第50回
――学者として頂点へ。そして政治の頂点から、一気に転落した男
「学問の神様」と聞けば、菅原道真を思い浮かべる人は多い。
受験前に天満宮へ参拝する。梅の花を思い浮かべる。
「頭のいい人」「学問の神様」というイメージが、現代の菅原道真には強く結びついている。
しかし、生前の道真は、それだけの人物ではない。
学者、漢詩人、地方官、外交政策の担当者、そして右大臣。
道真は、学問を武器にして朝廷政治の中心まで上り詰めた。
そして901年。
右大臣だった道真は、突然、大宰権帥に左遷される。
京都から大宰府へ。朝廷の最高幹部から、九州の地へ。
そのわずか2年後、道真は大宰府で59年の生涯を閉じた。
死後には怨霊として恐れられ、やがて天神として神格化され、現在では全国で「学問の神様」として信仰されている。
なぜ、学者だった男が右大臣まで出世できたのか。そして、なぜ絶頂から一気に大宰府へ落とされたのか。
菅原道真の人生を追うと、平安時代の政治と藤原氏の権力構造が見えてくる。
1.845年――学者の家に生まれる
菅原道真は、承和12年(845)に生まれた。
父は菅原是善。菅原家は、代々学問を家業とする家柄だった。
道真の祖父・菅原清公も著名な学者であり、父・是善も朝廷で学者として活躍した。
つまり道真は、幼い頃から学問を身につける環境で育った。
この時代、漢文学は単なる教養ではない。
朝廷の公文書を作り、外交文書を扱い、天皇の命令を文章にする。
漢文を自在に扱えることは、そのまま朝廷で働くための強力な武器だった。
道真はその武器を、誰よりも早く使いこなしていく。
2.18歳で文章生――学者として異例の才能を見せる
貞観4年(862)、道真は18歳で文章生となった。
文章生とは、大学寮で漢文学や文章を学ぶ学生である。
その後、文章得業生となり、870年には対策に及第した。
対策とは、国家が必要とする人材を選抜するための試験である。
そして877年、道真は文章博士となった。
文章博士は、大学寮で漢文学を教える重要な官職だった。
道真は30代前半で、朝廷を代表する学者の一人になった。
ここから道真の人生は、単なる学問の道から政治の道へ進み始める。
3.讃岐守――道真が初めて「地方の現実」を見た
仁和2年(886)、道真は讃岐守に任命された。
現在の香川県にあたる讃岐国の国司である。
都で漢詩や漢文を研究していた道真にとって、讃岐での4年間は大きな転機になった。
地方行政の現場に立ち、人々の生活を直接見ることになったからだ。
道真は讃岐時代に多くの詩を残している。
その中には、税負担に苦しみ、土地を離れて流浪する人々や、厳しい生活を送る民衆の姿が描かれている。
国司として地方を統治する経験は、道真の政治家としての基礎になった。
そして讃岐にいた道真を、中央政治へ引き戻す大きな事件が起こる。
4.阿衡の紛議――道真、藤原基経に意見する
仁和3年(887)、宇多天皇が即位した。
ここで朝廷を揺るがす事件が起こる。
阿衡の紛議である。

宇多天皇が藤原基経を関白として処遇する際に出した詔書の表現をめぐって、基経が反発した。
基経は政務を停止した。
朝廷の政治が停滞するほどの問題となった。
このとき、讃岐にいた道真は基経へ意見書を送った。
道真は、藤原氏の最高権力者に対しても、自分の考えを文章にして伝えた。
この事件を通じて、宇多天皇は道真の能力を高く評価するようになった。
そして後に、道真は宇多天皇の政治を支える中心人物となる。
5.891年――藤原基経の死、道真の人生が動き出す
寛平3年(891)、藤原基経が死去した。

ここから道真の出世が加速する。
宇多天皇は道真を側近として重用した。
道真は蔵人頭となり、天皇の側近として機密文書や奏上などを扱う立場に入った。
そして893年、参議となる。
学者だった男が、ついに朝廷政治の中枢へ入った。
この時代、朝廷の政治を大きく動かしていたのは藤原氏だった。
その中で、藤原氏とは異なる学者の家柄から出た道真が急速に昇進していく。
この出世が、後の政治的緊張につながっていく。
6.894年――遣唐使を止めた男
寛平6年(894)、道真は遣唐大使に任命された。

