第155回
寿永2年(1183年)秋、豊前国柳ヶ浦。
月の出た夜だった。
海上には、平氏一門を乗せた船が浮かんでいた。
7月に京都を離れ、安徳天皇を奉じて九州まで下ってきたものの、大宰府にも居場所を失っていた。
豊後国の緒方惟義が、平氏追討の軍勢を率いて迫ってきたのである。
緒方は、かつて平重盛に仕えた武士だった。
その重盛の三男が、船上にいた。
平清経。
平清盛の孫で、左近衛権中将を務めた若い公達である。
『平家物語』巻第八「大宰府落」によれば、清経は逃げ場を失った一門の行く末を嘆き、こう語ったという。
「網にかかれる魚のごとし」
網に捕らわれた魚のように、どこへ逃げようとしても追手が迫る。
京都では木曾義仲らの軍勢に追われ、九州では父の旧家人だった緒方惟義に追い出された。
ようやくたどり着いた柳ヶ浦でも、安徳天皇のための内裏を建てることができなかった。
さらに長門国から敵が迫るという知らせが入り、一門は再び船へ逃れたと物語は伝えている。
その夜、清経は船の屋形から外へ出た。
横笛を手に取り、調子を整える。
やがて朗詠を始めた。
朝廷で育ち、近衛府の官職を歴任した清経は、最後の夜にも笛を吹いたという。
朗詠を終えると、静かに経を読んだ。
念仏を唱えた。
そして海へ身を沈めたと『平家物語』は記している。
船にいた人々は泣き悲しんだ。
清経が入水した正確な日付はわからない。寿永2年9月とする研究がある一方、10月とする人名事典もある。
清経の心中を直接記した同時代の記録も残っていない。
しかし、このころの平氏が大宰府を追われ、九州で拠点を失っていたことは、当時の政治情勢からもたどることができる。
清経が亡くなったと伝わるのは、平氏滅亡の約一年半前。
一門はその後、水島や室山で源氏方の軍勢を破り、福原周辺まで反攻した。
清経は、その戦いを見ることなく海へ沈んだと伝わる。
平重盛の三男――母は高倉天皇の乳母・藤原経子
平清経は、平重盛の三男として生まれた。
祖父は平清盛。
父の重盛は清盛の長男で、保元の乱、平治の乱に従い、朝廷では内大臣まで昇った人物である。
清経の生年には諸説があるが、長寛元年(1163年)生まれとする説が知られている。
『平家物語』の諸本にも、最期を数え21歳とする記述がある。
母は藤原経子。
藤原家成の娘で、重盛の正室だった。
家成は鳥羽院の有力な近臣であり、平忠盛や清盛とも深い関係を築いていた公卿である。
経子は左大臣・藤原経宗の猶子ともされる。
仁安元年(1166年)、憲仁親王の立太子に際して乳母となった。
憲仁親王は、のちの高倉天皇である。
高倉天皇の即位後、経子は典侍となり、宮廷で高い地位を得た。
大納言典侍、大納言三位などの呼び名でも知られている。
清経には兄の維盛、資盛がいた。
ただし、二人とは母が異なる。
維盛は重盛の嫡男として父の家を継ぐ立場にあり、資盛も越前守や近衛府の官職を歴任した。
一方、清経は重盛の正室が産んだ息子だった。
弟の有盛、師盛、忠房らも経子の子とされている。
重盛には複数の妻や子供がいたが、清経の母方には鳥羽院以来の有力な公家が連なっていた。
さらに経子が高倉天皇の乳母となったことで、清経の家は皇室とも深く結びつく。
清経が幼いころから高い位階を得た背景には、母の経子の存在があった。
数え四歳で従五位上――兄たちと異なる昇進
仁安元年(1166年)。
清経は従五位上に叙された。
長寛元年生まれとすれば、数え4歳のことである。
同年、兄の資盛は従五位下に叙されている。
年下の清経が、兄より高い位階を与えられていた。
翌仁安2年(1167年)には正五位下へ進む。
母の経子が高倉天皇の乳母を務めていたことが、清経の昇進にも関係したと考えられる。
重盛の子供たちは、それぞれの母方の家系を通じて異なる人脈を持っていた。
維盛は嫡男として重盛家を継ぐ立場にあり、資盛は宮廷で和歌や音楽にも親しむ公達として育った。
清経も幼いころから宮廷へ出仕し、官位を重ねていく。
承安4年(1174年)12月には左近衛権少将に任じられた。
近衛府は天皇の警護や宮中の儀礼を担う組織であり、少将はその幹部にあたる。
