第98回
永暦元年(1160)正月。
京都・六条河原に、一人の若い武者が引き出された。
源義平。
源義朝の長男で、源頼朝の異母兄にあたる。
前年12月の平治の乱では、父・義朝とともに平清盛方と戦った。敗れたあと一度は東国へ向かったものの、父が尾張で殺されたことを知ると再び京都へ戻り、今度は清盛の命を狙った。
捕らえたのは平氏の家人・難波経房。
義平は六条河原で斬られた。
生年を永治元年(1141)とすれば、数え20歳である。処刑日は正月19日、21日、22日、25日など史料によって異なり、正確な日付は定まらない。
わずか20年ほどの生涯だった。
それでも義平の名は残った。
15歳で叔父・源義賢を討った大蔵合戦。
19歳で平重盛と戦ったとされる待賢門の攻防。
敗走後に京都へ舞い戻って清盛を狙ったという話。
そして処刑される直前、「雷となって敵を討つ」と言い残したという伝説。
後世の人々は、そんな義平を「悪源太」と呼んだ。
「悪」は悪人という意味より、荒々しい、並外れて強い、といった意味合いを持つ。「源太」は源氏の長男を指す呼び名である。
父・義朝が東国で築いた勢力の中で育ち、10代半ばですでに戦場へ出た若武者。
頼朝がまだ少年だったころ、河内源氏の次代を背負っていたのは、むしろこの兄だった。
義朝の長男として生まれる
源義平は永治元年(1141)ごろに生まれた。
父は源義朝。
祖父は源為義。
曾祖父にあたるのが、後三年の役などで名を残した「八幡太郎」源義家である。
つまり義平は、河内源氏の直系に近いところで生まれた。
弟には朝長、頼朝、範頼、義経らがいる。
義平の母については史料が一致していない。
『尊卑分脈』では橋本宿の遊女とされる一方、三浦義明の娘とする系図もある。
ここを確定するのは難しい。
ただ、義平の少年期を考えるうえで重要なのは、父・義朝がこのころ東国を主な活動場所としていたことである。
義朝は相模、上総、下総へ入り、現地の武士たちと関係を結んでいた。
相模では大庭御厨。下総では相馬御厨。
土地をめぐる争いへ介入し、ときにはかなり強引に権利を押さえながら、自分の勢力を広げていた。
義平は、そうした父の東国活動のただ中で成長した。
後年の頼朝のように、京都の貴族社会で少年時代を過ごした人物とは少し違う。
義平にとっての源氏は、家系図の上にある名前だけではなかった。
土地を争い、兵を集め、武蔵や相模の武士を動かす、現実の軍事勢力だった。
13歳で鎌倉へ下ったという『平治物語』
『平治物語』は、義平について13歳で鎌倉へ下ったと記している。
同時代史料から確認できる話ではなく、年齢まで確定することはできない。
それでも、義平が若いうちから東国で活動していたことは、その後の大蔵合戦を考えると自然である。
父・義朝は仁平3年(1153)に下野守となり、京都での立場を強めた。
義朝本人が中央へ進む一方、東国にはそれまで築いてきた武士との関係が残る。
そこを誰かが担わなければならない。
長男の義平が、その一角にいたとみられる。
そして久寿2年(1155)、まだ15歳ほどの義平が、一気に史料へ姿を現す。
相手は平氏ではなかった。
父の弟――つまり自分の叔父だった。
叔父・源義賢が武蔵へ入ってきた
義朝の弟に源義賢がいる。
木曾義仲の父として知られる人物である。
義賢も最初から東国にいたわけではない。
京都では体仁親王、のちの近衛天皇の帯刀長を務め、「帯刀先生」と呼ばれた。
その後、官職を失い、藤原頼長の周辺で活動するようになる。
1150年代になると、義賢は東国へ向かった。
上野国から武蔵国へ進出し、武蔵の有力武士秩父重隆と強く結ぶ。
ここで問題が起こる。
相模を中心に勢力を広げてきた義朝系。上野から武蔵へ入ってきた義賢系。
二つの河内源氏が、同じ東国で勢力を伸ばし始めた。
義朝はすでに京都へ比重を移している。
その東国側にいたのが義平だった。
1155年8月16日――15歳の義平が叔父を討つ
久寿2年(1155)8月16日。
武蔵国で義平と義賢が戦った。
後世、大蔵合戦と呼ばれる戦いである。
戦場は現在の埼玉県嵐山町大蔵付近とされる。
この戦いについては、同時代の記録が残っている。
藤原頼長の日記『台記』には、義賢が「兄・下野守義朝の子」に武蔵国で殺されたという知らせが記された。
『百錬抄』にも、義賢と義平が武蔵国で合戦したとの記録がある。
義平は数え15歳ほどだった。
一方、どれだけの兵を率いていたのか。どのように大蔵館を攻めたのか。
夜襲だったのか。義賢がどのように討たれたのか。
そこまでは分からない。
後世の「悪源太」の豪勇から戦場を想像してしまうと、史料にない話まで作ることになる。
確かなところだけでも十分に強烈である。