日本から唐へ派遣される外交使節の責任者である。
しかし道真は、遣唐使派遣の停止を建議した。
背景には、唐国内の政治的混乱と、航海の危険があった。
さらに、唐から学ぶために遣唐使を派遣してきた日本国内でも、独自の政治・文化が発展していた。
道真は、当時の状況を踏まえて遣唐使派遣の停止を求めた。
この年の遣唐使は実施されず、その後、遣唐使は途絶えた。
そして、この頃から日本では唐の文化を直接取り入れる時代から、日本独自の文化を発展させる時代へと大きく変化していく。
7.897年――宇多天皇が譲位しても、道真は残った
寛平9年(897)。
宇多天皇が醍醐天皇へ譲位した。
道真は新しい天皇のもとでも重用された。
897年には権大納言となり、藤原時平も大納言となった。
宇多上皇は、醍醐天皇が政治を行うにあたり、時平と道真を重要な政治家として配置した。
ここで平安朝廷の二人の有力者が並ぶ。
藤原氏を代表する藤原時平。学者の家から出た菅原道真。
二人は同じ朝廷で政治を担うことになる。
8.899年――菅原道真、右大臣になる
昌泰2年(899)。
藤原時平が左大臣。菅原道真が右大臣。

二人が朝廷の左右の大臣となった。
ここは道真の人生最大の出世である。
学者の家に生まれた男が、藤原氏の最高幹部と肩を並べた。
学問の世界から出発した人物が、平安朝廷の最高政治層まで到達した。
この異例の出世は、道真を高く評価する人々を生む一方、朝廷内に強い緊張も生んだ。
900年には文章博士の三善清行が道真に辞職を勧めている。
道真は、すでに政治の中心にいた。
そして、その翌年、すべてが変わる。
9.901年――右大臣から大宰府へ
昌泰4年(901)1月7日。
道真は従二位となった。
ところが1月25日、道真は大宰権帥に左遷された。
わずか18日後だった。
右大臣から、大宰府へ。
朝廷政治の中心にいた人物が、一気に九州へ移された。
この事件を昌泰の変という。
昌泰の変そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

道真に突きつけられた罪は、宇多上皇と結びついて醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位につけようとしたというものだった。
斉世親王は宇多天皇の皇子で、道真の娘が妃となっていた。
そのため、皇位継承をめぐる政治的な疑惑が道真に向けられた。
10.「時平の讒言」はどこまで史実なのか
菅原道真を語るとき、必ず登場するのが藤原時平である。
後世に広く知られる物語では、
「藤原時平が道真を妬み、讒言して大宰府へ追いやった」とされる。
この物語は、道真の悲劇を象徴する有名なストーリーになった。
しかし、歴史を正確に見るなら、ここは整理が必要だ。
901年の道真左遷には、醍醐天皇の廃立と斉世親王擁立をめぐる政治的疑惑が存在した。
その政治的背景には、道真と藤原氏をめぐる朝廷内の権力関係があった。
そして後世、道真左遷は「時平の讒言」という形で強く語られるようになった。
つまり、昌泰の変は、単純な「善人の道真対悪人の時平」という物語ではない。
宇多上皇、醍醐天皇、藤原時平、菅原道真、斉世親王。
この人物たちが、皇位継承と朝廷政治をめぐって複雑に絡み合った政変だった。
11.宇多上皇の抵抗
道真の左遷を知った宇多上皇は、醍醐天皇のもとへ向かい、道真の処分を止めようとした。
しかし、道真を救うことはできなかった。道真は京都を離れ、大宰府へ向かった。
それまで道真が築いてきた政治的地位は、ここで完全に崩れた。
右大臣。右近衛大将。朝廷の政治中枢。
そのすべてを失った。そして向かった先が、大宰府だった。
12.大宰府――「配流された右大臣」の生活
大宰府での道真の生活は厳しかった。