清経は幼くして高い位階を得た後、近衛府の武官として活動するようになった。
治承元年(1177年)までには従四位下へ進み、翌治承2年(1178年)12月には従四位上に達している。
父の重盛は内大臣。
祖父の清盛は太政大臣まで昇った人物だった。
平氏の公達たちは朝廷の官職を得て、宮中の行事や儀式にも参加していた。
清経もそうした宮廷生活の中で成長した。
しかし、このころ清経の母方の親族が、平氏と後白河法皇の対立に巻き込まれる。
藤原成親である。
藤原成親――母方の伯父であり、妻の父
藤原成親は、後白河法皇に仕えた院近臣だった。
藤原家成の子であり、権大納言まで昇った公卿である。
清経の母・経子は成親の妹だった。
成親は清経にとって、母方の伯父にあたる。
さらに清経は、成親の娘を妻としたと伝わる。
『尊卑分脈』には、成親の娘の一人を清経の妻とする系譜が残されている。
つまり清経の妻は、母方の従姉妹でもあった。
婚姻の成立時期や具体的な経緯は明らかでない。
また成親の別の娘は、清経の兄・維盛の妻ともなっていた。
重盛の家と成親の家は、複数の婚姻を通じて結ばれていたのである。
成親は後白河法皇の信任を受け、宮廷で権勢を振るっていた。
一方、清盛とも親族関係を持ち、平氏一門との結びつきも深かった。
しかし治承元年(1177年)、成親は平氏打倒の謀議に関わったとして捕らえられる。
鹿ケ谷事件である。
鹿ケ谷事件――成親の失脚
治承元年6月。
後白河院の近臣たちが、平氏打倒の謀議に関わったとして捕らえられた。
中心人物の一人が藤原成親だった。
清盛は成親を捕らえ、西光を処刑した。
俊寛らは鬼界ヶ島へ流され、成親も備前国へ配流される。
その後、成親は配流先で死亡した。
『平家物語』には、重盛が成親の助命を求め、清盛へ懸命に働きかけたという話が残されている。
重盛にとって成親は妻の兄であり、息子たちの婚姻を通じても関係する親族だった。
清経にとっては母方の伯父であり、妻の父でもある。
成親の処分は、重盛の家族に深く関わる出来事だった。
清経本人が事件をどう受け止めたのか、詳しい記録は残されていない。
事件当時、清経は近衛府に仕える若い公達だった。
母の経子も、天皇の乳母として宮廷で活動していた。
しかし平氏と後白河法皇の対立は、清経の母方の家にまで及んでいた。
そして二年後、今度は父の重盛が亡くなる。
治承3年――父・重盛の死と小松家の変化
治承3年(1179年)7月29日。
平重盛が亡くなった。
享年42歳。
重盛は清盛の長男であり、平氏一門の後継者と目されていた。
後白河法皇との関係も深く、清盛と法皇の間で政治的な調整を担うことがあった。
その重盛が亡くなったことで、一門内部の立場も変わっていく。
嫡男の維盛が父の家を継ぐ立場となり、資盛や清経も宮廷で官位を重ねていた。
しかし、平氏一門全体の政治的な中心となったのは、重盛の弟・宗盛だった。
宗盛は清盛の正室・平時子の子であり、高倉天皇の中宮・徳子の兄でもある。
皇室との結びつきが深く、朝廷での官位も高かった。
同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入った。
関白・松殿基房を退け、近衛基通を新たな関白とする。
さらに院近臣たちを解官し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。
治承三年の政変である。
翌治承4年(1180年)2月には、安徳天皇が即位する。
清盛の孫であり、徳子が産んだ幼い天皇だった。
平氏一門は引き続き高い地位を占めていた。
平氏と反平氏勢力の戦いは、ここから各地へ広がっていった。
清経も軍事行動に関わる人物として名が挙がるようになる。
以仁王の挙兵――園城寺追討に加わる
治承4年5月。
後白河法皇の皇子・以仁王が、源頼政と結んで平氏打倒を企てた。
以仁王は諸国の源氏へ令旨を送り、挙兵を呼びかける。
しかし計画は平氏側に知られた。
以仁王は京都を脱出し、近江国の園城寺へ逃れた。
