【人物編Vol.75】平知盛――一ノ谷で息子を失った清盛の四男、壇ノ浦で「見るべきほどの事は見つ」

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人物

第149回

第149回

寿永3年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷。

平家の軍勢は崩れ、海岸へ逃げる武士たちを源氏の騎馬武者が追っていた。

生田の森を守っていた平知盛も、その中にいた。

平清盛の四男。従二位・権中納言にまで昇った、平家一門の有力武将である。

しかし、このとき知盛のそばに残っていたのは、息子の平知章と家人の監物太郎頼方だけだった。

『平家物語』巻第九「知章最期」によれば、三人が海岸へ向かって逃げていると、背後から十騎ほどの源氏方の武士が追いかけてきた。

頼方が引き返して敵を射落としたものの、なおも追手が迫る。

すると、知章が馬を返した。

数え十六歳。

父へ迫る敵の大将に組みつき、馬から引きずり落としたという。

知章はその首を取った。

だが、立ち上がろうとしたところへ別の敵兵が襲いかかった。

知章は討ち取られた。

父の知盛は、その姿を見ていた。

息子が自分を逃がすために戦い、命を落としていく。

それでも知盛は引き返さず、海岸へ馬を走らせた。

やがて兄の宗盛が乗る船へたどり着いた知盛は、涙を流して自分の行動を悔やんだという。

「よう命は惜しいものにて候ひけり」

自分の命が、これほど惜しいものだったとは。

『平家物語』は、その言葉を残している。

父の命を救った息子は死に、息子を助けなかった父が生き延びた。

知盛はその後も平家の軍勢を支え続けた。

弟の重衡を救うための交渉では、母の願いを退けた。

長門国彦島に陣を構え、九州の兵を集めて関門海峡を守った。

そして一年後、壇ノ浦で平家一門の最期を迎える。

そのとき知盛が口にしたと伝わる言葉がある。

「見るべきほどの事は見つ」

かつて息子を置いて逃げた武将が、最後は誰よりも遅く海へ沈もうとした。

清盛の四男として生まれる

平知盛は仁平2年(1152年)、平清盛の四男として生まれた。

母は平時子。後に二位尼と呼ばれる女性である。

知盛には異母兄の重盛、同母兄の宗盛がいた。弟の重衡、妹の徳子も時子の子である。

徳子は後に高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。

知盛が幼いころ、父の清盛は朝廷で急速に勢力を伸ばしていた。

保元元年(1156年)、清盛は保元の乱で後白河天皇方に加わった。

続く平治元年(1159年)の平治の乱では源義朝らを破り、対立する武士勢力を退けている。

その後、清盛の官位は上がり続けた。

仁安2年(1167年)には太政大臣へ昇進。朝廷の最高官職に就いた清盛のもとで、平家一門の人々も次々に高い地位を得ていった。

知盛も幼いころから官職を与えられている。

平治元年、数え八歳で従五位下に叙され、翌永暦元年(1160年)には武蔵守となった。

武蔵国は現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部にあたる。

幼い知盛が実際に武蔵国へ赴いたという記録はなく、官職を通じて収益や権限を得る当時の貴族社会の仕組みの中で、着実に昇進していった。

その後も近衛府などの官職を重ね、朝廷での地位を高めていく。

知盛の人生が大きく変わったのは、源氏との内乱が始まってからだった。

それまでは朝廷に仕える公卿としての歩みが中心だったが、やがて各地で軍勢を率いる役目を担うようになる。

『玉葉』が伝える「清盛最愛の息子」

知盛に対する父・清盛の期待は、同時代の記録にも残されている。

九条兼実の日記『玉葉』である。

安元2年(1176年)12月5日条に、兼実は知盛を次のように記した。

