第150回
元暦2年(1185年)6月21日、近江国篠原宿。
源義経に護送されていた平宗盛は、ここで命を奪われた。
『吾妻鏡』によれば、処刑したのは義経の配下、橘公長だった。
一行はさらに街道を進み、野路口で宗盛の嫡男・清宗も処刑された。清宗を斬ったのは堀景光と記されている。
父は数え39歳、息子は16歳。
宗盛は平清盛の三男として生まれ、従一位内大臣まで昇った人物だった。
兄の重盛が亡くなると清盛の後継者となり、父の死後は平家一門を率いた。
木曾義仲の進撃を受けた寿永2年(1183年)7月には、安徳天皇と三種の神器を奉じて京都を去っている。
西国では水島、室山の戦いに勝利し、一時は福原まで勢力を盛り返した。しかし一ノ谷、屋島と敗北を重ね、最後は壇ノ浦で捕らわれた。
『平家物語』には、宗盛が海へ身を投げながらも泳ぎ着き、息子とともに生け捕りにされたという話が残る。
母の平時子は壇ノ浦で入水し、弟の平知盛も海へ沈んだ。
宗盛と清宗は生き残った。
そして三か月後、父子は近江の街道で別々に斬られることになった。
清盛の三男として生まれた宗盛
平宗盛は久安3年(1147年)、平清盛の三男として生まれた。
母は清盛の正室・平時子。
清盛の長男・平重盛と次男・平基盛は異母兄にあたり、平知盛、平重衡、建礼門院徳子らは同じ母を持つ弟妹だった。
時子の実家は、桓武平氏高棟流の家系である。
父の平時信は鳥羽院に仕えた人物で、その子には平時忠や、後白河上皇の寵妃となった平滋子もいた。
滋子は後白河上皇との間に憲仁親王を産んでいる。
のちの高倉天皇である。
宗盛の妹・徳子が高倉天皇の中宮となり、言仁親王、のちの安徳天皇を産むと、宗盛は幼い天皇の母方の伯父となった。
清盛の子であることに加え、母方を通じて皇室と深い関係を持っていたのである。
宗盛が従五位下に叙されたのは保元2年(1157年)。数え11歳だった。
平治元年(1159年)には清盛が平治の乱で源義朝を破り、平氏一門の勢力が拡大する。
宗盛も遠江守などを歴任し、朝廷で官位を重ねた。
安元3年(1177年)には権中納言に復帰し、右近衛大将を兼ねる。
翌治承2年(1178年)正月には正二位、4月には権大納言となった。
このとき宗盛は数え32歳。
父の清盛はすでに太政大臣を経験し、異母兄の重盛も内大臣に昇っていた。
平家一門が朝廷の高官を占める時代に、宗盛もその中心へ進んでいた。
妻・平清子の死――右近衛大将を辞した宗盛
宗盛の妻は平清子といった。
清子は平時信の娘で、宗盛の母・時子の異母妹にあたる。
宗盛にとっては母方の叔母でもあった。
清子は宮中に仕え、宗盛との間に嫡男・清宗をもうけている。
ところが治承2年(1178年)、清子が重い病に倒れた。
『山槐記』や『玉葉』には、清子の病状をめぐる記録が残されている。
清子は頭部に腫れ物ができ、医師の治療を受けていた。
その年、徳子が懐妊すると、清子は生まれてくる皇子の乳母となる予定だった。
しかし病は悪化する。
7月10日、宗盛は妻の病を理由に右近衛大将を辞任した。
清子は7月16日に亡くなった。
享年33歳。
翌治承3年6月には、宗盛が清子の菩提を弔うため、法性寺付近に堂を建てたことも知られている。
妻の死後、宗盛は同年12月に右近衛大将へ復帰していた。
その翌年、宗盛の政治的な立場は大きく変わる。
異母兄の重盛が亡くなったのである。
名馬「木の下」を奪ったという逸話
宗盛には、『平家物語』に伝わる名高い逸話がある。
源頼政の嫡男・源仲綱が所有していた名馬「木の下」をめぐる騒動である。
『平家物語』巻第四「競」によれば、仲綱は都でも評判の鹿毛の名馬を持っていた。
木の下という名で、走る姿も乗り心地も優れた馬だったという。
宗盛は評判を聞き、仲綱へ使者を送り、馬を譲るよう求めた。
