【人物編Vol.45】源義親――父は源義家、息子は為義――源氏の名門に生まれた「問題児」

人物

第87回



1108年1月――父の名声とは正反対の最期

天仁元年(1108)1月。

出雲で一人の武将が討たれた。

源義親。

父は「八幡太郎」源義家。前九年合戦、後三年合戦を経験し、東国武士から強い信望を集めた河内源氏の中心人物である。

義親はその次男として生まれ、兄・義宗の早世によって嫡男となった。父の武名と家を受け継ぐ立場にあった男が、最後には朝廷から追討を受けたのである。

義親を討ったのは、因幡守・平正盛。

平忠盛の父であり、平清盛の祖父にあたる。

しかも正盛はこの戦功によって一気に地位を上げ、伊勢平氏が中央で勢力を伸ばす足掛かりをつかんだ。世界大百科事典も、義親追討を平氏台頭の直接的な契機としている。

父の義家が河内源氏の名を高め、その息子の義親を討ったことで平氏が伸びる。

源平の歴史を考えると、何とも皮肉な親子である。

義親は、どこで道を踏み外したのか。

その人生を追っていく。

生年不詳――源義家の次男として生まれる

義親の生年は分かっていない。

父は源義家。

母は三河守・源隆長の娘である。

義家には複数の男子がいた。義親は次男で、長男の義宗が先に亡くなったことで嫡男となった。山川出版社の『日本史小辞典』も、義宗の早世によって義親が嫡男になったと整理している。

義親が成長した時代、父の義家はまさに全盛期へ向かっていた。

1039年生まれの義家は、若いころから父・頼義とともに前九年合戦を戦い、1063年には従五位下・出羽守となる。1083年に陸奥守となると、清原氏の内紛へ介入し、後三年合戦を戦った。

1098年には正四位下となり、白河院への昇殿まで許されている。

義親にとって、父の存在はあまりにも大きかった。

「八幡太郎」の名は東国に広がり、武士たちは義家のもとへ集まる。土地を義家へ寄進する者まで相次ぎ、朝廷が寄進を禁じるほど、その影響力は膨らんでいた。

そんな家の嫡男となった以上、義親にも大きな期待がかかったはずである。

左兵衛尉から対馬守へ――義親も朝廷の官人として出発した

義親の若いころの記録は少ない。

それでも、官歴の一部は分かっている。

従五位上・左兵衛尉。そして、対馬守。

左兵衛尉は、天皇の警護などを担う兵衛府の官人である。

その後に対馬国を預かる国司となった。

父・義家と同じく、義親も朝廷の官職を得ながら歩き始めた。

この時代の源氏や平氏は、後世の鎌倉武士のように朝廷から離れた世界で生きていたわけではない。官位を得て、国司となり、院や貴族に仕え、その立場を利用して軍事力と人脈を広げていく。

