第32回
第32回
平安時代が始まって間もない9世紀初頭。
朝廷の政治に大きな影響力を持った一人の女性がいた。
藤原薬子である。
父は、長岡京造営の中心人物となった藤原種継。
夫は藤原縄主。
そして薬子自身は、桓武天皇の皇太子だった安殿親王に仕え、安殿親王が平城天皇として即位すると宮廷で急速に地位を高めていった。
やがて薬子は、内侍司の長官である尚侍となる。
尚侍は後宮の運営に加え、天皇への奏請や命令の伝達にも関わる重要な職だった。
薬子の位階は正三位まで上がった。
しかし、大同4年(809)に平城天皇が弟の嵯峨天皇へ譲位すると、朝廷の政治状況は大きく変化する。
平城上皇は旧都・平城京へ移った。
薬子と兄・藤原仲成は、その上皇の側近として活動を続ける。
そして弘仁元年(810)。
平城上皇と嵯峨天皇の政治的対立は、平城京への還都をめぐって決定的となった。
後世に「薬子の変」と呼ばれる政変である。
9月11日、兄・仲成は射殺された。
翌12日、薬子も自ら命を絶つ。
藤原薬子とは、どのような人物だったのか。
なぜ一人の女官が朝廷の中枢近くまで進み、平城上皇と嵯峨天皇の対立の中で命を落とすことになったのか。
今回は、後世に作られた「平城天皇を惑わせた女性」というイメージだけに頼らず、史料から確認できる藤原薬子の生涯を追っていく。
1.父は長岡京造営の中心人物・藤原種継
藤原薬子の生年は分かっていない。
父は藤原種継。
藤原氏の四つの主要な家系の一つ、藤原式家の有力者だった。
種継は桓武天皇から重用され、延暦3年(784)に始まった長岡京造営でも中心的な役割を担った。
桓武天皇は、それまでの都だった平城京を離れ、新しい都として長岡京を建設しようとしていた。
種継は、その造営を進める責任者の一人だった。
ところが翌延暦4年(785)。
長岡京造営の最中、種継は何者かに矢で射られ、翌日に死亡する。
藤原種継暗殺事件である。
事件の捜査は大規模に行われ、桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王にまで及んだ。
早良親王は皇太子を廃され、配流の途中で死去する。
薬子は、朝廷を揺るがす大事件によって父を失った藤原式家の娘だった。
後に薬子自身も、都と皇位をめぐる大きな政治抗争の中で生涯を終えることになる。
2.藤原縄主と結婚し、安殿親王に仕える
薬子は藤原縄主と結婚した。
二人の間には3男2女が生まれたと伝えられている。
その長女が、後に薬子の人生を大きく変えることになる。
長女は、桓武天皇の皇太子・安殿親王のもとへ入った。
安殿親王は、後の平城天皇である。
そして薬子自身も、東宮宣旨として安殿親王に仕えるようになった。
東宮とは皇太子を指す。
薬子は皇太子の身近な場所で働き、その宮廷生活と政治に接する立場へ入っていった。
藤原種継の娘として生まれた薬子は、ここから安殿親王との関係を深めていく。
3.安殿親王との関係を桓武天皇が問題視する
東宮で働くようになった薬子は、安殿親王から寵愛を受けたと伝えられている。
薬子はすでに藤原縄主の妻であり、安殿親王のもとには薬子の娘も入っていた。
この関係を問題視したのが、安殿親王の父・桓武天皇だった。
桓武天皇によって、薬子は東宮から退けられたとされる。
宮廷での立場を失う大きな出来事だった。
しかし、その後に状況が変わる。
延暦25年(806)、桓武天皇が崩御した。
皇太子・安殿親王が皇位を継ぐ。
第51代・平城天皇である。
平城天皇の即位によって、薬子は再び宮廷へ戻ることになる。
4.平城天皇の即位と薬子の復帰
大同元年(806)。
平城天皇が即位すると、薬子は再び宮廷で重要な地位を占めるようになった。
典侍を経て、尚侍へ進む。
尚侍は内侍司の長官である。
後宮の運営に加え、臣下から天皇への奏請を取り次ぎ、天皇の命令を官人へ伝える役割にも関わった。
薬子は、官職の面でも天皇と朝廷の官人をつなぐ重要な位置にいた。
