第33回
――嵯峨天皇の死後、藤原良房はどうやって権力を握ったのか
前回は、嵯峨天皇を取り上げた。

810年、嵯峨天皇は兄・平城上皇との対立を制し、薬子の変を終結させた。

その後、嵯峨天皇は蔵人所を設置し、検非違使を整え、藤原冬嗣らを重用した。
そして、嵯峨天皇の時代に頭角を現した人物の一人が、
藤原良房である。

良房は藤原冬嗣の子。
嵯峨天皇の皇女・源潔姫を妻とし、皇室との結びつきを強めていた。
やがて良房は、天皇の外戚となり、朝廷の中心へ進んでいく。
その過程で起きた大きな政変が二つある。
842年の承和の変。そして、866年の応天門の変。
二つの事件の間には24年の歳月がある。
しかし、この二つをつなげて見ると、一つの大きな流れが浮かび上がる。
皇位継承をめぐる政争。有力貴族の失脚。藤原良房の台頭。
そして、
臣下が天皇に代わって政務を執る「摂政」への道。
承和の変から応天門の変へ。
この24年間は、藤原北家が平安朝廷の中枢へ食い込んでいく重要な時代だった。
1.嵯峨天皇の死が、朝廷の均衡を変えた
842年、嵯峨上皇が崩御した。
同じ皇族の中で大きな影響力を持っていた人物が、もう一人いた。
淳和上皇である。淳和天皇は嵯峨天皇の弟。
嵯峨天皇と淳和天皇は、兄弟で皇位を受け渡しながら、皇統の安定を図っていた。
しかし、淳和上皇は840年に崩御。
そして842年、嵯峨上皇も崩御する。
この二人の死によって、それまで保たれていた政治的な均衡が崩れた。
当時の天皇は、仁明天皇。
仁明天皇は嵯峨天皇の皇子である。
そして皇太子には、恒貞親王が立てられていた。
恒貞親王は淳和天皇の皇子。
つまり、
天皇は嵯峨系。
皇太子は淳和系。
という皇位継承の構造になっていた。
このバランスが、嵯峨・淳和両上皇の死によって大きく揺らぐ。
2.恒貞親王という皇太子
恒貞親王は、父・淳和天皇から皇太子の地位を受け継いでいた。
ところが、仁明天皇には自らの皇子がいた。
その名は、道康親王。
母は藤原順子。
そして順子の兄が、藤原良房だった。
ここで皇位継承をめぐる政治的な利害が複雑になる。
もし恒貞親王が即位すれば、淳和天皇の皇統が続く。
一方、道康親王が皇太子となれば、仁明天皇からその皇子へ皇位が継承される。
そして道康親王の外戚となるのが藤原良房である。
この皇位継承問題が、承和の変の背景にあった。
3.承和の変――突然の「謀反」
承和9年(842)、事件が起こる。
中心人物となったのが、
伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)
である。
伴健岑は春宮坊の役人として恒貞親王に近い立場にいた。
橘逸勢は、嵯峨天皇の時代から活躍した人物で、空海・嵯峨天皇と並ぶ三筆の一人として知られる。
この二人らが謀反を企てたとされる事件が発覚する。
朝廷はただちに対応した。伴健岑らは逮捕され、取り調べが行われた。
そして、その事件の余波は皇太子にまで及んだ。
恒貞親王が皇太子の地位を失ったのである。
4.恒貞親王、皇太子を廃される
承和の変で最も大きな結果が、皇太子の交代だった。
恒貞親王は皇太子を廃された。
そして新たに皇太子となったのが、道康親王。
後の、文徳天皇である。
ここで皇位継承の流れが大きく変わった。
それまで、
仁明天皇
↓
恒貞親王
だった皇位継承が、
仁明天皇
↓
道康親王
へ変更されたのである。
そして道康親王の母は藤原順子。その兄は藤原良房。
つまり承和の変によって、
藤原良房が次の皇位継承者の外戚となる道が開かれた。
これは、その後の藤原氏の歴史を考えるうえで非常に大きい。
5.恒貞親王はどうなったのか
ここで、恒貞親王本人にも注目したい。