「入道相国最愛之息子」

入道相国である清盛が、最も愛する息子。

このとき知盛は数え二十五歳だった。

兼実は、知盛が当時並ぶ者のないほどの権勢を持っていたことにも触れている。

ただし、その日の記録は知盛の昇進を伝えるものではなかった。

蔵人頭の人事で、知盛が選ばれなかったのである。

蔵人頭は天皇の近くで政務を扱う重要な役職だった。

知盛には蔵人としての経験があり、任命を期待できる立場にいた。

ところが、実際に選ばれたのは後白河法皇に近い人物たちだった。

清盛と後白河法皇の関係には、すでに緊張が生じていた。

朝廷の人事をめぐる両者の対立が、清盛の寵愛を受けていた知盛にも及んだと考えられている。

それでも知盛の昇進は続いた。

翌安元3年(1177年)、従三位となり、公卿の仲間入りを果たす。

さらに寿永元年(1182年)には従二位・権中納言に至った。

『平家物語』で知盛が「新中納言」と呼ばれるのは、この官職による。

清盛の子の中でも、知盛は父から特に期待された存在だった。

しかし、清盛の築いた政権が揺らぎ始めると、知盛は朝廷の官人として培った立場を離れ、戦場へ向かうことになる。

宇治川、初めての大きな戦い

治承4年(1180年)5月。

後白河法皇の皇子・以仁王が、平家追討を呼びかけた。

これに加わったのが源三位頼政だった。

頼政は源氏の武将でありながら、長く朝廷に仕え、従三位にまで昇進した人物である。

以仁王と頼政は京都を離れ、園城寺を経て南都へ向かおうとした。

しかし、平家方の追討軍が迫った。

宇治川で両軍が衝突する。

『平家物語』巻第四「橋合戦」では、平家方の大将軍として知盛と弟の重衡が登場する。

知盛は左兵衛督、重衡は頭中将の官職にあった。

源氏方は宇治橋の橋板を外し、平家方の進撃を防ごうとしていた。

平家の兵が橋へ殺到すると、前方で橋板が外されていることに気づかず、多くの騎馬武者が川へ落ちたという。

川を挟んで弓による攻撃が始まった。

源氏方では園城寺の僧兵たちが奮戦し、平家の武士を次々に倒したと伝わる。

一方、平家方は橋を渡れず、攻めあぐねていた。

そこで下野国の足利忠綱が、川を渡るよう進言した。

五月雨で増水した宇治川を馬で渡れば、人馬が流される危険がある。

それでも忠綱は先頭に立ち、三百余騎を率いて川へ入ったと『平家物語』は描いている。

平家方は渡河に成功し、源氏方の陣へ攻め込んだ。

頼政は平等院で自害。

以仁王も南都へ向かう途中で命を落とした。

知盛らの軍勢は、京都近郊で起きた反乱を鎮圧した。

しかし、以仁王の令旨はすでに各地の源氏へ伝わっていた。

同年8月には頼朝が伊豆で挙兵し、信濃国でも木曾義仲が勢力を広げていく。

宇治での勝利は、さらに大きな戦いの始まりとなった。

清盛の死と宗盛の時代

治承5年(1181年)閏2月4日。

清盛が亡くなった。

知盛は数え三十歳。

清盛の長男・重盛は、すでに治承3年(1179年)に死去していた。

そのため、一門を率いる立場となったのは宗盛だった。

宗盛は朝廷との交渉や政治的な判断を担い、知盛と重衡らが軍事活動を支えていく。

父の死後も、平家の戦いは続いた。

同年3月には、尾張国と美濃国の境にある墨俣川で、源行家の軍勢と平家方が戦っている。

行家は源為義の子で、頼朝の叔父にあたる。

源氏方は夜襲を試みたが、平家方に察知されて敗れた。

知盛も源行家との戦いに加わったとする伝記や後世の歴史叙述がある一方、『吾妻鏡』に記された平家方の将には重衡や維盛らの名が見える。

知盛の具体的な指揮については記録が乏しい。

平家はなお各地で勝利を挙げていたが、頼朝は東国で勢力を固め、木曾義仲も北陸道を進んでいた。

寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠で平家は大敗する。

