第112回
天正12年(1584年)3月28日。
尾張国小牧山に徳川家康が入った。
標高約86メートル。濃尾平野の中に独立してそびえるこの山は、21年前、織田信長が清須から本拠を移して城を築いた場所である。
その北、およそ5キロの楽田には羽柴秀吉が本陣を置いた。
本能寺の変から1年10か月。
前年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は、近江、美濃、畿内へ勢力を広げ、旧織田政権の中心に立っていた。
家康も本能寺の変後、甲斐・信濃をめぐる争いを勝ち抜き、三河・遠江・駿河から甲信へまたがる大きな領国を築いている。
二人の間には、信長の次男・織田信雄がいた。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が突然ぶつかった戦争ではない。
信長の死後、誰が旧織田領国を動かすのか。
その争いのなかで秀吉と信雄が決裂し、信雄が家康と結んだことから始まった。
3月末、小牧山と楽田の間には両軍の砦が並び、土塁と堀が延びていた。
秀吉は小牧山を攻めない。
家康も山を下りない。
膠着した戦線を動かすため、秀吉軍はやがて小牧山の東へ大軍を送り出す。
目標は家康の本拠、三河だった。
その作戦が、秀吉軍の有力武将を次々と失う長久手の戦いにつながっていく。
信長が死んだあと、織田家に残された巨大な領国
天正10年(1582年)6月2日。
京都・本能寺で織田信長が明智光秀に襲われ、自害した。
嫡男の信忠も二条御所で戦った末に命を落とす。
信長と、その後継者となるはずだった信忠が同じ日に消えた。
備中高松城で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は軍勢を返し、6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破った。
その後に開かれた清須会議では、信忠の嫡男・三法師が織田家の後継者となる。
まだ幼い。
信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らが、
それぞれ大きな勢力を持ったまま織田領国を支えることになった。
この体制は一年も持たなかった。
秀吉と柴田勝家の対立が深まり、信孝は勝家と結ぶ。
信雄は秀吉側に立った。
天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、北庄城で自害する。
信孝も兄の信雄に追い詰められ、尾張知多郡の野間で自害した。
信長が死んでから一年ほどで、織田家内部の力関係は大きく変わった。
明智光秀は山崎で敗死。柴田勝家は北庄で自害。織田信孝も死んだ。
そのなかで急速に力を伸ばしたのが秀吉だった。
そして、それまで秀吉と協力していた信雄との関係が崩れ始める。
織田信雄と秀吉の決裂
織田信雄は信長の次男で、このとき27歳。
伊勢の北畠家へ養子に入り、信長の伊勢支配を担った人物である。
本能寺の変後は清須城を中心に尾張、伊賀、南伊勢を領有していた。
賤ヶ岳の戦いまで、信雄と秀吉は協力関係にある。
勝家を倒し、信孝を追い詰める過程でも両者は同じ側に立った。
勝家と信孝がいなくなると、その関係は急速に悪化した。
秀吉は旧織田領国内の諸将との結びつきを強め、知行の配分や外交にも大きな影響力を持つようになっていた。
かつて信長に仕えた家臣が、信長の実子である信雄を上回る政治力を持ち始めている。
天正11年末から翌12年初めにかけて、両者の対立は表面化した。
決裂したのは3月である。
3月6日、信雄が三人の家老を殺す
天正12年(1584年)3月6日。
信雄は三人の重臣を殺害した。
津川義冬。
岡田重孝。
浅井長時。
三人が秀吉と通じていると疑ったためである。
信雄による三家老殺害を受け、秀吉は信雄征討へ動いた。
信雄も秀吉との戦いに備え、徳川家康と結ぶ。
家康は信長と20年近く同盟を結び、武田氏との戦いをはじめ数々の戦場をともにしてきた。
本能寺の変後には甲斐・信濃をめぐる争いを経て、東海から甲信に大きな勢力を築いている。
秀吉に対抗する信雄にとって、これほど大きな軍事力を持つ援軍はいなかった。
家康にとっても、秀吉の勢力拡大は無関係ではない。
秀吉が旧織田領国をまとめながら東へ勢力を伸ばせば、その先には徳川領がある。
信長の実子である信雄を支援することは、秀吉と戦ううえでの政治的な根拠にもなった。
3月8日。
家康は浜松城を出発した。
