第45回
――坂上田村麻呂の時代に終わったはずの戦いが、なぜ再び始まったのか
坂上田村麻呂が蝦夷征討を進め、胆沢城が築かれ、阿弖流為が降伏した。


そして弘仁2年(811)には、文室綿麻呂が爾薩体・幣伊方面を征討した。
朝廷による東北支配は大きく前進した。
ところが、それから約70年後、出羽国で大規模な反乱が起きる。
元慶2年(878)。
秋田城が攻撃され、朝廷軍は敗北を重ねた。
朝廷は上野・下野など東国から兵を集め、さらに東海・東山道の諸国にも勇士の徴発を命じた。
そして、この乱を鎮めるために出羽国へ派遣されたのが、藤原保則である。
この戦いが、後世に「元慶の乱」と呼ばれる戦いである。
これは単なる地方反乱ではない。
蝦夷征討によって東北を支配下に組み込んだはずの朝廷が、その支配の現場で再び大規模な抵抗に直面した事件だった。
1.蝦夷征討が終わった後、東北はどうなったのか
まず、元慶の乱を理解するには、蝦夷征討とのつながりを見る必要がある。
8世紀後半、朝廷は陸奥・出羽方面へ支配を広げていった。
城柵を築き、東国から人々を移住させ、軍隊を送り、現地の人々を朝廷の支配体系へ組み込んでいった。
坂上田村麻呂の征討によって胆沢地方が朝廷の支配下に入り、胆沢城が築かれた。
その後も志波城、徳丹城などの城柵が整備され、東北北部に対する朝廷の支配体制が形成されていった。
しかし、ここで重要なのは、朝廷の支配下に入った人々が、すべて同じ立場だったわけではないということである。
朝廷は東北の人々を「蝦夷」「夷俘」「俘囚」などと呼び、服属した集団を朝廷の支配体系へ組み込んだ。
一方で、彼らが暮らす地域には、朝廷の制度だけでは処理しきれない社会関係が残っていた。
つまり、軍事的に征討が終わっても、支配の問題は終わらなかった。
元慶の乱は、その問題が大規模な形で表面化した事件だった。
2.出羽国という特殊な場所
元慶の乱の舞台は、現在の秋田県を中心とする出羽国である。
出羽国には、朝廷の支配拠点として秋田城が置かれていた。
秋田城は出羽国北部における朝廷の行政・軍事・外交の重要拠点だった。
日本海側に位置するため、大陸や北方地域との交流を考えるうえでも重要だった。
そして秋田城の周辺には、朝廷の支配に組み込まれた人々が暮らしていた。
『日本三代実録』には、元慶の乱の際、上津野、火内、榲淵、野代など十二の村が反乱側についたことが記録されている。
現在の秋田県北部から米代川流域にかけての地域である。
秋田県大館市周辺でも、当時の地名である火内(比内)が確認できる。
この地域社会が、元慶の乱の中心になった。
3.なぜ反乱は起きたのか
元慶の乱を考えるうえで最大の問題がここである。
なぜ人々は朝廷に対して武器を取ったのか。
『藤原保則伝』系の史料では、前年からの不作にもかかわらず、出羽国司や秋田城司側が民から厳しく徴税・徴発を行ったことが原因として描かれている。
特に秋田城司の良岑近について、非常に厳しい人物像が伝えられている。
徴税を重ね、要求に応じない者には厳しい処罰を加えたという。
つまり、飢饉・徴税・地方官人の苛政が反乱の大きな背景になったと考えられる。
弘仁年間から貞観年間にかけて、朝廷は全国の地方支配を強化していた。
しかし地方では、中央政府が定めた制度と現地社会の実情が衝突する。
出羽では、それが爆発した。
ただし、ここは史料の性格にも注意が必要である。
『藤原保則伝』は保則を名臣として描く伝記であり、乱の原因についても保則が後に善政を行ったことを際立たせる構成を持つ。
