第164回
文治元年(1185年)11月。
摂津国大物浦。
源義経は、船に乗って西国へ逃れようとしていた。
ところが、夜半から激しい風が吹き始めた。
船は荒波に翻弄され、破損した船もあった。乗っていた武士たちは散り散りとなり、一行は渡海を断念する。
九条兼実の日記『玉葉』には、義経と源行家が小船に乗り、和泉の浦へ逃れたという知らせが残る。
義経は数え二十七歳だった。
その年の3月、義経は壇ノ浦で平家を破っていた。
一ノ谷で平家の陣地を攻め、屋島では海を渡って敵の本拠に迫った。そして壇ノ浦で源氏方の軍船を率い、平家との戦いに決着をつけた。
しかし、わずか七か月余り後、義経は兄の源頼朝から追討を受けていた。
京都で義経の屋敷が襲撃されると、義経も頼朝を討つための宣旨を得た。
だが、兵が集まらなかった。
かつて義経の指揮下で戦った東国の武士たちは、その多くが頼朝に従う御家人だった。
軍勢を率いて勝利を重ねた義経には、兄と戦うための軍勢がなかった。
京都を離れ、西国で味方を集めようとした計画も大物浦の暴風で失敗した。
義経はわずかな従者とともに姿を消した。
それから四年後。
文治5年(1189年)閏4月30日、奥州。
藤原泰衡の軍勢が義経のいる衣河館を襲撃した。
『吾妻鏡』によれば、義経は妻と四歳の娘を殺した後、自ら命を絶ったという。
三十一歳だった。
義経の生涯は、後に数多くの物語として語り継がれた。
鞍馬山の天狗、弁慶との出会い、鵯越の坂落とし、壇ノ浦の八艘飛び。
しかし、貴族の日記や鎌倉の記録、現存する義経自身の書状をたどると、軍記物語で描かれる英雄とは異なる姿も見えてくる。
平治の乱の年に生まれる
源義経は平治元年(1159年)に生まれた。
父は源義朝。
河内源氏の流れをくみ、東国の武士たちと関係を築いていた人物だった。
母は常盤御前。
義朝との間に今若、乙若、牛若の三人の子をもうけたと伝わる。
義経は末子の牛若である。
義朝にはほかにも義平、朝長、頼朝、範頼らの息子がいた。
義経は一般に九男とされるが、系譜によって兄弟の数え方には違いがある。『吾妻鏡』の義経死去の記事には、義朝の六男と記されている。
義経が生まれた年の12月、父の義朝は藤原信頼とともに挙兵した。
平治の乱である。
義朝らは一時、京都の政治を掌握したものの、平清盛が反撃すると敗走した。
義朝は東国へ逃れようとしたが、尾張国で長田忠致に殺害された。
長男の義平も捕らえられて処刑され、朝長は逃走の途中で命を落とした。
頼朝は伊豆へ流された。
義経はまだ幼児だった。
父と過ごした時間は短く、源氏の一族が京都でどのような争いを繰り広げたのかも知る年齢ではなかった。
母・常盤御前の逃亡
義朝が敗れた後、常盤御前は三人の幼い子どもを連れて逃れたと伝わる。
『平治物語』には、雪の降る山道を子どもたちとさまよう常盤の姿が描かれている。
しかし、常盤の母が平家方に捕らえられたと知り、京都へ戻ることを決意したという。
常盤は清盛のもとへ出頭し、子どもたちの助命を願ったとされる。
『平治物語』では、清盛が常盤の美しさに心を動かされ、三人の命を助けたと語られる。
もっとも、常盤の逃亡経路や清盛との会話は、後世の軍記物語によるところが大きい。
同時代の記録から、その場面を詳しく再現することはできない。
常盤は後に一条長成と結ばれたとされる。
生き延びた三人の子どもたちは寺院へ入れられ、それぞれ異なる道を歩んだ。
今若は後に阿野全成となった。
乙若は義円と呼ばれ、治承5年(1181年)、源行家に従って墨俣川の戦いに参加し、命を落とした。
末子の牛若が送られたと伝わるのは、京都の北にある鞍馬山だった。
鞍馬山の牛若丸
鞍馬寺は古くから信仰を集める寺院で、山岳修行の場としても知られていた。
『義経記』によれば、牛若は鞍馬で仏教や学問を学び、遮那王と呼ばれた。
