第119回
永禄元年(1558年)、森長可は織田信長の家臣・森可成の次男として生まれた。
通称は勝蔵。
のちに武蔵守を称し、後世には「鬼武蔵」の異名で知られるようになる。
父・可成は、信長が尾張から美濃へ勢力を広げていく時期から仕えた古参家臣だった。
森家は美濃東部の金山城を任され、長可もその家に生まれた。
元亀元年(1570年)、森家を相次ぐ戦死が襲う。
まず兄・可隆が越前で討死し、同じ年の9月には父・可成も近江で戦死した。
長可が家督と金山城を継いだとき、13歳だった。
可児市の金山城の沿革にも、可成の戦死後、13歳の長可が城主となったことが記されている。
少年だった金山城主は、その後、信長の戦場を歩き、24歳で北信濃を任されるまでになる。
本能寺の変では信長と三人の弟を失った。
そして天正12年(1584年)4月9日、長久手。
長可は徳川家康の軍と戦い、27歳で命を落とした。
その14日前、長可は自分が討死した場合に備えた遺言状を書いていた。
父・森可成と金山城
父・森可成は美濃出身の武将で、信長の美濃攻略や上洛戦に従った。
永禄8年(1565年)、信長が東美濃へ勢力を伸ばすと、可成は烏峰城を与えられた。
城は金山城と改められ、現在の岐阜県可児市兼山にあった。
木曽川を望む山城で、東美濃から木曽方面へ通じる地域を押さえる位置にある。
長可には兄の可隆がおり、弟には坊丸、力丸、成利らがいた。
成利は信長の小姓として仕え、一般には森蘭丸の名で知られている。
森家の男子たちは、父と同じように織田家へ仕えた。
その森家の将来を大きく変えたのが、元亀元年だった。
兄、そして父を失った13歳
元亀元年4月、信長は越前の朝倉義景を攻めた。
森家の嫡男だった可隆も出陣し、手筒山城攻めで討死したと伝えられている。
次男の長可が森家の後継者となった。
約5か月後の9月、父・可成も戦死する。
浅井・朝倉方の軍勢が近江へ進出し、信長方の宇佐山城周辺へ迫った。
可成はこれを迎え撃ち、9月20日の戦闘で命を落とした。
長可は兄と父を同じ年に失い、13歳で森家の家督と金山城を継いだ。
以後、東美濃の領主として信長に仕えることになる。
金山を治めた若い城主
後世の長可は、戦場を駆ける「鬼武蔵」の姿で語られることが多い。
可児市も、勇猛な戦いぶりから「鬼武蔵」と呼ばれた人物として紹介している。
金山城主としての仕事は当然戦いだけではない。
木曽川の水運を利用できる金山では、城下に商人や職人が集まり、町の整備も進められた。
長可は金山を軍事拠点として守りながら、東美濃を治める領主として成長していく。
天正2年(1574年)には伊勢長島の一向一揆攻めに従軍し、翌天正3年5月には武田勝頼と織田・徳川連合軍が戦った長篠の戦いにも参加した。
父の死から5年。
10代だった長可は、森家の当主として信長の軍事行動に加わるようになっていた。
その長可に大きな転機が訪れるのが、天正10年(1582年)の武田攻めである。
1582年、武田領へ
天正10年2月、信長は甲斐武田氏への大規模な侵攻を開始した。
主力を率いたのは嫡男・織田信忠である。
長可も信忠軍に加わり、信濃へ進んだ。
織田軍は伊那谷を南下し、武田方の諸城を攻略する。
3月2日には仁科盛信が守る高遠城が落ち、その後も軍勢は甲斐へ進んだ。
3月11日、武田勝頼は天目山麓で自害する。
甲斐武田氏は滅亡した。
戦後、信長は旧武田領を家臣たちに分け与える。
長可にも、それまでの金山とは比べものにならないほど広い領地が与えられた。
北信濃を任された24歳
長可が与えられたのは、川中島を中心とする北信濃だった。
可児市の記録でも、天正10年に長可が信濃川中島へ移されたことが確認できる。
金山には弟の乱丸が入った。
長可は海津城を拠点とし、新たに織田領となった地域の支配にあたった。
旧武田領の国衆を従わせ、禁制や所領安堵状を発給しながら統治を進める。
北には上杉景勝の越後があり、その動きにも備える必要があった。
13歳で金山城主となってから11年。
長可は一城を守る領主から、信濃の一方面を任される武将となっていた。
ところが、その支配は長く続かなかった。
長可が北信濃へ入ってから、わずか二か月ほど後のことだった。
本能寺の変――信長と三人の弟
天正10年6月2日、明智光秀が京都の本能寺を襲った。
織田信長は自害した。
本能寺には長可の弟・成利もいた。
坊丸、力丸も信長のそばに仕えており、三人とも本能寺で命を落とした。
長可は一度に主君と三人の弟を失った。
本人は京都から遠く離れた北信濃にいる。
信長の死後、旧武田領では織田家の支配が揺らぎ、上杉景勝も信濃方面へ勢力を伸ばそうとしていた。
長可は海津城を離れ、美濃へ戻ることを決めた。
信濃から金山へ
本能寺後の長可の撤退には、後世さまざまな逸話が伝えられている。
『森家系譜』『森家先代実録』などには、信濃の国衆や木曾義昌らとの緊張を抱えながら、美濃への帰路を進んだ様子が詳しく描かれる。
こうした細部は後世の森家関係史料による部分が大きい。
