第27回
第27回
奈良時代の終わりから平安時代の初めにかけて、朝廷は東北地方へと支配を広げていた。
その前に立ちはだかった人物の一人が、阿弖流為である。
現在の岩手県奥州市周辺にあたる胆沢地方を拠点とし、朝廷軍に抵抗した蝦夷の有力な首長だった。
延暦8年(789)、朝廷軍が胆沢へ進軍すると、阿弖流為らはこれを迎え撃った。
朝廷軍は大きな損害を受けて敗退する。
のちに「巣伏の戦い」と呼ばれる戦いである。
しかし、それから13年後の延暦21年(802)。
阿弖流為は母礼ら500余人とともに朝廷側へ降伏した。
都へ送られた阿弖流為と母礼について、坂上田村麻呂ら将軍側は胆沢方面へ戻すことを求めた。
だが、その提案は受け入れられない。
二人は河内国で処刑された。
朝廷軍を破った阿弖流為は、どのような人物だったのか。
そして、なぜ最後には降伏を選ぶことになったのか。
今回は、史料から確認できる事実を中心に、阿弖流為の生涯と朝廷による胆沢支配の転換点を見ていく。
1.阿弖流為とは何者だったのか
阿弖流為の生年は分かっていない。
出生地や家族、若い頃についても詳しい記録は残されていない。
阿弖流為自身が残した文章も存在しないため、その人物像を知るには朝廷側の史料を中心に見ていくことになる。
阿弖流為の名が歴史上に明確に現れるのは、延暦8年(789)の胆沢での戦いである。
『続日本紀』には、朝廷軍と戦った勢力の指導者として阿弖流為の名が記されている。
さらに延暦21年(802)には、母礼とともに降伏し、河内国で処刑されたことが後世の史料に伝えられている。
現在では古代東北を代表する人物として知られる阿弖流為だが、史料に登場する場面は非常に限られている。
その中から確実に読み取れるのは、阿弖流為が胆沢地方で朝廷軍に抵抗した勢力の中心人物だったということである。
2.「蝦夷」とは何だったのか
阿弖流為を理解するうえで欠かせないのが、「蝦夷」という言葉である。
当時の朝廷は、自らの支配が十分に及んでいない東北地方の人々を「蝦夷」と呼んでいた。
ただし、東北各地の人々が一つの統一国家を形成していたという意味ではない。
地域ごとにさまざまな集団が存在し、朝廷との関係も異なっていた。
朝廷に従う人々もいれば、交易や交流を行う人々もいた。
一方で、朝廷による支配の拡大に抵抗する勢力も存在した。
阿弖流為が活動した胆沢は、その対立が激しくなった地域の一つだった。
現在の奥州市周辺にあたる「胆沢」という地名は、宝亀7年(776)の『続日本紀』にも登場する。
この頃から朝廷は軍を送り込み、胆沢への進出を本格化させていった。
3.朝廷はなぜ胆沢へ進出したのか
8世紀後半、朝廷は東北地方への支配を徐々に北へ広げていた。
各地に城柵と呼ばれる政治・軍事拠点を築き、その周辺を律令国家の支配下へ組み込んでいく。
行政組織を整え、兵士や住民を移住させながら、朝廷の支配を定着させる政策だった。
その進路の先にあったのが胆沢である。
胆沢は北上川流域に広がり、さらに北へ進むうえでも重要な地域だった。
そこではすでに人々が生活し、それぞれの社会を築いていた。
朝廷による進出が強まるにつれて、胆沢の勢力との衝突も激しくなっていく。
4.延暦8年――大規模な胆沢遠征
延暦7年(788)、朝廷は胆沢への大規模な遠征準備を進めた。
征東大将軍となった紀古佐美のもとへ、東海・東山・坂東諸国などから兵士が集められる。
動員を命じられた兵力は、5万2,800余人に及んだと記録されている。
当時としては極めて大規模な遠征だった。
ただし、この5万人以上が一か所で同時に戦ったという意味ではない。
これは遠征軍全体の規模であり、軍勢は複数に分かれて行動していた。
翌延暦8年(789)、遠征軍は多賀城から北へ進み、胆沢の南にあたる衣川方面へ到着する。
軍勢は前軍・中軍・後軍に分かれて進軍した。
その先で待ち受けていたのが、阿弖流為らの勢力だった。
5.巣伏の戦い――阿弖流為らが朝廷軍を破る
『続日本紀』によれば、中軍と後軍からそれぞれ約2,000人、合わせて約4,000人が進軍した。
阿弖流為の居所付近へ到達すると、約300人の蝦夷勢力が現れる。
戦いが始まり、最初は朝廷軍が優勢だった。
蝦夷側は退却し、朝廷軍は追撃を続ける。
ところが、巣伏村付近まで進んだところで状況が変わった。
約800人の蝦夷勢力が現れ、朝廷軍へ攻撃を開始する。
さらに約400人が朝廷軍の後方へ回り込んだ。