したがって、
「重税だけが原因だった」と一つに決めつけるのではなく、凶作、地方官人の統治、徴税や労役、現地社会と朝廷支配との緊張が重なった事件
として捉えるのが正確である。
4.元慶2年(878)――出羽で反乱が始まる
元慶2年(878)、出羽国で大規模な反乱が起こった。
朝廷の記録には、反乱勢力が各地に広がっていった様子が記録されている。
4月19日には、出羽国側が最上郡から官軍560人を派遣して状況を探らせた。
ところが、その軍は途中で反乱勢力約300人と遭遇して戦闘になった。
官軍側にも死傷者が出た。
権掾の文室有房は激しく戦ったが負傷し、軍は後続の援軍を得られないまま退却した。
さらに甲冑300領、米・糒700斛、衾1000条、馬1500匹など、大量の軍需物資を失ったと『日本三代実録』は記録している。
これは朝廷にとって重大な打撃だった。
地方の小規模な騒乱ではない。
朝廷軍が現地で敗北し、大量の武器・食糧・馬まで奪われている。
反乱勢力は、すでに朝廷が簡単に押さえ込める規模ではなかった。
5.秋田城が追い詰められる
反乱はさらに拡大した。
秋田城の周辺では、上津野、火内、榲淵、野代など十二村が反乱側についた。
そして秋田城は包囲される。
元慶2年6月7日、出羽守藤原興世から朝廷へ急報が届いた。
その内容は衝撃的だった。
反乱軍との戦闘で官軍が苦戦し、武器や食糧などの軍需物資が大量に奪われた。
そして、秋田城そのものが反乱勢力によって圧迫される事態になっていた。
秋田城は出羽北部における朝廷支配の中心である。
そこが危機に陥った。
朝廷は事態を地方官だけで処理できる問題ではないと判断する。
援軍を送ることになる。
6.朝廷、東国から兵を集める
朝廷の対応は早かった。
上野国・下野国から援軍を送る。
さらに東海・東山道諸国にも勇敢な兵士を選び、出羽国から要請があればすぐに派遣できるよう命じた。
つまり、元慶の乱は出羽一国だけの問題ではなくなった。
東国から兵を集め、さらに全国規模で軍事動員の準備が進められた。
この点は、8世紀の蝦夷征討とよく似ている。
東北で戦いが起きれば、朝廷は東国を中心に兵を動員する。
しかし、元慶の乱では、朝廷の戦い方に大きな変化が現れていた。
それが、藤原保則の登場である。
7.藤原保則、出羽へ
朝廷は藤原保則を出羽へ派遣した。

保則は右中弁を兼ねる人物で、地方行政の経験も持っていた。
出羽に到着すると、これまでの戦況を確認し、軍事作戦を組み立てる。
そして保則がとった方法が非常に興味深い。
反乱側と戦うだけではなく、朝廷側についた俘囚を利用したのである。
『日本三代実録』には、朝廷に従っていた俘囚たちに官米を与え、反乱勢力と戦わせたことが記録されている。
その結果、添河・霜別・助川の三村の俘囚が反乱勢力に夜襲をかけ、80人を殺し、食糧や住居を奪ったと報告されている。
これは元慶の乱を理解するうえで重要な場面だ。
朝廷軍だけで戦ったのではない。
朝廷側に立つ現地勢力を利用して、反乱勢力を内部から切り崩していった。
朝廷は「蝦夷対朝廷」という単純な二分法では戦っていなかったのである。
8.「蝦夷対朝廷」では説明できない戦い
ここが元慶の乱の最大のポイントである。
現代では「蝦夷が朝廷に反乱した」と説明されることが多い。
しかし史料を見ると、実際にはもっと複雑だ。
朝廷に従って戦った俘囚がいる。反乱側についた俘囚がいる。
さらに、津軽や渡嶋の人々もそれぞれ異なる動きを見せる。
『日本三代実録』には、朝廷側が「夷をもって夷を討つ」という方針を示したことが記録されている。
