤兵衛盛長とともに、二騎で西へ逃れていたという。
乗っていたのは「童子鹿毛」と呼ばれる名馬だった。
足の速い馬を頼りに源氏軍の追撃を振り切ろうとしたものの、梶原景季らが後を追ってきた。
景季は重衡の馬に追いつけないと判断し、遠くから矢を放つ。
その矢が馬に命中し、走る力を失わせたと伝えられる。
重衡は盛長に馬を貸すよう求めた。
しかし盛長は馬を差し出さず、そのまま逃げ去ってしまったという。
重衡は一人取り残され、源氏方の武士に追いつかれた。
自害しようとしたものの、庄四郎高家に取り押さえられたと『平家物語』は伝えている。
一方、『吾妻鏡』などでは捕縛地点や捕らえた武士の記述に違いがあり、詳しい経過を確定することは難しい。
乳母子の行動や馬を射られた場面についても、軍記物語の描写として考える必要がある。
ただし、重衡が一ノ谷の戦いで生け捕りとなったことは確かである。
平家一門は多くの武将を失いながらも、宗盛や知盛らは海上へ逃れた。
重衡は捕虜として源氏軍の手に残されたのである。
捕虜となって京都へ戻る
一ノ谷で捕らえられた重衡は、京都へ送られた。
『平家物語』「内裏女房」によれば、重衡は車に乗せられ、六条大路を通って都の人々に姿を見られたという。
護送には土肥実平らが従い、重衡の身柄を管理した。
かつて清盛の子として朝廷に仕え、多くの官位を得た重衡。
その姿を見ようと、都には人々が集まったと物語は描いている。
重衡はその後、八条堀川付近の御堂に置かれたという。
『平家物語』には、都での生活を振り返りながら、捕虜となった重衡がかつて親しくしていた女性に手紙を送る場面がある。
手紙を託されたのは、以前から重衡に仕えていた木工右馬允知時だった。
知時は重衡が宮中に仕えていた女房と交流する際、仲介役となっていた人物である。
重衡はその女性ともう一度会いたいと願った。
『平家物語』では、女性も重衡の身を案じ、手紙を受け取って涙を流したと伝わる。
やがて面会が許され、二人は別れを惜しんだという。
この女性の詳しい生涯は明らかでなく、交流がどこまで史実を反映しているのかも確認できない。
ただし、『平家物語』は重衡を宮廷文化に親しんだ人物として描き、戦場での活動だけではわからない姿を伝えている。
一方、京都の朝廷では、捕虜となった重衡を利用して平家との交渉を進めようとしていた。
三種の神器と引き換えに重衡を返す
一ノ谷で大勝した源氏軍だったが、安徳天皇と三種の神器を奪還することはできなかった。
平宗盛らは船で屋島へ逃れ、安徳天皇と神器を保持していた。
後白河法皇は、その返還を平家に求めることになる。
『平家物語』「屋島院宣」「請文」には、重衡の身柄を返還する代わりに三種の神器を朝廷へ戻すよう求める交渉が描かれている。
重衡自身も兄の宗盛らへ書状を送り、法皇の要求を伝えたとされる。
しかし、平家一門はこれに応じなかった。
『平家物語』では、知盛が重衡を返してもらえる保証はないと主張し、神器の返還に反対したという。
また、重衡一人の命を救うために安徳天皇と神器を手放すことはできないという判断も示されたと伝わる。
この交渉の詳しい会話や重衡の心情は、『平家物語』の描写によるところが大きい。
それでも、一ノ谷で捕らえられた重衡が平家と朝廷の交渉に関わる重要な存在となったことは理解できる。
交渉は成立せず、重衡は平家一門のもとへ戻れなかった。
そして、その身柄は頼朝のいる東国へ送られることになった。
法然との対面――南都焼討の罪を問う
『平家物語』「戒文」には、重衡が出家を願う場面がある。
