第127回
寿永3年(1184)1月20日。
宇治と瀬田の防衛線を突破された木曾義仲は、京都を離れた。
前年7月。
平家を都から退かせる形で京都へ入った義仲は、わずか半年ほどでその支配を失ったのである。
義仲が向かったのは近江国だった。
しかし、頼朝方の追撃は止まらない。
宇治では源義経。
瀬田では源範頼。
二人の軍勢によって京都への道を破られた義仲を、一条忠頼ら頼朝方の武士たちがさらに追った。
そして現在の滋賀県大津市周辺にあたる粟津で、義仲は最後の戦いを迎える。
『吾妻鏡』では、近江国粟津付近で相模国の武士・石田次郎が義仲を討ったと記されている。
一方、『平家物語』は、この義仲の最期を「木曾最期」として鮮烈に描いた。
今井兼平との再会。
巴御前との別れ。
最後の二騎となった義仲と兼平。
そして、薄氷の張った深田にはまり、動けなくなった義仲。
粟津の戦いは、単独の大規模な会戦というより、宇治・瀬田で敗れた義仲軍に対する追撃戦の最終局面だった。
そしてこの戦いによって、木曾義仲という一つの勢力は終焉を迎える。
今回は、宇治・瀬田で敗れた義仲がなぜ粟津まで追い詰められたのか。
粟津ではどのような戦いが行われたのか。
そして『平家物語』に描かれた義仲・今井兼平・巴御前の「木曾最期」を、史実との違いにも注意しながら見ていく。
1.宇治・瀬田で崩れた木曾義仲の京都支配
粟津の戦いは、同じ1月20日に起きた宇治・瀬田での戦闘から続いている。
寿永3年(1184)1月20日。
源頼朝から派遣された軍勢が京都へ迫った。
源範頼は瀬田方面。
源義経は宇治方面。
義仲方は二つの道を守り、頼朝方を迎え撃った。
しかし、宇治では義経軍が防衛線を突破する。
瀬田方面でも範頼軍が前進し、義仲方は京都への道を支えきれなくなった。
二つの防衛線が同じ日に崩れたことで、義仲は京都を維持する軍事的基盤を失った。
前年7月。
義仲は平家を都から退かせる形で京都へ入った。
11月には法住寺合戦で後白河法皇側の軍勢を破り、法皇を自らの影響下に置いている。
しかし、その約2か月後。
頼朝方によって宇治と瀬田を突破され、義仲の京都支配は崩壊したのである。
2.なぜ義仲はここまで追い詰められたのか
義仲の苦境は、1月20日に突然始まったものではない。
京都へ入った後、義仲を取り巻く状況は急速に悪化していた。
まず、西国では平家が勢力を立て直していた。
寿永2年閏10月。
義仲方は備中国の水島で平家軍と戦い、敗北する。
京都を離れた平家は軍事力を失っておらず、西国から反撃する力を残していたのである。
さらに京都では、後白河法皇との関係が悪化した。
11月には法住寺合戦が起こり、義仲は法皇側の軍勢を破った。
軍事的には勝利したものの、朝廷との対立は決定的となった。
そして東国では、源頼朝が勢力を拡大していた。
義仲は、
西国の平家。
東国の頼朝。
後白河法皇。
さらに源行家との対立。
複数の問題を同時に抱えるようになった。
倶利伽羅峠で平家軍を破り、京都へ進んだ頃の義仲とは、すでに置かれている状況が大きく変わっていたのである。
3.京都を離れ、近江へ向かう義仲
宇治と瀬田の防衛線を失った義仲は、京都を離れた。
向かったのは近江国である。
京都から東へ進めば近江へ入る。
さらに北へ向かえば、義仲が勢力を築いてきた北陸方面にもつながる。
義仲にとって近江方面への退却は、その後の態勢を立て直す可能性につながる進路でもあった。
しかし、義仲には十分な時間が残されていなかった。
宇治・瀬田で敗れたことで軍勢は崩れ、頼朝方の武士たちが追撃を始めていたからである。
『吾妻鏡』によれば、一条忠頼らの武士たちは各方面へ義仲勢を追った。
京都をめぐる防衛戦は終わった。
ここから戦いは、敗走する義仲軍に対する追撃戦へと変わっていく。
4.粟津――義仲が最後にたどり着いた場所
粟津は現在の滋賀県大津市周辺にあたる。