15歳ほどの甥が、父の弟を武蔵国で討った。
これだけでも、大事件である。
なぜ15歳の少年が、叔父を討てたのか
義平一人の武力だけで説明できる話ではない。
背景には東国の武士たちがいる。
武蔵では秩父一族そのものが複雑な関係を持ち、誰と結ぶかによって地域の勢力図が変わった。
義賢は秩父重隆と結んでいた。
義朝系にも、相模・武蔵方面で長年関係を築いてきた武士たちがいる。
義平は、その世界の中で戦った。
また、義朝が義平へ「義賢を殺せ」と直接命じたことを示す同時代史料は残っていない。
そこまで踏み込んで父子の会話を作る必要はない。
見えているのは、義朝と義賢の勢力が東国で競合し、その武力衝突の前面に長男・義平が出たということである。
このとき義平はまだ15歳。
父の名前だけを借りる少年ではなく、すでに軍事行動を担う存在になっていた。
大蔵で残された幼児――木曾義仲
大蔵合戦で義賢は死んだ。
しかし、その子は生き残った。のちの木曾義仲である。
『吾妻鏡』では、義仲は幼児のまま信濃へ逃れ、中原兼遠に育てられたとされる。
斎藤実盛らが幼い義仲を救ったという有名な話は、後世の軍記や伝承によるところが大きい。
それでも、義賢の子が生き延びて信濃で成長したことは、その後の歴史を考えるうえで非常に大きい。
約28年後、義仲は北陸から京都へ攻め上り、平氏を都から追い出す。
ところが、その後に義仲と対立したのが源頼朝だった。
義平の弟である。
1155年、義朝の子・義平が義賢を討つ。
1180年代、義賢の子・義仲と義朝の子・頼朝が争う。
河内源氏の内部で起きた対立は、一世代をまたいで続くことになる。
大蔵合戦の翌年、保元の乱が起こる
大蔵合戦から11か月後。
保元元年(1156)7月、京都で保元の乱が起こった。
祖父・為義は崇徳上皇・藤原頼長側。
父・義朝は後白河天皇側。
河内源氏が父子に分かれた。
ところが、義平がこの戦いでどのように動いたのかははっきりしない。
『保元物語』の華やかな武者たちを見ていると義平も参戦していそうに感じるが、同時代史料で具体的な活躍を確認するのは難しい。
義平にとって重要だったのは、戦後の源氏の変化だった。
後白河天皇方が勝利し、祖父・為義と叔父たちの多くが処刑された。
前年には義賢も死んでいる。
河内源氏の中で、父・義朝の系統が大きく前へ出た。
その長男が義平だった。
数年後に義朝がさらに地位を上げれば、義平もまた次代の中心として扱われる可能性があった。
ところが、その時間は3年しか続かなかった。
平治の乱――19歳で京都へ
平治元年(1159)12月。
父・義朝は藤原信頼と結び、後白河上皇の御所・三条殿を襲った。
信西を死に追い込み、後白河上皇を確保。
一時は朝廷を押さえるところまで進んだ。
この政変のさなか、義平も京都へ入る。
大蔵合戦から4年。
義平は19歳ほどになっていた。
一方、熊野詣から戻った平清盛は、すぐ義朝と正面衝突せず、二条天皇を自分の本拠・六波羅へ迎えた。
後白河上皇も信頼側を離れる。
12月26日、政治的に追い詰められた義朝側と、二条天皇を擁する清盛側が京都で激突した。
義平の名が再び大きく浮かび上がる。
待賢門――義平と平重盛
『平治物語』で義平最大の見せ場となるのが、待賢門の戦いである。
相手は平清盛の長男、平重盛。
重盛は22歳ほど。義平は19歳ほどだった。
清盛と義朝の息子同士が、京都の大内裏でぶつかる。
『平治物語』では、重盛が待賢門から大内裏へ入り、義平がこれを迎え撃つ。
重盛が走る。義平が追う。重盛の郎党が割って入る。
戦いは紫宸殿付近、左近の桜・右近の橘のあたりまで及んだと語られる。
宮中の儀式が行われる場所を、甲冑姿の武士たちが馬で駆け回る。
いかにも軍記物語らしい場面である。
『平治物語』は義平を平氏の嫡男と互角以上に渡り合う猛将として描いた。
大蔵合戦で叔父を討った「悪源太」の評判に、平治の乱の豪勇が重なった。
後世の義平像は、ここでほぼ完成する。
勇猛でも、戦争には勝てなかった
『平治物語』では、義平ら源氏方が一時平氏軍を押し、重盛を六波羅方面へ退かせる。
だが、その先には清盛がいた。
六波羅には平氏一門の兵が集まり、二条天皇もいる。
義朝方はすでに政治的な正統性を失っていた。
源頼政らも信頼側から離れたと物語は伝える。
義平がいくら前線で強くても、軍全体の状況は覆せなかった。
平氏側が押し返す。源氏軍は崩れる。
義朝は京都を捨てて東国へ逃れることを決めた。
義平も父とともに都を出た。
15歳の大蔵合戦では勝った。
19歳の京都では負けた。
義平の人生で初めて、取り返しのつかない敗北が訪れた。
父と別れ、一度は東国へ