皇太子を廃された恒貞親王は、その後、出家する。
皇位を争って自ら兵を率いた人物として描かれるような人物ではない。
承和の変で政治の表舞台から姿を消した。
一方、事件の中心人物とされた橘逸勢は流罪となった。
逸勢は伊豆国への流刑を命じられたが、配所へ向かう途中で病死した。
かつて嵯峨天皇の宮廷で活躍した文化人が、政変によって政治的に失脚し、その生涯を終えたのである。
6.「本当に恒貞親王が謀反を企てたのか?」
ここは承和の変で最も重要なポイントの一つだ。
『続日本後紀』は、伴健岑や橘逸勢らが謀反を企てた事件として記録している。
しかし、事件の政治的背景を見ると、皇位継承をめぐる対立が存在していた。
そして結果として最も大きな利益を得た人物の一人が、藤原良房だった。
恒貞親王が失脚。
道康親王が皇太子になる。
その外戚として良房の立場が強くなる。
このため、承和の変は古くから藤原良房による他氏排斥の一環としても論じられてきた。
ただし、史料から「良房が最初からすべてを計画した」と断定することはできない。
ここは慎重に見る必要がある。
確実に言えるのは、
承和の変によって皇太子が交代し、その結果として藤原良房の政治的地位が大きく上昇した
ということだ。
『続日本後紀』の編纂には後の藤原良房自身も関わっている。
そのため、事件を記録した史料そのものの成立背景も考えながら読む必要がある。
7.良房、外戚として力を強める
承和の変の後、良房はさらに出世する。
そして道康親王が成長し、文徳天皇として即位する。
良房にとって、これは非常に大きな意味を持つ。
文徳天皇の母は、藤原順子。
その兄が、藤原良房。
つまり良房は天皇の外伯父にあたる。
さらに良房は自分の娘、明子を文徳天皇の后として入内させる。
明子は後に清和天皇を産む。
ここで藤原良房と皇室の結びつきは、さらに強くなる。
8.9歳の天皇――清和天皇の即位
858年、文徳天皇が崩御する。
即位したのは、清和天皇。
まだ9歳だった。
幼い天皇を支える立場として、良房の存在感は一気に増した。
良房は太政大臣となり、幼帝を後見する。
そして866年、朝廷を揺るがす事件が起こる。
応天門の変である。
承和の変から24年。
またしても、朝廷を揺るがす政変が起こった。
9.866年、応天門が燃える
貞観8年(866)、平安宮の中心部にある朝堂院。
その正門が、応天門だった。
ある夜、この門が炎上する。朝堂院の正門が燃えた。
応天門は朝廷の重要な施設。
そこから、「誰が火を放ったのか」という政治事件へ発展する。
これが、応天門の変である。
10.最初に犯人として名前が出たのは、源信
応天門の炎上後、事件の犯人として名前が挙がった人物がいる。
左大臣・源信。
伴善男らが、源信が放火したと主張した。
源信は朝廷の有力者。
もし源信が本当に犯人なら、朝廷を揺るがす大事件になる。
そして源信の処罰をめぐって、朝廷は動き始める。
ここで登場するのが、藤原良房である。
良房は源信を擁護した。
源信は処罰を免れる。
しかし、事件はここで終わらなかった。
11.「本当の犯人」が現れる
応天門炎上からしばらく経った後、
大宅鷹取という人物が告発する。
今度は、伴善男を犯人として名指しした。
伴善男は大納言。
朝廷の中枢にいる有力者だった。
つまり事件は、
源信を犯人とする告発から、伴善男を犯人とする告発へ急展開する。
伴善男は激しく否認した。
しかし取り調べが進み、伴善男の従者らへの尋問などを経て、朝廷は伴善男父子が放火に関与したと判断した。
そして、伴善男は伊豆国へ流罪。
子の中庸らも処罰された。
さらに関係者や縁者にも処分が及んだ。
名門・伴氏は大きな打撃を受ける。
12.伴善男は、本当に放火したのか?