しかし僧侶になることを望まず、源氏の子として武士になる道を選んだという。
鞍馬山での生活を詳しく伝えるのは、主として後世の物語である。
牛若が何歳で寺へ入り、どのような教育を受けたのかは明らかでない。
有名なのが、天狗から兵法や剣術を教わったという伝説だ。
牛若は夜ごと山中へ入り、天狗を相手に武芸を磨いたと語られる。
身軽に木々の間を飛び回り、相手の攻撃をかわす。
そうした描写は、後に義経が戦場で見せたとされる大胆な行動と結びついて広まった。
しかし、義経が実際に誰から武芸を学んだのかはわからない。
鞍馬山には義経ゆかりの史跡が残るものの、天狗から兵法を授かったという話は伝説として扱う必要がある。
武蔵坊弁慶との出会い
牛若丸の物語には、武蔵坊弁慶も登場する。
大きな薙刀を持つ荒法師で、京都を歩く武士から太刀を奪っていたという。
千本の太刀を集めようとした弁慶は、牛若に戦いを挑んだ。
しかし牛若は身軽な動きで攻撃をかわし、弁慶を破った。
弁慶はその武芸に感服して家来となったと伝わる。
五条橋の決闘として知られる逸話である。
『義経記』では、弁慶は義経の忠実な郎党として活躍する。
しかし、決闘の経過や弁慶の出生を詳しく記した同時代史料はない。
『吾妻鏡』にも弁慶の名は見えるが、その人物像を知る手がかりは限られている。
弁慶が義経を守って立ったまま死んだという「弁慶の立往生」も、後世の物語で広く知られるようになった。
義経と弁慶の関係は、能や歌舞伎にも受け継がれ、義経の生涯を語るうえで欠かせない題材となった。
奥州藤原氏のもとへ
義経は十代のころ、鞍馬山を離れたと伝わる。
向かった先は陸奥国平泉だった。
現在の岩手県平泉町周辺である。
当時の平泉を支配していたのは藤原秀衡。
奥州藤原氏の三代目だった。
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡と続く一族で、陸奥・出羽に大きな勢力を持っていた。
平泉には中尊寺や毛越寺などの寺院が建てられ、京都の文化を取り入れた都市が発展していた。
義経は秀衡の庇護を受けた。
ただし、義経が平泉へ到着した正確な年月や、秀衡と結びついた経緯は詳しくわからない。
『義経記』には、金売吉次という商人の助けを借りて奥州へ向かったという話がある。
吉次は京都と奥州を往来する商人として描かれているが、その旅の実在を裏づける記録は乏しい。
義経が平泉でどのように暮らしていたのかも、十分な資料は残されていない。
頼朝が伊豆で流人生活を送っていたころ、義経は奥州藤原氏の保護を受けて成人した。
兄弟が再会するのは、治承4年(1180年)のことである。
黄瀬川で頼朝と再会する
治承4年8月。
源頼朝が伊豆で挙兵した。
最初の石橋山の戦いでは大敗したが、安房国へ逃れて再起し、千葉常胤や上総広常らを味方につけた。
10月6日、頼朝は鎌倉へ入った。
義経はその知らせを受け、平泉から東国へ向かった。
『吾妻鏡』によれば、二人は駿河国黄瀬川の陣で対面した。
頼朝は数え三十四歳。
義経は二十二歳だった。
父の義朝が平治の乱で敗れてから、二十年ほどが過ぎていた。
頼朝は伊豆で北条氏と姻戚関係を結び、東国の武士たちとつながりを築いていた。
義経は奥州藤原氏の保護を受けていた。
同じ父の子でありながら、それぞれ異なる土地で成長した兄弟だった。
『平家物語』などには、再会した二人が喜び、涙を流したという話が残る。
実際にどのような言葉を交わしたのかはわかっていない。
義経は頼朝に従い、鎌倉で活動するようになった。
ただし、義経がすぐに大軍を率いた記録はない。
頼朝は東国の武士たちを従わせ、所領をめぐる争いや軍事行動に取り組んでいた。
義経自身には、千葉氏や三浦氏のような広い所領や家臣団があったわけではなかった。