続く加賀国篠原でも敗れ、京都を守る軍勢は大きく減った。

延暦寺も義仲方へ傾いた。

同年7月、宗盛は安徳天皇と三種の神器を奉じ、都を離れた。

知盛も一門とともに西国へ向かった。

かつて清盛の権勢のもとで朝廷の要職に就いた知盛が、今度は平家を守るため京都から退くことになった。

西国での反攻、水島の勝利

平家は京都を離れた後、九州での再起を図った。

しかし、豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺にも安定した拠点を築けなかった。

そこで瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島などを拠点に軍勢を整えた。

平家には、西国でなお従う武士たちがいた。

瀬戸内海沿岸の在地武士や、船を動員できる海上勢力である。

それらの軍勢を集め、再び東へ進出する機会をうかがった。

寿永2年閏10月1日。

備中国水島で、木曾義仲方と平家方の船団が激突した。

現在の岡山県倉敷市玉島付近にあたる。

義仲方の大将は矢田義清。

侍大将には海野行広がいた。

『平家物語』巻第八「水島合戦」では、平家方の大将を知盛、副将を能登守平教経としている。

教経は清盛の弟・教盛の子で、知盛の従弟だった。

軍記によれば、教経は味方の船をつなぐよう命じた。

船首と船尾を綱で結び、船と船の間に板を渡す。

こうして船団の上を武士たちが移動できるようにしたという。

源平両軍は弓を射合い、船が近づくと太刀や熊手を使って戦った。

そのうち義仲方の海野行広が討たれ、大将の矢田義清も船を沈められて命を落としたと伝わる。

戦いは平家方の勝利に終わった。

この日、水島では日食も起きていた。

『源平盛衰記』には、突然暗くなった空に義仲方が動揺したという話が残る。

日食があったこと自体は当時の記録から確かめられるが、それがどれほど勝敗に影響したかは不明である。

水島での勝利によって、平家は都落ち以来の劣勢を押し返すことができた。

そして次の戦場となったのが、播磨国室山だった。

室山で待ち構えた第五陣

寿永2年11月29日ごろ。

平家は播磨国室山で、源行家の軍勢と戦った。

室山は現在の兵庫県たつの市御津町付近にあたる。

行家は木曾義仲と不和になり、独自に軍勢を率いて西国へ向かっていた。

これを迎え撃った平家方の大将が、知盛と重衡だった。

『平家物語』巻第八「室山合戦」では、平家方の兵力を二万余騎、行家方を五百余騎と記している。

軍勢の規模は軍記特有の誇張を考慮する必要があるが、平家が大きな軍勢を集めていた様子がうかがえる。

平家方は陣を五つに分けた。

第一陣には伊賀平内左衛門家長。

第二陣には越中次郎兵衛盛嗣。

第三陣には上総五郎兵衛忠光と悪七兵衛景清。

第四陣を重衡が率いた。

そして第五陣には、知盛が一万余騎を控えさせていたという。

『平家物語』には第一陣と第二陣の武将が入れ替わる伝本もあるが、いずれも最後に知盛の大軍を置く構えである。

行家軍が攻め込むと、第一陣はしばらく応戦した後、中央を開いた。

行家の軍勢はその間を進んだ。

すると第二陣も中央を開く。

第三陣、第四陣も同じように道を開けたという。

行家は平家の陣を次々に突破していると思い、奥へ進んでいった。

だが、その先に待っていたのが知盛の第五陣だった。

行家軍が知盛の前へ到達すると、それまで中央を開いていた軍勢が反転した。

前には知盛。

後ろからは重衡らの軍勢。

行家軍は囲まれた。

『平家物語』は、あらかじめ打ち合わせた平家方の作戦だったと描いている。

知盛は、敵へ組みつくよう命じたという。

ところが、行家も容易には倒れなかった。

知盛の頼りにしていた紀七衛門、紀八衛門、紀九郎らが討ち取られ、平家方にも損害が出た。

最後には行家が囲みの一角を破り、脱出したと伝わる。

行家は逃れたものの、軍勢は大敗した。