義親も、その道を進むはずだった。

大きく流れが変わったのは、対馬守となって西国へ入ったあとである。

対馬守――九州で大宰府と衝突する

対馬は現在の長崎県対馬市。

朝鮮半島に近い国境の島であり、西海道を統括する大宰府との関係が非常に深かった。

義親は対馬守となったあと、九州各地で活動するようになる。

ところが、そこで大宰府との関係が悪化した。

康和3年(1101)。

大宰府は義親の行動を朝廷へ訴えた。

山川の『日本史小辞典』では年貢横領、ブリタニカではさらに人民の殺害や官物の強奪まで挙げている。

義親は対馬守という朝廷から与えられた立場を持ちながら、大宰府の指揮に従わず、自分の武力を背景に活動していた。

ここで義親の名前を朝廷へ報告した人物が興味深い。

当時の大宰大弐は、大江匡房だった。

父・義家と縁のあった大江匡房が、息子を告発する

大江匡房は平安後期を代表する学者である。

後世の『奥州後三年記』では、源義家が匡房から兵法を学んだという逸話が語られる。

若い義家の武勇を認めながら、その戦い方には兵法の知識が足りないと評した。義家はそれを聞いて怒るよりも、匡房へ近づいて教えを受けた――そんな話である。

史実と伝承を分けて考える必要はあるものの、義家と匡房が後世強く結びつけて語られたことは確かである。

その匡房が、今度は義家の息子・義親を朝廷へ訴える立場になった。

父の物語では兵法の師。息子の物語では告発者。

河内源氏二代に関わった人物として見ると面白い。

義親は本当に単なる「問題児」だったのか

後世の辞典だけを読むと、義親は手のつけられない乱暴者に見える。

年貢を奪う。人を殺す。大宰府に従わない。

やがて出雲でも国司の役人を殺す。

実際、義親が武力を使って朝廷側の行政機構と衝突したことは間違いない。

ただ、これだけでは一つ説明しにくいことがある。

なぜ地方の人々が義親に加わったのか。

出雲での義親には、周辺諸国から味方する勢力が現れている。松江市史の研究では、義親の行動を、受領と在地有力者との対立の中で捉えている。

平安後期の受領は、任国から年貢や官物を集め、それを京都へ送る。

一方、現地には土地や交通、徴税に独自の利害を持つ有力者がいる。

両者はしばしば衝突した。

そこへ、八幡太郎義家の嫡男という大きな名前を持つ義親が入った。

中央の国司と対立する者にとって、義親は武力と家名を兼ね備えた大将になり得る。

義親の行動には本人の粗暴さと同時に、地方社会の利害対立も絡んでいたと考える方が実態に近い。

父・義家が動く――息子を京都へ連れ戻せ

1101年の訴えを受け、朝廷は義親への対応を始めた。

父・義家も動く。

郎党を西国へ派遣し、義親を京都へ連れ戻そうとした。

この段階で義家はすでに60歳を超えている。

東国武士をまとめ、朝廷から警戒されるほどの名声を持つ男だった。

その父の命令でも、義親は戻らなかった。

さらに事態は悪化する。

義親は朝廷側から派遣された官使まで殺害したとされる。

父の威光で収める段階を越えていた。

義親への処分は、いよいよ重くなる。

1102年――河内源氏の嫡男、隠岐へ流される

康和4年(1102)。

義親は解官された。

そして、隠岐国への配流が決まる。

隠岐は現在の島根県隠岐諸島。

平安時代以来、流刑地として使われた土地である。

河内源氏の嫡男が、朝廷の官位と職を失い、流人になる。

父・義家が正四位下まで昇り、白河院への昇殿を許されていた時代である。

父は河内源氏の名声を高め続ける。息子は中央社会から追放される。

同じ家の中で、まったく反対の方向へ進んでいた。

配流後の義親――数年間、足取りが見えにくくなる

1102年から1107年までの義親の動きは、細部まで追えない。

隠岐へ配流されたことは記録に残る。

その後、義親は山陰へ姿を現す。

ここで重要なのは、流人となったあとも義親の周囲から人が消えなかったことである。

官職を奪われても、義親には一つだけ消えないものがあった。

源義家の息子という名前である。

河内源氏は、頼信、頼義、義家と3代にわたって東国で軍事的な名声を積み上げてきた。義親はその嫡男である。

京都の官位を失っても、その家名は地方で人を動かす力を残していた。

1106年7月4日――父・義家が死ぬ

嘉承元年(1106)7月4日。

源義家が死去した。

数え68歳。

前九年合戦から後三年合戦まで、半世紀近く河内源氏の武名を支えた男が消えた。

義親にとっても大きな転機である。

父は自分を京都へ連れ戻そうとした人物である一方、朝廷が義親を扱う際に無視できない巨大な存在でもあった。

その義家が死んだ。

翌1107年、義親は再び歴史の表舞台へ出てくる。

しかも今度は、国司の行政へ真正面から武力を向けた。

1107年6月――義親、出雲に現れる

嘉承2年(1107)6月。

義親は出雲国へ渡った。

当時の出雲守は藤原家保。

義親側は家保が現地へ置いた目代らを殺害し、年貢などの官物を奪った。

目代は、京都にいる国司に代わって現地の行政を行う責任者である。

その目代を殺し、国衙が集めた官物まで奪った。

朝廷から見れば、地方行政そのものへ武力を向けた行為だった。