ところが仲綱は、大切な馬を手放したくなかった。
今は疲れを休ませるため田舎に預けていると答え、要求を断ろうとした。
しかし宗盛の家人たちは、馬が実際には仲綱の屋敷にいると告げた。
宗盛はさらに使者を送り、何度も馬を求めたという。
困った仲綱が父の頼政へ相談すると、頼政は馬を差し出すよう命じた。
仲綱は一首の和歌を添えて、木の下を六波羅へ送った。
「恋しくば来ても見よかし身に添ふる影をばいかが放ちやるべき」
自分の影のように大切な馬を、どうして手放せようか。
仲綱の惜別の思いを込めた歌だった。
しかし宗盛は返歌をせず、馬に「仲綱」という名の焼印を押させた。
客が来ると、その馬を引き出させ、仲綱の名を呼んで乗ったり鞭で打ったりしたと物語は伝えている。
仲綱は深く憤った。
頼政もこの話を聞き、平家に対する反感を強めたという。
やがて治承4年(1180年)5月、頼政は以仁王とともに挙兵する。
『平家物語』は、この名馬をめぐる屈辱を、頼政が平家へ反旗を翻した理由の一つとして描いた。
ただ、木の下の逸話を裏づける同時代の記録は確認できない。
頼政は挙兵の直前、清盛の後押しも受けて従三位に昇っていた。
以仁王を取り巻く政治情勢や、源氏と平氏の関係を考えても、馬の一件だけで挙兵の経緯を説明することは難しい。
『平家物語』の宗盛は、名馬を欲しがるあまり、相手の面目を傷つける人物として描かれている。
その一方、妻の病を理由に官職を辞したことは、当時の記録にも残されていた。
重盛の死――清盛の後継者となる
治承3年(1179年)7月29日。
平重盛が亡くなった。
重盛は清盛の長男で、平治の乱をはじめとする数々の戦いに従い、朝廷では内大臣まで昇っていた。
清盛の後継者と目されていた人物である。
しかし、重盛の死後、一門の中心となったのは異母弟の宗盛だった。
宗盛は清盛の正室・時子の子であり、すでに権大納言を経験していた。
さらに高倉天皇の母方の親族という立場も持っていた。
重盛の死は、平氏内部の後継者の位置を変えることになった。
このころ清盛と後白河法皇の関係も悪化していた。
治承3年6月には、清盛の娘で摂関家に嫁いでいた平盛子が亡くなる。
盛子が管理していた摂関家領の扱いをめぐり、清盛は後白河院側の動きに反発した。
重盛の死後には、平氏が保持していた越前国も後白河院の分国となった。
朝廷の人事でも対立が続く。
関白・松殿基房の息子である師家が、わずか8歳で権中納言へ昇進した。
清盛が支持する近衛基通にとっては、摂関家内部の地位を脅かす人事だった。
同年11月、清盛は福原から軍勢を率いて京都へ入る。
関白の基房を退け、近衛基通を新たな関白とした。
さらに院近臣たちを相次いで解官し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。
治承三年の政変である。
清盛は武力を背景に朝廷の人事を改め、院政を停止させた。
宗盛も父のもとで、この新たな政治体制を支えることになった。
翌治承4年(1180年)2月、安徳天皇が即位する。
宗盛の妹・徳子が産んだ皇子で、数え3歳だった。
8月には伊豆で源頼朝が立ち、信濃でも木曾義仲が勢力を伸ばす。
同年10月、平維盛らが率いた追討軍は富士川で敗走した。
各地で反平氏勢力が広がり、清盛は対応を迫られていく。
清盛の死――惣官を任された宗盛
治承5年(1181年)正月。
宗盛は五畿内と伊勢・伊賀・近江・丹波などの軍事統轄を担う惣官に任じられた。
平氏が各地の武士を動員し、反乱を鎮圧するために設けた職だった。
平氏の軍事活動を支える役割が、宗盛に与えられたのである。
しかし、その翌月に清盛が病に倒れる。
閏2月4日、清盛は死去した。
享年64歳。
