第133回
寿永3年(1184年)2月、源義経の軍勢が丹波路を進んでいた。
目指すのは、平家一門が軍勢を集める摂津国の福原。その手前にある三草山では、平資盛・平有盛らが率いる平家軍が源氏の進撃を阻もうとしていた。
『平家物語』によれば、両軍が向き合ったのは2月4日の夕刻。平家軍は三草山の西側に陣を構え、翌朝の戦闘に備えていた。
しかし、義経は夜襲を選ぶ。
暗い山道を進むため、土肥実平が小野原の民家に火を放ち、周囲の野山も燃やしたと『平家物語』は伝えている。
その炎を頼りに山を越えた義経軍は、夜半に平家の陣へ攻め込んだ。
突然の襲撃に平家軍は混乱。資盛らは陣を放棄し、播磨国の高砂から船で屋島へ逃れたという。
この三草山の戦いから間もなく、源平両軍は一ノ谷で激突する。
都を追われた平家、再び福原へ
寿永2年(1183年)7月、平家一門は京都を離れた。
同年5月、北陸の倶利伽羅峠で木曾義仲の軍勢に大敗。続く篠原の戦いでも苦戦し、京都を守ることが難しくなったためである。
平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ向かった。
一門は九州で勢力を立て直そうとしたものの、豊後国の緒方惟栄ら在地勢力の抵抗を受け、安定した拠点を築けなかった。
その後、讃岐国の屋島へ移動。瀬戸内海沿岸の諸勢力を集めながら、軍事力の回復を進めていく。
平家が勢いを取り戻したのは、同年閏10月の水島の戦いだった。
備中国の水島で、平家軍は源義仲が派遣した軍勢を撃破する。
義仲方の矢田義清、海野幸広らは敗れ、平家は瀬戸内海における軍事的な優位を回復した。
一方、京都では義仲と後白河法皇の関係が悪化していた。
11月19日、義仲は法住寺殿を攻撃し、後白河法皇を武力で制圧。朝廷との対立を深めた義仲に対し、源頼朝は弟の範頼と義経を派遣した。
翌寿永3年1月20日、範頼・義経の軍勢が宇治・瀬田方面から京都へ進撃する。
義仲方は各地で敗れ、義仲自身も近江国の粟津で討死した。
これにより京都は頼朝方の支配下に入ったが、西国では平家が再び勢力を伸ばしていた。
屋島を拠点としていた平家は東へ進み、かつて清盛が拠点とした福原周辺まで戻っていたのである。
『吾妻鏡』によれば、平家は摂津と播磨の境にある一ノ谷に城郭を構え、西海・山陰両道から従った軍勢を集めていたという。
福原は現在の神戸市兵庫区周辺にあたり、平清盛が治承4年(1180年)に遷都を進めた土地でもある。
平家にとって、福原への帰還は京都を目指すうえで重要な一歩となった。
頼朝方も平家の動きを警戒し、義仲を討った範頼と義経に西国への進軍を命じることになる。
範頼と義経、二手に分かれて進軍
『平家物語』巻第九「三草勢揃」によれば、正月29日、範頼と義経は後白河法皇のもとへ参上し、平家追討のため西国へ向かうことを奏上した。
法皇が重視したのは、平家の手中にある三種の神器の奪還である。
安徳天皇とともに都を離れた神器を、損なうことなく取り戻すよう命じたと伝えられる。
『平家物語』では、その後の2月4日に源氏軍が京都を出発したと記す。
大手軍の大将は源範頼。
武田信義、加賀美遠光、梶原景時、小山朝政らが従い、総勢は5万余騎という。
範頼軍は摂津国の昆陽野へ向かい、東側から福原に迫る進路を取った。
これに対し、搦手軍の大将となったのが源義経である。
義経には土肥実平、田代信綱、三浦義澄、畠山重忠、熊谷直実、佐々木高綱らが従った。
『平家物語』によると、搦手軍の兵力は1万余騎。
義経は範頼と異なる進路を選び、丹波路へ入った。
山間部を通って平家軍の背後へ迫るためである。
ただし、出陣日と兵力については史料によって違いがある。