現在の滋賀県大津市にある三井寺である。
園城寺の僧兵たちが以仁王を受け入れたため、平氏は追討軍を動かした。
清経もその軍勢に加わったと伝わる。
『日本人名大辞典』では、園城寺攻撃の大将を務めた人物として紹介されている。
『平家物語』にも、知盛や重衡ら一門の武将たちが追討へ向かう様子が描かれている。
ただし、清経が実際にどの部隊を指揮し、どの場所で戦ったのかを詳しく示す記録は乏しい。
以仁王と頼政は園城寺を離れ、南都へ向かおうとした。
しかし宇治川で平氏軍に追いつかれる。
源頼政は平等院で自害し、以仁王も南山城へ向かう途中で討たれた。
平氏は挙兵を鎮圧した。
ところが、以仁王の令旨はすでに各地へ伝わっていた。
8月には源頼朝が伊豆国で挙兵する。
甲斐や信濃でも反平氏の動きが広がり、平氏は各地へ追討軍を送らなければならなくなった。
清経はこのころ、左近衛少将として官職を持ち、伊予介も兼ねていた。
宮廷に仕えていた若い公達たちも、反乱の鎮圧に関わる立場となっていった。
養和元年――東国追討と北陸への派遣計画
治承4年8月、源頼朝が伊豆で挙兵した。
頼朝は石橋山で敗れたものの、安房国へ逃れて勢力を回復する。
千葉常胤、上総広常らの軍勢が加わり、10月には鎌倉へ入った。
清盛は東国追討軍を派遣した。
大将となったのは、清経の兄・維盛である。
しかし富士川で追討軍は撤退し、頼朝の勢力拡大を止めることができなかった。
翌治承5年(1181年)閏2月、清盛が死去する。
宗盛が一門の指導者となったが、東国と北陸では反平氏の動きが続いていた。
清経については、養和元年に東国の源氏追討副将軍を務めたとする人名事典の記述がある。
その一方、同時代の日記には北陸への派遣計画が残っている。
養和元年10月4日。
九条兼実の日記『玉葉』によれば、平知盛と清経が越前国へ向かう予定だという情報が伝えられた。
当時の越前国では木曾義仲の勢力が広がり、平通盛らの軍勢が苦戦していた。
平氏は援軍を送り、北陸での戦況を立て直そうとしていたのである。
ところが10月10日には、追討軍の編成が変更されたという。
知盛の下向は取りやめとなり、別の一門の武将たちが派遣されることになった。
その後の編成に清経の名は見えない。
清経が当初の計画どおり越前へ出陣したかどうかは明らかでない。
『玉葉』に残るのは、清経が北陸への援軍として予定されていたという情報である。
各地での反乱に対処するため、平氏は一門の武将たちを動員しようとしていた。
清経もその一人だった。
しかし軍勢の編成はたびたび変更され、戦況も容易には好転しなかった。
そして寿永2年(1183年)、北陸で平氏軍が大敗する。
正四位下・左近衛権中将――都落ち直前の清経
清経は治承4年以降も官位を重ねた。
寿永2年(1183年)までには正四位下・左近衛権中将に達している。
『平家物語』が清経を「左中将」と呼ぶのは、この官職による。
左近衛権中将は、天皇の警護や宮廷儀礼を担う近衛府の高い役職だった。
長寛元年生まれとすれば、清経は数え21歳。
兄の維盛は東国追討軍の大将を経験し、資盛も右近衛権中将や蔵人頭を務めていた。
重盛の息子たちは、父の死後も宮廷で昇進を続けていた。
しかし寿永2年5月、平氏は北陸で大敗する。
倶利伽羅峠の戦いだった。
維盛らが率いた追討軍は木曾義仲の軍勢に破られ、加賀国篠原でも敗走した。
義仲は越前から近江へ進み、京都を脅かすようになる。
平氏に従っていた武士たちにも離反が相次いだ。
そして7月、京都を守ることも難しくなった。
清経は官位を保ったまま都を離れることになる。
寿永2年7月25日――安徳天皇とともに都を去る
寿永2年7月。
木曾義仲の軍勢が京都へ迫っていた。
平氏は京都周辺に軍勢を配置して抵抗を試みたが、延暦寺も協力を拒むようになり、戦況は悪化していた。
7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇は京都を脱出し、比叡山へ移った。
宗盛は都での抵抗を断念する。
7月25日。
平氏一門は安徳天皇と三種の神器を奉じ、西国へ向かった。