岡崎を経て尾張へ向かう。
そのころ、戦争はすでに伊勢でも動き始めていた。
最初の戦場は伊勢だった
「小牧・長久手の戦い」と呼ばれているものの、戦場は小牧と長久手だけではない。
尾張、美濃、伊勢を中心に広い範囲で軍勢が動き、戦争が長引くと紀伊や北陸、四国、関東の諸勢力まで両陣営の動向に影響を受けた。
開戦直後に動いたのは伊勢である。
信雄は尾張だけでなく伊勢にも領地を持っていた。
秀吉軍が伊勢へ進むと、信雄・家康側も主力の一部を送って対抗した。
亀山城や峯城などをめぐる攻防が始まり、信雄方の兵力が伊勢へ向かう。
その隙を突いて、尾張北部で秀吉方が動いた。
3月13日。
家康が清須城へ入った日、犬山城が奇襲された。
池田恒興、犬山城を奪う
犬山城を襲ったのは池田恒興と森長可らだった。
池田恒興は信長の乳兄弟として知られ、長く織田家に仕えた武将である。
本能寺の変後の清須会議にも加わった。
その恒興が秀吉方についた。
犬山城は木曽川南岸に位置する。
川の北は美濃。
南へ進めば小牧、その先には信雄の本拠・清須がある。
美濃から尾張へ軍勢を送り込む際の重要な拠点だった。
犬山城を守っていた信雄方の中川定成は伊勢方面へ出陣しており、城を留守にしていた。
恒興らはそこを突く。
犬山城は秀吉方の手に落ちた。
同じ3月13日、家康は清須城へ入っている。
清須の北、およそ20キロにある犬山が敵方へ渡った。
秀吉方がそこから南下すれば、小牧を経て清須へ近づく。
家康は尾張北部へ兵を向けた。
森長可、羽黒へ進出する
3月17日。
森長可が犬山城から南へ進み、羽黒に布陣した。
現在の愛知県犬山市羽黒周辺である。
森長可は27歳。
美濃金山城を本拠とし、信長の小姓として本能寺で死んだ森成利――森蘭丸の兄にあたる。
池田恒興とは姻戚関係にあった。
羽黒から小牧山までは十数キロ。
森軍がさらに南下すれば、清須へ近づくことになる。
家康は森長可が羽黒へ出たことを知ると、酒井忠次らを向かわせた。
ここで小牧・長久手の戦い最初の本格的な野戦が起こる。
羽黒の戦い――酒井忠次が森長可を退ける
酒井忠次は58歳。
家康より15歳年上で、松平氏の時代から仕えてきた徳川家臣団の宿老である。
酒井を中心に松平家忠、奥平信昌らが羽黒へ向かった。
兵数については後世の軍記によって数字が異なる。
森軍を約3000、徳川方を約5000とする説も知られている。
3月17日早朝、羽黒周辺で戦闘が始まった。
徳川方の攻撃を受けた森軍は敗れ、犬山方面へ退く。
森長可自身は生きて戻った。
家康方は開戦後最初の大きな野戦に勝利したものの、犬山城まで奪い返したわけではない。
その北には美濃があり、秀吉本隊も尾張へ向かっていた。
家康は犬山城を攻めず、南へ戻った。
翌18日、榊原康政らに小牧山の改修を命じる。
家康が選んだ小牧山
小牧山は標高約86メートル。
麓との高低差は約60メートルしかない。
険しい山ではないものの、濃尾平野の中に独立しているため周囲を見渡しやすい。
ここには信長が築いた城の跡が残っていた。
永禄6年(1563年)、信長は清須から小牧山へ本拠を移し、山上に城を築く。
南麓には計画的な城下町も造られた。
4年後の永禄10年(1567年)、美濃の斎藤龍興を破った信長は岐阜へ移り、小牧山城は使われなくなる。
廃城から17年。
家康は信長の古城を陣城として作り直した。
3月18日に始まった工事は急速に進み、22日には主要な防御施設が完成したとされる。
現在の発掘調査でも、家康が小牧・長久手の戦いに備えて大規模な改修を行った痕跡が確認されている。
山麓には土塁と堀を巡らせ、中腹にも防御線を設けた。
小牧山は山麓と中腹の二重の防御線で守られる陣城へ変わった。
家康は周囲にも防御拠点を築いていく。
3月23日には蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦が完成。
翌24日には小幡城と比良城を修理した。
小幡城は小牧山の南東にあり、その先は三河方面へつながる。
比良城は清須方面を結ぶ位置にあった。
29日には田楽砦も築かれ、小牧山へ通じる軍道が整えられる。
家康は小牧山だけに籠もったのではなく、周囲の城や砦を結んで防御線を作った。
その工事が進む間に、秀吉本隊が尾張へ入った。
3月28日、秀吉と家康が小牧で向き合う
秀吉は3月10日に大坂を出発した。
大垣を経て尾張へ進み、28日に楽田城へ本陣を置く。
同じ日、家康も小牧山へ入った。
翌29日には信雄も小牧山へ移る。
楽田から小牧山までは約4.5キロ。