『吾妻鏡』は範頼・義経が正月29日に京都を出発したと記し、範頼軍を5万6000余騎、義経軍を2万余騎としている。
『平家物語』の出陣日や兵力とは一致せず、いずれの数字も実際の軍勢規模を確定するものではない。
それでも、範頼が大手、義経が搦手を担当し、別々の方面から平家軍へ迫ったという大筋は共通している。
『平家物語』によれば、義経軍は通常なら二日を要する道のりを一日で進み、丹波と播磨の境にある三草山の東側、小野原へ到着した。
そこには、平家の別働隊が待ち受けていた。
三草山を守る平資盛と重盛の息子たち
三草山に布陣していた平家軍の中心人物は、平資盛である。
父の重盛は治承3年(1179年)に死去しており、残された息子たちは平家一門の有力武将として活動していた。
『平家物語』「三草合戦」には、資盛とともに平有盛、平忠房、平師盛の名が並ぶ。
いずれも重盛の子であり、兄弟たちがこの方面の防衛を任されていたことになる。
さらに侍大将として、伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方が従った。
平家軍の兵力は、『平家物語』では3000余騎。
一方、『吾妻鏡』は7000余騎と記しており、こちらにも大きな違いがある。
平家軍が陣を構えたのは、三草山の西側だった。
東から進んでくる義経軍に対し、西側の山口を押さえて進路を塞ぐ配置である。
両軍の間には三里ほどの山道があったという。
山地では進軍できる道が限られ、騎馬武者を大量に投入することも難しい。狭い道の出口を守れば、大軍の動きを妨げられる可能性があった。
平家が三草山の西側に布陣したのも、こうした地形を利用するためと考えられる。
ただし、実際の防御施設や陣地の構造を詳しく伝える記録は残っていない。
平家軍は義経の接近を把握していたものの、『平家物語』によれば、戦闘は翌朝になると考えていた。
山を隔てて向き合う両軍。
その夜、義経が攻撃の時機を決めるため、軍議を開いた。
田代信綱が勧めた夜襲
『平家物語』によると、軍議が行われたのは戌の刻ごろ。
現在のおおむね午後7時から9時にあたる時間帯である。
義経は侍大将の土肥実平を呼び、三草山の西側に陣取る平家軍をその夜に攻めるか、それとも翌朝まで待つかを尋ねた。
実平は相模国土肥郷を本拠とする武士で、頼朝の挙兵以来、源氏を支えてきた人物である。
治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは、敗走する頼朝に従い、山中を逃れたことでも知られる。
その実平との相談に、田代冠者信綱が加わった。
信綱は伊豆国にゆかりを持つ武士で、『平家物語』には後三条天皇の皇子・輔仁親王の子孫とする系譜が記されている。
信綱が主張したのは、夜襲を仕掛けることだった。
『平家物語』では、信綱が味方1万余騎、平家3000余騎という兵力差を指摘し、翌朝まで待てば敵に援軍が加わる恐れがあると述べている。
兵力で有利なうちに攻撃した方がよいという判断である。
これを聞いた実平も賛成した。
しかし、兵たちには不安があった。
辺りはすっかり暗くなっていたのである。
初めて通る山道を夜間に進めば、道を見失う危険がある。馬を連れて狭い道を移動するとなれば、隊列が乱れる恐れも大きい。
山の向こうには敵が待ち構えている。
道を誤って軍勢が分散すれば、夜襲を仕掛けるどころか、各個に攻撃される危険すらあった。
義経は、暗闇をどう越えるかという問題に直面した。
そこで示したのが、火を使って進軍路を照らす方法である。
「例の大松明はいかに」――小野原に放たれた火
『平家物語』には、暗さを訴える兵たちに対して義経がこう述べたと記されている。
「例の大松明はいかに」