清経も兄の維盛、資盛、弟の有盛らとともに京都を離れた。
維盛は妻子を都に残した。
『平家物語』には、別れを惜しむ維盛のもとへ資盛らがやって来て、早く出発するよう促す場面がある。
資盛も、親しく交わっていた建礼門院右京大夫と別れていた。
右京大夫の歌集には、資盛が自分の死を予感し、後世の供養を頼んだことが記されている。
清経が京都を離れる際、誰とどのような言葉を交わしたのか、詳しい記録は残されていない。
妻とされる藤原成親の娘が、このときどこにいたのかも明らかでない。
後世の能『清経』では、妻を京都に残し、再会を約束して西国へ向かった人物として描かれる。
清経は宗盛らとともに安徳天皇を奉じ、福原を経て瀬戸内海へ出た。
目指したのは九州だった。
大宰府――九州で再起を目指した平氏
京都を離れた平氏は、船で九州へ向かった。
平氏は長年にわたり瀬戸内海の航路を利用し、西国の武士や荘園と関係を築いていた。
清盛は福原の港を整え、大輪田泊を重視している。
九州にも平氏に従う武士たちは残っていた。
筑前国では原田種直が活動し、遠賀川河口付近には山鹿秀遠らがいた。
平氏は大宰府へ入り、新たな政治的拠点を築こうとした。
大宰府は古くから九州の行政・軍事・外交を担った重要な場所である。
安徳天皇を奉じる平氏にとって、九州に内裏を置くことは、一門の政治的な立場を維持するためにも重要だった。
公卿たちは、筑紫に都を定めて内裏を造ることを相談したという。
しかし、豊後国から思いがけない知らせが届いた。
緒方惟義が反旗を翻したのである。
しかも緒方は、かつて清経の父・重盛に仕えた武士だった。
緒方惟義――重盛に仕えた豊後の有力武士
緒方惟義は、豊後国大野郡緒方荘を本拠とした有力武士だった。
惟栄、惟能とも記される。
大神氏の流れをくみ、豊後の在地武士たちと深い関係を持っていた人物である。
緒方は平氏の大宰府支配が進んだころ、平重盛と主従関係を結んでいた。
重盛が存命だった時代、平氏はこうした在地武士たちの力によって西国の支配を支えていた。
しかし源頼朝の挙兵後、緒方は反平氏の立場へ移る。
豊後国では目代を追放し、臼杵氏や長野氏ら周辺の武士たちと結んで勢力を広げた。
寿永2年には、豊後国守・藤原頼輔から平氏追討の院宣と国宣を受け、軍勢を動かしている。
後白河院の命令を受けた緒方にとって、九州へ逃れてきた平氏は追討の対象となっていた。
『平家物語』巻第八「大宰府落」では、緒方の離反を知った一門が驚き、対応を相談する場面が描かれている。
緒方は重盛の家人だった。
その関係を思い出させれば、説得できるかもしれない。
平氏側は、かつての主従関係に望みをかけたのである。
兄・資盛が豊後へ向かう――五百余騎での説得
『平家物語』によれば、緒方惟義を説得するよう提案したのは平知盛だった。
緒方は亡き重盛の家人である。
重盛の息子を一人向かわせれば、思い直すかもしれない。
知盛はそう考えたという。
この提案を受け、清経の兄・資盛が豊後国へ向かった。
『平家物語』は、五百余騎を率いて出発したと記している。
資盛は緒方と対面し、父の重盛から受けた恩を思い出すよう説得した。
しかし緒方は従わなかった。
それどころか、資盛をその場で捕らえることもできると告げたという。
ただ、ここで捕らえなくても平氏の敗北は避けられないだろう。
早く大宰府へ帰るように。
緒方はそう述べ、資盛を追い返したと物語は伝えている。
清経の兄が、亡き父の旧家人を説得するため豊後まで赴いた。
それでも主従関係を取り戻すことはできなかった。
『平家物語』は、さらに緒方の息子が大宰府へ使者として現れる場面を記す。
「昔は昔、今は今」――平時忠の抗議
緒方惟義は次男の野尻次郎惟村を使者として大宰府へ送った。
惟村は、父がかつて平氏から大きな恩を受けたことを認めた。
そのうえで、後白河院から平氏を九州の外へ追い出すよう命じられていると伝えたという。
使者の前に出たのは、平大納言時忠だった。
清経にとっては、祖父・清盛の妻である平時子の弟にあたる人物である。