ここも承和の変と同じく、歴史を見るうえで重要なところだ。
正史では、伴善男らが応天門に放火したという形で事件が決着している。
しかし、事件の経過には疑問を抱かせる点もある。
なぜ応天門の炎上直後ではなく、しばらく時間が経ってから伴善男が告発されたのか。
なぜ最初に源信が犯人として疑われ、その後に伴善男へと変わったのか。
そして、
事件の審理が進む中で、藤原良房が摂政となったことも重要である。
応天門の変については、藤原良房が政敵を排除するために事件を利用したという見方が古くから存在する。
一方で、良房が実際に放火を仕組んだことを直接証明する史料はない。
したがって、「良房が黒幕だった」と断定するより、
「事件によって良房の政敵が失脚し、良房の権力が決定的に強まった」
と見るのが史実に忠実である。
13.そして良房は「摂政」になる
応天門の変が起きた866年。
藤原良房は、摂政となった。
ここが日本史上、非常に重要なポイントである。
良房は、臣下として初めて摂政となった人物である。
摂政とは、天皇に代わって政務を執る立場。
それまで皇族が担ってきた摂政という政治的役割を、藤原氏の一員が担うことになった。
これが、後の摂関政治につながっていく。
藤原良房の時代に完成した制度が、そのまま後世の摂関政治になったわけではない。
しかし、
藤原氏が天皇の外戚となり、幼帝を後見し、朝廷政治を主導するという構造は、
ここから明確になっていく。
14.承和の変と応天門の変――二つの事件はつながっている
ここまでの流れを整理してみよう。
842年 承和の変
恒貞親王が皇太子を廃される。
↓
道康親王が皇太子となる。
↓
道康親王が文徳天皇となる。
↓
母方の叔父・藤原良房の地位が上昇。
↓
文徳天皇の皇子・惟仁親王が即位。
↓
清和天皇。
↓
良房が幼帝を後見。
866年 応天門の変
応天門が炎上。
↓
源信が犯人として疑われる。
↓
伴善男が源信を告発。
↓
その後、伴善男自身が犯人として告発される。
↓
伴善男失脚。
↓
良房の政敵がさらに後退。
↓
藤原良房、摂政となる。
こうして見ると、二つの事件は単独の政変ではない。
皇位継承と藤原氏の外戚化が進む過程で起きた、二つの大きな転換点なのである。
15.「他氏排斥」という言葉だけでは足りない
日本史では、「藤原氏が他氏を排斥した」と説明されることが多い。
もちろん、結果として有力氏族が政治の中心から排除されていった。
承和の変では伴健岑・橘逸勢らが処分された。
応天門の変では伴善男が失脚し、伴氏が大きな打撃を受けた。
しかし、本当に重要なのは、
藤原氏が単純に他の貴族を次々と追放したという話ではない。
藤原北家は、
皇室との婚姻関係 皇太子・天皇との外戚関係 朝廷内部での官職 幼帝の後見
を組み合わせて、政治的地位を高めていった。
その象徴が藤原良房である。
16.良房の強さは「天皇との距離」にあった
藤原良房の政治的な強さを理解するために、家系を見ると分かりやすい。
父は、藤原冬嗣。
嵯峨天皇に重用された人物である。
良房自身も嵯峨天皇の皇女・源潔姫と結婚。
さらに妹・順子は仁明天皇の后。
その子が文徳天皇。
そして良房の娘・明子が文徳天皇との間に生んだのが、清和天皇。
つまり良房は、嵯峨天皇の時代から皇室との婚姻関係を強め、次の世代で天皇の外戚となった。
ここに良房の権力の秘密がある。
皇位継承と婚姻を利用して、朝廷の中心へ入っていった。
17.応天門の変を描いた「絵巻」がある
応天門の変には、後世に残された有名な絵巻がある。『伴大納言絵詞』である。
12世紀後半頃に制作されたと考えられる絵巻で、応天門の変を題材としている。