平城天皇との個人的な関係に加え、尚侍という職務も薬子の政治的な存在感を大きくした。
薬子の位階も上昇する。
大同4年(809)には正三位に達した。
当時の女性として極めて高い位階である。
桓武天皇の時代に一度宮廷から退けられた薬子は、平城天皇の即位後、朝廷の中枢に近い女官へと上り詰めた。
5.兄・藤原仲成も朝廷で力を伸ばす
薬子とともに平城天皇の時代に重要な存在となったのが、兄・藤原仲成である。
仲成も藤原種継の子で、藤原式家に属した。
平城天皇の時代に昇進し、大同4年(809)には北陸道観察使となる。
さらに弘仁元年(810)には参議へ進んだ。
薬子が天皇に近い尚侍として活動し、仲成も朝廷の上級官人として力を伸ばす。
兄妹は、平城天皇を支える重要な存在となった。
さらに809年には、父・藤原種継に太政大臣が追贈されている。
785年の暗殺から24年。
平城天皇の時代には、種継とその一族に対する政治的な顕彰も進められた。
薬子と仲成の台頭には、父・種継以来の藤原式家という家系も深く関わっていたのである。
6.809年、平城天皇が嵯峨天皇へ譲位する
薬子が正三位まで上った大同4年(809)。
朝廷に大きな変化が起きた。
平城天皇が病気を理由に譲位したのである。
皇位を継いだのは、弟の神野親王。
第52代・嵯峨天皇である。
平城天皇は上皇となった。
同年末、平城上皇は平安京を離れ、旧都・平城京へ移った。
薬子も平城上皇のもとで活動を続ける。
兄・仲成も上皇側の有力な官人として政治に関わっていった。
こうして、
平安京には嵯峨天皇。
平城京には平城上皇。
という状況が生まれた。
平城上皇は皇位を退いた後も政治への関与を続ける。
薬子と仲成は、その上皇を支える側近として大きな役割を担った。
7.平安京と平城京――二つの政治的な中心
平城上皇が平城京へ移ったことで、朝廷の政治は複雑になった。
現天皇である嵯峨天皇は平安京で政治を行う。
一方、前天皇である平城上皇も平城京から政治への影響力を行使した。
平城上皇は桓武天皇の皇子であり、前年まで天皇だった人物である。
その周囲には薬子や仲成をはじめとする側近がいた。
平城上皇側と嵯峨天皇側の双方から政治的な命令が出される状況となり、官人たちも対応を迫られる。
平城上皇側の中心人物として、薬子の存在は大きかった。
一方、嵯峨天皇側では藤原冬嗣らが側近として台頭していく。
810年3月には蔵人所が設けられ、冬嗣と巨勢野足が最初の蔵人頭となった。
天皇の意思を側近を通じて直接伝える新たな仕組みが整えられていったのである。
二つの政治的な中心の緊張は、同年9月に一気に高まる。
8.9月6日――平城京への還都命令
弘仁元年(810)9月6日。
平城上皇は、都を平安京から平城京へ戻すよう命じた。
桓武天皇が平安京へ遷都してから、まだ16年だった。
還都が実現すれば、朝廷の政治そのものに大きな変化が生じる。
当初、嵯峨天皇側も上皇の命令に対応し、平城京での造営に関わる人事を進めた。
しかし、平城上皇と嵯峨天皇の双方が政治へ強く関与する状況は、数日のうちに決定的な対立へ変わっていく。
この時、薬子と仲成は平城上皇側にいた。
平城上皇自身は強い政治的な意思を持って行動していた。
そして薬子と仲成も、上皇側の中心人物として重要な役割を担っていた。
平城上皇。
藤原薬子。
藤原仲成。
彼らを中心とする勢力と嵯峨天皇側との政治的対立が、還都問題をきっかけとして表面化したのである。
9.9月10日――薬子の官位が奪われる
9月10日。
嵯峨天皇は対抗措置に動いた。
平城上皇側に近い官人を重要な役職から外し、自らに近い人物を軍事・行政上の要地へ配置する。
さらに伊勢・近江・美濃三国の国府や関を固め、上皇側の動きに備えた。
藤原仲成は捕らえられる。
そして薬子も、尚侍の職と位階を奪われた。
平城天皇の即位後、朝廷の中枢近くまで上り詰めた薬子は、この日、政治的な地位を失った。
9月6日の還都命令から、わずか4日後である。