時忠は、安徳天皇こそ正統な天皇であり、平氏は保元・平治の乱を鎮めてきた家だと説いた。
緒方のような在地武士が、その恩を忘れて平氏へ敵対することを強く非難したという。
惟村が戻ってその言葉を伝えると、緒方は怒った。
『平家物語』は、その返答を短く記している。
「昔は昔、今は今」
かつて平氏に従っていたことと、今の立場は違う。
緒方は軍勢を集め、平氏を九州から追い出そうとした。
平氏側も迎撃を試みた。
源大夫判官季貞、摂津判官盛澄らが出陣し、筑後国の高野本庄で戦ったと『平家物語』は伝える。
しかし緒方側の兵力は多く、平氏方は退却したという。
やがて緒方の軍勢が大宰府へ迫るとの知らせが入った。
平氏一門は、九州に入って間もなく、再び逃れることになる。
大宰府落ち――安徳天皇を奉じて雨の中を逃れる
『平家物語』は、緒方が三万余騎を率いて迫ったと記している。
この兵数をそのまま実数として扱うことは難しいが、平氏は大宰府を維持できなくなっていた。
一門は安徳天皇を奉じ、北へ向かった。
『平家物語』には、その逃避行が詳しく描かれている。
安徳天皇を乗せる輿を担ぐ人手も足りず、女房たちは袴の裾を上げて歩いた。
宗盛をはじめとする公卿たちも、慣れない道を急いだという。
折しも激しい雨が降っていた。
風は砂を巻き上げ、人々は水城を出て筥崎の津へ向かったと語られる。
京都にいたころ、安徳天皇の行幸には多くの人々が付き従っていた。
平氏の公達たちも牛車に乗り、宮廷の儀礼へ出仕していた。
今は安徳天皇を奉じながら、九州の道を逃れている。
一行は住吉、筥崎、香椎、宗像などの社を伏し拝み、安徳天皇が再び京都へ戻れるよう祈ったという。
『平家物語』では、険しい道を歩く女房たちの足から血が流れ、砂を染めたとも描かれている。
清経もこの逃避行に加わっていた。
正四位下・左近衛権中将にまで昇った若者が、安徳天皇とともに追手を避けながら移動していたのである。
その途中、平氏のもとへ二人の武士が駆けつけた。
原田種直と山鹿秀遠だった。
原田種直と山鹿秀遠――残された味方の不和
原田種直は、筑前国を中心に勢力を持つ武士だった。
一方、山鹿秀遠は遠賀川河口付近の山鹿を本拠とし、平氏に従っていた。
『平家物語』では、種直が二千余騎、秀遠が数千騎を率いて平氏を迎えたと記す。
実際の兵数はわからないが、九州にはなお平氏を支える武士が残っていた。
しかし種直と秀遠は、以前から不仲だったという。
二人が協力して一門を守ることは難しかった。
『平家物語』によれば、種直は途中で引き返してしまった。
種直がこの時点で源氏方へ寝返ったという話ではない。
味方の武士同士が協力できず、平氏の護衛にも支障が生じたのである。
平氏は山鹿秀遠を頼ることになった。
山鹿は現在の福岡県遠賀郡芦屋町周辺にあたる。
遠賀川の河口に位置し、海上交通にも通じる場所だった。
秀遠の案内で山鹿の城へ入ったものの、そこにも敵が迫るという知らせが届いた。
平氏は再び移動を決める。
『平家物語』によれば、一門は小舟に乗り、夜を徹して豊前国柳ヶ浦へ向かった。
その柳ヶ浦で、清経の最期が語られる。
豊前国柳ヶ浦――内裏を建てることもかなわず
柳ヶ浦へ着いた平氏は、そこで安徳天皇のための内裏を建てることを相談したという。
安徳天皇はまだ幼かった。
京都では後鳥羽天皇が立てられ、三種の神器は平氏とともに西国へ運ばれていた。
平氏は安徳天皇を奉じることで、一門の政治的な立場を保とうとしていた。
そのためには、天皇が滞在するための施設が必要だった。
ところが柳ヶ浦でも、内裏の建設は実現しなかった。
『平家物語』は、その理由を「分限なかりければ」と記している。
内裏を造るための条件や資力を整えられなかったのである。
さらに長門国から源氏が迫るという知らせが入った。
一門は再び小舟に乗り、海上へ逃れたと物語は伝える。
京都を離れてから、平氏は九州で新たな拠点を築こうとしていた。
大宰府では緒方惟義に追われた。
山鹿にも敵が迫った。
柳ヶ浦では、安徳天皇の住まいを整えることさえできなかった。
安徳天皇を奉じた一門は、今度は船の上で夜を明かすことになった。