朝廷軍は前後から攻撃を受ける形となり、軍勢は混乱する。
退却の途中では多くの兵が川へ入り、1,036人が溺死したと記録されている。
さらに戦死25人、矢傷を負った者245人。
武器や衣服を失い、泳いで戻った者も1,257人に及んだ。
朝廷軍にとって大きな敗北だった。
これが、のちに巣伏の戦いと呼ばれる戦いである。
6.なぜ朝廷軍は敗れたのか
朝廷は5万人を超える大規模な遠征軍を編成していた。
しかし、巣伏の戦いで実際に行動した部隊は分かれていた。
阿弖流為らは、その状況を有効に利用したと考えられる。
最初に約300人が朝廷軍と戦い、その後退却する。
朝廷軍が追撃すると、前方から約800人が攻撃を開始した。
さらに約400人が後方へ回り込む。
朝廷軍は前後から攻撃を受け、部隊同士の連携も難しくなった。
数の多さを十分に生かせない状況に追い込まれたのである。
史料から阿弖流為本人がどこまで具体的な作戦を指揮したのかは分からない。
それでも、阿弖流為らの勢力が朝廷軍の進軍を崩し、大きな損害を与えたことは確かである。
巣伏の戦いによって、阿弖流為の名は歴史に刻まれた。
7.朝廷は再び胆沢を目指す
巣伏の戦いで敗れた朝廷は、その後も東北への進出を続けた。
朝廷には全国から兵士や物資を集める力があった。
一度の敗北で胆沢への進出を断念することはなかった。
一方、789年から802年までの阿弖流為の具体的な行動については、詳しい史料が残されていない。
この13年間に阿弖流為がどのような戦いを指揮し、どのような判断を重ねたのかは分からない。
その間にも朝廷は遠征を続けた。
そして、朝廷側の中心人物として坂上田村麻呂が登場する。
8.坂上田村麻呂と胆沢城
延暦20年(801)。
征夷大将軍・坂上田村麻呂は朝廷軍を率いて東北へ出陣した。
田村麻呂による遠征によって、朝廷の胆沢進出は大きく前進する。
そして翌延暦21年(802)、田村麻呂は胆沢城の造営を進めた。
胆沢城は、政治と軍事の両方を担う城柵だった。
一辺は約670メートル。
内部には政庁やさまざまな施設が置かれ、のちに東北北部を支配する重要な拠点となる。
朝廷の政策は、軍を送り込む段階から、胆沢に恒久的な政治・軍事拠点を置く段階へ進んでいた。
胆沢を取り巻く状況は、789年の巣伏の戦いの頃とは大きく変わっていた。
9.802年――阿弖流為、降伏
延暦21年(802)4月。
阿弖流為と母礼は、500余人を率いて朝廷側へ降伏した。
巣伏の戦いから13年後のことである。
なぜ阿弖流為が降伏したのか。
本人の言葉は残されていないため、その理由を断定することはできない。
ただし、当時の状況は確認できる。
朝廷は繰り返し東北へ軍を送り込み、坂上田村麻呂による遠征も進めていた。
さらに802年には胆沢城の造営が始まり、朝廷は胆沢を恒久的に支配する姿勢を明確にしていた。
軍事面でも政治面でも、阿弖流為らを取り巻く状況は厳しさを増していた。
その中で、阿弖流為と母礼は降伏を選んだのである。
10.田村麻呂らは二人の帰還を求めた
降伏した阿弖流為と母礼は、坂上田村麻呂によって都へ送られた。
そこで二人をどのように扱うかが問題となった。
史料によれば、田村麻呂ら将軍側は阿弖流為と母礼を奥地へ帰すことを求めている。
二人を現地へ戻し、まだ朝廷に従っていない人々を招き寄せようという考えだった。
阿弖流為らが現地で持っていた影響力を利用し、胆沢周辺の支配を安定させようとしたと考えられる。
しかし、公卿側は反対した。
阿弖流為と母礼を帰せば、再び人々を集めて反抗する危険があると判断したのである。
巣伏の戦いで朝廷軍に大きな損害を与えた勢力の中心人物を故郷へ戻すことには、大きな危険があると見られていた。
最終的に、田村麻呂らの提案は受け入れられなかった。
11.802年8月13日――阿弖流為の最期
延暦21年(802)8月13日。
阿弖流為と母礼は河内国で処刑された。
処刑地については、現在の大阪府枚方市周辺に比定する説が知られている。
胆沢から遠く離れた土地で、阿弖流為の生涯は終わった。
生まれた年は分からない。
家族についても詳しいことは分からない。
本人が何を考えて戦い、何を考えて降伏したのかも記録には残されていない。
それでも、789年の巣伏の戦いと802年の降伏・処刑によって、その名は歴史に残った。
阿弖流為が朝廷側の史料に名前を刻まれたこと自体、胆沢の抵抗勢力の中で重要な立場にいたことを示している。