南都焼討によって東大寺と興福寺を焼いた重衡は、自分が犯した罪を強く意識していたと描かれている。
重衡は土肥実平に出家を申し出た。
実平は義経へ伝え、義経はさらに後白河法皇へ奏上する。
しかし、頼朝に重衡の身柄を引き渡す前に出家を許すことはできないとされた。
そこで重衡は、高僧から仏法について教えを受けることを願ったという。
その相手として登場するのが法然である。
法然は専修念仏を広めた僧で、後に浄土宗の開祖として知られる。
『平家物語』によれば、重衡は南都の大寺院を焼失させた罪について語り、自分のような者にも仏の救いが及ぶのかと尋ねた。
法然は阿弥陀仏の本願について説き、深い罪を負った者でも念仏によって往生を願うことができると教えたという。
重衡はその教えに感謝し、戒を受けたと伝えられる。
さらに、父の清盛から譲り受けた硯を法然へ贈ったという話も残る。
ただし、法然と重衡の対面が実際に行われたかどうかについては研究上の議論がある。
重衡は捕虜として管理されており、自由に面会できる立場にはなかった。
法然の伝記にも重衡との交流は描かれるものの、その成立時期や内容を検討する必要がある。
『平家物語』は、重衡が自らの罪を認め、救済を求める人物として描いている。
そして、この法然との対面が、処刑前の重衡の姿につながっていく。
伊豆で源頼朝と対面する
寿永3年3月10日、重衡は京都を出発した。
護送を担当したのは梶原景時である。
『吾妻鏡』によれば、重衡は3月27日に伊豆国府へ到着した。
当時、頼朝は伊豆の北条に滞在していた。
景時が重衡の到着を知らせると、頼朝は翌28日に対面すると伝えたという。
3月28日、重衡は頼朝の前に連れてこられた。
重衡が頼朝と初めて対面したのは、鎌倉ではなく伊豆だった。
かつて頼朝は清盛によって伊豆へ流された人物である。
その頼朝の前に、今度は清盛の子である重衡が捕虜として現れた。
『吾妻鏡』には、頼朝が重衡に対して丁重な言葉を掛けたことが記されている。
重衡も落ち着いた態度で応じたという。
その言葉の中で重衡は、源氏と平家がともに朝廷を守ってきたことを述べ、平家の繁栄が20年に及んだことを振り返ったと伝えられる。
そして、自分が敵の捕虜となった以上、どのような処分を受けても仕方がないという趣旨の言葉を述べた。
『吾妻鏡』は、その態度に居合わせた人々が感心したと記している。
ただし、対面の会話は後世に編纂された『吾妻鏡』の記述によるものであり、実際の言葉をそのまま再現したものとは限らない。
頼朝は重衡をただちに処刑せず、伊豆国の狩野介宗茂に預けた。
4月8日、重衡は鎌倉へ入る。
一ノ谷で捕虜となってから、すでに2か月が経とうとしていた。
千手前との酒宴――重衡が奏でた笛
鎌倉で重衡のもとへ遣わされた女性として知られるのが、千手前である。
『吾妻鏡』元暦元年(1184年)4月20日条には、重衡のために催された酒宴について記録されている。
この日、重衡は頼朝の許可を得て沐浴を行った。
夕方になると、頼朝は重衡を慰めるため、藤原邦通、工藤祐経、千手前らを遣わしたという。
酒や肴も届けられ、重衡のもとで宴が開かれた。
工藤祐経は伊豆国の武士で、かつて平重盛に仕えたことがあり、重衡とも面識があったと伝わる。
千手前は駿河国手越の出身とされる女性である。
『吾妻鏡』によれば、祐経は鼓を打って今様を歌い、千手前は琵琶を弾き、重衡は横笛を合わせたという。
『平家物語』にも、この酒宴について詳しい描写が残る。
重衡は楽曲の名を死後の世界になぞらえ、やがて訪れる自分の最期を意識したような言葉を口にしたと伝えられている。