琵琶湖の南西部に位置し、京都から近江へ退く義仲が通ることになる地域だった。
粟津の戦いと呼ばれているが、宇治や瀬田のように大軍同士が防衛線を挟んで正面から戦った会戦とは性格が異なる。
宇治と瀬田では、義仲方が京都への道を守るために軍勢を配置していた。
そこへ範頼・義経の軍勢が攻撃を加えた。
一方、粟津ではすでに義仲方の防衛体制は崩れている。
京都を離れた義仲を、頼朝方が追い続ける。
その追撃の末、義仲が討たれた場所が粟津だったのである。
宇治・瀬田で軍事的な勝敗が決まり、
粟津で木曾義仲自身の生涯が終わった。
この流れで見ると、粟津の戦いの位置づけが分かりやすい。
5.今井兼平――挙兵から義仲を支え続けた乳兄弟
義仲の最期を語るうえで欠かせない人物が、今井兼平である。
兼平は義仲の乳母の子であり、義仲とは乳兄弟にあたる。
治承4年(1180)に義仲が挙兵すると、兼平はその軍勢の中心人物として各地を戦った。
北陸方面へ進出した時期にも義仲に従い、京都をめぐる戦いでも重要な役割を担っている。
宇治・瀬田の戦いでも、今井兼平の名は史料に登場する。
『吾妻鏡』は、志田義広や今井兼平らが宇治・瀬田の両道で防戦したことを記している。
兼平は、義仲が勢力を伸ばしている時だけ従った家臣ではなかった。
信濃での挙兵から、京都進出、そして最後の敗走まで義仲を支え続けた武将だったのである。
6.義仲と兼平の再会――『平家物語』の「木曾最期」
ここから先、義仲の最期について広く知られる具体的な場面の多くは、『平家物語』によって伝えられている。
宇治・瀬田で敗れた後、義仲と今井兼平は別々に退却していた。
『平家物語』では、二人は近江で再会する。
その頃、義仲の周囲に残る兵は急速に減っていた。
敗走する途中で家臣たちが次々と討たれ、やがて一行は七騎ほどになったと描かれている。
かつて北陸道を進み、平家軍を破り、京都へ入った義仲軍とは大きく異なる姿である。
それでも兼平は義仲と合流した。
ここから『平家物語』は、大軍同士の戦いよりも、義仲と最後まで残った家臣たちの姿を中心に描いていく。
7.巴御前――義仲とともに残った女武者
義仲の最期とともに広く知られている人物が、巴である。
一般には巴御前の名で知られている。
『平家物語』では、巴は弓にも馬にも優れた武者として描かれ、義仲とともに各地を戦った人物として登場する。
しかし、巴については史料の性格を意識する必要がある。
『吾妻鏡』1月20日条には、巴の名は登場しない。
粟津での具体的な行動は、主として『平家物語』などの軍記物語を通して伝えられている。
その『平家物語』では、味方がほとんど残らなくなった後も、巴は義仲のそばにいた。
最後まで義仲とともに戦おうとしたのである。
8.義仲と巴御前――最後の別れ
『平家物語』では、義仲は巴に戦場を離れるよう命じた。
巴はすぐには去らなかった。
最後に敵方の武者と戦い、その後、義仲のもとを離れたと描かれている。
この場面は後世にも強い印象を残した。
巴は女武者の代表的な存在として知られるようになり、能「巴」をはじめ、多くの作品で義仲との物語が描かれることになる。
ただし、義仲と巴の具体的な別れについては、『平家物語』が伝えた物語として見る必要がある。
歴史上の粟津と、
後世に語り継がれた「木曾最期」。
両方を分けて考えることで、粟津の戦いがどのように記憶されてきたのかが見えてくる。
9.義仲と兼平――最後の二騎
巴が去った後、『平家物語』では義仲と今井兼平が最後の二騎となる。
長い戦いの中で、義仲は身につけている鎧が重くなったように感じると兼平に語った。
兼平は、義仲自身も馬もまだ衰えておらず、味方の軍勢がいなくなったためにそう感じるのだという趣旨の言葉を返す。
そして、自分一人を千騎と思ってほしいと義仲を励ました。
義仲と兼平の関係を象徴する場面である。
兼平は義仲に、粟津の松原へ向かって武将として最期を迎えるよう勧める。
