第113回
天正12年(1584年)4月9日。
夜明けを迎えた尾張東部では、羽柴秀吉が送り出した岡崎侵攻軍が東へ進んでいた。
総勢は約2万4000。
池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政、長谷川秀一、そして秀吉の甥・三好信吉らが参加する大軍である。
目指しているのは徳川家康の本拠、三河の岡崎だった。
その後方には、すでに徳川軍が迫っていた。
家康は岡崎侵攻軍の動きを察知すると、小牧山から兵を出し、自身も約9300の本隊を率いて小幡城まで進んでいた。
先行する榊原康政ら約4500は、さらに東へ向かっている。
羽柴軍は狭い道を東へ進むうち、軍列が長く伸びていた。
前方の池田恒興と森長可。
その後ろの堀秀政。
最後尾の三好信吉。
4月9日の早朝、離れた場所にいるそれぞれの部隊が、ほぼ同時に戦闘へ巻き込まれていく。
池田恒興は岩崎城を攻める。
三好信吉は白山林で背後から襲われる。
堀秀政は桧ヶ根で徳川軍を迎え撃つ。
その間に家康本隊は長久手へ入った。
午前10時ごろ。
長久手の丘陵地帯で家康軍が布陣を終える。
岩崎城を落とした池田恒興と森長可が引き返してくる。
昼ごろには森長可が銃弾を受けて倒れ、池田恒興と長男・元助も討たれた。
午後1時ごろ。
戦闘は終わった。
小牧山で10日以上にわたって向かい合いながら、決戦を避けてきた両軍だった。
その均衡が、4月9日の数時間で崩れた。
4月6日、岡崎を目指して約2万4000が動く
3月末から、小牧山に陣取る徳川家康・織田信雄軍と、楽田を本陣とする羽柴秀吉軍は対峙を続けていた。
家康は小牧山を陣城として改修し、周囲に砦を築いた。
秀吉方も小牧山の北から東にかけて砦を連ね、両軍の間には土塁まで築かれている。
正面からの大規模な戦闘は起こらなかった。
4月に入ると、秀吉方は家康の本拠である岡崎へ軍勢を送る作戦を実行に移す。
後世の軍記では、池田恒興が三河侵攻を進言し、秀吉が当初は反対しながら最後に許したという話が広く知られる。
近年、この経緯は見直されている。
三河へ送られた軍勢は約2万4000。
事前に進軍路の普請が行われた形跡も指摘され、数百、数千の兵が敵に知られないよう走り抜ける程度の作戦ではなかった。
秀吉自身が関与して準備した大規模な軍事行動だったと考える余地が大きい。
編成は複数の部隊に分かれていた。
池田恒興・元助父子。
森長可。
堀秀政。
長谷川秀一。
最後尾には三好信吉。
信吉は後の豊臣秀次で、このとき17歳。秀吉の姉・とも(日秀)の子である。
若い信吉が全軍の総大将となった。
4月6日夜半。
軍勢は小牧方面から東へ動き始めた。
大草、関田方面を通り、尾張東部の丘陵地帯を抜けて三河へ入る。
岡崎まで進めば、家康の本領そのものを脅かせる。
家康が小牧山を離れて追えば、秀吉本隊が動く余地も生まれる。
小牧山の正面で動かなかった戦線を、家康の背後から動かそうとする作戦だった。
岡崎侵攻軍の動きが家康へ伝わる
4月7日。
岡崎侵攻軍は上条村付近へ入り、砦を築いて宿営した。
小牧市の年表には、この日、篠木の住民が岡崎侵攻軍の駐屯を家康へ知らせたと記されている。
家康側が動き始めた。
榊原康政ら約4500の先遣隊が小牧を出発し、小幡城方面へ向かう。
その中には水野忠重、丹羽氏次らがいた。
丹羽氏次は岩崎城主である。
自領に近い尾張東部の地理を知っており、徳川軍の道案内を務めた。
家康自身も本隊を率いて小牧山を出る。
兵力は約9300とされる。
4月8日夜には小幡城へ入った。
岡崎侵攻軍は、その東を進んでいる。
翌9日未明。
家康本隊も小幡城から動いた。
家康は岡崎へ戻ったのではない。
岡崎へ向かっている羽柴軍の後方を追った。
小牧山から続いていた戦場は、長久手方面へ大きく移った。
狭い道を進んだ羽柴軍の列が伸びる