九条兼実の『玉葉』にも、この室山で行家が敗れたことが記されている。

水島に続く勝利を得た平家は、福原方面まで進出した。

再び京都へ迫る機会が訪れようとしていた。

しかし、東国からは頼朝の軍勢が西へ向かっていた。

一ノ谷、生田の森が破られる

寿永3年(1184年)2月。

源頼朝の命を受けた範頼と義経の軍勢が、平家を討つため西国へ向かった。

2月5日、義経軍は三草山で平家方を破った。

その二日後、一ノ谷で決戦となる。

知盛が守っていたのは、生田の森方面だった。

現在の兵庫県神戸市中央区周辺にあたる。

『平家物語』は、知盛を生田の森の大将軍と記している。

範頼の軍勢は東から攻め寄せ、義経らは西側や山の手から迫った。

平家方は各地で防戦したが、陣は次第に崩れていく。

平忠度、平敦盛、平経正、平通盛らが討死し、弟の重衡は生け捕りとなった。

知盛の軍勢も敗れた。

『平家物語』巻第九「知章最期」によれば、知盛は息子の知章と家人の頼方を連れ、三騎で海岸へ向かった。

そこで追手に追いつかれた。

知章は父を守ろうと敵の武士に組みつき、数え十六歳で討死した。

頼方も追手を食い止めようとして命を落とす。

その間に知盛は逃れた。

しかし、海岸にたどり着いた知盛には、なお困難が待っていた。

船はすでに沖へ出ていたのである。

命を救った名馬・井上黒

知盛が乗っていたのは、「井上黒」と呼ばれる黒い馬だった。

信濃国井上の産と伝えられる名馬で、特に泳ぎに優れていたという。

『平家物語』によれば、知盛はその馬を海へ乗り入れ、二十余町を泳がせた。

二十町は約2.2キロメートルにあたる。

ようやく宗盛の船へたどり着いたが、船にはすでに多くの人が乗っていた。

馬を乗せる余裕はなかった。

知盛は井上黒を岸へ追い返そうとした。

ところが馬は、なかなか船から離れようとしなかったという。

その姿を見た阿波民部重能が、弓を取った。

敵に奪われるくらいなら射殺した方がよい。

重能がそう申し出ると、知盛は止めた。

今、自分の命を救ってくれた馬を殺すことはできない。

知盛はそう答えたと伝わる。

井上黒はしばらく船の近くを泳いでいた。

やがて船が遠ざかると岸へ戻り、足の立つ浅瀬まで来て、二度、三度と船の方を振り返っていなないたという。

『平家物語』には、井上黒の来歴も記されている。

もともとは後白河法皇が大切にしていた馬だった。

宗盛が内大臣となった際に賜り、その後、知盛へ預けられたという。

知盛はこの馬を非常に大切にし、毎月一日には長寿を願って泰山府君を祭っていたと伝わる。

井上黒はその後、源氏方の河越小太郎重房に捕らえられ、後白河法皇へ献上された。

以来、「河越黒」と呼ばれたという。

一ノ谷で息子を失った知盛は、自分を救った馬を敵の手に渡すことになっても、射殺すことを許さなかった。

宗盛の前で流した涙

宗盛の船に乗り込んだ知盛は、兄の前へ進み出た。

そして泣いた。

息子の武蔵守知章を失った。

監物太郎頼方も討たせてしまった。

今は心細くてならない。

『平家物語』によれば、知盛はそう語ったという。

さらに、息子を助けずに逃げたことを悔やんだ。

「よう命は惜しいものにて候ひけり」

人のことなら、息子を見殺しにした父親をどれほど非難しただろうか。

しかし、いざ自分が同じ立場になると、生き延びたいという思いを抑えられなかった。

知盛は自らを恥じ、鎧の袖で顔を覆って泣いたと伝わる。

宗盛も知章の死を悼んだ。

知章は武芸に優れ、将来を期待された若者だったという。

宗盛の息子・清宗も同じ数え十六歳だった。

宗盛は清宗の方を見て涙ぐみ、周囲の武士たちも鎧の袖を濡らしたと『平家物語』は描いている。

知盛は一ノ谷から生き延びた。

しかし、平家の軍勢は多くの武将を失い、重衡も捕虜となった。

その後の知盛には、戦場とは別の厳しい判断が待っていた。