つまり朝廷自身も、東北の人々を一枚岩とは考えていなかった。
現地社会の内部対立を利用しながら、反乱勢力を分断していったのである。
ここに、坂上田村麻呂の時代とは異なる9世紀後半の朝廷支配の姿が見える。
9.小野春風と坂上好蔭が北から迫る
朝廷はさらに軍を動かした。
鎮守将軍の小野春風と、陸奥権介の坂上好蔭らが率いる軍が出羽へ進んだ。
小野春風は津軽方面から上津野へ入り、現地の反乱勢力に降伏を呼びかけた。
一方、坂上好蔭も軍を率いて進軍する。
朝廷軍は複数の方向から反乱勢力を圧迫する体制を作った。
ここでも重要なのは、単純な正面攻撃ではない。
軍事力を見せつけながら、降伏を促す。
反乱勢力の内部から降伏者を出し、さらに戦力を削っていく。
保則の政策は、この方法を徹底していった。
10.秋田城は焼失する
そして、元慶の乱を象徴する事件が起こる。
秋田城の焼亡である。
『日本三代実録』の9月5日の記事では、朝廷が「城を焼亡した」状況を把握している。
つまり秋田城は、元慶の乱の中で大きな被害を受けた。
秋田城は朝廷による出羽北部支配の象徴だった。
その拠点が炎上する。これは朝廷にとって単なる軍事施設の損失ではない。
律令国家の東北支配そのものが、一時的に大きく揺らいだ瞬間だった。
11.それでも反乱勢力は次第に追い詰められる
しかし、反乱勢力の勢いは次第に衰えていった。
朝廷軍は複数の方向から進み、現地の俘囚を味方につける。
さらに、朝廷側は降伏者を受け入れる方針を示した。
元慶2年8月29日には、反乱勢力約300人が秋田営に来て降伏を願い出たと記録されている。
小野春風も反乱地域へ入り、降伏文書を受け取った。
ここで興味深いのが、朝廷側でも降伏を認めるべきかどうか議論が起きていたことである。
すでに朝廷に従った俘囚からは、
「自分たちは国家に従ったため、反乱側から恨みを買っている。反乱勢力を完全に滅ぼさなければ、後で報復される」
という趣旨の訴えが出ていた。
つまり、戦争が終わっても地域社会には深い対立が残る。
朝廷は、その処理まで考えなければならなかった。
12.朝廷は「降伏」を認める
朝廷は最終的に、降伏を望む者を受け入れる方針を示した。
ただし、無条件に信じたわけではない。
降伏の意思が本物なら受け入れる。反乱を続けるなら軍事力で討つ。
つまり、
「戦う者は討つ。降伏する者は受け入れる。」
という二つの政策を使い分けた。これは非常に現実的な政策だった。
朝廷にとって重要なのは、反乱勢力を一人残らず殺すことではない。
出羽を再び統治できる状態に戻すことだった。
13.元慶3年(879)――乱は終息へ
元慶3年(879)になると、戦いは終息する。
1月11日、『日本三代実録』には、渡嶋蝦夷の首長103人が約3000人を率いて秋田城へ来て服属したことが記録されている。
さらに、反乱側に加わらなかった津軽の俘囚100余人もともに帰順した。
これは非常に重要な記録だ。
元慶の乱は単に出羽国内だけで完結した戦争ではなかった。
津軽・渡嶋など北方地域の人々も、この戦乱をめぐって朝廷との関係を変化させていた。
朝廷は戦争を終わらせるだけではなく、北方社会との関係を再構築していった。
14.元慶の乱で何が変わったのか
元慶の乱は、朝廷の完全な敗北ではない。
しかし、朝廷にとって大きな教訓を残した。
それは、東北を軍事力だけで支配することはできないという現実だった。
8世紀後半の蝦夷征討では、巨大な軍隊を派遣し、城柵を築き、軍事力によって支配領域を北へ押し広げた。