一門を率いることになった宗盛は、数え35歳だった。
その直後、平氏は尾張国墨俣川で源行家の軍勢を破った。
しかし、東国では頼朝の勢力が拡大し、北陸では義仲が平氏に従わない武士たちを集めていた。
さらに養和年間には飢饉が広がり、兵糧の確保も難しくなっていた。
宗盛は各地へ追討軍を送りながら、朝廷での地位も回復していく。
寿永元年(1182年)9月4日、権大納言に復帰。
10月3日には内大臣となった。
翌寿永2年(1183年)正月21日には従一位に昇る。
2月には内大臣を辞任したが、平氏一門の棟梁という立場は変わらなかった。
清盛が亡くなってから約二年。
宗盛は従一位という高い位階を得た一方、東国と北陸に反平氏勢力を抱え、各地へ兵を送り続けていた。
そして寿永2年春、北陸へ派遣した大軍が壊滅する。
倶利伽羅峠の敗戦――木曾義仲が京都へ迫る
寿永2年(1183年)4月。
平氏は北陸へ大規模な追討軍を送った。
大将の一人は宗盛の甥・平維盛である。
軍勢は越前から加賀方面へ進み、木曾義仲を討とうとした。
ところが5月11日、越中国の倶利伽羅峠で大敗した。
続く加賀国篠原でも敗れ、北陸方面の軍勢は大きく崩れた。
義仲は越前へ進み、さらに近江へ迫る。
京都の周囲では延暦寺の動向も変わり、平氏に従っていた武士たちも離反し始めた。
源行家も大和方面から京都をうかがっていた。
宗盛は京都を守るため軍勢を集めようとしたが、北陸での敗戦によって、すでに多くの兵を失っていた。
一方、後白河法皇は義仲との接触を進めていた。
平氏とともに京都を離れるつもりはなかった。
7月24日夜から25日未明にかけて、法皇は京都を抜け出し、比叡山へ移った。
宗盛にとって大きな痛手だった。
清盛が生前に幽閉した後白河法皇は、今度は平氏を離れ、義仲に接近したのである。
宗盛は京都での抵抗を断念する。
寿永2年7月25日――安徳天皇と三種の神器を伴う都落ち
寿永2年7月25日。
宗盛は安徳天皇を奉じ、平氏一門を率いて京都から退去した。
安徳天皇は数え6歳。
母の建礼門院徳子、祖母の平時子らも同行した。
一門は内侍所の神鏡、神璽、宝剣という三種の神器を持ち出している。
『玉葉』には、平氏が淀方面へ退いたことや、六波羅・西八条などの邸宅が焼けたことが記録されている。
平氏が去った京都には、やがて義仲の軍勢が入った。
宗盛は安徳天皇と神器を守り、西国で軍勢を立て直そうとした。
しかし、この都落ちは朝廷にも大きな問題を生んだ。
安徳天皇が西国にいるなか、後白河法皇は京都で新たな天皇を立てようとしたのである。
同年8月、後鳥羽天皇が即位する。
三種の神器は安徳天皇とともに西国へ運ばれており、新天皇への継承は行われなかった。
こうして京都では後鳥羽天皇が即位し、西国には安徳天皇がとどまる状態となった。
宗盛は安徳天皇を奉じ続けた。
だが、平氏一門は京都を離れて以降、朝廷の命令によって追討される立場となっていた。
一門は福原を経て九州へ向かった。
大宰府周辺で拠点を築こうとしたものの、豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、九州での滞在は困難となる。
その後、平氏は瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島を中心に軍勢を整えていった。
水島・室山で勝利――福原へ戻った平氏
寿永2年閏10月1日。
備中国水島の海上で、平氏軍と木曾義仲方の軍勢が衝突した。
水島の戦いである。
平氏方では知盛らが軍勢を率い、義仲方の矢田義清や海野行広らを破った。
続く11月には、播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利する。