平城上皇側と嵯峨天皇側の対立は、一気に緊迫していった。
10.9月11日――東国への移動と仲成の死
翌9月11日。
平城上皇は薬子とともに平城京を出発し、東国方面へ向かおうとした。
しかし嵯峨天皇側は、すでに伊勢・近江・美濃などの要地を固めていた。
坂上田村麻呂らも上皇側への対応にあたり、その進路を封じる体制が整えられていた。
平城上皇は東国へ進むことができず、平城京へ戻ることになる。
そして同じ9月11日。
前日に捕らえられていた藤原仲成が射殺された。
仲成は佐渡権守への左遷を命じられていたが、上皇が東へ向かう動きを見せたことで状況が変化した。
平安時代には、国家による死刑の執行が次第に少なくなっていく。
その中で仲成の処刑は、異例の出来事として知られている。
平城上皇側の有力者だった仲成が死亡し、上皇自身も東国へ進めなかった。
政変の行方は、この日ほぼ決した。
11.9月12日――藤原薬子の最期
弘仁元年(810)9月12日。
平城上皇は出家した。
そして同じ日、藤原薬子は自ら命を絶った。
毒を飲んで自害したと伝えられている。
生年が分からないため、何歳だったのかも分からない。
9月6日、平城上皇が平城京への還都を命じる。
9月10日、薬子は尚侍と位階を奪われる。
9月11日、平城上皇とともに東国へ向かおうとするが、その動きは阻まれた。
同じ日、兄・仲成が射殺される。
そして9月12日。
平城上皇は出家し、薬子は自害した。
一週間足らずの間に、平城上皇側の政治的な勢力は崩れていった。
薬子が最期に何を考えていたのかを伝える記録は残っていない。
史料から確認できるのは、平城上皇側の敗北が決定的となった直後、薬子が自ら命を絶ったということである。
12.「薬子が平城上皇を操った」というイメージ
藤原薬子は後世、平城天皇を惑わせ、政治を混乱させた女性として語られることが多かった。
事件の名前も「薬子の変」である。
そのため、薬子が平城上皇を操り、政変を起こしたという人物像が広く知られるようになった。
現在では、平城上皇自身の政治的な意思も重視されている。
平城京への還都を進め、東国へ向かおうとした平城上皇自身も、この政変の中心人物だった。
そのため、事件を「平城太上天皇の変」などと呼ぶ見方もある。
同時に、薬子と仲成も平城上皇側の中心で活動していた。
仲成は上級官人として朝廷内で地位を高め、薬子は尚侍として上皇に近い位置にいた。
父・種継の顕彰も平城天皇の時代に進められている。
平城上皇には平城上皇自身の政治的な意思があり、その側近として薬子と仲成も積極的に活動した。
この両面を見ることで、810年の政変の構図がより明確になる。
13.薬子の変が変えた皇位継承
薬子の変は、皇位継承にも大きな影響を与えた。
当時の皇太子は、平城上皇の皇子・高岳親王だった。
しかし政変後、高岳親王は皇太子を廃される。
代わって皇太弟となったのが、嵯峨天皇の異母弟・大伴親王。
後の淳和天皇である。
平城上皇側の敗北によって、次の天皇となる人物まで変わった。
その後、弘仁14年(823)に嵯峨天皇が譲位すると、大伴親王が淳和天皇として即位する。
810年の政変は、その後の皇位継承にも影響を残した重要な出来事だった。
14.藤原式家の後退と藤原北家の発展
薬子の変は、藤原氏内部の勢力関係にも影響した。
薬子と仲成が属していたのは藤原式家である。
父・藤原種継は桓武天皇から重用され、薬子と仲成も平城天皇の時代に高い政治的地位を得た。
しかし810年の政変によって仲成は死亡し、薬子も自害した。
藤原式家の政治的な影響力は大きく後退していく。
一方、嵯峨天皇のもとで力を伸ばしたのが藤原冬嗣だった。
冬嗣は藤原北家の人物である。
810年には最初の蔵人頭の一人となり、嵯峨天皇の側近として昇進を重ねた。
その子・藤原良房は、後に臣下として初めて摂政となる。
さらに北家は基経らへと続き、摂関政治の中心へ成長していった。
藤原北家が摂関政治の中心となるのは、さらに後の時代である。