長可が海津城を離れ、本能寺の変後に金山へ戻ったことは確認できる。
可児市の金山城沿革でも、天正10年の本能寺の変で乱丸らが死去したのち、長可が再び金山城へ戻った流れが記されている。
信長の死後、織田家では羽柴秀吉、柴田勝家、織田信雄、織田信孝らの関係が動いていく。
長可はそのなかで秀吉に近い立場を取った。
秀吉のもとで東美濃を固める
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家の争いは賤ヶ岳の戦いへ進んだ。
勝家は敗れ、越前北庄城で自害する。
長可も秀吉側に立ち、東美濃で勢力を固めていった。
長可の妻は池田恒興の娘だった。
恒興も本能寺後は秀吉側へ進み、やがて美濃大垣を領する有力武将となる。
翌天正12年、秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いが始まると、長可と恒興は同じ陣営で尾張へ向かった。
その出陣を前に、長可は一通の遺言状を残している。
3月26日、長可が残した遺言
天正12年3月26日。
長可は遺言状を書いた。
この「森長可遺言状」は現在も名古屋市博物館に所蔵されている。
そこには、自分が討死した場合の家族の行く末が記されていた。
母は京都に住まわせてほしい。
娘については武家へ嫁がせることを望まず、京都の町人に嫁がせてほしい。
幼い弟に自分の跡目をそのまま継がせず、秀吉の側で奉公させてほしい。
名古屋市博物館は、この遺言について、森家の繁栄よりも家族の無事を願う長可の意向が読み取れると紹介している。
後世の「鬼武蔵」という呼び名から浮かぶのは、敵陣へ踏み込む猛将の姿。
残された遺言状には、母や娘、弟のその後を考える27歳の当主の姿。
この遺言を書いてから14日後、長可は長久手で戦死する。
羽黒の戦い――家康軍に退けられる
天正12年、秀吉と織田信雄の関係が決裂した。
信雄は徳川家康と結び、秀吉に対抗する。
池田恒興は犬山城を攻略し、長可も尾張へ進んだ。
3月17日、長可は羽黒付近で徳川方と戦った。
徳川方では酒井忠次らが動き、森勢を攻撃する。
長可はこの戦いで敗れ、軍を退いた。
その後、家康・信雄軍は小牧山を中心に陣を固め、秀吉も大軍を尾張へ進める。
両軍が小牧周辺で対陣するなか、4月になると秀吉方は家康の背後へ別働隊を送る作戦に出た。
目標は三河岡崎だった。
岡崎を目指す
後世の『太閤記』などでは、この三河への「中入り」を池田恒興が秀吉に献策したと伝える。
別働隊の総大将には秀吉の甥・三好信吉、のちの豊臣秀次が置かれ、恒興・元助父子、森長可、堀秀政、長谷川秀一らが参加した。
4月6日夜、長可は恒興らと岡崎を目指して進み始めた。
別働隊の動きは徳川方に察知される。
4月9日朝には後方の部隊が相次いで家康軍の攻撃を受け、岡崎への進軍は続けられなくなった。
長可と恒興は軍を返した。
向かった先が長久手だった。
4月9日、長久手
長久手では、すでに家康の主力が布陣していた。
長久手市の記録では、家康の本隊は朝に色金山周辺へ到着し、午前10時ごろには富士ヶ根から仏ヶ根付近に陣を構えている。
恒興は長男・元助を右翼、娘婿の長可を左翼に置いたと伝えられる。
長可27歳。
岳父・恒興49歳。
元助26歳。
徳川方では家康自身が軍を率い、井伊直政らが戦列に加わっていた。
昼ごろまで激しい戦闘が続いた。
長久手市は、長可が家康の本営へ向かって攻めるなかで銃弾を頭部に受け、戦死したと伝えている。
天正12年(1584年)4月9日。
森長可、享年27。
現在の長久手市には、長可の戦死地を伝える「武蔵塚」が残っている。
長可が倒れたのち、戦況は徳川方へ傾いた。
池田恒興は永井直勝に討たれ、元助も安藤直次に討ち取られたと伝わる。午後1時ごろには長久手での戦闘は終わった。
長可が3月26日の遺言で考えていた「自分が戻らなかった場合」が、現実になった。
森家を継いだ忠政
長可には家督を継ぐ男子がいなかった。
森家を継いだのは弟の忠政である。
長可は遺言状で、幼い弟に自分の跡目をそのまま継がせることには否定的な意向を示していた。それでも長可の死後、忠政が金山城主となったことは可児市の沿革にも記されている。
慶長5年(1600年)、忠政は信濃川中島へ移された。
兄・長可が本能寺の変によって離れた土地へ、18年後、弟が入ることになった。
その後、忠政は美作津山へ移り、森家は江戸時代へ続いていく。
長久手で長可が倒れてから16年後、森家は再び川中島へ戻った。
「鬼武蔵」森長可の生涯をもっと深く
13歳で森家を継ぎ、信長のもとで戦場を駆け、27歳で長久手に散った森長可。
谷口研語『森長可――信長も一目置いた若き猛将「鬼武蔵」』は、武田攻めによる北信濃進出から、本能寺の変、そして最後の小牧・長久手まで、森長可の短く激しい生涯を描いた一冊です。
「鬼武蔵」と呼ばれた森長可を、もっと深く知りたい方におすすめです。


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