また、楚の項羽が漢の劉邦に追い詰められた故事に由来する漢詩を朗詠したという。
四面楚歌の状況に置かれた項羽の姿を、捕虜となった重衡に重ねた描写である。
酒宴の細かな会話や演奏された曲については、『平家物語』の諸本によって違いがある。
ただし、重衡を慰める宴が開かれ、千手前がこれに関わったことは『吾妻鏡』にも記録されている。
重衡は朝廷で官位を重ね、平家一門の公達として生活してきた。
楽器の演奏や詩歌に親しむ姿は、武将であると同時に宮廷文化の中で育った人物像を伝えている。
千手前については、その後の消息も残る。
文治4年(1188年)4月25日、千手前が数え24歳で亡くなったと『吾妻鏡』は記している。
同書には、重衡を慕う思いが忘れられず、それが病の原因になったのではないかという人々の噂も記録された。
『平家物語』では、重衡と千手前の関係を情緒豊かに描いている。
しかし、実際に二人がどのような関係を築いたのか、その詳しい実態は明らかでない。
重衡は鎌倉での滞在を経て、引き続き頼朝方の管理下に置かれることになった。
伊豆で過ごした捕虜生活
『平家物語』「重衡被斬」によれば、重衡は狩野介宗茂に預けられ、伊豆国で暮らしていた。
宗茂は伊豆の武士であり、頼朝方の命令を受けて重衡の身柄を管理した人物である。
重衡が伊豆でどのような日々を過ごしたのか、詳しい記録は乏しい。
ただし、鎌倉へ護送された直後に処刑されたわけではなく、その後もおよそ1年以上にわたって生きていた。
平家との戦いが続くなか、清盛の子である重衡は重要な捕虜として扱われていた。
西国では宗盛や知盛らが安徳天皇と三種の神器を保持し、源氏軍に抵抗している。
元暦2年(1185年)2月、源義経は屋島を急襲した。
平家は屋島を失い、さらに西へ退く。
そして3月24日、長門国の壇ノ浦で源平最後の決戦が行われた。
平家軍は敗北し、知盛は海へ身を投げた。
重衡の母・時子も、安徳天皇を抱いて入水したと伝えられる。
安徳天皇も命を落とし、兄の宗盛は源氏軍に捕らえられた。
重衡が東国にいる間に、平家一門は軍事的・政治的な力を失ったのである。
ただし、重衡が壇ノ浦の敗報をいつ、どのように知らされたのか、確かな記録はない。
一ノ谷で捕虜となった重衡は、壇ノ浦で最後まで戦った知盛らとは異なる場所で平家の滅亡を迎えた。
そして、この敗戦によって重衡の処遇も変わることになる。
南都の僧侶たちが求めた重衡の引き渡し
平家の滅亡後、南都の僧侶たちは重衡の引き渡しを求めた。
治承4年の南都焼討から、すでに4年半近くが過ぎていた。
しかし、東大寺と興福寺に残された被害は大きかった。
東大寺では俊乗房重源が大勧進となり、諸国から寄進や資材を集めて復興を進めていた。
重源は養和元年(1181年)に大勧進職を務めるようになり、後白河法皇や頼朝の支援も得ながら大仏の修復を進めた。
宋の鋳物師・陳和卿らの協力によって、大仏の頭部や左手などの修復も進んでいる。
しかし、大仏殿をはじめとする堂塔の再建には、なお長い時間が必要だった。
南都の僧侶たちは、寺院を焼失させた軍勢の大将である重衡に処罰を求め続けた。
『平家物語』によれば、頼朝は南都からの要求を受け、重衡を引き渡すことを決めたという。
平家が滅亡した後、重衡を捕虜として保持する政治的な意味も小さくなっていた。
元暦2年6月9日、重衡は東国を離れ、南都へ向かった。
護送を任されたのは、伊豆蔵人大夫頼兼である。
『平家物語』によれば、頼兼は源頼政の孫にあたる人物だった。
頼政は治承4年の以仁王の挙兵で平家軍と戦い、宇治で自害している。