岡崎侵攻軍は一つの巨大な集団になって進んでいたわけではなかった。
約2万4000の兵が複数の部隊に分かれ、丘陵地帯の道を東へ進む。
軍勢が進む道には幅の限界がある。
数万人が一度に横へ広がって歩けるわけではない。
先頭が進むほど、軍列は東西へ長く伸びた。
4月9日早朝。
先頭付近の池田恒興らは岩崎城の近くまで達している。
最後尾の三好信吉隊は、そこから大きく離れた白山林付近にいた。
その間には堀秀政らの部隊がいる。
互いにすぐ援軍を送れる距離ではなくなっていた。
そこへ徳川軍が追いついた。
最初に大きな打撃を受けたのは、17歳の総大将が率いる最後尾だった。
同じころ、先頭では岩崎城の戦いが始まっていた。
岩崎城――16歳の丹羽氏重が迎え撃つ
岡崎侵攻軍の先頭を進む池田恒興隊の前に岩崎城があった。
現在の愛知県日進市。
尾張東部の丘陵に築かれた平山城である。
城主・丹羽氏次は家康の軍勢に加わっていた。
城を預かっていたのは弟の丹羽氏重。
16歳だった。
長久手城主・加藤忠景も城内に入っていた。
池田恒興は岡崎への進軍を急ぎ、当初は岩崎城を通過しようとしたと伝えられる。
城から鉄砲が撃ちかけられた。
池田軍が向きを変えた。
岩崎城には200人余り、日進市の伝承では300余りの城兵がいたとされる。
池田隊との兵力差は大きい。
城兵は城に籠もり、押し寄せる池田軍を迎え撃った。
鉄砲が撃たれ、城をめぐって戦闘になる。
池田軍は攻撃を続け、城内へ入った。
丹羽氏重、加藤忠景らは戦死する。
城兵の多くも討たれた。
岩崎城は落ちた。
氏重は16歳。
加藤忠景は41歳だった。
後世、岩崎城での抵抗が池田軍を足止めし、それが長久手での敗北につながったと語られることがある。
実際に池田軍がここで戦闘を行い、時間を費やしたことは確かである。
岡崎侵攻軍では、すでに後方でも戦闘が始まっていた。
白山林――朝食中の三好隊を徳川軍が襲う
4月9日早朝。
岡崎侵攻軍の最後尾、三好信吉隊は白山林付近にいた。
現在の尾張旭市周辺である。
兵たちは朝食を取っていたと長久手市の資料は伝える。
そこへ榊原康政ら徳川方の先遣隊が迫った。
敵が来た方向は前ではなく、後ろだった。
小牧方面から追ってきた徳川軍が、そのまま最後尾へ襲いかかった。
突然の攻撃で三好隊が混乱する。
兵が武器を取り、隊列を整えようとしている間にも徳川軍が入ってくる。
前方の堀秀政や森長可、池田恒興とは距離が開いていた。
三好隊は崩れた。
総大将の信吉も逃げる。
17歳の若武者は細ヶ根付近まで退いた。
逃走の途中で自分の馬を失ったと伝えられている。
追ってくる徳川兵との距離が縮まる。
信吉を救ったのが木下勘解由利匡だった。
利匡は自分の馬を信吉へ渡した。
信吉はその馬で戦場を離れる。
利匡は兄弟の木下祐久とともに残り、追ってきた徳川軍と戦って命を落とした。
岡崎侵攻軍の総大将は生き延びた。
率いていた部隊は白山林で崩れた。
徳川先遣隊はそのまま東へ進む。
白山林での勝利によって勢いがついていた。
次に待っていた相手は、三好信吉よりはるかに戦場経験の多い堀秀政だった。
桧ヶ根――勝って追った徳川軍が撃ち返される
三好隊敗走の知らせを受けた堀秀政は、桧ヶ根の丘陵に陣を構えた。
秀政は31歳。
信長に近侍し、本能寺の変後は秀吉に従った。
白山林で勝った徳川先遣隊が、そのまま追ってくる。
堀軍は丘陵上で待った。
徳川勢が近づく。
鉄砲が撃ち込まれた。
長久手市の資料では、堀軍は接近した徳川勢へ鉄砲をつるべ打ちに浴びせたとされる。
白山林から追撃してきた徳川軍は、戦列が伸びていた。
銃撃を受けて隊列が乱れる。
堀秀政が総攻撃を命じた。
今度は徳川方が押し返された。
白山林では徳川軍。
桧ヶ根では羽柴軍。
わずかな距離の中で勝敗が入れ替わった。
徳川方には多数の死者が出たとされる。