その船の一つに、清経がいた。
「網にかかれる魚のごとし」――清経が見た平氏の行方
『平家物語』は、清経を何事も深く思い入る人物だったと記している。
そして柳ヶ浦の沖で、清経が一門の行く末を嘆く場面を描いた。
京都を源氏に追われた。
九州では緒方惟義に追い出された。
海へ逃れても、さらに敵が迫るという知らせが続く。
清経は、その状況を網にかかった魚にたとえた。
「網にかかれる魚のごとし」
網の中の魚は、いくら泳いでも逃れられない。
平氏もまた、行く先々で敵に追われていた。
清経はさらに、どこへ行けば逃れられるのかと嘆いたという。
父の重盛は、すでに四年前に亡くなっていた。
祖父の清盛も二年前に死去している。
重盛が存命だったころ、緒方惟義はその家人として平氏を支えていた。
しかし今は、その緒方が九州で軍勢を率い、重盛の息子たちを追い詰めている。
『平家物語』は、こうした状況に絶望した清経が死を選んだと語る。
一方、平氏には西国で反攻する余力も残っていた。
瀬戸内海には平氏に従う水軍があり、各地の武士たちとの関係も完全には失われていなかった。
一門はこの後、屋島を中心に軍勢を整え、水島や室山で勝利することになる。
清経が入水したと伝わるのは、その反攻が始まる前だった。
月夜の船上――横笛、朗詠、念仏
柳ヶ浦の沖。
ある月夜のことだったという。
清経は船の屋形から外へ出た。
そして横笛を手に取り、調子を整えた。
『平家物語』は、清経が朗詠を始めたと記している。
朗詠は、漢詩などに節をつけてうたう宮廷の芸能だった。
清経は幼いころから朝廷へ出仕し、近衛府の官職を歴任していた。
その清経が、月夜の船上で横笛を吹いた。
『平家物語』は、宮廷で育った公達の最後の姿を、そのように描いている。
清経がどの曲を吹き、何を朗詠したのかは伝わっていない。
やがて清経は、静かに経を読み始める。
念仏を唱える。
そして海へ身を沈めたという。
「男女泣き悲しめども、かひぞなき」
船にいた人々は泣き悲しんだが、どうすることもできなかった。
覚一本系『平家物語』では、清経の最期は短い文章で語られる。
誰が清経の入水に最初に気づいたのか。
家人たちはどのように動いたのか。
詳しい経過は記されていない。
清経が月夜に笛を吹き、念仏を唱えて海へ沈んだという場面は、軍記物語によって後世に伝えられた。
寿永2年9月か10月か――入水時期の異説
清経の入水は、寿永2年(1183年)の秋の出来事として知られている。
しかし、正確な日付には諸説がある。
9月の月夜とする研究がある一方、『日本人名大辞典』では10月としている。
『平家物語』の諸本によっても、平氏の九州での行動や宇佐八幡宮への参詣を置く順序が異なる。
柳ヶ浦への移動と清経の入水を、確定した一つの日程として復元することは難しい。
清経の年齢についても、長寛元年生まれとすれば数え21歳となるが、生年そのものが確定しているわけではない。
さらに、入水の意味づけにも諸本間の違いがある。
覚一本では、逃避行の苦しみと清経の人物評が、入水の背景として描かれている。
別の系統には、清経の妻に関する話を加えたものもある。
やがて室町時代には、清経の入水が能の題材となった。
月夜の船上で横笛を吹いた若者の最期は、時代を経るにつれて新たな場面を伴うようになっていった。
清経の死後――水島と室山での反攻
清経が海に沈んだと伝わる後も、平氏一門は戦いを続けた。
九州から瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島を中心に軍勢を整える。
寿永2年閏10月。
平氏は備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破った。
続く11月には、播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利した。
これらの勝利によって、平氏は瀬戸内海で勢力を回復する。
翌寿永3年(1184年)正月には、福原周辺まで進出した。