その義経が初めて大きな軍勢の指揮を任されるのは、木曾義仲の追討だった。
木曾義仲を討つ
寿永2年(1183年)。
木曾義仲が北陸で平家の追討軍を破り、京都へ入った。
平家は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ逃れた。
しかし、義仲と後白河法皇の関係は次第に悪化する。
同年11月、義仲は法住寺殿を襲撃し、法皇を幽閉した。
頼朝は弟の範頼と義経らを京都へ向かわせた。
義経は頼朝の代官として、東国の武士たちを率いた。
寿永3年(1184年)正月20日。
範頼は瀬田方面、義経は宇治方面から京都を目指した。
義仲方は橋を壊して進軍を阻もうとしたが、頼朝方の軍勢は川を渡り、京都へ入った。
義仲は都を離れ、近江国粟津で討たれた。
この宇治川の戦いは、後に多くの軍記物語で語られた。
佐々木高綱と梶原景季が先陣を争ったという逸話もよく知られる。
義経は頼朝の命令を受け、京都へ進む軍勢を指揮した。
その勝利によって義仲方の支配は終わったが、西国にはまだ平家が残っていた。
義経と範頼は、続いて平家追討へ向かう。
三草山から一ノ谷へ
平家は京都を離れた後、西国で勢力を回復していた。
備中国水島で義仲方を破り、播磨国室山でも源行家の軍勢に勝利している。
その後、摂津国福原まで進出した。
義経は平家追討軍の一部を率い、丹波方面から播磨国へ進んだ。
寿永3年2月5日。
義経方は三草山付近で平家軍を破った。
『平家物語』には、夜の山道を進み、敵陣を急襲したという話が残る。
その二日後、2月7日。
源氏軍は一ノ谷で平家の陣地を攻撃した。
範頼の軍勢は生田森方面から進み、義経らは西側から攻めた。
この戦いでよく知られるのが、鵯越の坂落としである。
『平家物語』では、義経が険しい山の上から騎馬の武士たちを突入させ、平家の背後を破ったと描かれる。
しかし、この場面には史料上の問題が残る。
鵯越の坂落としをめぐる異説
九条兼実の日記『玉葉』寿永3年2月8日条には、一ノ谷の戦いの翌日、京都へ届いた報告が記されている。
そこでは範頼が大手から進み、義経が一ノ谷へ攻め込んだとされる。
一方、山手からの攻撃を担った人物として記されているのは、多田行綱だった。
行綱は摂津国多田荘を本拠とする源氏の武将である。
『平家物語』の義経による坂落としと、『玉葉』の山手攻撃の記述は一致しない。
さらに、現在の鵯越と一ノ谷には距離があり、軍記物語に描かれた経路を地形へ当てはめることにも難しさがある。
義経が鵯越を通ってから一ノ谷方面へ進んだとする説。
行綱が鵯越を攻めたとする説。
義経と行綱が別々の場所から攻撃したとする説。
現在も複数の見解がある。
『玉葉』の記事も戦場からの第一報であり、兼実が直接戦いを見たものではなかった。
義経が一ノ谷の攻略で重要な役割を担ったことは確かだが、坂落としの具体的な場所と指揮官については、決着がついていない。
京都で検非違使となる
一ノ谷の戦いで平家は大きな損害を受けた。
一方、宗盛や知盛らは西国へ逃れ、安徳天皇と三種の神器を保持し続けた。
範頼は西国への追討を進め、義経はしばらく京都で活動した。
当時の京都では、平家方の残党の取締りや、戦乱によって乱れた治安への対応が必要だった。
義経はそうした仕事に関わるようになる。
寿永3年8月6日。
義経は左衛門少尉となり、検非違使を兼ねた。
検非違使は京都の治安維持や犯罪の取締り、裁判などを担う役職だった。
義経が「九郎判官」と呼ばれるのは、この官職に由来する。
しかし、義経の任官は頼朝との関係に影響を及ぼした。
『吾妻鏡』には、頼朝の推挙を受けずに官職を得たことを、頼朝が問題視したという記述が残る。
頼朝は御家人の任官を自ら管理しようとしていた。