それでも、藤原式家が後退し、冬嗣を中心とする北家が発展していく一つの転換点として、薬子の変は重要だった。
15.父・種継と娘・薬子――二人をつないだ都の政治
藤原薬子の生涯を父・種継と重ねると、興味深い共通点が見えてくる。
父・藤原種継は、桓武天皇による長岡京造営の中心人物だった。
その種継は、新しい都の建設中に暗殺された。
娘・藤原薬子は、その24年後、平城上皇の側近として平城京への還都をめぐる政争に関わった。
種継は長岡京造営。
薬子は平城京への還都問題。
親子の人生には、それぞれ都をめぐる朝廷政治が深く関わっている。
そして薬子が命を絶った810年、朝廷の政治的中心として残ったのは、桓武天皇が築いた平安京だった。
藤原種継と藤原薬子の生涯を見ると、奈良時代末から平安時代初頭にかけて、都と皇位をめぐる政治が大きく動いていたことが分かる。
まとめ――藤原薬子とは何者だったのか
藤原薬子。
生年は分かっていない。
父は藤原式家の有力者・藤原種継。
夫は藤原縄主で、二人の間には3男2女がいた。
その長女が皇太子・安殿親王のもとへ入ったことをきっかけに、薬子自身も東宮宣旨として皇太子に仕えるようになる。
安殿親王との関係を桓武天皇に問題視され、一度は東宮から退けられた。
しかし延暦25年(806)。
安殿親王が平城天皇として即位すると、薬子は宮廷へ復帰する。
典侍を経て尚侍となり、大同4年(809)には正三位に達した。
尚侍は後宮の運営に加え、天皇への奏請や命令伝達にも関わる内侍司の長官である。
薬子は平城天皇の寵愛を受けた女性であると同時に、官職の面でも天皇に近い重要な立場にいた。
兄・藤原仲成も朝廷で昇進を重ね、810年には参議となる。
薬子と仲成の兄妹は、平城天皇・平城上皇を支える有力な側近となっていった。
ところが809年。
平城天皇は弟の嵯峨天皇へ譲位した。
上皇となった平城は平城京へ移り、薬子と仲成もその側に立つ。
そして810年9月6日。
平城上皇は平城京への還都を命じた。
9月10日。
嵯峨天皇側は対抗措置に動き、薬子の尚侍と位階を奪い、仲成を捕らえた。
翌11日。
平城上皇と薬子は東国へ向かおうとしたが、その進路は封じられた。
同じ日、藤原仲成は射殺される。
9月12日。
平城上皇は出家し、藤原薬子は毒を飲んで自ら命を絶った。
後世、この事件は「薬子の変」と呼ばれるようになった。
現在では、平城上皇自身の政治的な主体性も重視されている。
そして薬子と仲成も、上皇側の中心人物として重要な役割を担っていた。
平城上皇の政治的な意思と、薬子・仲成兄妹の活動。
その両方を見ることで、810年の政変の姿はより明確になる。
薬子の死後、藤原式家の政治的影響力は後退した。
一方、嵯峨天皇の側近となった藤原冬嗣を中心に、藤原北家が勢力を伸ばしていく。
さらに平城上皇の皇子・高岳親王は皇太子を廃され、その後の皇位継承も変化した。
藤原薬子の生涯には、平安時代初期の政治を形作った多くの要素が重なっている。
藤原氏内部の勢力関係。
平城上皇と嵯峨天皇の対立。
平城京と平安京をめぐる問題。
そして皇位継承。
藤原薬子は、これらが激しく交差した時代に、尚侍として朝廷の中枢近くまで進んだ女性である。
そして810年。
平城上皇と嵯峨天皇の対立が決定的となった政変の中で、その生涯を終えたのである。
大きな転換点だったのである。
『絵本色道指南 新編 薬子の変』
藤原薬子と平城上皇、嵯峨天皇が対立した「薬子の変」を題材にした歴史小説。平城京と平安京の二所朝廷、薬子をめぐる宮廷の人間関係を物語として楽しみたい方に向いています。2025年刊行の比較的新しい一冊です。
薬子が生きた時代の舞台となった奈良。歴史をたどったあとに、奈良らしい柿のお菓子を味わいながら、かつての平城京に思いを馳せてみるのも面白いかもしれません。
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