元慶の乱では、その支配体制の内部で反乱が起こった。
秋田城が攻撃され、軍需物資が奪われ、城そのものが焼亡する。
しかし朝廷は、現地の俘囚を利用し、軍事力を投入し、降伏者を受け入れ、地域社会を再編することで事態を収束させた。
戦い方そのものが変わっていたのである。
15.坂上田村麻呂の時代との決定的な違い
ここで、約70年前の蝦夷征討と比べてみよう。
坂上田村麻呂の時代。
朝廷は胆沢へ軍を進めた。胆沢城を築いた。阿弖流為が降伏した。そして東北の支配拠点を北へ進めていった。
ところが元慶の乱では、すでに朝廷の支配下に置かれた地域で反乱が起きている。
つまり、「征討する時代」から「支配を維持する時代」へ移った。
元慶の乱は、その転換点を示す事件だった。
朝廷はもはや東北を単純に「敵地」として扱ってはいない。
現地の俘囚を官軍として利用し、降伏者を受け入れ、津軽や渡嶋の勢力とも交渉する。
軍事だけではなく、現地社会そのものを利用して支配する政治へ変化していたのである。
16.それでも東北の緊張は終わらなかった
元慶の乱が終わったからといって、東北の緊張が消えたわけではない。
元慶5年(881)には、出羽国司が渡嶋狄を饗応するために不動穀を無断使用したことが問題になっている。
さらに寛平5年(893)には、出羽国の渡嶋狄と奥地の俘囚との戦闘に備え、出羽国司に城塞を警備させる命令が出されている。
つまり、元慶の乱後も、出羽と北方社会との緊張関係は続いていた。
ここが重要である。
878年の戦いをもって、東北問題が完全に解決したわけではない。
朝廷はその後も、北方社会との軍事的・政治的関係を調整し続けた。
まとめ
――元慶の乱が示した「蝦夷征討のその後」
元慶2年(878)。
出羽国で大規模な反乱が起こった。
反乱勢力は出羽北部の広い地域へ勢力を広げ、朝廷軍を破り、秋田城を攻撃した。
朝廷は上野・下野など東国から兵を集め、さらに東海・東山道からも兵士を徴発した。
その中心となったのが藤原保則である。
保則は軍事力だけに頼らず、朝廷側についた俘囚を利用し、反乱勢力を内部から切り崩した。
小野春風や坂上好蔭らも軍を率いて出羽へ入り、降伏を促した。
やがて反乱勢力から降伏者が相次ぎ、元慶3年(879)には渡嶋蝦夷の首長103人が約3000人を率いて秋田城へ来て服属するまでになった。
こうして元慶の乱は終息した。
しかし、この戦いが残した意味は大きい。
蝦夷征討が終われば、東北支配も終わるわけではなかった。
朝廷が東北へ進出した後には、徴税、労役、地方官人の統治、俘囚社会との関係という新たな問題が待っていた。
元慶の乱は、その矛盾が一気に噴き出した事件だった。
そして朝廷は、この戦いを通じて一つの現実を学んだ。
東北を支配するには、軍隊だけでは足りない。
現地の人々を味方につけ、降伏者を取り込み、地域社会の対立を利用しながら支配を維持する必要がある。
坂上田村麻呂が戦った時代から約70年。
朝廷の東北政策は、「敵を討つ征討」から「支配を維持する統治」へと変化していた。
元慶の乱は、その変化を象徴する戦いだった。
そして、この時代の朝廷ではもう一つ、大きな変化が進んでいた。
中央では藤原良房が摂政となり、藤原氏が政治の主導権を握っていく。
東北では元慶の乱。中央では藤原氏の台頭。
9世紀後半の日本は、こうして新しい時代へ進んでいった。

もっと深く知りたい方へ――
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