これを聞いた土肥実平は、よい考えだと応じた。
そして、小野原の民家に火を放ったという。
『平家物語』の原文には、「小野原の在家に火をぞ懸けたりける」とある。
「在家」は民家を指す。
さらに野山や草木にも火が放たれ、辺りは昼間にも劣らないほど明るくなったと描かれている。
義経軍は、この炎を道しるべに三里の山道を越えていった。
民家から立ち上る炎。
燃え広がる野山。
その明かりを頼りに、武装した軍勢が夜の山道を進んでいく。
三草山の戦いを伝える『平家物語』のなかでも、特に印象的な場面である。
ただし、民家への放火や炎を利用した進軍については、史料の性格に注意する必要がある。
『吾妻鏡』にも義経軍による夜襲は記されているが、民家や山野に火を放ったという記述は見られない。
実際にどれほどの家屋が焼かれ、どの範囲まで火が広がったのかは確認できない。
『平家物語』は軍記物語であり、義経の大胆な戦法を印象づけるための描写が含まれている可能性もある。
それでも、物語が進軍のために民家へ火を放ったと明記している点は重要である。
小野原には、戦いに参加していない住民たちの暮らしがあった。
仮に記述どおりの放火が行われたのであれば、義経軍の夜襲によって家を失った人々がいたことになる。
宝塚市史も三草山の戦いを解説するなかで、小野原の民家への放火に触れ、合戦や大軍の通過が住民生活に与える被害を指摘している。
軍勢はそのまま山道を進み、夜半には平家軍の陣地へ迫った。
兜を枕に眠る平家軍
『平家物語』によれば、平家軍は夜襲を予想していなかった。
源氏軍が三草山の東側まで進んでいることは把握していたものの、本格的な戦闘は翌朝になると考えていたという。
先陣の兵たちは警戒を続けていた。
しかし、後陣の武士たちは兜や鎧の袖、矢を入れる箙などを枕にして眠っていたと伝えられる。
翌朝の戦いに備え、休息を取っていたのである。
そこへ義経軍が現れた。
『平家物語』によれば、時刻は夜半。
源氏軍は三草山の西側の山口に押し寄せ、一斉に鬨の声を上げた。
突然の襲撃に、平家軍は大きく動揺する。
『平家物語』には、弓を手にした者が矢を見失い、矢を取った者が弓を探すほど混乱したと描かれている。
武器を整える間もなく源氏の騎馬武者が迫り、平家の兵たちはその進路を避けるように左右へ分かれたという。
平家軍は陣形を維持できず、次第に敗走を始めた。
『吾妻鏡』も夜襲について記している。
同書の寿永3年2月5日条によれば、義経は田代信綱・土肥実平らと協議し、夜半に平資盛の軍勢を襲撃した。
平家側は慌てて散り散りになったという。
『平家物語』ほど詳しい戦闘描写はないものの、夜襲によって平家軍が崩れたという経過は共通している。
一方、日時には違いがある。
『平家物語』は2月4日の夜に義経軍が山を越えたと伝えるが、『吾妻鏡』では2月5日条に戦闘が記録されている。
このため三草山の戦いの日付は、2月4日夜、あるいは2月5日と説明されることがある。
いずれにしても、義経が夜間に平家の陣を襲撃し、資盛らの軍勢を敗走させたという大筋は一致している。
敗走する平家軍、500余人が討たれたという追撃戦
陣形を崩された平家軍は、各所で源氏軍の追撃を受けた。
『平家物語』によると、源氏の武士たちは逃げる平家の兵を追い詰め、激しく攻撃したという。
軍勢の統制を失った平家側は、まとまった反撃を行うことができず、各方面へ逃げていった。
『平家物語』が伝える戦死者は500余人。
負傷した兵も多かったと記されている。
ただし、この500余人という数字を裏付ける確実な記録はない。
平家軍の総数自体が史料によって異なるため、実際の損害を正確に知ることは難しい。
夜襲を受けた平家軍がどの程度抵抗したのか、戦闘がどこまで広がったのかも明らかでない。