弟・重衡の助命を求める母

一ノ谷で捕らえられた重衡は、京都へ送られていた。

重衡は清盛の五男で、知盛の同母弟だった。

治承4年(1180年)の南都焼き討ちでは平家方の軍勢を率い、東大寺や興福寺の堂塔が焼失する戦いに関わった。

一ノ谷で捕虜となった重衡には、厳しい処分を求める声が上がっていた。

一方、京都では後白河法皇が、重衡を利用して三種の神器を取り戻そうとした。

平家は都落ちの際、安徳天皇とともに神器を西国へ運んでいた。

京都ではすでに後鳥羽天皇が即位していたが、神器はそろっていなかった。

法皇は平家へ使者を送り、神器を返せば重衡を助け、屋島へ戻すこともできると伝えた。

『平家物語』巻第十「請文」に、その交渉が描かれている。

屋島へ院宣が届くと、重衡からの手紙も一門へ届けられた。

母の時子に宛てた手紙には、もう一度自分に会いたいのであれば、神器を都へ返してほしいという願いが記されていた。

時子は手紙を顔に押し当て、宗盛の前へ進んだという。

そして泣き崩れた。

もう一度、重衡の顔が見たい。

どうか神器を返し、息子を助けてほしい。

宗盛は母の願いを聞きながらも、応じることをためらった。

神器を返すことは、安徳天皇を奉じる平家の立場に関わる。

それに、一ノ谷で死んだ一門の武将は何人もいた。

重衡一人のために神器を渡してよいのか。

宗盛はそう考えたと伝わる。

そこで知盛が意見を述べた。

重衡を救うための取引を拒む

『平家物語』によれば、知盛は三種の神器を返還しても、重衡が本当に戻されるとは限らないと判断した。

「三種神器を都へ返し入れ奉りたりとも、重衡を返し給はらん事は有難し」

神器を返したところで、重衡を返してもらうことは難しい。

知盛はそう述べたという。

一門の人々はその意見に従い、宗盛は後白河法皇の要求を拒む返書を作らせた。

母の時子は、涙に暮れた。

重衡の妻も、悲しみのあまり何も言えなかったと伝わる。

この場面で知盛が求めたのは、平家が掲げる安徳天皇と神器を守ることだった。

弟の命がかかっていても、取引の成功を信じられなかった。

一ノ谷で息子を失った知盛が、今度は母の願いに反対する立場へ回ったのである。

実際の会議の様子や知盛の発言は『平家物語』による描写だが、平家が神器の返還を拒んだ経過は、当時の政治状況と深く関わっている。

安徳天皇を奉じて西国にいる限り、平家にはなお朝廷と交渉する余地があった。

神器を返せば、その立場も失われかねない。

重衡は結局、平家のもとへ戻れなかった。

知盛はその後も西国にとどまり、平家の軍事を支え続けた。

屋島陥落前から彦島を固めていた知盛

一ノ谷の敗北後、平家は讃岐国屋島を重要な拠点としていた。

一方、知盛は長門国にも陣を構えていた。

その場所が彦島だった。

現在の山口県下関市にある島で、関門海峡の西側に位置する。

『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月16日条には、知盛の動向が記されている。

「新中納言知盛相具九国官兵、固門司関、以彦島定営」

知盛は九州の兵を率いて門司関を固め、彦島を陣営としたという。

この記録は、義経による屋島攻撃の三日前にあたる。

知盛は屋島が陥落する前から、長門国と九州の間に軍事拠点を設けていたのである。

門司は現在の福岡県北九州市門司区周辺にあたる。

関門海峡は本州と九州の間を通る海上交通の要所だった。

ここを押さえれば、瀬戸内海から九州へ向かう船の動きを監視できる。

また、九州の兵や物資を長門国へ運ぶうえでも重要だった。

平家には筑前国の山鹿氏や肥前国の松浦党など、海上活動に慣れた武士たちが従っていた。

知盛はこうした勢力を頼りに、関門海峡周辺の防備を固めていた。

一方、源範頼は山陽道を西へ進んでいた。

範頼軍は兵糧と船の不足に苦しみながらも、豊後国の武士たちから船を得て九州へ渡っている。