12.阿弖流為の死後、胆沢はどうなったのか
阿弖流為が降伏した802年、胆沢では胆沢城の造営が進められた。
延暦23年(804)には胆沢郡が置かれる。
さらに大同3年(808)までには、多賀城に置かれていた鎮守府が胆沢城へ移された。
胆沢城は、その後およそ150年にわたり、朝廷が東北北部を統治する重要な政治・軍事拠点として機能していく。
802年前後は、胆沢の歴史にとって大きな転換点だった。
阿弖流為らが抵抗していた地域に朝廷の支配拠点が置かれ、律令国家の行政制度へと組み込まれていったのである。
そして朝廷の進出は、さらに北へと続いていく。
13.伝説の阿弖流為と、史料の阿弖流為
阿弖流為は現在、古代東北を代表する人物として知られている。
その一方で、阿弖流為について史料から確認できる情報は非常に少ない。
阿弖流為が東北全体を統一していた「王」だったと確認できる記録はない。
確実に分かるのは、胆沢地方を中心とした蝦夷勢力の有力な指導者だったということである。
また、後世には坂上田村麻呂との一騎打ちや、二人の間に特別な友情があったとする物語も生まれた。
こうした話は、古代の史料には記されていない。
史料に残された阿弖流為の姿は、もっと限られている。
789年、胆沢で朝廷軍を破った勢力の中心人物。
そして802年、母礼らとともに降伏し、都へ送られた人物。
わずかな記録ではある。
しかし、その記録からは、朝廷による東北進出に対して胆沢の人々が強く抵抗していたことが見えてくる。
まとめ――阿弖流為が歴史に残したもの
阿弖流為について分かっていることは決して多くない。
生年も、家族も、若い頃の姿も分からない。
それでも、その名は1200年以上たった現在まで残っている。
延暦8年(789)。
朝廷は5万2,800余人という大規模な遠征軍を編成し、胆沢へ進出した。
その中で進軍した部隊に対し、阿弖流為らは巣伏の戦いで大きな損害を与えた。
朝廷軍は1,000人を超える溺死者を出し、敗退した。
阿弖流為の名が歴史に現れた瞬間である。
しかし、朝廷は東北への進出を続けた。
やがて坂上田村麻呂による遠征が進み、802年には胆沢城が造営される。
同じ年の4月。
阿弖流為と母礼は500余人を率いて降伏した。
二人は都へ送られ、田村麻呂ら将軍側は胆沢方面へ帰すことを求めた。
だが、公卿側は再び反抗する危険を警戒し、その提案を認めなかった。
802年8月13日。
阿弖流為と母礼は河内国で処刑された。
その後、胆沢には朝廷の政治・軍事拠点が置かれ、804年には胆沢郡が設置される。
808年までには鎮守府も胆沢城へ移された。
阿弖流為の生涯を追うことは、一人の人物の生涯を見るだけではない。
古代の朝廷がどのように東北へ支配を広げていったのか。
そして、その土地に暮らしていた人々が、その変化にどのように向き合ったのか。
その歴史を見ることでもある。
789年、阿弖流為らは巣伏で朝廷軍を破った。
802年、阿弖流為は降伏し、その生涯を終えた。
この13年間は、胆沢が朝廷の支配へ組み込まれていく大きな転換期でもあった。
阿弖流為。
朝廷による東北進出が大きく進んだ時代、胆沢で抵抗を続けた蝦夷の有力な首長である。
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今回の記事で紹介した阿弖流為・坂上田村麻呂・蝦夷征討について、さらに詳しく知りたい方には、関連書籍もおすすめです。
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阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選) [ 樋口知志 ]
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阿弖流為について調べていると、実は面白いものがある。
その名も「阿弖流為(アテルイ)」という日本酒。
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歴史を知ったあとに、その土地の酒を味わってみる。
「阿弖流為」という名前を眺めながら、1200年前の胆沢に思いを馳せる――。
そんな楽しみ方も、歴史好きなら面白いかもしれない。
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