平氏は二つの戦いに勝ち、西国で勢力を盛り返した。
宗盛自身が水島や室山の戦場で指揮を執ったという確かな記録はない。
軍勢を率いたのは知盛や重衡ら一門の武将たちだった。
宗盛は安徳天皇を奉じ、屋島を拠点として一門をまとめていた。
やがて平氏は播磨から摂津へ進み、寿永3年(1184年)正月には福原周辺まで戻る。
かつて清盛が都を築こうとした土地だった。
このころ京都では木曾義仲と後白河法皇の関係が悪化していた。
義仲は法住寺殿を攻撃して院側を制圧したが、寿永3年正月20日、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍勢に敗れ、近江国粟津で討ち死にする。
義仲を破った源氏軍は、そのまま西へ向かった。
宗盛たちは福原周辺に防衛線を築き、源氏軍を迎え撃つことになる。
一ノ谷の敗戦――後白河法皇へ送った抗議の書状
寿永3年2月7日。
源範頼・義経の軍勢が、福原周辺の平氏軍へ攻め込んだ。
一ノ谷の戦いである。
平氏は東側の生田の森、西側の一ノ谷、背後の山地を利用して陣地を構えていた。
宗盛は一門の武将たちへ守備を命じ、源氏軍の攻撃に備えていた。
『平家物語』巻第九「老馬」によれば、義経軍が山の手から攻め込む可能性を知った宗盛は、守備を任せる武将を探した。
しかし危険な場所だったため、誰も進んで引き受けようとしなかったという。
宗盛は平教経に使者を送った。
教経はその任務を受け入れ、一門の軍勢を率いて山の手の守備へ向かったと物語は伝える。
ところが2月7日、平氏の防衛線は崩れた。
忠度、敦盛、通盛らが討ち死にし、重衡は生け捕りとなる。
宗盛は安徳天皇を奉じ、海上へ退いた。
一門は再び屋島へ戻ることになった。
この敗戦後、宗盛は後白河法皇へ抗議の書状を送っている。
『吾妻鏡』に収められた宗盛の返書によれば、合戦前日の2月6日、法皇から宗盛へ書状が届いていた。
8日に使者を送るので、その使者が帰るまでは合戦を起こさないようにという内容だった。
源氏方にも同じ趣旨を伝えていると書かれていたという。
宗盛はこの知らせを受け、使者を待っていたと主張した。
ところが翌7日、源氏軍が攻撃してきた。
宗盛は、法皇の命令が源氏方へ届かなかったのか、それとも源氏が命令に従わなかったのか、あるいは別の事情があったのかと問いただした。
九条兼実の日記『玉葉』にも、後白河法皇が一ノ谷合戦前に平氏との和議を試みていたことが記されている。
実際に朝廷側で交渉が検討されていたのである。
もっとも、平氏も福原周辺に防衛陣地を築き、三草山へ軍勢を送っていた。
宗盛が述べたように、平氏がまったく戦闘を予想していなかったのかはわからない。
また宗盛の返書は、敗戦後に書かれたものである。
それでも宗盛は、この書状で平氏の立場を明確に主張していた。
安徳天皇を奉じる自分たちこそ朝廷に仕える軍勢であり、京都へ戻ろうとするたびに後白河法皇側の軍勢が妨げているという訴えだった。
弟・重衡の助命と三種の神器
一ノ谷で捕らえられた重衡は、宗盛の同母弟だった。
南都焼き討ちなどで軍勢を率い、清盛の存命中から戦場で活動してきた人物である。
その重衡が源氏の捕虜となり、京都へ送られた。
後白河法皇は重衡を通じて、宗盛に三種の神器の返還を求めた。
『玉葉』などには、重衡の身柄と神器をめぐる交渉が記録されている。
『平家物語』では、重衡の命を助けるため神器を返還するかどうか、平氏一門の間で意見が分かれたと語られる。
しかし宗盛は返還に応じなかった。
平氏は京都を追われた後も、安徳天皇を奉じ、神器を保持していた。
神器を返せば、後鳥羽天皇を立てた京都の朝廷に対し、安徳天皇を奉じる平氏の立場はいっそう弱まる。
