【戦い・事件編】篠原の戦い――平氏軍、北陸で崩壊 斎藤実盛の最期

戦い・事件

第120回

寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠で敗れた平氏軍は加賀へ退いた。

木曾義仲はその後を追う。

平氏の北陸追討軍は4月に京都を出発し、越前の火打城を攻略して加賀、さらに越中へ進んでいた。

『平家物語』では、出陣時の軍勢を10万余騎と記している。

5月11日、砺波山・倶利伽羅峠で義仲軍に敗れ、平氏軍は加賀へ戻った。

追撃する義仲軍との次の戦場となったのが加賀国篠原、現在の石川県加賀市篠原町周辺である。

『平家物語』は5月21日に篠原合戦を置く。

一方、九条兼実の日記『玉葉』では、6月1日に加賀の篠原などで平氏軍が敗れたとの情報が記録されている。

倶利伽羅に続く敗戦によって、平氏の北陸追討軍は大きく崩れた。

『平家物語』は、その敗走する軍勢のなかで馬を返した一人の老武者を描いている。

斎藤別当実盛である。

倶利伽羅から加賀へ退く平氏軍

平氏が北陸へ追討軍を送り出したのは、同年4月だった。

軍には平維盛、平通盛、平知度、平経正、平清房、平行盛ら一門の武将が加わっていた。

『平家物語』が記す軍勢は10万余騎。

4月27日には越前の火打城を攻略し、平氏軍は加賀へ入った。

そこから軍勢を分けて越中へ進んだものの、5月11日の倶利伽羅峠で義仲軍に敗れた。

山中で崩れた兵たちは加賀へ逃れ、義仲軍が追撃する。

『平家物語』では、篠原で再び戦いとなり、平氏方が敗れて越前方面へ退いたと描かれている。

京都にも北陸から敗報が届き始めていた。

『玉葉』に届いた北陸軍敗北の知らせ

京都にいた九条兼実は、北陸の戦況を日記『玉葉』に書き留めている。

6月1日、加賀の篠原などで平氏軍が敗れたとの情報が届いた。

6月4日には、北陸へ向かった平氏軍が大敗したとの知らせが入る。

翌5日、前飛騨守・中原有安が兼実を訪れ、さらに詳しい状況を伝えた。

このとき『玉葉』が記す平氏軍の兵力は4万騎。

その過半が死傷し、残った兵も武具を捨てて山林へ逃れたという。

平盛俊、平景家、平忠経らも従者を連れずに逃れたと伝えられた。

6月6日には、北陸から敗走した平氏軍が京都へ帰っている。

4月17日に都を出た北陸追討軍は、火打城を攻略して北上したあと、倶利伽羅、篠原と続けて敗れ、二か月にも満たないうちに京都へ戻った。

この篠原の敗走を、『平家物語』は斎藤実盛の最期とともに伝えている。

斎藤別当実盛

斎藤実盛は、武蔵国長井荘を拠点とした武士である。

「斎藤別当」「長井斎藤別当」と呼ばれた。

実盛の生年には諸説があり、後世には天永2年(1111年)生まれとする伝承も広まった。

これに従えば篠原合戦の年には数え73歳となる。

実盛はもともと源氏と深い関係を持っていた。

保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝方に加わり、平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝に従った。