義親はさらに、現在の松江市美保関町雲津にあたるとされる「蜘戸の岩屋」へ入った。

史料には、ここに「城」を構えたとある。

船10艘が停泊できた雲津浦――義親が選んだ場所

蜘戸は、現在の雲津浦に比定されている。

ここは山中の隠れ家ではない。

海に面した港だった。

『出雲国風土記』では「久毛等浦」と記され、船10艘が停泊できる場所として紹介されている。

隠岐にも近い。

日本海沿岸を東西につなぐ海上交通とも結びつく。

義親がこの場所を選んだ意味は大きい。

船を使えば隠岐へ移れる。沿岸部へ逃れることもできる。

食料や人を海から動かすことも可能だった。

義親は追われるまま山中へ逃げ込んだのではなく、交通の要衝に拠点を構えていた。

義親には、国境を越えて味方がいた

松江市史の研究で特に興味深いのが、義親の味方についての記述である。

義親が蜂起した際、近隣諸国にも味方する者がいた。

追討の際には、義親とともに討たれた者の首が12人分あったとする史料も紹介されている。

ここから見えてくる義親像は、単独で逃亡生活を送る流人とはかなり違う。

国司に反発する在地勢力の中には、義親を大将として担ぐ者がいた。

源義家の嫡男という家名。自ら兵を動かせる武力。国司や大宰府と正面から争う行動力。

そうしたものが、中央側と対立する勢力を引きつけたのだろう。

義親が朝廷にとって危険だった理由も、ここにある。

本人一人を捕まえれば済む話ではなくなっていた。

1107年12月19日――追討使は平正盛

嘉承2年(1107)12月19日。

朝廷は義親追討を命じた。

大将に選ばれたのが、平正盛。

当時は因幡守だった。

正盛は、後の平清盛の祖父である。

この人選は、後の日本史を考えると象徴的だった。

少し前まで、武門の代表格として名前が挙がるのは源義家だった。

その息子を討つ役目が、伊勢平氏の正盛へ回ってきた。

しかも正盛は白河院との関係を深めながら出世してきた武士である。

義家の死後、院が新たな軍事力として平氏を使い始める流れが見えてくる。

正盛直属240~250人――義親追討の規模

正盛が直接率いた兵は、松江市史の研究では240~250人ほどとされる。

一族や正盛の所領があった伊賀国の武士などが中心だった。

これだけで義親を攻めたわけではない。

朝廷は正盛に、周辺5か国から武士を動員する権限を与えた。

出雲。因幡。伯耆。隠岐。そして石見または備後。

正盛は自分の直属兵を核にしながら、因幡・伯耆などで兵を集め、出雲へ向かった。

義親には在地の支持者がいる。

正盛には朝廷の命令と、複数国の軍事力がある。

この差が最後には大きく出る。

1108年1月6日――正盛、出雲へ

年が明けた嘉承3年(1108)1月6日。

正盛は出雲へ到着した。

ここから義親側との戦闘に入った。

残念ながら、前九年合戦の『陸奥話記』のように、兵の配置や一騎打ちを細かく記した史料は残っていない。

義親が何人を率いていたのか。どこで正盛軍と正面衝突したのか。

蜘戸の岩屋がどのように攻められたのか。

細部は分からない。

それでも、勝負が非常に早かったことは確かである。

1月19日には、すでに京都へ、

「義親を討った」という正盛からの報告が届いていた。

出雲から京都へ知らせを運ぶ時間も必要になる。

正盛が出雲へ入ってから義親が倒れるまで、実際には10日にも満たなかった可能性がある。

義親の最期――詳しい死に方は伝わらない

辞典類では、義親の没日を1108年1月6日としている。

一方、松江市史では正盛が1月6日に出雲へ入り、その後短期間で義親を討ち、19日に勝報が京都へ届いた流れとしている。

日付には史料による整理の違いがある。

義親が最後に刀を抜いて戦ったのか。逃走中に捕らえられたのか。誰が首を取ったのか。

そこまでの場面は残っていない。

父・義家には、黄海で200余騎に囲まれた話や、雁の列から伏兵を見抜いた逸話まで残る。

その嫡男である義親の最期は、奇妙なほど輪郭が薄い。

その曖昧さが、死後の義親をさらに不思議な存在にしていく。

1月29日――義親の首が京都へ入る

1月19日に追討成功の報告が届くと、朝廷は正盛の帰京を待たずに恩賞を進めた。

正盛は因幡守から、より収入の大きい但馬守へ移される。

1月29日、正盛は義親らの首を携え、京都へ帰還した。

正盛が出雲へ入ってから23日。

追討命令が出た1107年12月19日から数えても、わずか41日ほどである。

父・義家が何年もかけて築いた武名。

その嫡男の追討は、わずか一月余りで終わった。

そして正盛は、この戦功で一気に中央での評価を高めた。

後に海賊追討などでも功績を上げ、伊勢平氏の地盤を固めていく。

その息子が平忠盛。

孫が平清盛である。

「その首、本当に義親なのか」

ところが、首が京都へ運ばれても義親の話は終わらなかった。

正盛が討った人物について、本当に源義親だったのかという疑いが残ったのである。

世界大百科事典も、義親追討の真偽が当時から疑問視されたと記している。

義親は長く九州や山陰を動いていた。

京都の人々が日常的に顔を見る人物でもない。

しかも正盛の追討はあまりにも早く終わった。