自分は敵を引き受け、その時間を作ろうとした。
義仲は兼平のもとを離れ、一騎で粟津の松原へ向かう。
しかし、そこで義仲は思わぬ事態に陥ることになる。
10.粟津の深田――木曾義仲の最期
『平家物語』では、粟津の松原へ向かった義仲の前に深田があった。
季節は正月。
表面には薄い氷が張っていた。
義仲はその下が深い泥になっていることに気づかず、馬ごと入り込んだと描かれている。
馬は深田にはまり、動けなくなった。
義仲が馬を進ませようとしても抜け出すことができない。
その最中、義仲は今井兼平がどうなったのか気になり、振り返った。
そこを敵に討たれた。
これが『平家物語』の「木曾最期」に描かれた、義仲の最期である。
倶利伽羅峠で平家の大軍を破り、京都まで進んだ義仲。
その義仲が最後はわずかな家臣とともに逃れ、粟津の深田で動けなくなって討たれる。
『平家物語』は、その急激な転落を強烈な物語として描いたのである。
11.木曾義仲を討ったのは誰だったのか
義仲の最期について、『吾妻鏡』の記述は『平家物語』より簡潔である。
宇治・瀬田で義仲方が敗北した後、一条忠頼らが各方面へ追撃した。
そして近江国粟津付近で、相模国の住人・石田次郎が義仲を討ったと記されている。
『平家物語』では、この人物は石田次郎為久として登場する。
そのため、粟津の戦いを「源義経が木曾義仲を直接討った戦い」と見ると、史料が伝える流れとは異なる。
義経は宇治方面。
範頼は瀬田方面。
二人の軍勢が京都を守る義仲方の防衛線を崩した。
その後、一条忠頼らによる追撃が続く。
そして粟津で石田次郎が義仲を討った。
これが『吾妻鏡』から読み取れる大きな流れである。
12.義仲の死を知った今井兼平
『平家物語』では、義仲が粟津の松原へ向かっている間も、今井兼平は追撃してくる敵と戦い続けていた。
やがて義仲が討たれたことを知る。
兼平は、主君がすでに亡くなった以上、自分が戦い続ける意味も失われたという趣旨の言葉を残し、自ら命を絶ったと描かれている。
その最期は、『平家物語』の中でも特に壮絶な場面として知られている。
義仲と兼平。
乳兄弟として育ち、治承4年の挙兵からともに戦った二人は、粟津でその生涯を終えたのである。
13.『吾妻鏡』と『平家物語』――史実と物語の違い
粟津の戦いでは、『吾妻鏡』と『平家物語』を比べることで、それぞれの史料の特徴がよく分かる。
『吾妻鏡』が伝える大きな流れは簡潔である。
範頼が瀬田から京都へ入る。
義経が宇治から京都へ入る。
義仲方が敗れる。
一条忠頼らが追撃する。
粟津付近で石田次郎が義仲を討つ。
一方、『平家物語』では、その過程が人物を中心に詳しく描かれている。
今井兼平との再会。
巴との別れ。
最後の二騎となった義仲と兼平。
粟津の深田。
兼平を振り返る義仲。
そして兼平の最期。
こうした場面によって、義仲の死は主従の結びつきや武士の最期を象徴する物語として、後世へ伝えられていった。
日付についても違いがある。
『吾妻鏡』は、宇治・瀬田での戦いから義仲の死までを1月20日の出来事として記している。
一方、『平家物語』の「木曾最期」には、義仲の最期を正月21日とする本文も伝わる。
史料ごとの違いを踏まえることで、歴史上の粟津と、物語として伝えられた粟津の両方を見ることができる。
14.なぜ木曾義仲は敗れたのか
義仲が粟津へ追い詰められた背景には、複数の要因が重なっていた。
まず、京都での政治的な孤立である。
義仲は後白河法皇との関係を悪化させ、最終的には法住寺合戦へと進んだ。
戦闘には勝利したものの、朝廷との安定した関係を失った。
次に、西国では平家が勢力を回復していた。
水島の戦いでは義仲方が敗れ、平家追討を十分に進めることができなかった。
さらに東国では、頼朝が強大な勢力を築いていた。
範頼・義経らの軍勢が京都へ迫ると、義仲方は宇治と瀬田の二方面へ兵を分けて防衛しなければならなかった。