かつて平家に敵対して討死した頼政の一族が、重衡を最期の場所へ護送することになったのである。
日野での最後の対面――妻に渡した髪と衣
重衡を護送する一行は、東海道を西へ進んだ。
『平家物語』によれば、今回は京都の市中へ入ることを許されず、大津から山科を通り、醍醐路を経て奈良へ向かうことになったという。
その途中に、山城国の日野があった。
現在の京都市伏見区日野付近である。
ここには、重衡の妻・大納言佐局が身を寄せていたと伝えられる。
『平家物語』によれば、妻は一ノ谷で重衡が捕らえられた後も、安徳天皇に従って西国へ向かった。
壇ノ浦では海へ身を投げようとしたものの、源氏方の武士に助けられ、京都方面へ戻ってきたという。
その後、日野に住む姉の大夫三位を頼って暮らしていた。
重衡は護送の途中、妻が日野にいることを知った。
そこで警護の武士たちへ、最後に妻と会わせてほしいと願い出た。
『平家物語』では、重衡は自分には子がいないため、この世に残した思いは少ないが、長年連れ添った妻ともう一度会い、死後の供養について伝えたいと語ったという。
警護の武士たちは願いを聞き入れた。
重衡は日野へ向かい、妻と再会する。
『平家物語』「重衡被斬」には、その姿が詳しく描かれている。
重衡は藍摺の直垂に折烏帽子を身につけ、以前より痩せていたという。
妻は重衡の姿を見ると、急いで駆け寄った。
二人は涙を流しながら、別れてからの出来事を語り合ったと伝えられる。
重衡は都を離れ、一ノ谷で捕らえられ、京都や鎌倉で捕虜として暮らしてきたことを話した。
そして、これから南都へ引き渡され、処刑されることを告げる。
妻もまた、壇ノ浦で安徳天皇や平家一門を失い、京都へ戻ってきた経過を語ったという。
『平家物語』では、重衡が出家して髪を形見に残したかったものの、それを許されなかったと描かれている。
そこで額の髪を少し噛み切り、妻へ渡したという。
妻は重衡のために新しい衣を用意した。
重衡はそれに着替え、今まで身につけていた衣を妻へ残したと伝えられる。
『平家物語』には、この別れに際して二人が和歌を詠み交わした場面もある。
「せきかねて涙のかかる唐衣 後の形見に脱ぎぞ替へぬる」
重衡が妻へ残した歌である。
妻もまた、衣を形見として受け取る悲しみを歌に託したという。
「脱ぎ替ふる衣も今は何かせん 今日を限りの形見と思へば」
これらの和歌や詳しい会話を、すべて史実として確認することはできない。
一方、重衡が処刑前に妻と対面したという伝承は、『愚管抄』にも関連する記述があり、早くから語られていたことがわかる。
『平家物語』では、重衡が別れを終えて馬に乗り、妻の泣き声を聞きながら日野を離れていく。
もう一度振り返りたいと思いながらも、そのまま奈良へ向かったと描かれている。
重衡は妻と別れ、木津川の処刑場へ向かった。
木津川河畔――旧臣・知時が届けた阿弥陀如来像
元暦2年(1185年)6月23日、重衡は山城国の木津川河畔で斬首された。
数え29歳。
『平家物語』「重衡被斬」には、その最期が詳しく描かれている。
処刑場には南都の僧侶や武士たちが集まり、多くの人々が重衡の最期を見ようとしていたという。
そこへ一人の武士が駆けつけた。
木工右馬允知時である。
知時はかつて重衡に仕え、京都で捕虜となった後も面会に訪れた人物だった。
『平家物語』では、知時が重衡の最期を見届けるため、急いで処刑場へ向かったと伝えている。
重衡は知時の姿を見つけ、その志に感謝した。
そして、最後に阿弥陀如来の像を拝みたいと願ったという。
知時は近くから仏像を運ぶよう手配した。