戦闘の詳しい報告も乏しい。

こうした条件が重なり、「義親はまだ生きている」という噂が残った。

そして、その噂は実際の事件へ変わる。

1117年――越後に「源義親」が現れた

義親が討たれてから9年。永久5年(1117)。

越後国に、前対馬守・源義親を名乗る法師が現れた。

越後の住人・平永基のもとに出入りしていた人物である。

検非違使庁は5月5日、平永基に対して、この「源義親」を名乗る浮浪法師を差し出すよう命じた。

新潟県立図書館の年表にも、この記録が残っている。

本物の義親が1108年を生き延びていたと証明する史料ではない。

むしろ興味深いのは、義親を名乗っただけで検非違使庁が動いたという点である。

その名前には、9年たっても政治的な力が残っていた。

なぜ「偽義親」が通用したのか

義親を名乗る人物は、その後も現れた。

ここに義親という人物の不思議さがある。

無名の武士を名乗っても、人は集まらない。

「源義親」だから意味があった。

父は八幡太郎義家。河内源氏の嫡男。朝廷に追討された武将。

地方の国司や中央権力に不満を持つ者から見れば、反抗の旗印として非常に使いやすい名前だった。

義親本人の人生は1108年で終わったとしても、「義親」という名前はその後も生き続けた。

皮肉なことに、朝廷から排除されたあとになって、義親の名前そのものが地方社会で独立した力を持ったのである。

息子・為義――父が討たれたとき13歳

義親の血筋も途絶えなかった。

その中で最も重要なのが、源為義。

永長元年(1096)生まれ。

世界大百科事典では義親の四男、一説に五男とされる。

義親が1108年に討たれたとき、為義は数え13歳だった。松江市史でも、義親追討時の為義を13歳としている。

祖父・義家は1106年に死亡。父・義親は1108年に朝敵として討たれた。

13歳の為義は、河内源氏の最盛期を作った祖父と、その家を継ぐはずだった父を、わずか2年ほどの間に失ったことになる。

為義はその後、叔父・義忠、ついで祖父義家の養子となったとされ、河内源氏の嫡流を継ぐ。

そして為義の長男が源義朝。義朝の子が源頼朝である。

河内源氏の系譜は、

義家→ 義親→ 為義→ 義朝→ 頼朝と続いていく。

朝敵として討たれた義親は、鎌倉幕府を開く頼朝の曾祖父にあたる。

義親の死から1年――河内源氏はさらに崩れる

義親の死後、河内源氏の中心となったのは弟の源義忠だった。

これで一族が安定すれば、義親の失脚による傷も立て直せたかもしれない。

ところが1109年。

義忠が京都で襲撃され、死亡する。

義家の死から3年。義親の追討から1年。今度は義忠まで失った。

さらに義忠暗殺の嫌疑は義家の弟・源義綱一族へ向けられ、河内源氏内部の大規模な争いへ発展する。為義は数え14歳で義綱追捕に加わり、その後左衛門尉となった。

義家の晩年まで膨らみ続けた河内源氏の勢力は、義家が死んだ途端に内部から大きく揺れ始めたのである。

父・義家と義親――二人を分けたもの

源義家も、朝廷にとって完全に扱いやすい武将だったわけではない。

後三年合戦では朝廷が正式な追討戦として認めないまま戦い続け、戦後には武士たちへ私財から恩賞を与えた。

義家への土地寄進が増えすぎると、朝廷はその動きを禁じた。

義家も十分に警戒されていた。

それでも義家は、国司や官位という朝廷社会の仕組みを手放さなかった。

出羽守。陸奥守。正四位下。院昇殿。

武力を持ちながら、その力を朝廷の中で地位へ変えていった。

義親は九州で大宰府と衝突し、出雲では国司の目代を殺し、官物を奪った。

父も強い武力を持った。息子も強い武力を持った。

違いが出たのは、その武力を朝廷との関係の中でどう使ったかだった。

義家は警戒されながらも武門の代表として生涯を終えた。

義親は地方の対立へ深く入り込み、ついには朝廷の追討対象となった。

「問題児」で終わらせるには、少し惜しい

義親の経歴だけを並べると、確かに「問題児」という言葉がよく似合う。

大宰府に従わない。

年貢をめぐって問題を起こす。隠岐へ流される。出雲で目代を殺す。最後は平正盛に討たれる。

父・義家と比べれば、見事なほど転落している。

ただ、義親の人生にはそれだけでは説明できない部分も残る。

配流されたあとも人が集まった。

出雲では日本海交通の要所に拠点を構えた。

周辺国にも味方がいた。

死後9年たっても義親を名乗る者が現れ、検非違使庁まで動いた。

そこには、本人の性格以上に「八幡太郎義家の息子」という家名の力が働いている。

義家が生涯をかけて築いた武名は、息子が朝敵となっても消えなかった。

むしろ義親は、その巨大な名前を背負ったまま朝廷の枠から外れたことで、地方の不満を吸い寄せる存在になった。

父は武士たちを朝廷の中で率いた。

息子は地方で朝廷と衝突した。

そしてその息子・為義は再び河内源氏を継ぎ、半世紀後の保元の乱へ向かっていく。

義家から義親へ。義親から為義へ。

河内源氏の歴史は、この親子の代から急に危うさを増していく。

その転換点にいた人物が、源義親である。

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