炎上する応天門。騒然とする人々。
事件をめぐる朝廷の動き。そして伴善男。
文章だけで事件を読むのとは違い、絵巻では当時の人々がこの事件をどのような物語として後世に伝えたのかを見ることができる。
応天門の変は、単なる古代の政争ではない。
後世の人々にとっても、「権力者が失脚した大事件」として強烈な印象を残したのである。
18.そして藤原氏の時代へ
866年、応天門の変を経て、藤原良房は摂政となった。
その後、良房は872年に死去する。
しかし、藤原北家の政治的地位は揺らがなかった。
良房の養子、藤原基経がその地位を継いでいく。
そして887~888年。
基経と宇多天皇の間で、阿衡の紛議が起こる。
さらに901年には、昌泰の変が起こる。
菅原道真が大宰府へ左遷される事件である。
こうして平安時代の政治は、
藤原良房
↓
藤原基経
↓
藤原氏による摂関政治
という方向へ進んでいく。
19.薬子の変から始まった「政治の変化」
ここで、前回の記事へ戻ろう。
810年、薬子の変。
平城上皇と嵯峨天皇が対立した。
嵯峨天皇は勝利し、朝廷の主導権を握った。
そして、その嵯峨天皇の側近として力を伸ばしたのが藤原冬嗣だった。
冬嗣の子が、藤原良房。
そして良房が、承和の変を経て皇位継承に深く関わるようになる。
さらに、応天門の変を経て摂政となる。
つまり、薬子の変 → 嵯峨天皇 → 藤原冬嗣 → 藤原良房 → 承和の変 → 応天門の変 → 摂関政治
という一本の流れが見えてくる。
20.二つの政変が変えたもの
承和の変と応天門の変。
二つの事件で失脚した人物は違う。背景も違う。
しかし、結果として平安朝廷の権力構造は大きく変化した。
承和の変では、皇太子が交代した。
応天門の変では、有力貴族が失脚した。
そしてその二つの政変の間で、藤原良房が朝廷の中心へ進んだ。
最後に良房が摂政となる。
ここに、藤原氏が天皇の外戚として政治を主導する時代の原型が現れる。
まとめ
――承和の変から応天門の変へ。藤原良房はなぜ権力を握ったのか
842年、嵯峨上皇が崩御した。
その直後、承和の変が起こる。
伴健岑・橘逸勢らが謀反を企てたとされ、皇太子恒貞親王も皇太子の地位を失った。
そして新たな皇太子となったのが道康親王。
後の文徳天皇である。
その外戚として藤原良房の地位が上昇する。
その後、文徳天皇が即位。
さらにその皇子である清和天皇が9歳で即位すると、良房は幼帝を後見する立場となった。
そして866年、平安宮の正門・応天門が炎上する。
最初は左大臣源信が犯人として疑われ、その後、伴善男が犯人として告発された。
伴善男は失脚し、伴氏も大きな打撃を受けた。
そして同じ年、
藤原良房は臣下として初めて摂政となった。
承和の変から応天門の変まで。
24年間の間に、平安朝廷の権力構造は大きく変わった。
そして、その中心にいたのが、藤原良房だった。
薬子の変で嵯峨天皇が兄・平城上皇との対立を制した時代。
そこから約半世紀。
平安朝廷の政治は、皇族中心の時代から、天皇の外戚となった藤原氏が政治を主導する時代へ移っていく。
その大きな転換点が、承和の変と応天門の変だった。
そして、この先に待っているのが、藤原基経と阿衡の紛議。
さらに、菅原道真と昌泰の変。
平安時代の権力争いは、ここからさらに激しくなっていく。

承和の変、応天門の変を経て、臣下として初めて摂政となった藤原良房。平安時代の権力争いをもっと深く知りたい人におすすめです。


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