朝廷の高官として暮らしていた人物が、政治の中心から遠く離れた九州で生活することになった。
道真は大宰府でも漢詩を書き続けた。
その代表が「九月十日」である。
前年の9月10日。道真は京都の宮中で、醍醐天皇から「秋思」という題を与えられて漢詩を詠んだ。
その翌年。
道真は大宰府で同じ9月10日を迎える。
前年は宮中。今年は大宰府。
この劇的な落差を、道真は漢詩に残した。
道真は大宰府で、京都への思いと天皇への忠誠を詩に書き続けた。
そして、もう一つの象徴が梅だった。
13.「飛梅」――道真と梅の伝説
道真は梅を愛した。
大宰府へ向かう際、京都の自邸の梅に別れを告げたという有名な伝説がある。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
道真が詠んだと伝えられる歌である。
そして後世、「主人を慕った梅が京都から大宰府まで飛んできた」という飛梅伝説が生まれた。
太宰府天満宮では現在も「飛梅」が道真を象徴する存在となっている。
道真と梅が結びつく背景には、この伝説と天神信仰の発展がある。
14.903年――大宰府で死去
延喜3年(903)2月25日、菅原道真は大宰府で死去した。
59歳だった。
道真の遺骸は大宰府の地に葬られた。
現在の太宰府天満宮につながる場所である。
そして、ここから道真の死後の物語が始まる。
15.死後――道真は「怨霊」になった
道真の死後、朝廷ではさまざまな異変が起こった。
藤原時平も909年に39歳で死去した。
その後、朝廷では落雷などの異変が起こり、人々は道真の怨霊と結びつけて考えるようになった。
道真は、恐ろしい怨霊として信仰されるようになる。
そして朝廷も道真への処分を見直していく。
923年。
道真は右大臣に復された。さらに正二位が贈られた。
その後も道真への追贈は続き、993年には正一位左大臣、さらに太政大臣の位が贈られた。
生前、右大臣から大宰府へ。
死後、正一位・太政大臣へ。
道真の人生は、死後にもう一度大きく反転した。
16.怨霊から「天神」へ
道真は、やがて「天満大自在天神」として神格化された。
恐ろしい怨霊として恐れられた存在が、次第に神として信仰されるようになった。
天満宮が各地に建立され、道真は「天神さま」として全国に広がっていく。
そして長い年月の中で、道真の学者としての姿が強く意識されるようになった。
道真は幼少期から漢詩の才能を発揮し、文章博士となり、学問によって朝廷の頂点まで昇った人物だった。
そのため、「学問に秀でた人物」という生前の姿と、
「神として祀られた存在」が結びついた。
こうして現在の、「学問の神様・菅原道真」というイメージが形成されていった。
17.菅原道真の人生を年表で追う
845年
菅原是善の子として生まれる。
↓
862年
18歳で文章生となる。
↓
867年
文章得業生となる。
↓
870年
対策に及第。
↓
877年
文章博士となる。
↓
886年
讃岐守となる。
↓
887年
阿衡の紛議。
藤原基経へ意見書を送る。
↓
891年
藤原基経死去。
宇多天皇から重用される。
↓
893年
参議となる。
↓
894年
遣唐大使に任命され、遣唐使停止を建議。
遣唐使は実施されず、その後派遣が途絶える。
↓
897年
宇多天皇が醍醐天皇へ譲位。
道真は新帝のもとでも重用される。
↓
899年
右大臣となる。
藤原時平は左大臣。
↓
900年
三善清行から辞職を勧められる。
↓
901年
昌泰の変。
大宰権帥へ左遷される。
↓
903年
2月25日、大宰府で死去。
59歳。
↓
923年
右大臣に復され、正二位を追贈される。
↓
993年
正一位左大臣、さらに太政大臣を追贈される。
↓
その後
天神信仰が発展し、現在の「学問の神様」へつながっていく。
まとめ
菅原道真は、学者の家に生まれ、学問を武器にして朝廷の政治中枢まで上り詰めた人物だった。
18歳で文章生となり、文章得業生、対策及第、文章博士と進み、漢文学の世界で確固たる地位を築いた。
886年には讃岐守となり、地方行政を経験した。
887年の阿衡の紛議では藤原基経に意見書を送り、政治的な存在感を強めた。
891年に基経が死去すると、宇多天皇から重用され、893年には参議となった。
894年には遣唐大使に任命され、遣唐使派遣の停止を建議した。
897年に宇多天皇が譲位した後も道真は重用され、899年には右大臣となった。
左大臣は藤原時平。
学者の家から出た道真が、藤原氏の最高幹部と並んで朝廷を動かす立場に立った。
しかし901年、その人生は急転する。
道真は醍醐天皇の廃立と斉世親王の擁立を企てたとされ、大宰権帥へ左遷された。
これが昌泰の変である。
後世には藤原時平の讒言によって道真が失脚したという物語が広く伝わった。
しかし史実を追うと、昌泰の変は、宇多上皇・醍醐天皇・藤原時平・菅原道真・斉世親王をめぐる皇位継承と朝廷政治の権力闘争として見る必要がある。
道真は京都を去り、大宰府へ向かった。
そこで漢詩を残し、京都への思いと天皇への忠誠を表現した。
そして903年、59歳で大宰府に没した。
ところが道真の物語は、ここからさらに大きく変わる。
死後、道真は怨霊として恐れられ、朝廷は道真を右大臣へ復し、さらに正一位左大臣、太政大臣を追贈した。
そして道真は天神として神格化され、全国の天満宮で祀られるようになった。
現在では「学問の神様」として親しまれている。
菅原道真の人生は、学者としての成功、政治家としての出世、右大臣という絶頂、昌泰の変による失脚、大宰府での死、そして死後の神格化という大きな波を描いている。
「学問の神様」という現在の姿だけを見ると、道真の人生の激しさは見えてこない。
しかし、その生涯をたどれば、道真は平安時代の政治を大きく動かした人物だった。
学問で朝廷の頂点へ上り、政治の権力闘争に巻き込まれ、九州へ追われ、死後には神になった。
それが、菅原道真という男の人生である。
学者から右大臣へ、そして大宰府へ――。
菅原道真の栄光と失脚を知れば、昌泰の変がもっと深く見えてきます。
菅原道真が左遷された地・太宰府の名物「梅ヶ枝餅」。昌泰の変と道真のその後を知ったら、太宰府ゆかりの味も楽しんでみてください。


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