元暦2年2月1日には葦屋浦で平家方を破った。

現在の福岡県遠賀郡芦屋町付近にあたる。

源氏方は本州側だけでなく、九州側からも平家を圧迫し始めていた。

知盛が彦島と門司関を固めた背景には、そうした軍勢の動きがあった。

屋島を失い、残された船を集める

元暦2年2月19日。

源義経が讃岐国屋島を急襲した。

義経は暴風の中で阿波へ渡り、山道を越えて平家の背後へ現れた。

宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。

その間に義経軍は屋島の内裏を焼き払った。

平家方は反撃したものの、屋島の拠点を取り戻すことはできなかった。

さらに義経は志度方面へ追撃を続けた。

平家に従っていた田内左衛門尉が降伏し、伊予国の河野通信も源氏方へ加わった。

四国で平家を支えていた勢力が、次々に離れていく。

そのころ知盛は、彦島と門司関を中心に防備を固めていた。

しかし、九州でも範頼軍が活動しており、平家が自由に退ける場所は少なくなっていた。

安徳天皇と宗盛らは、最後に長門国へ向かった。

知盛が軍勢を集めていた関門海峡が、源平最後の決戦の舞台となる。

壇ノ浦を前に告げた言葉

元暦2年3月24日。

長門国壇ノ浦。

『吾妻鏡』によれば、源氏方の兵船は840余艘、平家方は500余艘だった。

平家は筑前国の山鹿秀遠や肥前国の松浦党らを先陣として戦った。

『平家物語』には異なる船数が記されており、実際にどれほどの船が集まっていたかは定まっていない。

しかし、平家が長門国の海上に兵船を集め、源氏と最後の決戦に臨んだことは確かである。

『平家物語』巻第十一では、知盛が船の屋形に立ち、武士たちを励ましたと伝わっている。

「軍は今日ぞ限る」

この戦いが最後になる。

知盛はそう告げたという。

どれほど名高い武将でも、運命が尽きれば敗れることがある。

それでも武士の名を惜しみ、東国の者たちに弱い姿を見せるな。

そのように呼びかけたと伝わる。

平家は一ノ谷で多くの武将を失った。

重衡は捕虜となり、屋島も失った。

九州では範頼軍が活動し、四国でも離反する武士が相次いでいた。

知盛はその状況を知りながら、残された軍勢を戦わせた。

しかし、船上での戦いが進むにつれ、平家方には厳しい知らせが届き始める。

阿波民部重能の離反

『平家物語』には、壇ノ浦で阿波民部重能が源氏方へ寝返ったという話が残されている。

重能は田口成良とも呼ばれ、阿波国の有力武士として長く平家に仕えてきた。

四国の武士たちを率い、平家の軍事行動を支えていた人物だった。

一ノ谷で知盛の愛馬を射殺そうとしたのも、この重能である。

ところが、源氏方が四国で勢力を広げると、重能の立場も変わっていった。

『平家物語』巻第十一「先帝身投」では、重能の息子・田内左衛門教能が源氏方に捕らえられたことが、寝返りの一因として語られている。

重能は平家から離れ、源氏方へ加わったという。

その知らせを聞いた知盛は悔やんだ。

重能を斬っておけばよかった。

『平家物語』は、知盛がそう思ったと記している。

また同書では、重能の離反によって平家の作戦も源氏方へ知られたという。

平家は目立つ唐船に雑兵を乗せ、重要な武将を別の兵船へ移していた。

源氏が唐船へ攻め込めば、その周囲から包囲する計画だったと伝わる。

しかし、重能が情報を漏らしたため、源氏方は唐船を避け、平家一門の乗る船を攻撃したという。

この作戦の詳しい経過は軍記物語によるもので、重能が実際にいつ、どのように離反したかには不明な点が残る。

『吾妻鏡』では、成良は壇ノ浦で捕らえられた人物の一人として記録されている。

一方、『平家物語』では、重能の離反を平家の敗北に関わる大きな出来事として描いている。

知盛は長門国で軍勢を整え、九州の兵を集めて戦ってきた。

その知盛にとって、味方の有力武士が離れていくことは痛手だった。