一方、捕虜となった重衡の命は源氏方の判断に委ねられていた。
宗盛の返書には、安徳天皇の還幸や平氏の立場をめぐる訴えも書かれている。
結局、交渉は成立しなかった。
重衡は鎌倉へ送られ、宗盛たちは屋島で戦い続けた。
兄弟が再び顔を合わせることはなかった。
屋島の敗戦――頼朝が宗盛の生け捕りを命じる
元暦2年(1185年)正月。
源範頼は西国で平氏を追っていたが、兵糧や船の不足に苦しんでいた。
頼朝はその範頼へ何度も書状を送り、軍勢の動かし方を指示している。
『吾妻鏡』正月6日条に収められた頼朝の書状には、宗盛について興味深い記述がある。
「内府は極て臆病におはする人なれば」
宗盛はたいそう臆病な人物だから、自害することはあるまい。
生け捕りにして京都へ連れてくるように。
頼朝はそのように命じていた。
平氏の棟梁である宗盛を討ち取るよりも、生きたまま捕らえることを望んでいたのである。
もっとも、この書状は敵方の総大将に対する頼朝の評価でもある。
宗盛本人の性格や戦場での行動を、その言葉だけから判断することはできない。
同年2月19日。
義経は讃岐国屋島へ攻め込んだ。
義経は暴風の中を船で阿波国へ渡り、陸路を進んで屋島の背後へ現れた。
『吾妻鏡』によれば、宗盛は一門を率いて海上へ退いた。
源氏軍は屋島の内裏や宗盛の宿所などを焼いた。
その後も海上から平氏軍が反撃し、双方の間で矢戦が続いた。
しかし平氏は屋島の拠点を失い、さらに西へ向かった。
宗盛たちは長門国彦島方面へ退き、関門海峡を挟んで源氏軍と対峙する。
平氏にはなお船団が残り、九州の武士たちも加わっていた。
ただ、九州では範頼の軍勢が活動し、瀬戸内海でも源氏方へ加わる武士が増えていた。
屋島を失った宗盛に、再び戻る場所は残されていなかった。
壇ノ浦で捕らわれた宗盛と清宗
元暦2年3月24日。
長門国赤間関の海上で、源氏と平氏の船団が激突した。
壇ノ浦の戦いである。
『吾妻鏡』によれば、平氏方の兵船は500余艘。
山鹿秀遠や松浦党らが軍勢を率い、源氏方の船団を迎え撃った。
しかし戦いは平氏の敗北に終わる。
安徳天皇は海に沈み、平教盛、平知盛、平資盛ら一門の武将たちも相次いで命を落とした。
安徳天皇の最期については史料によって描写が異なる。
『平家物語』では、祖母の平時子が安徳天皇を抱き、神器とともに入水したと語られる。
一方『吾妻鏡』では、時子が宝剣を持ち、按察局が安徳天皇を抱いて入水したと記されている。
『吾妻鏡』によれば、建礼門院徳子も入水したが、源氏方の武士によって引き上げられた。
安徳天皇は帰らなかった。
宗盛と清宗も捕らえられた。
『吾妻鏡』3月24日条には、伊勢三郎能盛が父子を生け捕りにしたと記されている。
『平家物語』では、宗盛が海へ身を投げたものの、泳ぎが達者だったため沈まず、源氏方に引き上げられたと語られる。
清宗も父に続いて入水し、生け捕りにされたという。
宗盛が実際に入水を図ったかどうかは、『吾妻鏡』の記録からは確認できない。
確かなのは、父子が捕虜となったことである。
壇ノ浦の戦いが終わった後、宗盛は源氏方の監視下に置かれた。
母の時子も、弟の知盛も、もはや生きていなかった。
清盛が築いた平氏政権を引き継いだ宗盛は、今度は源氏によって京都へ連れ戻されることになった。
六歳の次男「副将丸」――『吾妻鏡』に残る捕虜の名前
壇ノ浦の捕虜の中には、宗盛の幼い息子もいた。
『吾妻鏡』4月11日条には、義経が鎌倉へ報告した捕虜の名簿が収められている。
そこには宗盛、清宗、平時忠らの名前に続き、次の記述がある。
「内府子息六歳童形字副将丸」
前内大臣宗盛の子で、数え6歳の童子、副将丸。
『平家物語』にも、宗盛の次男として「副将」と呼ばれる幼子が登場する。
ただし、物語では数え8歳とされ、年齢に違いがある。