東国の武士たちが朝廷から官職を受ける場合、頼朝を通じてその地位を得ることが、御家人統率にも関わっていた。
一方、後白河法皇にとって、義経を京都で任官させることには利点があった。
平家追討で働いた武将を、都の軍事や治安維持に利用できるからである。
義経はその後も京都で活動し、翌年には再び平家追討軍を率いた。
任官をめぐる問題を抱えながらも、頼朝は引き続き弟を用いていた。
河越重頼の娘との婚姻
元暦元年(1184年)9月14日。
『吾妻鏡』には、河越重頼の娘が義経の妻となるため、京都へ向かったことが記されている。
河越氏は武蔵国の有力武士だった。
重頼の妻は比企尼の娘とされる。
比企尼は頼朝の乳母で、伊豆での流人生活を支えた女性である。
河越氏はその比企氏を通じ、頼朝とも深い関係を持っていた。
義経の婚姻には、頼朝の意向が関わっていた。
この女性は後世、郷御前などの名で知られる。
しかし『吾妻鏡』の婚姻記事には、実名は記されていない。
義経は京都で朝廷の官職を持つ一方、頼朝に従う東国の有力御家人とも婚姻によって結ばれた。
その関係が破綻するのは、翌年のことである。
屋島を急襲する
元暦2年(1185年)2月。
義経は平家追討の軍勢を率い、再び西国へ向かった。
平家は讃岐国屋島を拠点として、安徳天皇と三種の神器を奉じながら抵抗していた。
一方、範頼は山陽道から九州方面への進出を図っていたが、兵糧や船の調達に苦しんでいた。
義経は摂津国渡辺津から海を渡り、阿波へ上陸した。
『平家物語』などには、荒天のなか少数の船で出航したという話が残る。
義経は阿波の武士たちの協力を得ながら進み、2月19日に屋島へ迫った。
平家は船へ退き、海上から応戦した。
義経方も反撃を受け、郎党の佐藤継信が戦死したと伝わる。
『平家物語』では、継信は義経を守ろうとして平教経の矢を受けたという。
屋島の戦いには、梶原景時との逆櫓争いや那須与一の扇の的など、多くの逸話が残る。
ただし、逆櫓争いを実際の会議の記録とみなすことには疑問があり、扇の的の詳しい経過も主として軍記物語に伝わる。
義経は屋島の拠点を奪った。
平家は安徳天皇を伴い、長門国方面へ退いた。
しかし海上の船団は残り、追討は続いた。
壇ノ浦の決戦
屋島を離れた平家は、長門国彦島方面を拠点とした。
義経は海上から追撃する。
源氏方には伊予の河野通信らが加わり、熊野の水軍も協力したと伝わる。
九州方面へ進んでいた範頼の軍勢も、平家の退路を制限していた。
元暦2年3月24日。
壇ノ浦で源平最後の大きな海戦が始まった。
平家は長く瀬戸内海の航路を利用し、水軍の運用にも経験を持っていた。
戦いの初めは平家が優勢だったと『平家物語』は伝える。
しかし戦況は次第に源氏方へ傾き、平家の船団は崩れた。
平知盛は入水し、総大将の宗盛は捕らえられた。
安徳天皇と二位尼時子も海に沈んだと伝わる。
三種の神器のうち、鏡と神璽は回収されたが、宝剣は失われた。
義経は源氏方の軍勢を率い、平家の滅亡に大きく貢献した。
ただし、壇ノ浦の勝利を義経一人の軍功として捉えることは難しい。
範頼による九州方面への進出、西国の水軍の動向、平家方の離反などが、決戦の結果に関わっていた。
義経が平教経に追われ、船から船へ飛び移ったという八艘飛びの逸話も有名である。
しかし教経には一ノ谷で戦死したとする記録があり、壇ノ浦で義経を追ったという描写をそのまま確定することはできない。
義経の実際の軍功と、後世に語られた武勇談には違いが残る。
梶原景時の批判
壇ノ浦の戦いが終わった後、義経の行動を批判する報告が鎌倉へ届いた。
『吾妻鏡』元暦2年4月21日条である。
報告したのは梶原景時だった。
景時は義経が軍功を独り占めしようとしており、東国の武士たちの意見を聞かないと訴えたという。