秀吉方は小牧山の北から東にかけて軍勢を配置した。
二重堀砦。
岩崎山砦。
小松寺山砦。
青塚砦。
内久保砦。
家康側も小牧山を中心に砦を連ねる。
濃尾平野の一角に、二つの巨大な陣地群が向かい合った。
兵数は史料や数え方によって大きく異なる。
秀吉軍を数万から10万規模、信雄・家康軍を1万数千から数万とする記録や推定があり、正確な総兵力を一つの数字に決めることは難しい。
秀吉側が動員力で上回っていたことは確かである。
それでも小牧山への総攻撃は行われなかった。
家康は数日をかけて小牧山を陣城へ改修し、その周囲にも砦を置いている。
秀吉軍が正面から攻めれば、堀と土塁を越えて徳川軍の防御線へ入らなければならない。
家康も山を下りなかった。
平地へ出れば、秀吉軍の兵力を正面から受けることになる。
3月末、小牧の戦線は膠着した。
4月、両軍の間に土塁が延びる
4月2日。
秀吉軍が姥ヶ懐方面へ進出した。
翌3日には信雄・家康軍が秀吉方の二重堀砦を奇襲する。
4日、秀吉は岩崎山砦と二重堀砦の間に土塁を築かせた。
5日には家康も小牧山北麓と八幡塚の間に土塁を築く。
大軍同士が正面からぶつかる戦いにはならなかった。
砦を築き、その間を土塁でつなぎ、相手の進路を塞ぐ。
小牧の野に防御施設が増えていった。
日が経つほど正面から攻めるのは難しくなる。
秀吉軍は別の場所から家康を動かす作戦を準備した。
狙ったのは、小牧山の東にある三河だった。
家康の背後へ――三河中入り
家康は自ら尾張へ出陣し、主力も小牧周辺に置いている。
その本拠は三河の岡崎だった。
小牧から岡崎までは直線で40キロを超える。
尾張東部から長久手方面を抜ければ三河西部へ入ることができる。
秀吉軍の一部が岡崎方面へ進めば、家康は難しい判断を迫られる。
小牧山に残れば本領へ敵軍が近づく。
追撃に向かえば小牧の防御線から主力を動かすことになる。
この三河侵攻を進言した人物として、後世の軍記で大きく扱われたのが池田恒興である。
よく知られる話では、恒興が秀吉へ作戦を持ちかけ、秀吉は当初反対したものの、恒興に押されて最後は認めたとされる。
この経緯をそのまま事実とするのは難しい。
実際の三河侵攻軍は約2万規模に及び、事前に進路の普請も行われていたとみられている。行軍も小人数による急襲とは違う。
秀吉が恒興の献策を仕方なく許しただけだったという描写は、後世に作られた可能性が指摘されている。
少なくとも4月初めまでに、秀吉軍では三河へ大規模な別働隊を送る作戦が準備されていた。
小牧山の正面で止まった戦争を、東から動かそうとしていた。
約2万の軍勢が岡崎を目指す
三河へ向かう部隊には、秀吉方の有力武将が集められた。
池田恒興と長男・元助。
森長可。
長谷川秀一。
堀秀政。
そして秀吉の甥・三好信吉――のちの豊臣秀次。
総大将は三好信吉が務めた。
長久手市の解説では、その兵力を約2万4000としている。
4月6日夜半。
岡崎を目指す軍勢が動き始めた。
小牧山へ向かうのではない。
尾張東部の丘陵地帯へ入り、大草、関田方面を通って東へ進む。
翌7日には上条村へ入り、砦を築いて宿営した。
大軍を動かす作戦である以上、行軍の痕跡を完全に隠すことは難しい。
その姿を見た篠木の住民が、小牧山にいる家康へ知らせた。
秀吉軍が東へ向かっている。
家康はすぐに追撃の準備に入った。
徳川軍の先遣隊が小牧を出て、小幡城へ向かう。
三河侵攻軍はすでに先を進んでいる。
その先には岩崎城があった。
後ろからは家康の軍勢が迫る。
小牧山で何日も向かい合っていた両軍が、ようやく大きく動き始めた。
4月9日。
夜明けから、岩崎城、白山林、桧ヶ根、長久手で戦闘が相次ぐ。
三河を目指して小牧を離れた池田恒興と森長可は、岡崎へたどり着くことなく長久手で家康の本隊と戦うことになる。
後編へ続く。
小牧・長久手の戦いをもっと深く知りたい方へ
秀吉と家康が初めて大軍を率いて向かい合った小牧・長久手の戦い。小牧山での対陣から三河中入り、長久手での激戦まで、戦いの全体像をもう少し詳しく知りたい方には、関連書籍もおすすめです。
▶ 『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』
なぜ秀吉の大軍は小牧山を攻めなかったのか。家康はどのように迎え撃ったのか。記事とあわせて読むと、1584年の戦いの流れがさらに見えやすくなります。

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