諸本の間にも異同があり、後世の系譜では能宗などの名で記されることがある。
捕虜の名簿に「副将丸」と記された子がいたことは『吾妻鏡』から確認できる。
一方、その後の幼子の最期を詳しく伝えるのは『平家物語』である。
同書巻第十一「副将」には、宗盛がこの子との最後の対面を求める場面が描かれている。
父の膝を離れなかった幼子――『平家物語』が伝える別れ
元暦2年5月。
宗盛と清宗は、源義経に護送されて鎌倉へ向かうことになった。
『平家物語』によれば、出発前、宗盛は義経へ使者を送った。
壇ノ浦で捕虜になった幼い次男が、まだ生きているなら一度会わせてほしい。
義経はその願いを聞き入れ、河越小太郎重房に預けられていた副将を連れてこさせたという。
副将は車に乗せられ、二人の女房に付き添われて父のもとへ来た。
宗盛の姿を見ると、幼子は喜んで駆け寄り、父の膝へ乗った。
宗盛は息子の髪をなでながら、守護の武士たちに話し始めたという。
この子には母がいない。
母親は出産後に病となり、七日目に亡くなった。
死ぬ前には、たとえ後に別の子が生まれても、この子を自分の形見として大切に育ててほしいと願っていた。
宗盛はその言葉を守り、副将を幼いころから手元で育ててきたと語った。
さらに、将来、清宗を大将軍に、この子を副将軍にしたいと考え、副将という名を付けたともいう。
母親はその名前を喜び、亡くなる直前まで呼び続けていたという。
宗盛の話を聞いた警護の武士たちも涙を流したと『平家物語』は伝える。
やがて夕方になった。
宗盛は副将へ帰るように告げた。
しかし幼子は父の膝から離れようとしない。
兄の清宗も声をかけた。
今日は帰り、明日の朝また来ればよい。
ところが副将は、宗盛の浄衣の袖をつかんで泣き続けた。
「否や、帰らじ」
帰りたくない。
乳母がようやく抱き上げ、車へ乗せた。
宗盛は遠ざかる車を見送り、今まで会えずにいた寂しさなど、今日の悲しみに比べればものの数ではなかったと嘆いたという。
しかし副将は、父のもとへ戻らなかった。
『平家物語』では、河越重房が幼子を賀茂川の河原へ連れ出し、義経の命によって処刑したと伝える。
幼子は最後に乳母の懐へ逃げ込んだという。
やがて斬られた副将の首は、乳母たちへ渡された。
その数日後、桂川に身を投げた二人の女性が見つかった。
一人は幼子の首を抱き、もう一人は遺体を抱いていたと物語は結んでいる。
副将の処刑方法や年齢には、諸本によって違いがある。
『吾妻鏡』から確認できるのは、副将丸が壇ノ浦で捕虜となっていたことまでである。
父子の再会や処刑の詳しい場面は、軍記物語に残された記述として読む必要がある。
宗盛はこの子との別れを経て、清宗とともに鎌倉へ向かった。
鎌倉へ送られた父子――頼朝との対面
『吾妻鏡』によれば、宗盛と清宗は5月7日に京都を出発した。
5月15日には、父子の一行が酒匂宿付近へ到着するとの知らせが鎌倉へ届いた。
翌16日、宗盛と清宗は鎌倉へ入る。
見物人が道の両側を埋め尽くしていたという。
宗盛は輿に乗り、清宗は馬に乗っていた。
一行は若宮大路を通り、頼朝の御所へ向かった。
父子は御所の西の対を居所として与えられる。
その夜、食事が出されたものの、宗盛は口をつけず、涙を流していたと『吾妻鏡』は記している。
一方、護送を務めた義経は鎌倉への入府を許されなかった。
義経は腰越にとどまり、頼朝へ弁明の書状を送っている。
宗盛父子を鎌倉へ連れてきた義経本人が、兄との対面を果たせずにいたのである。
6月7日。
頼朝は宗盛と対面するかどうかを検討した。
以前、一ノ谷で捕らえられた平重衡が鎌倉へ送られた際には、頼朝が直接会っていた。
しかし、大江広元は今回の対面に反対した。
頼朝はすでに従二位に叙されている。