義経の指揮下で戦った武士たちは、頼朝に従う御家人だった。
彼らは頼朝から所領を認められ、戦功に応じて恩賞を得る立場にあった。
景時は、そうした御家人たちの不満を頼朝へ伝えたとされる。
もっとも、報告の原本は残っていない。
『吾妻鏡』は後世に編纂された史書であり、景時の批判がどこまで実情を正しく伝えていたのかはわからない。
義経の失脚は、景時一人の讒言だけでは説明しきれない。
任官をめぐる頼朝の不満もあり、平家滅亡後の恩賞や捕虜の処理についても、頼朝との間で調整が必要だった。
その中で、義経が頼朝の命令にどこまで従っていたのかが問われるようになった。
腰越で足止めされる
壇ノ浦で平家を滅ぼした後、義経は捕虜となった宗盛と清宗を伴い、東国へ向かった。
しかし頼朝は、義経の鎌倉入りを許さなかった。
義経は腰越にとどめられた。
鎌倉のすぐ手前である。
『吾妻鏡』には、義経が頼朝の側近・大江広元へ手紙を送ったという記録が残る。
元暦2年5月24日付とされる、いわゆる腰越状である。
義経は、自分の生い立ちや平家追討での軍功を述べ、謀反の疑いを解いてほしいと訴えたという。
父の義朝が亡くなってからの苦しい生活。
兄のために戦った日々。
それでも鎌倉へ入ることさえ許されない境遇。
そうした事情を訴え、頼朝との対面を願ったと伝わる。
ただし、腰越状の原本は現存しない。
『吾妻鏡』に収められた文章が義経本人の筆になるものかどうかは、研究上の議論がある。
義経は兄と会えないまま、京都へ戻るよう命じられた。
宗盛父子の処刑
義経は宗盛と清宗を伴って京都へ戻る途中、近江国で父子の処刑に関わった。
元暦2年6月21日。
『吾妻鏡』によれば、宗盛は篠原で、清宗は野路口で処刑された。
宗盛を討ったのは橘公長、清宗を討ったのは堀景光と記されている。
宗盛は壇ノ浦で捕らえられ、鎌倉で頼朝と対面した後、京都へ戻される途中だった。
義経は平家追討の軍勢を率いるだけでなく、捕虜の護送や戦後の処理も担っていた。
しかし、義経自身の立場は悪化していた。
『吾妻鏡』には、義経に与えられていた平家没官領の処分を頼朝が取り消したという記事も残る。
軍功に対する恩賞も、頼朝の判断によって失われたとされる。
一方、京都に戻った義経は、引き続き朝廷の官職を持ち、荘園領主との連絡にも関わっていた。
その仕事を知る手がかりが、現在まで残されている。
現存する義経の書状
元暦2年6月28日。
義経が書いたと考えられる書状がある。
国立歴史民俗博物館所蔵の重要文化財「高山寺文書」の一通である。
「六月廿八日左衛門少尉源義経書状」として知られている。
この書状は、八条院の家政機関からの問い合わせに対する返答だった。
八条院は鳥羽法皇の娘で、各地に多くの荘園を持っていた。
八条院側は伊予国へ使者を派遣するにあたり、安全に通行できるかを確かめようとしていた。
義経は、伊予国で使者の通行を妨げる事情はなく、関係者にも指示してあると返答した。
書状には義経の花押がない。
署名の下には小さく「奉」と記され、宛先も通常の書状とは異なる形を取っている。
国立歴史民俗博物館は、義経が高貴な八条院に対する請文として、自ら筆を執った可能性を指摘している。
義経の自筆と考えられる文書は、現在まで伝わる数が少ない。
この書状はその一つとして注目されている。
なお、博物館の解説では義経を伊予国司として紹介しているが、一般に伊予守への任官は同年8月16日とされる。
書状の日付はそれより前にあたるため、義経の官歴との関係には検討の余地がある。
いずれにしても、義経が伊予国への使者の通行について返答していたことは、現存する書状から確かめられる。
壇ノ浦の勝利から三か月余り。
義経は京都で、こうした実務にも携わっていた。
平時忠の娘を妻に迎える
元暦2年、義経は平時忠の娘を妻に迎えたと伝わる。