堀秀政は追撃を続けなかった。
近くの御旗山には、家康の金扇の馬標が見えたと伝えられる。
徳川の先遣隊だけではない。
家康本隊がすでに長久手へ入っている。
堀軍がさらに西へ追えば、家康本隊とぶつかる。
秀政は兵をまとめ、北へ退いた。
この判断によって、堀軍は長久手の決戦から離れる。
白山林で三好隊が崩れ、桧ヶ根で堀隊も戦場を離れた。
岡崎侵攻軍は分断されたままだった。
前方に残った池田恒興と森長可が、家康本隊と向かい合うことになる。
午前8時ごろ、家康が色金山へ入る
4月9日午前8時ごろ。
家康本隊は岩作の色金山周辺へ到着した。
現在の長久手市岩作色金である。
家康はそこから戦場の状況を見ながら、さらに東へ軍勢を進めた。
香流川を渡る。
午前10時ごろには、富士ヶ根から仏ヶ根、前山周辺へ徳川・信雄軍が布陣した。
この一帯は平坦な野原だけではない。
香流川沿いの低地を小さな丘陵が囲み、起伏が続いている。
現在の古戦場公園周辺も、当時は丘陵と谷が入り組む場所だった。
徳川方では井伊直政らが前面へ出る。
井伊直政は23歳。
前年に武田氏旧臣を中心とする部隊を預けられ、赤備えを率いるようになっていた。
長久手市の資料では、家康から預けられた20人組鉄砲頭と鉄砲300挺を率いて戦ったとされる。
信雄の軍勢も布陣した。
家康は岡崎侵攻軍を追って長久手まで来た。
そのころ池田恒興のもとへ、後方で起きた異変が伝わった。
三好信吉隊が敗れた。
堀秀政もすでに北へ退いている。
岡崎へ向かい続ければ、後方を家康本隊に抑えられることになる。
池田恒興と森長可は急いで引き返した。
岩崎城から戻った池田・森軍
岩崎城を落とした池田恒興らは長久手へ戻る。
その前には、すでに家康軍が陣を敷いていた。
池田恒興は長男・元助を右翼へ置いた。
娘婿の森長可は左翼。
池田・森軍も戦闘態勢を整える。
白山林のような急襲ではない。桧ヶ根のような追撃戦でもない。
互いに相手の存在を知り、布陣したうえで始まる正面戦闘だった。
午前10時から11時ごろ。
仏ヶ根周辺で戦闘が激しくなる。
池田・森軍も簡単には崩れなかった。
長久手市の記録でも、戦闘は激しく、しばらく勝敗が決しなかったとされる。
戦況を変えたのは左翼だった。
森長可の部隊である。
森長可、家康本陣へ迫る
森長可は27歳。
美濃金山城主。
信長の小姓として本能寺で死んだ森成利――蘭丸の兄にあたる。
武田氏滅亡後には信濃川中島四郡を与えられた経験も持つ。
小牧・長久手の戦いでは、すでに一度、徳川軍と戦っていた。
3月17日の羽黒である。
酒井忠次らに敗れ、犬山方面へ退いた。
それから23日後。
今度は長久手で家康本隊と戦う。
森軍は徳川方へ攻め込んだ。
長久手市の資料では、長可は家康の本営へ突進したとされる。
井伊直政の部隊には鉄砲300挺が配されていた。
昼ごろ。
銃弾が森長可に当たった。
頭部を撃たれたと伝えられている。
長可はその場で戦死した。
27歳だった。
指揮官を失った森軍が崩れ始める。
左翼の崩壊は、その隣で戦っていた池田軍にも及んだ。
池田恒興、退かずに戦う
池田恒興は49歳。
信長とは乳兄弟にあたる。
母の養徳院が信長の乳母を務めた。
恒興自身も若いころから織田家に仕え、信長の戦争に参加している。
本能寺の変後には秀吉らと山崎の戦いで明智光秀を破り、清須会議にも出席した。
天正12年3月13日。
小牧・長久手の戦いが始まると、恒興は犬山城を奪った。
4月9日早朝には岩崎城を落としている。
その日の昼。
長久手で森長可が倒れた。
池田軍も徳川方に押される。
恒興は戦場から脱出できなかった。
徳川方の永井直勝が恒興を討ち取ったと伝えられる。
長男の元助も戦っていた。
元助は26歳。
父とともに三河侵攻軍へ加わり、右翼を率いていた。
元助も安藤直次に討たれたとされる。