源行家との対立も、義仲を取り巻く状況を複雑にしていた。
そして1月20日。
宇治と瀬田の防衛線がともに崩れた。
政治的な孤立。
西国の平家。
東国の頼朝。
軍勢の分散。
こうした条件が重なり、義仲は京都を失い、粟津まで追われることになったのである。
15.義仲の死後――次の戦場は一ノ谷へ
粟津で義仲が討たれたことで、京都をめぐる頼朝方と義仲勢力の争いは決着した。
しかし、治承・寿永の内乱は続いている。
西国には依然として平家が存在していた。
京都を確保した頼朝方は、再び平家追討へ向かう。
粟津の戦いから間もない寿永3年2月。
摂津国福原周辺で、一ノ谷の戦いが起こった。
宇治・瀬田で義仲軍を破った範頼と義経は、次の戦場では平家軍と戦うことになる。
平家の都落ち。
法住寺合戦。
宇治・瀬田の戦い。
粟津の戦い。
そして一ノ谷の戦い。
1183年から1184年にかけて、情勢は短期間で激しく変化した。
粟津で義仲が倒れたことで、京都をめぐる源氏内部の争いは一区切りを迎え、戦いの中心は再び頼朝方と平家の対決へ移っていったのである。
16.現在の大津に残る義仲と兼平
粟津の戦いから800年以上が経過した現在も、大津には木曾義仲や今井兼平に関係する史跡が残っている。
代表的なのが義仲寺である。
現在の大津市馬場にあり、境内には木曾義仲の墓がある。
義仲寺という名前も、義仲を葬った塚があったことに由来するとされる。
さらに境内には、巴を供養する塚も残されている。
また、義仲寺には俳人・松尾芭蕉の墓もある。
芭蕉は義仲寺を深く愛し、自らの死後、この地に葬られた。
一方、石山駅周辺には今井兼平の墓が残る。
義仲と兼平が粟津で最期を迎えた記憶は、現在の大津にも史跡として受け継がれているのである。
まとめ――粟津の戦いとは何だったのか
寿永3年(1184)1月20日。
源範頼は瀬田から。
源義経は宇治から。
頼朝方の軍勢は二方向から京都へ迫った。
義仲方は両方面で防戦したが敗れ、京都を維持する力を失った。
木曾義仲は近江へ退く。
その後を頼朝方の武士たちが追った。
『吾妻鏡』によれば、一条忠頼らが各方面へ追撃し、近江国粟津付近で石田次郎が義仲を討った。
宇治・瀬田が京都を守るための防衛戦だったのに対し、粟津は敗走する義仲勢への追撃戦の最終局面だった。
1180年。
義仲は信濃で挙兵した。
北陸へ進み、倶利伽羅峠などで平家軍を破り、1183年には京都へ進出した。
しかし入京後は後白河法皇との対立を深め、西国では平家が勢力を回復し、東からは頼朝方が迫った。
そして1184年1月。
宇治と瀬田の防衛線が崩れ、義仲の勢力は急速に瓦解した。
義仲は1154年生まれ。
数え年31で、その生涯を終えた。
その最期を後世に強く印象づけたのが『平家物語』である。
今井兼平との再会。
巴御前との別れ。
最後の二騎となった義仲と兼平。
粟津の深田。
義仲の死。
そして主君の死を知った兼平の最期。
これらの場面は「木曾最期」として語り継がれていった。
史料から読み取れる戦いの大きな流れと、『平家物語』が描いた物語には違いがある。
しかし、その両方を見ることで、粟津の戦いが持つ意味がよりはっきりする。
一つは、宇治・瀬田から続く追撃戦の中で、木曾義仲という勢力が崩壊した歴史上の出来事。
もう一つは、義仲・今井兼平・巴御前の姿を通じ、主従の結びつきや武士の最期を後世へ伝え続けた物語としての粟津である。
倶利伽羅峠で平家軍を破り、京都へ進出した木曾義仲。
その急速な台頭からわずか半年ほどで、義仲は京都を失い、近江の粟津で生涯を閉じた。
粟津の戦い。
それは木曾義仲最後の戦いであると同時に、治承・寿永の内乱の流れが再び頼朝方と平家の対決へ移っていく転換点だったのである。


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