平治の乱で義朝が敗れたのち、実盛は平氏方に属する。

治承4年(1180年)、平維盛を大将とする追討軍が源頼朝を討つため東国へ向かった際にも従軍した。

『平家物語』の富士川合戦では、東国の事情を知る実盛が、維盛らに坂東武者の戦いぶりを語る場面がある。

それから3年後、実盛は再び維盛らとともに出陣した。

今度の戦場は北陸だった。

28年前、幼い義仲を救った実盛

実盛と木曾義仲の関係は、久寿2年(1155年)までさかのぼる。

この年、義仲の父・源義賢は武蔵国の大蔵合戦で源義平に討たれた。

義仲は幼児だった。

『平家物語』などでは、この幼い義仲を実盛が救い、信濃国の中原兼遠のもとへ送り届けたと伝えている。

義仲は信濃で成長した。

治承4年(1180年)に挙兵すると信濃から北陸へ勢力を伸ばし、寿永2年には平氏が大規模な追討軍を送るまでになった。

大蔵合戦から28年。

篠原では、かつて義仲を救ったと伝わる実盛が平氏方に立ち、義仲の軍勢を迎えることになった。

北陸へ向かう前に語った覚悟

『平家物語』は、北陸へ向かう前の実盛について一つの話を伝えている。

実盛は俣野景久ら東国出身の武士たちと酒を飲んでいた。

その席で、源氏の勢いが強くなっていることを語り、木曾義仲のもとへ参ろうかと仲間たちに持ちかけたという。

これを聞いた俣野景久は反発した。

東国で名を知られた武士が、平氏が不利になったからと敵へ移ることを恥じ、自分は平氏方で討死すると答えた。

すると実盛は、自分も最初から平氏方で死ぬつもりだと明かした。

仲間たちの心を確かめるために言ったのだという。

『平家物語』は、この場にいた武士たちがのちに北陸で命を落としたと語り、篠原合戦へ話をつないでいる。

敗走する味方のなかで実盛は馬を返す

篠原で平氏軍が崩れた。

兵たちは越前方面へ逃れていく。

『平家物語』では、そのなかで実盛が一騎で踏みとどまり、何度も馬を返して戦ったと描かれている。

実盛の姿は戦場でも目立った。

錦の直垂。萌黄威の鎧。鍬形を打った兜。

金作りの太刀。重籐の弓。

そして連銭葦毛の馬。

『平家物語』によれば、実盛は北陸へ向かう前、平宗盛に願い出て錦の直垂を着ることを許されていた。

実盛は越前に縁を持つ武士だった。

北陸で討死するつもりであり、故郷へ錦を着て帰るという言葉もあるので、錦の直垂を許してほしい。

宗盛はその願いを認めたという。

篠原で馬を返した実盛は、その錦を身につけていた。

手塚光盛との戦い

実盛へ近づいたのが、義仲方の手塚太郎光盛だった。

信濃の武士で、義仲に従って北陸へ進んできた人物である。

光盛は、華やかな装束で戦う武者に名を尋ねた。

実盛は自分の名を明かさなかった。

相手が手塚太郎金刺光盛と名乗ると、討ち取ったあと木曾殿に尋ねよ、と告げたと『平家物語』は記している。

二人は馬上で組み合った。

やがて馬から落ち、地上でもみ合う。

そこへ光盛の郎党も加わった。

実盛は押さえ込まれ、首を取られた。

光盛が討ち取った武者の名は、まだ分からなかった。

「斎藤別当実盛ではないか」

手塚光盛は首を義仲のもとへ持っていった。

錦の直垂を着た大将格の武者でありながら、従う郎党はいなかった。

戦場で名を尋ねても答えなかった。

義仲はその首を見る。

斎藤別当実盛ではないかと思った。

ところが、記憶に残る実盛と合わないところがあった。

髪も鬚も黒かった。

実盛は義仲よりはるかに年長の武士である。

義仲は、実盛を知っていた樋口次郎兼光を呼んだ。

兼光は義仲を育てた中原兼遠の子で、今井兼平の兄にあたる。

首を見た兼光は、実盛に間違いないと答えた。

そして、生前の実盛から聞いたという話を義仲に伝えた。

黒髪を洗うと、白髪が現れた

『平家物語』によれば、実盛はかねてから、60歳を過ぎて戦場へ出るときには髪を黒く染めようと語っていた。

白髪の姿で若い武者と先陣を争うことを嫌い、また、敵から老武者と見られたくなかったという。

その話を聞いた義仲は、実盛の首を洗わせた。

黒い色が落ちていく。

現れたのは白髪だった。

斎藤別当実盛。

『平家物語』では、その首を前にした義仲が涙を流したと描かれている。

28年前、父を失った幼い義仲を救ったと伝わる武士が、今度は平氏方として義仲の軍勢と戦い、その首が目の前へ運ばれてきた。

白髪を黒く染め、錦の直垂をまとって戦った実盛の最期は、『平家物語』のなかでも特に知られる場面となった。

首洗池と実盛塚

斎藤実盛の最期は、篠原周辺に多くの伝承を残した。

現在の石川県加賀市には、実盛にまつわる場所が残っている。

その一つが「首洗池」である。

手塚光盛が持ち帰った実盛の首を洗い、黒く染めていた髪が白髪に戻った場所と伝えられてきた。

篠原町には「実盛塚」もある。

実盛の亡骸を葬ったと伝わる塚である。

さらに実盛が髪を染める際に使った鏡を沈めたという「鏡の池」の伝承も残る。

『平家物語』本文には、これらの池や塚を現在の場所に結びつける記述はない。

篠原合戦と実盛の最期が長く語り継がれるなかで、土地に根づいていった伝承である。

実盛の物語は能『実盛』などにも取り入れられ、篠原で白髪を黒く染めて戦った老武者の姿は後世まで語り継がれた。

敗れた平氏軍、京都へ戻る

実盛が討たれた篠原の敗戦によって、平氏の北陸追討軍はさらに後退した。

『玉葉』では、6月5日に九条兼実が聞いた報告として、4万騎の過半が死傷し、残った兵も武具を捨てて逃れたと記されている。

翌6日、敗れた軍勢が京都へ戻った。

平氏が北陸へ送り込んだ追討軍は、越前の火打城を攻略したあと、倶利伽羅、篠原と続けて敗れた。

義仲軍は加賀から越前へ進む。

京都では北陸軍敗北の知らせが相次ぎ、平氏は都を守るための対応を迫られた。

義仲はさらに近江へ向かい、京都との距離を縮めていく。

寿永2年7月25日。

安徳天皇を奉じた平氏一門は、京都を離れた。

斎藤実盛の生涯をもっと深く

かつて幼い木曾義仲を救ったと伝わり、28年後、その義仲の軍勢を相手に篠原で最期を迎えた斎藤実盛。

『斎藤実盛 絵物語』は、実盛の生涯をはじめ、長井斎藤氏、大蔵合戦、駒王丸(木曾義仲)の救出、保元・平治の乱、そして実盛の最期までをたどる一冊です。

白髪を黒く染め、最後まで戦場に残った老武者・斎藤実盛を、さらに深く知りたい方におすすめです。

 
絵物語斎藤実盛

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