池田家は一つの戦場で当主と嫡男を失った。
父・恒興49歳。
長男・元助26歳。
娘婿・森長可27歳。
三人とも、4月9日の長久手で死んだ。
次男の池田輝政は生き残った。
後に家康の娘・督姫を妻に迎え、関ヶ原の戦いでは東軍に参加する。
姫路52万石を領し、現在の姫路城の大改修を行う人物である。
1584年の長久手では、その父と兄が家康の軍勢に討たれていた。
午後1時、戦いが終わる
森長可が倒れ、池田恒興・元助父子も討たれると、池田・森軍は戦場から崩れていった。
長久手市の資料では、戦闘の終結を午後1時ごろとしている。
早朝の岩崎城と白山林から始まり、桧ヶ根を経て、仏ヶ根周辺での決戦が終わるまで半日ほど。
その間に岡崎侵攻軍は大きな損害を受けた。
三好信吉隊は白山林で敗走。
堀秀政は桧ヶ根で徳川先遣隊を破ったものの、家康本隊の進出を知って北へ撤退。
池田恒興、池田元助、森長可は戦死。
岡崎へ向かっていた約2万4000の軍勢は、目的地へ到達できなかった。
家康は長久手の戦場で勝った。
それでも、その場に留まらなかった。
秀吉本隊が動き始めていた。
秀吉、長久手へ向かう
秀吉は楽田にいた。
岡崎侵攻軍が家康と戦っていることを知ると、救援へ向かった。
4月9日。
秀吉は楽田を出て、龍泉寺方面まで進んだ。
長久手から見れば北西にあたる。
秀吉本隊が到着すれば、家康は新たな大軍と戦わなければならない。
家康は長久手で追撃を続けず、兵をまとめた。
小幡城方面へ戻る。
さらに小牧山へ帰った。
同じ4月9日のうちである。
秀吉が家康を捕捉することはできなかった。
翌10日。
秀吉も楽田へ戻る。
4月9日の戦闘は、家康側の勝利で終わった。
長久手で秀吉自身が家康に敗れたわけではない。
戦ったのは秀吉が送り出した岡崎侵攻軍であり、
秀吉本隊そのものは、まだ大きな兵力を保っていた。
戦争は終わらなかった。
「今分ハ家康勝ニ可成歟」
長久手で秀吉方が受けた打撃は大きかった。
池田恒興。
池田元助。
森長可。
信長の時代から戦場を経験してきた武将たちが一日のうちに失われた。
家康側の勝利は、遠く離れた畿内にも伝わった。
興福寺の僧・英俊が記した『多聞院日記』には、戦況を聞いたうえで、
「今分ハ家康勝ニ可成歟」
と記されている。
「今のところは家康の勝ちになるだろうか」という意味である。
長久手で家康が勝ったことは、当時の人々にもそのように受け止められていた。
一方で「今分」という言葉が付いている。
戦争そのものは続いていた。
秀吉の軍事力は長久手の敗戦だけでは崩れなかった。
家康にも、そこから秀吉の本拠へ攻め込むだけの圧倒的な兵力はない。
両者は再び軍勢を動かしながら相手の隙を探った。
戦場は小牧から美濃へ移る
5月初め。
秀吉は尾張を離れ、鵜沼方面へ軍勢を動かした。
信雄も5月3日に小牧山から長島城へ戻る。
小牧山を挟んで続いていた大軍同士の対陣は終わった。
戦争そのものが終わったわけではない。
秀吉は家康本隊だけを相手にせず、信雄の領国や周辺の城へ軍事行動を広げた。
尾張。美濃。伊勢。
複数の地域で戦闘が続く。
6月には、尾張西部で再び大きな戦いが起きた。
蟹江合戦である。
蟹江城をめぐる戦い
蟹江城は現在の愛知県海部郡蟹江町。
当時の伊勢湾に近く、河川や水路が入り組む地域にあった。
水運を使えば、伊勢方面とも結びつく。
6月16日。
秀吉方の滝川一益と九鬼嘉隆が動いた。
蟹江城主・佐久間正勝が留守の間に、城を預かっていた前田種利を調略する。
蟹江城。
前田城。
下市場城。
三つの城が秀吉方へ渡った。
家康と信雄はすぐに反撃した。
6月18日。
信雄・家康軍が蟹江方面へ攻め込み、下市場城を奪回する。
23日には前田城も取り戻した。
残る蟹江城への攻撃が続く。
秀吉方には九鬼嘉隆の水軍がいた。
家康・信雄側も水上からの動きを警戒しながら城を包囲する。