平時忠は清盛の妻・時子の弟で、壇ノ浦では平家一門と行動をともにした人物だった。
平家が滅びた後、時忠は捕虜となり、京都で処分を待つ立場に置かれていた。
『平家物語』巻第十一「文之沙汰」には、時忠が娘を義経へ嫁がせた事情が詳しく描かれている。
時忠は義経の手に渡った文書を取り戻すため、娘を嫁がせることにしたという。
義経はその娘を迎え、時忠の望みに応じて文書を返したと語られる。
この駆け引きの詳しい経過は軍記物語によるものだが、義経が時忠の娘を妻に迎えたことは『吾妻鏡』にも記されている。
娘の実名は確定していない。
義経にはすでに河越重頼の娘という妻がいた。
平時忠の娘は、その女性とは別の人物だった。
この婚姻は頼朝の不信をさらに強めることになる。
時忠は平家の有力者であり、義経がその娘婿となったことは、鎌倉からも注目された。
一方、河越重頼も義経との縁を理由に処罰を受ける。
義経をめぐる対立は、婚姻関係にあった家々にも影響を及ぼしていった。
伊予守への任官
文治元年(1185年)8月16日。
義経は伊予守に任じられた。
伊予国は現在の愛媛県にあたる。
義経はすでに左衛門少尉・検非違使として京都で活動していた。
そこへ新たな官職が加わったのである。
ただし、義経が実際に伊予国へ赴任して国政を執ったという記録はない。
当時の国司には、京都に滞在したまま地方の政務に関わる者も多かった。
義経も引き続き京都で活動していた。
朝廷から官職を得ることは、義経の地位を高めた。
しかし、頼朝は御家人や源氏一族の任官を鎌倉の統制のもとで進めようとしていた。
平家追討で軍功を挙げた義経が、京都で後白河法皇に近づき、官職を重ねていく。
頼朝との関係には、ますます緊張が生まれていた。
そして頼朝は、義経に叔父の源行家を討つよう命じる。
源行家をめぐる対立
源行家は、義経の父・義朝の弟だった。
治承4年、以仁王の令旨を各地の源氏へ伝えた人物である。
その後は独自に軍勢を率い、頼朝や木曾義仲と関係を悪化させた。
平家滅亡後、行家は京都周辺で活動していた。
頼朝は行家を追討するよう義経へ求めた。
『吾妻鏡』には、梶原景季が義経のもとを訪ね、行家追討の命令を伝えた経過が記されている。
義経は病気を理由に、すぐには応じなかった。
行家は源氏の一族であり、普通の罪人と同じようには扱えないと述べたとされる。
頼朝はその対応を疑った。
義経の病気も偽りではないかと考えたという。
実際に義経がどの程度病んでいたのかは不明である。
しかし、義経が行家を討たず、その後行家とともに頼朝へ対抗したことは確かだった。
頼朝の命令に従う立場だった義経は、ここで兄に反抗する側へ移っていった。
堀川夜討
文治元年10月17日夜。
京都にあった義経の屋敷が襲撃された。
攻撃したのは土佐坊昌俊らの軍勢だった。
『吾妻鏡』では、昌俊は頼朝の命を受け、義経を討つために京都へ向かった人物として描かれている。
義経の郎党たちは応戦し、昌俊方を撃退した。
その後、昌俊は捕らえられ、処刑されたと伝わる。
この事件は堀川夜討として知られる。
義経の屋敷の所在地については史料によって記述に違いがあり、『吾妻鏡』には六条室町の邸宅として記されている。
後世の軍記物語には、義経が急襲を受けながらも勇敢に戦った場面が詳しく描かれた。
静御前が危険を知らせたという逸話も残る。
ただし、襲撃時の会話や屋敷内での詳しい動きは確定できない。
義経は京都で命を狙われる立場となった。
その翌日、後白河法皇から頼朝追討の命令を得る。
頼朝追討の宣旨
文治元年10月18日。
義経と行家に、頼朝追討の宣旨が下された。
『吾妻鏡』には、この日に出された宣旨の文章が収められている。
頼朝が朝廷の秩序を乱しているとして、義経と行家に追討を命じる内容だった。