清経の兄・資盛や弟の有盛らも、一門の軍勢として活動を続けていた。
しかし2月7日、一ノ谷の戦いで平氏は大敗する。
清経の弟・師盛も、この戦いで命を落とした。
さらに兄の維盛は一門を離れ、熊野へ向かったと伝わる。
維盛の最期には、那智での入水説と病死説が残る。
その翌年、元暦2年(1185年)3月24日。
平氏は壇ノ浦で滅びた。
兄の資盛と弟の有盛も、この戦いで命を落としたと伝えられる。
『平家物語』では、二人が従兄弟の平行盛と手を取り合い、海へ沈んだと描かれている。
清経の死から約一年半。
重盛の子供たちは、戦乱の中で相次いで命を失った。
建礼門院徳子が語った「心うき事の始め」
『平家物語』灌頂巻「六道之沙汰」。
壇ノ浦から生き残った建礼門院徳子が、大原で暮らしている。
安徳天皇を失い、自らも海へ身を投げた徳子は、源氏方に救われた後、出家して京都へ戻されていた。
そこへ後白河法皇が訪ねてくる。
徳子は、かつての宮廷生活と平氏一門の没落を振り返った。
清盛の娘として高倉天皇へ入内し、のちには安徳天皇の母となった。
宮廷では多くの女房や公達たちに囲まれ、華やかな生活を送っていた。
しかし平氏は京都を追われ、九州でも拠点を失った。
安徳天皇を奉じながら海上を移動し、船の中で夜を明かす日々が続いた。
その思い出の中に、清経の入水が登場する。
都を追われ、九州でも緒方惟義に追い出された。
清経は一門の将来を悲観し、海へ沈んだ。
徳子はその死を「心うき事の始め」と振り返ったという。
悲しい出来事の始まりだった。
その後、一ノ谷では多くの一門が討ち死にした。
屋島を失い、壇ノ浦では安徳天皇まで海に沈んだ。
『平家物語』は、そのすべてを経験した徳子に、清経の死を最初の大きな悲しみとして語らせている。
この会話は後世の軍記物語に描かれた場面であり、徳子本人の言葉として確認された記録ではない。
清経の入水は、平氏一門の没落を語る物語の中で、重い意味を持つ出来事となった。
清経の妻――『尊卑分脈』に残る婚姻
清経には妻がいた。
『尊卑分脈』は、藤原成親の娘を清経の妻と記している。
成親は清経の母・経子の兄にあたるため、妻は母方の従姉妹でもあった。
成親の娘たちは、重盛家の複数の息子と婚姻関係を結んでいた。
兄の維盛の妻も、成親の娘とされる。
重盛と成親の家は、婚姻を通じて深く結びついていたのである。
しかし、清経の妻が都落ちの際にどこで暮らしていたのか、夫の入水後にどう行動したのかを詳しく伝える同時代の記録は乏しい。
一方、『平家物語』の諸本には、清経の妻をめぐる話を詳しく記すものがある。
夫が西国へ下り、やがて入水の知らせが届く。
妻は形見を受け取り、悲しみの中で清経を思い続ける。
こうした伝承は、後世の能『清経』にも取り入れられた。
妻の言葉や行動は、軍記物語や能の中で描かれたものとして受け継がれている。
そして室町時代、清経の入水は新たな物語となった。
世阿弥の能『清経』――妻に届いた遺髪
室町時代、清経の最期を題材にした能『清経』が作られた。
作者は世阿弥とされる。
舞台は京都に残された清経の妻の家である。
物語は、清経の家人・淡津三郎が訪ねてくる場面から始まる。
三郎は西国から帰ってきた。
しかし主人の清経は同行していない。
清経が豊前国柳ヶ浦で入水したことを、妻へ知らせるためだった。
三郎は、形見として清経の遺髪を差し出す。
妻は深く嘆いた。
清経は都落ちの際、再び帰ってくると約束していた。
それなのに、自ら命を絶ってしまった。
妻はそのことを恨んだという。
そして、遺髪を見るたびに悲しみが増すとして、宇佐八幡宮へ返すよう三郎に頼んだ。
夜になり、妻は泣き疲れて眠る。
すると夢の中に、清経の霊が現れた。
清経は、自分の遺髪を送り返した妻を責める。
一方、妻は、自分を残して命を絶った清経を恨む。
二人は互いに思いを語り、涙を流した。
やがて清経は、京都を離れてからの逃避行を語り始める。
緒方惟義に追われ、九州でも行く先が見つからなかったこと。
宇佐八幡宮に祈っても、一門の将来に希望を持てなかったこと。
そして月夜の船上で横笛を吹き、念仏を唱えて海へ身を投げたことを語った。