『平家物語』では、平家軍が混乱のなかで追い立てられた様子を詳しく描く。
これに対して『吾妻鏡』は、夜襲によって資盛の軍勢が四散したことを簡潔に記すにとどまる。
両史料の記述を合わせると、義経軍の夜襲が成功し、平家軍が三草山の陣地を維持できなくなったことがわかる。
平家側は西側の山口を放棄し、指揮官たちも撤退を余儀なくされた。
平資盛・有盛は屋島へ、師盛は一ノ谷へ
三草山で敗れた平家の武将たちは、それぞれ異なる方向へ退いた。
『平家物語』によれば、平資盛・平有盛・平忠房らは播磨国の高砂へ向かった。
高砂は瀬戸内海に面する地域であり、船を使えば讃岐国へ渡ることができる。
資盛らは小舟に乗り、屋島へ逃れたという。
屋島は平家が都落ち後に拠点としていた場所である。
平家一門は福原へ進出する以前、この地を中心として瀬戸内海沿岸の諸勢力をまとめていた。
資盛らは三草山での敗北によって前線を離れ、海上から西国へ退いたことになる。
一方、弟の平師盛は別の道を選んだ。
『平家物語』では、師盛が伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方らを伴い、一ノ谷へ向かったと伝えている。
同じ三草山で敗れながら、資盛・有盛らと師盛では退却先が分かれたのである。
師盛が向かった一ノ谷には、宗盛をはじめとする平家本隊が集まっていた。
福原周辺には、東から迫る範頼軍に備える軍勢も配置されている。
三草山で山側の防衛線を破られたことで、平家は北方から進んでくる義経軍への対応を迫られた。
『平家物語』には、平宗盛が山側の守りを固めるため、平通盛らを派遣したと記されている。
通盛は平清盛の弟・平教盛の子であり、平家一門の有力武将だった。
同書には、通盛が出陣前に妻の小宰相局と名残を惜しみ、それを弟の平教経から厳しく戒められたという逸話も残る。
軍記物語に描かれた一場面ではあるが、一ノ谷での決戦を控えた平家の様子を伝えている。
師盛は三草山から一ノ谷へ戻り、再び源氏軍と戦うことになった。
その戦いまで、残された時間はわずかだった。
三草山は現在のどこにあたるのか
三草山の戦いについては、合戦地そのものにも複数の説がある。
広く知られているのは、現在の兵庫県加東市上三草周辺とする説である。
加東市には標高423.9メートルの三草山があり、古くから源平合戦の舞台として伝承されてきた。
『平家物語』の覚一本には、義経軍が丹波と播磨の境にある三草山へ進んだと記されている。
東側に登場する小野原についても、現在の兵庫県丹波篠山市今田町周辺に比定する見解がある。
この説に従えば、義経軍は京都から丹波路を進み、加東市付近で平家軍と戦ったことになる。
実際、小野市立図書館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録した調査事例でも、『兵庫県史』などを参照し、この経路が紹介されている。
ただし、『吾妻鏡』には異なる記述がある。
同書は三草山を摂津国に位置づけており、現在の大阪府能勢町と兵庫県猪名川町の境界付近にある三草山を合戦地と考える説も存在する。
宝塚市史では、両説を比較したうえで、摂津国側の三草山を想定する見解が示されている。
その理由の一つが、一ノ谷までの進軍経路である。
加東市の三草山を戦場とした場合、義経軍はいったん大きく西へ進んだ後、一ノ谷へ向けて東寄りに移動したことになる。
一方、摂津国側の三草山であれば、義経軍が北方の山間部から一ノ谷へ迫る経路を考えやすい。
『平家物語』の諸本にも地名の記述に違いがある。
覚一本では丹波と播磨の境とされるが、延慶本では地理的な説明が簡潔で、義経が丹波路から三草山へ向かったことを伝えるにとどまる。