能登守教経へ送った使者

戦いが進むにつれ、源氏の武士たちは平家の船へ乗り移り始めた。

平家方は船を奪われ、逃げ道を失っていく。

その中で、知盛の従弟である能登守平教経が激しく戦い続けていたという。

教経は清盛の弟・教盛の子だった。

『平家物語』では、矢を射尽くした後も大太刀と大長刀を手にして敵船へ乗り込み、向かってくる武士を次々に討ち倒したと描かれている。

知盛はその姿を見て、使者を送った。

「能登殿、いたう罪な作り給ひそ」

これ以上、むやみに人を殺して罪を重ねるな。

今討っている相手が、それほどの敵なのか。

知盛はそう告げたという。

教経はその言葉を聞き、狙うべきは敵の大将だと考えた。

そして源義経を探して船から船へ移り、最後には義経を追い詰めたと伝わる。

義経は別の船へ飛び移って逃れた。

後世に「八艘飛び」として広まった場面である。

教経は義経を討ち取ることができず、最後には敵の武士二人を抱えて海へ沈んだという。

ただし、教経の生死をめぐっては一ノ谷で戦死したという記録もあり、義経追撃や最後の組討は『平家物語』に描かれた逸話である。

知盛もまた、源氏方の軍勢が迫る中で、最後の時を迎えようとしていた。

安徳天皇の御座船へ

源氏の船が次々に平家の船へ乗り移っていた。

『平家物語』によれば、水主や舵取りが射られ、斬られ、船を動かすことさえ難しくなっていたという。

平家方の兵船は逃げ場を失った。

知盛は小舟に乗り、安徳天皇の御座船へ向かった。

船上には安徳天皇の母・建礼門院徳子、祖母の二位尼時子らがいた。

知盛は告げた。

「世の中は今はかうと覚え候へ」

もはや、これまでだ。

そして、見苦しい物は海へ捨てるよう促した。

知盛自身も船首から船尾まで走り回り、床を掃き、塵を拾ったという。

女房たちはその姿を見て、戦況を尋ねた。

「中納言殿、さて軍のやうはいかにやいかに」

知盛は答えた。

「珍しき東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」

これから珍しい東国の男たちをご覧になるでしょう。

そう言って、声を上げて笑ったという。

女房たちは泣き叫んだ。

源氏方の武士たちが、まもなく御座船へ乗り込んでくる。

知盛の言葉は、それを告げていた。

母・時子と安徳天皇の入水

『平家物語』巻第十一「先帝身投」では、知盛が敗北を告げた後、二位尼時子が安徳天皇を抱いて船端へ向かったと描いている。

時子は清盛の妻で、知盛の母だった。

安徳天皇にとっては母方の祖母にあたる。

安徳天皇は数え八歳。

平家が都を離れてから、ずっと宗盛らとともに西国を移動してきた。

時子は神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差していたという。

そして安徳天皇を抱き上げた。

天皇は、どこへ連れていくのかと尋ねたと伝わる。

時子は、西方浄土へ向かうのだと告げた。

「波の底にも都の候ふぞ」

そう慰め、安徳天皇とともに海へ入ったという。

一方、『吾妻鏡』では、安徳天皇を抱いて入水したのは按察局という女房だったと記されている。

按察局は海から救助されたが、安徳天皇は戻らなかった。

最期の経過には記録の違いがある。

しかし、知盛の母・時子が壇ノ浦で命を落としたことは、複数の記録に残されている。

また、清盛の弟である教盛と経盛、重盛の子である資盛や有盛らも海へ身を投げた。

宗盛と息子の清宗は生け捕りとなり、建礼門院徳子は救助された。

三種の神器のうち宝剣は海中に失われた。

安徳天皇も、都へ戻ることはなかった。

その中で知盛は、最後まで船上に残っていた。

「見るべきほどの事は見つ」

平家一門の最期を見届けた知盛は、自らも海へ入ることを決めた。

『平家物語』巻第十一「内侍所都入」に、その場面が残されている。