対する宗盛は朝敵として官位を失った囚人だった。
二人が正式に対面すれば、頼朝の立場が軽く見られるおそれがあるという。
広元の意見が採用され、頼朝は簾の内側から宗盛を見ることになった。
宗盛は浄衣に立烏帽子という姿で現れた。
北条時政ら有力御家人が居並ぶなか、頼朝は比企能員を通じて言葉を伝えさせた。
平家一門に特別な私怨を持っているわけではない。
朝廷の命令によって追討したこと、そして宗盛を捕らえたのは武士としての名誉であることを告げたという。
これに対し宗盛は、命を助けてもらえるなら出家して仏道へ入ると願い出た。
『吾妻鏡』は、宗盛が比企能員に対して深く頭を下げ、助命を嘆願した様子を厳しく記している。
周囲の人々も、その態度を非難したという。
この記述には、鎌倉側から敗者である宗盛を評価する視点が含まれている。
実際に宗盛がどのような言葉を使い、どのような態度を取ったのか、細部まで確かめることはできない。
しかし、出家による助命を願ったという記述は残されている。
宗盛は命を助けられなかった。
二日後の6月9日。
父子は再び義経のもとで京都へ向かうことになった。
近江国篠原――父と息子が別々に斬られる
元暦2年6月21日。
義経の一行は、近江国篠原宿へ到着した。
『吾妻鏡』は、その時刻を卯刻と記している。
現在の時刻では、おおむね午前6時ごろを中心とする時間帯である。
宗盛の処刑を任されたのは橘公長だった。
公長は、源氏方に従っていた武士である。
かつて従一位内大臣にまで昇った宗盛は、この近江の宿場で斬られた。
『吾妻鏡』はさらに、一行が野路口へ進み、堀弥太郎景光によって清宗が処刑されたと記している。
父子の処刑場所は別々だった。
大原の本性上人が二人の最期に立ち会い、仏道へ導いたともいう。
一方、『平家物語』巻第十一「大臣殿被斬」には、父子が死を前にして互いを案じ、別れを惜しむ場面が描かれている。
宗盛は清宗の身を気遣い、清宗も父から離れようとしなかったという。
処刑の日付や経過については、軍記物語の諸本にも違いが見られる。
『吾妻鏡』6月21日条に従えば、宗盛は篠原宿で、清宗は野路口で処刑されたことになる。
父子の首は京都へ送られた。
6月23日。
『吾妻鏡』によれば、義経の家人たちは二人の首を六条河原へ運び、検非違使の平知康らに引き渡した。
そして獄門の前の木に掛けられた。
九条兼実の『玉葉』にも、父子の首をめぐる朝廷側の動きが記されている。
京都で処刑された二人の首は、公然とさらされたのである。
同じ6月23日、弟の平重衡も南都で処刑された。
一ノ谷で捕らえられた重衡は、鎌倉へ送られた後、南都の寺院側の要求によって引き渡されていた。
治承4年の南都焼き討ちで、東大寺や興福寺の伽藍が焼失した責任を問われたのである。
宗盛、清宗、重衡。
壇ノ浦の戦いの後まで生き残っていた平氏一門の人々も、この六月に相次いで命を落とした。
宗盛が父の清盛から一門を引き継いだのは、治承5年(1181年)。
それから四年。
京では従一位内大臣まで昇り、安徳天皇を奉じて西国へ向かった。
水島と室山では源氏方を破り、福原への進出を果たしたものの、一ノ谷と屋島で敗れ、壇ノ浦で捕虜となった。
『吾妻鏡』には、鎌倉へ送られた宗盛が食事を取らず、涙を流していたことが記されている。
『平家物語』には、幼い次男を膝に抱き、その髪をなでながら別れを惜しんだ姿が残る。
6月21日、宗盛は篠原宿で斬られた。
その後、街道を進んだ一行は野路口に至り、清宗も処刑された。
二日後、父子の首は京都の六条河原へ運ばれた。
かつて宗盛が内大臣として仕え、安徳天皇を奉じて離れた都であった。
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