清経の霊は、死後の修羅道で経験した戦いの苦しみも見せる。
しかし最後には、入水の際に唱えた念仏の功徳によって救われたと告げ、姿を消す。
能『清経』では、妻との別れや夢の中での再会が大きな位置を占めている。
『平家物語』が伝えた清経の最期に、夫婦の恨みと悲しみ、仏教的な救済を重ねた作品である。
清経の妻は、夫が自ら命を絶ったことを悲しみ、再会の約束を破ったことを責めた。
一方、清経も遺髪を送り返されたことを恨んだ。
能の舞台では、夫婦が互いの思いを語ることによって、柳ヶ浦での入水が描かれていく。
柳ヶ浦はどこか――門司と宇佐に残る伝承
清経が入水したと伝わる柳ヶ浦には、現在も複数の伝承が残されている。
一つは福岡県北九州市門司区である。
関門海峡に近いこの地域には、安徳天皇を奉じた平氏一門が滞在したという柳御所の伝承がある。
国立公文書館の解説でも、豊前国柳浦を現在の北九州市門司区に比定している。
『平家物語』では、平氏は山鹿から小舟に乗り、夜を徹して柳ヶ浦へ向かったとされる。
山鹿は現在の遠賀郡芦屋町周辺であり、門司方面への海路を想定する説には地理的な理由がある。
一方、大分県宇佐市の柳ヶ浦にも、清経の入水に関わる伝承が残っている。
宇佐市長洲周辺には清経の供養塔があり、最期の地として伝えられてきた。
宇佐には宇佐八幡宮がある。
能『清経』では、妻が清経の遺髪を宇佐八幡宮へ返す場面が登場する。
また『平家物語』の諸本にも宇佐参詣をめぐる記事があり、その配列や位置づけには違いがある。
さらに福岡県京都郡苅田町にも、清経の墓と伝わる場所が残る。
清経の遺体が海から流れ着いたという伝承に結びつけられている。
ただし、各地の供養塔や墓の伝承から、入水地点や埋葬地を確定することは難しい。
清経の死は『平家物語』を通じて広く知られ、やがて能『清経』も作られた。
その物語が各地へ伝わる中で、柳ヶ浦という地名は複数の場所と結びついていった。
平清経の最期――月夜の海に消えた横笛
平清経は、平重盛の正室・藤原経子の子として生まれた。
母は高倉天皇の乳母を務め、宮廷に深い人脈を持つ女性だった。
清経も幼いころから官位を与えられ、左近衛少将、左近衛権中将へと昇進した。
しかし治承元年(1177年)、母方の伯父であり妻の父でもあった藤原成親が鹿ケ谷事件で処分された。
その二年後には父の重盛が亡くなる。
さらに治承5年(1181年)、祖父の清盛も死去した。
源氏との戦いが広がるなか、清経も追討軍の編成に関わる人物として名が挙がるようになった。
そして寿永2年(1183年)、平氏一門は京都を離れる。
安徳天皇を奉じて九州へ下り、大宰府での再起を目指した。
ところが緒方惟義が平氏追討の軍勢を率い、大宰府から退去させた。
緒方は、かつて重盛に仕えた武士だった。
清経の兄・資盛が説得に向かったものの、緒方は応じなかったと『平家物語』は伝える。
平氏は山鹿へ向かい、さらに柳ヶ浦へ移る。
そこでも安徳天皇の内裏を造れず、再び船上へ逃れたという。
清経は、一門の置かれた状況を網にかかった魚にたとえた。
どこへ行けば逃れられるのか。
京都から遠く離れた九州でも、追手は迫っていた。
そして、ある月夜。
清経は船の屋形から外へ出た。
横笛を吹き、朗詠を始める。
やがて経を読み、念仏を唱えた。
その後、海へ身を沈めたと『平家物語』は記している。
船にいた人々は泣き悲しんだ。
平氏一門はその後も戦いを続け、水島や室山で勝利した。
しかし一ノ谷、屋島を経て、元暦2年3月24日に壇ノ浦で滅びた。
清経の兄・資盛と弟・有盛も、そこで命を落としたと伝わる。
清経が柳ヶ浦で何を思い、最後の夜に誰へ何を語ったのか。
その詳しい経過は伝わっていない。
覚一本系『平家物語』が記すのは、月夜の船上で横笛を吹き、朗詠を終え、念仏を唱えて海へ沈んだという場面である。
「男女泣き悲しめども、かひぞなき」
『平家物語』はそう記し、清経の最期を閉じている。
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