「見るべきほどの事は見つ、今は何をか期すべき」

見るべきことは、もう見た。

これ以上、何を待つことがあろうか。

知盛はそう語ったという。

そして、乳母子の伊賀平内左衛門家長を呼んだ。

乳母子とは、自分の乳母の子にあたる人物で、幼いころから近くで育った関係を指す。

家長は知盛に仕え、室山などの戦いにも従ってきた武士だった。

知盛と家長の間には、かねてから約束があったという。

最期まで運命をともにするという約束だった。

知盛は家長へ尋ねた。

「日比の契約をば違へまじきか」

以前からの約束を、破ることはあるまいな。

家長は答えた。

「さる事候ふ」

もちろんです。

家長は鎧を二領用意した。

知盛へ二領を重ねて着せ、自分も二領の鎧を身に着けた。

海へ沈むためだった。

そして二人は手を取り合い、そのまま海へ入ったという。

その姿を見た二十余人の武士たちも、後を追って海へ沈んだと『平家物語』は記している。

知盛は仁平2年(1152年)生まれ。

元暦2年(1185年)3月24日、数え三十四歳で亡くなった。

一ノ谷では息子が討たれる姿を見ながら逃げた。

そして壇ノ浦では、平家一門の人々が海へ沈む姿を見届けた。

『平家物語』は、その知盛に「見るべきほどの事は見つ」と語らせている。

大碇を抱いて沈む「碇知盛」

現在、平知盛の最期として広く知られているのは、大きな碇を抱えて海へ沈む姿である。

しかし、『平家物語』覚一本では、知盛は二領の鎧を着け、伊賀家長と手を取り合って入水したと描かれている。

大碇を抱えて海へ沈む姿は、後世の演劇で広まった。

その代表が『義経千本桜』である。

延享4年(1747年)、大坂で人形浄瑠璃として初演され、後に歌舞伎でも上演されるようになった。

この作品では、壇ノ浦で亡くなったはずの知盛が、実は生き延びていたという設定になっている。

知盛は摂津国大物浦で、渡海屋銀平という船宿の主人に姿を変えていた。

大物浦は現在の兵庫県尼崎市周辺にあたる。

知盛は源義経を討つため、機会をうかがっていた。

しかし、その企ては失敗した。

義経に正体を見破られ、追い詰められた知盛は、最後に大きな碇の綱を身に巻きつけ、碇を海へ投げ込んだ。

その重みで、海の底へ沈んでいく。

この場面は「碇知盛」として広く知られるようになった。

また、能『船弁慶』にも知盛が登場する。

兄の頼朝と対立した義経が、西国へ逃れようとして大物浦から船を出すと、海上で嵐が起こる。

そこへ平家一門の怨霊が現れた。

その中心にいたのが知盛だった。

長刀を振るい、義経へ襲いかかる。

しかし、弁慶の祈りによって退けられ、再び海の底へ消えていく。

壇ノ浦で命を落とした知盛は、後世の芸能の中で、死後も義経を追い続ける武将となった。

関門海峡に立つ平知盛の像

現在の山口県下関市には、壇ノ浦古戦場を望むみもすそ川公園がある。

関門海峡に面した公園で、源義経と平知盛の像が建てられている。

義経は船から船へ飛び移る姿。

知盛は大きな碇を担ぎ、海へ沈もうとする姿で表現されている。

知盛の像は、後世の『義経千本桜』などで広まった「碇知盛」の姿をもとにしたものだ。

公園の前には関門海峡が広がり、対岸には北九州市門司区が見える。

海峡には今も多くの船が行き交い、潮の満ち引きによって流れが変わる。

元暦2年3月24日、知盛が最期を迎えたと伝わる海である。

『平家物語』の知盛は、大碇を抱えて海へ入ったのではなかった。

乳母子の伊賀家長が知盛に鎧を二領着せた。

家長自身も二領の鎧を着け、二人は手を取り合った。

そして、そのまま海へ入ったと記されている。

現在の関門海峡には、江戸時代の舞台で広まった大碇を担ぐ知盛の像が立っている。

その足元を、潮の流れに乗って船が行き交っている。

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