阿弥陀如来像は河原の砂の上に置かれ、その手には紐が掛けられた。
重衡は紐を握り、仏像へ向かって念仏を唱えたと伝わる。
『平家物語』は、この場面で重衡が南都焼討について語る姿を描いている。
南都を攻撃したのは朝廷や父の命令に従った結果であり、寺院の焼失を自ら望んだものではなかったという趣旨の弁明が記されている。
一方、軍勢の大将であった以上、責任は自分にもあるという思いも示されている。
これらの言葉を実際に重衡が語ったのか、確認することはできない。
『平家物語』は、寺院を焼いた武将が死を前にして罪を意識し、念仏によって救済を求める姿を描いているのである。
重衡は阿弥陀如来に向かい、念仏を唱えながら首を差し出したと伝わる。
木津川の河原で、清盛の五男は生涯を終えた。
般若寺にさらされた首と妻による供養
重衡の処刑後、首は奈良へ運ばれた。
『平家物語』によれば、南都の僧侶たちはその首を般若寺の大鳥居の前にさらしたという。
般若寺は治承4年の南都焼討で平家軍が攻撃した地域に位置する寺院である。
重衡がかつて大将として軍勢を率いた土地へ、その首が運ばれたと伝えられている。
一方、胴体は妻のもとへ引き渡されたという。
『平家物語』では、大納言佐局が重衡の遺体を日野へ運ばせ、法界寺で供養を営んだと記されている。
その後、東大寺再建を進めていた重源の取り計らいによって首も引き渡され、妻が火葬して遺骨を納めたという話が残る。
遺骨の一部は高野山へ送られたとも伝えられている。
ただし、処刑後の遺体の扱いや遺骨の所在については、後世の伝承を含むため、慎重に考える必要がある。
京都市伏見区日野には、現在も重衡の墓と伝えられる場所が残されている。
その近くにある法界寺は、重衡の妻が供養を営んだ寺として知られている。
『平家物語』によれば、妻はその後出家し、重衡の菩提を弔ったという。
また、鎌倉で重衡を慰めた千手前は、文治4年(1188年)4月に若くして亡くなった。
『吾妻鏡』には、重衡を慕う思いがその死に関係したのではないかという噂が記されている。
重衡をめぐる女性たちの物語は、後世の軍記や説話の中でも語り継がれていった。
重衡の死後も続いた東大寺の再建
重衡が木津川で処刑されたとき、東大寺では復興事業が続いていた。
大仏の修復は進んでいたものの、大仏殿をはじめとする堂塔の再建はまだ終わっていない。
重源は諸国を巡って寄進を募り、宋の鋳物師・陳和卿らの協力を得ながら大仏の修復を進めていた。
重衡の処刑から約2か月後、文治元年(1185年)8月28日、東大寺では大仏の開眼供養が行われた。
後白河法皇が参列し、自ら筆を取って大仏の開眼を行ったことが記録されている。
しかし、大仏を納める大仏殿の再建には、さらに長い年月を要することになる。
建久6年(1195年)、大仏殿の落慶供養が営まれた。
南都焼討から15年後のことである。
重衡が率いた軍勢によって焼失した東大寺は、彼の死後も多くの人々の支援を受けながら復興を続けていた。
一方、重衡の妻は日野で夫の菩提を弔ったと伝えられている。
治承4年12月、数え24歳で南都へ進軍した重衡は、元暦2年6月23日、29歳で木津川河畔において斬首された。
その首は般若寺へ運ばれ、遺体は妻のもとに戻されたと『平家物語』は記している。
そして、重衡の処刑から10年後の建久6年、東大寺では再建された大仏殿の落慶供養が行われた。
かつて重衡の軍勢によって焼失した大仏殿が、再び奈良の地に姿を現したのである。
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