また、九条兼実の日記『玉葉』には、一ノ谷の戦いに先立って源氏が「丹波城」を落としたとの記述がある。
この丹波城の攻略を三草山の戦いと関連づける見解もあるものの、両者を同一の出来事と確定することは難しい。
三草山から一ノ谷へ至る義経軍の詳しい進軍路も、記録から復元できていない。
加東市の三草山には源平合戦の伝承が受け継がれ、現在も史跡として知られている。
一方、史料上の合戦地をどこに比定するかについては、なお検討の余地が残されている。
三草山から一ノ谷へ――義経軍の進撃
三草山で平家軍を破った義経は、一ノ谷方面への進軍を続けた。
『平家物語』によれば、2月6日、義経は軍勢をさらに二手に分けたという。
土肥実平には7000余騎を率いさせ、一ノ谷の西口方面へ向かわせた。
義経自身は3000余騎を率いて山間部を進み、平家の背後を狙う。
この兵力も『平家物語』の記述による数字であり、実際の軍勢規模は明らかでない。
義経が進んだ山道については、『平家物語』巻第九「老馬」「鵯越」に詳しい描写がある。
「老馬」には、険しい山中で道に迷わないよう、年老いた馬を先に進ませるという逸話が残る。
道を知る老馬に従えば、山中でも進路を見つけられるという考えに基づくものだった。
また「鵯越」では、義経が猟師から付近の地形を聞き、その子を案内役に迎えたと伝えられている。
この少年は後に鷲尾三郎義久と名乗ったという。
ただし、道案内をした人物には異説があり、延慶本『平家物語』には播磨国安田荘の多賀久利が案内したと記されている。
義経軍がどの道を通って一ノ谷の背後へ迫ったのか、細かな経路は確定していない。
そして2月7日、源平両軍は一ノ谷で激突した。
『吾妻鏡』によると、義経は勇敢な武士70余騎を率い、鵯越と呼ばれる一ノ谷背後の山へ到着する。
一方、範頼軍も東側から平家軍へ攻撃を仕掛けた。
熊谷直実や平山季重らは一ノ谷方面で先陣を争い、平家方の飛騨景綱、越中盛次、伊藤景清らが迎え撃ったと『吾妻鏡』は伝えている。
東側から範頼軍が迫り、西側では源氏の別働隊が攻撃を続ける。
さらに山側から義経軍が現れたことで、平家軍は各方面からの攻撃にさらされた。
『平家物語』には、義経が馬で険しい坂を駆け下り、平家の陣を急襲したと描かれている。
後世に鵯越の坂落としとして知られる場面である。
ただし、実際の坂落としがどこで行われたのか、義経自身がどのような行動を取ったのかについては異説がある。
『玉葉』には、山側からの攻撃に多田行綱が関わったことを示す記述もあり、義経以外の武士たちの動向も検討する必要がある。
一ノ谷での戦闘は平家の大敗に終わった。
平通盛、平忠度、平敦盛、平経正ら、一門の有力武将が次々と討死する。
平重衡は源氏軍に生け捕りにされ、平宗盛らは船で海上へ逃れた。
三草山で敗走した平師盛も、この戦いで命を落としている。
『吾妻鏡』によれば、師盛を討ち取ったのは遠江守安田義定の軍勢だった。
同書の2月13日条には、師盛を含む平家武将たちの首が京都へ送られ、八条河原でさらされたことが記されている。
わずか数日前、三草山の西側で義経軍を迎え撃った師盛。
夜襲によって陣地を失い、一ノ谷へ退いた後、再び源氏軍と戦って討死した。
一方、三草山から屋島へ逃れた資盛や有盛は、その後も平家一門と行動をともにしていく。
一ノ谷での敗北により、平家は再び福原を失った。
安徳天皇と三種の神器は依然として平家の手中にあり、宗盛らも瀬戸内海での抵抗を続けていた。
平家追討の戦いは、翌元暦2年(1185年)の屋島、そして壇ノ浦へと続いていく。
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