7月3日。
蟹江城も信雄・家康側へ戻った。
滝川一益らは退去した。
長久手に続き、秀吉方は家康・信雄軍を軍事力だけで崩すことができなかった。
それでも秀吉は戦争をやめなかった。
夏が過ぎても決着しない
7月13日。
家康は清須城へ、信雄は長島城へ戻った。
8月26日には秀吉軍が再び木曽川を越え、小牧山の北西へ進軍する。
家康は28日、清須から岩倉城へ陣を移した。
両軍は再び向かい合う。
9月2日。
和睦交渉が始まった。
まとまらない。
家康は9月27日に清須へ戻り、秀吉も10月6日に大坂へ帰った。
半年以上戦いながら、秀吉は家康を軍事的に屈服させられず、家康も秀吉を倒すことができなかった。
10月23日。
秀吉軍が再び動く。
向かったのは北伊勢だった。
今度は信雄の領国が直接攻められた。
秀吉が追い詰めたのは信雄だった
秀吉軍は北伊勢へ入り、さらに信雄方の城を攻めた。
10月下旬には南伊勢の戸木城が落ちる。
11月5日には美濃東部の駒野城を攻略。
北伊勢では浜田城を包囲し、縄生城へ入った。
長久手で家康本隊を破ることはできなかった。
蟹江でも思うような成果を得られなかった。
それでも秀吉には、広い地域へ兵を送り続ける力があった。
戦争が長引くほど、信雄の領国が圧迫されていく。
信雄が秀吉と戦い始めたのは3月。
その信雄が11月、秀吉との講和を選んだ。
伊勢国矢田河原で両者が会見する。
家康とは別に進められた単独講和だった。
信雄は伊賀と伊勢の一部を秀吉側へ譲る。
3月に三家老を殺害し、秀吉との戦争へ踏み切った信雄自身が、約8か月後には秀吉と手を結んだ。
家康は信雄を支援する立場で参戦している。
信雄が講和すれば、戦争を続ける前提が崩れる。
家康も兵を引いた。
小牧・長久手の戦いは終わった。
長久手では家康が勝った。戦争を終わらせたのは秀吉の政治力だった
4月9日の長久手。
勝者は家康である。
岡崎侵攻軍の後方を追い、白山林で三好信吉隊を破った。
桧ヶ根では堀秀政に押し返されたものの、家康本隊は長久手へ進出する。
池田恒興と森長可が戻ってきたところを迎え撃ち、森長可、池田恒興、池田元助を討った。
秀吉の救援軍が来る前に戦場を離れ、小牧山へ戻った。
戦術的な勝利としては明確だった。
戦争全体になると、勝敗は一言では表せない。
秀吉は家康を戦場で屈服させることができなかった。
家康も秀吉の勢力そのものを崩せなかった。
長久手から七か月後、秀吉は信雄と直接講和し、家康が戦う政治的な前提を失わせた。
その後、家康は次男の於義丸――後の結城秀康――を秀吉のもとへ送る。
秀吉と家康の関係が完全に落ち着いたわけではない。
家康が大坂へ赴き、秀吉への臣従を明確にするのは天正14年(1586年)である。
その間にも両者の駆け引きは続いた。
天正13年(1585年)、秀吉は関白となる。
翌年には太政大臣となり、豊臣姓を賜る。
家康はその政権の中へ組み込まれていった。
ただ、家康は、秀吉の大軍を相手に小牧山を守り抜き、敵の別働隊が動くと自ら追撃し、長久手で池田恒興と森長可を討った。
軍事力だけでは家康を屈服させられないことを、秀吉も知ることになった。
秀吉が死ぬのは慶長3年(1598年)。
その2年後、関ヶ原の戦いで家康が勝利する。
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍となった。
1584年、小牧山と長久手で戦った二人は、どちらもこの戦争で相手を倒すことはできなかった。
長久手で勝ったのは家康。
その後、天下を統一したのは秀吉。
そして最後に幕府を開いたのは家康だった。
小牧・長久手の戦いは、三英傑のうち最後の二人が、大軍を率いて正面から争った戦争だった。
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