義朝一行は東海道を東へ向かった。
長男・義平。
次男・朝長。
三男・頼朝。
腹心の鎌田正清らがいた。
ところが真冬の敗走で、一行は次々に離散する。
頼朝は途中ではぐれる。朝長は負傷して命を落とす。
義平も父と別れた。
義朝は尾張国野間まで進み、鎌田正清の舅・長田忠致を頼る。
そこで裏切られて殺された。
義平自身は一度、東国方面へ逃れたとみられている。
ここから先は、『平治物語』によって義平らしい物語が始まる。
父が殺されたと知った義平は、そのまま東国に身を隠さなかった。
京都へ戻った。
狙いは平清盛だったという。
どうしてわざわざ京都へ戻ったのか
義平が本当に清盛暗殺のためだけに京都へ戻ったのか。
その細かな意図を同時代史料から確定することはできない。
『平治物語』では、義平は六波羅の様子を探り、何度も清盛へ近づこうとする。
あるときは馬に乗って門前をうかがう。
あるときは履物を手にし、屋敷へ忍び込む。
正面から軍勢を率いて戦う「悪源太」とは違う姿である。
すでに父の軍勢はない。
大蔵合戦のときのように東国武士を率いることもできない。
一人の武者として、敵の本拠へ潜り込む。
『平治物語』が作った場面であることを差し引いても、敗れた義平を後世の人々がどのように見たかがよく分かる。
逃げ延びて次を待つ人物ではない。
負けたあとも、敵の喉元へ戻ってくる男。
それが「悪源太」の物語だった。
難波経房に捕らえられる
義平の京都潜伏は長く続かなかった。
平氏家人の難波経房に捕らえられた。
そして六条河原で処刑される。
正月19日とするもののほか、21日、22日、25日とする史料もあり、処刑日の記録は一致しない。
20歳。
父・義朝もすでに死んでいる。
弟・朝長もいない。
頼朝は捕らえられ、その後伊豆へ流される。
前年12月まで京都で戦っていた義朝の家は、わずか数週間で崩れ去った。
義平の生涯も、ここで終わる。
普通なら。
ところが後世の人々は、義平をここで終わらせなかった。
「雷になって、お前を殺す」
『平治物語』が伝える義平の最期は強烈である。
処刑役となった難波経房に対して、義平は死後の復讐を予告する。
自分は雷となってお前を殺す――。
そう言い残して斬られたという。
さらに『平治物語』や『尊卑分脈』には、斬首された義平の遺体が自分の首を左脇に抱え込んだため、容易に引き離せなかったという怪異まで伝わる。
興味深いのは、この雷神伝説が何もないところから完全に作られたとも言い切れない点である。
難波経房が後に落雷で死亡したという話そのものは、『平治物語』とは別系統の古い説話にも見える。
その「雷で死んだ経房」という伝承と、「悪源太義平」の人物像が結びつき、やがて死者が雷となって仇を討つ物語へ発展した可能性が研究では指摘されている。
数年後、本当に難波経房へ雷が落ちた――と語られた
『平治物語』では、その後の清盛が難波経房らを連れて摂津へ向かう。
空が急に曇る。激しい雷鳴が響く。
経房は義平の最期の言葉を思い出す。
そして雷に打たれて死んだ。
兵庫県立歴史博物館も、この義平の怨霊譚が『平治物語』に由来し、後世には布引の滝を舞台とする物語へ発展したことを紹介している。
江戸時代になると、この話はさらに有名になった。
歌川国芳は、清盛一行の前に義平の怨霊が現れ、雷となって難波経房を討つ場面を三枚続きの錦絵にしている。
文化遺産オンラインにも、
《清盛入道布引滝遊覧 悪源太義平霊討難波次郎》が残る。
1155年の大蔵合戦から、700年近く後。
20歳で斬られた若武者は、江戸の人々にも「死んでも敵を追う悪源太」として知られていた。
20歳で終わった「悪源太」
源義平の生涯には、史実として確実に追える部分と、後世の物語が作った部分がはっきり混じっている。
大蔵合戦で義賢を討ったことは同時代史料にも残る。
平治の乱で父とともに戦い、敗れたことも確かである。
父の死後に京都へ戻って清盛を狙い、難波経房に捕らえられて処刑されたという流れも広く伝わっている。
一方、
重盛との華麗な一騎討ち。六波羅への潜入。
処刑場での「雷になって復讐する」という言葉。
死後に怨霊となって経房を雷で討つ場面。
そこには『平治物語』が作り上げた「悪源太」の姿が重なっている。
けれど、その物語がこれほど膨らんだのも、義平の実際の生涯があまりに短く、激しかったからだろう。
15歳で叔父を討つ。19歳で京都の戦場に立つ。父が殺される。
自分も捕らえられる。20歳で斬られる。
それでも「悪源太」の名は残った。
平治の乱から何百年たっても、雷になってまで敵を討つ若武者として語られるほどに。
源義平という男の印象は、20年という生涯より、はるかに長く生き続けることになった。


コメント