義経は朝廷の命令を根拠に、兵を集めようとした。
しかし、期待したほどの軍勢は集まらなかった。
頼朝はすでに東国の有力武士を広く従わせていた。
御家人たちは頼朝から所領を認められ、軍功に応じて恩賞を得ている。
義経には一ノ谷や壇ノ浦での軍功があったが、そこで指揮した武士たちの多くは頼朝の御家人だった。
義経へ従えば、鎌倉との主従関係を失う危険がある。
朝廷からの宣旨があっても、武士たちが義経へ集まるとは限らなかった。
頼朝は追討のため軍勢を動かし、10月29日には自ら鎌倉を出発した。
義経は京都にとどまることが難しくなり、西国へ向かうことを決めた。
大物浦の暴風
11月初め。
義経は行家らとともに京都を離れ、摂津国へ向かった。
西国で味方を集め、頼朝への対抗を続けようとしたと考えられる。
一行は大物浦から船出しようとした。
しかし11月5日夜から6日にかけて、激しい風が吹き始めた。
『玉葉』には船が破損し、義経と行家が小船で逃れたという知らせが残る。
『吾妻鏡』にも、暴風によって一行が離散したと記されている。
義経は渡海を断念した。
船団を失った義経のもとに残った者は少なかった。
『吾妻鏡』には、伊豆有綱、堀景光、武蔵坊弁慶、静御前らの名が記されている。
義経は追手を避けながら、畿内の山中へ逃れていく。
その途中で静御前と別れることになった。
吉野山で静と別れる
静御前は京都の白拍子だった。
白拍子は、男性の装束を取り入れた衣服をまとい、歌や舞を披露する芸能者である。
義経と静がいつ出会ったのか、詳しい経過はわかっていない。
しかし、義経が京都を離れたとき、静は行動をともにしていた。
一行は大和国吉野へ向かった。
吉野は山岳信仰の地で、修験者が行き交う場所だった。
『義経記』には、雪の降る山中で義経と静が別れる場面が描かれている。
静を連れて逃亡を続けることが難しくなり、義経は別れを告げたという。
ただし、そのとき交わした言葉や詳しい場所は軍記物語に頼る部分が大きい。
『吾妻鏡』によれば、静は吉野で捕らえられ、京都へ送られた。
その後、北条時政らのもとで尋問を受け、鎌倉へ連れていかれることになった。
義経自身は逃亡を続けていた。
鶴岡八幡宮で舞う静御前
文治2年(1186年)4月8日。
静は鎌倉の鶴岡八幡宮で舞を披露した。
『吾妻鏡』に記された出来事である。
頼朝と北条政子が参詣し、静が回廊へ呼び出された。
静は当初、舞うことを拒んだという。
追討中の義経と深い関係にあったため、頼朝の前で舞うことを嫌がったと記されている。
しかし、強く求められて応じた。
そのとき静が詠んだとされる歌が、二首残されている。
「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤の苧環くり返し昔を今になすよしもがな」
吉野へ逃れた義経を慕い、過ぎ去った日々を取り戻したいと願う歌だった。
『吾妻鏡』によれば、頼朝はこれを不快に思った。
しかし政子は、自分も頼朝が伊豆に流されていたころ、その身を案じて苦しんだことを語り、静の思いを理解するよう諭したという。
この会話は後世に編纂された『吾妻鏡』に描かれたもので、実際の発言をそのまま確かめることはできない。
静は義経を恋い慕う歌を舞い、頼朝の怒りを買ったと記されている。
そのとき、静は義経の子を身ごもっていた。
静が産んだ男児
文治2年閏7月29日。
静は男児を産んだ。
『吾妻鏡』によれば、頼朝は義経の子が男児であれば殺すよう命じていた。
静は子どもを引き渡すことを拒み、強く悲しんだという。
しかし命令は覆らなかった。
男児は由比ヶ浜へ運ばれ、命を奪われたと記されている。
政子は静に同情したと伝わる。
その後、静は母の磯禅師とともに京都へ戻った。
静のその後の生涯は明らかでない。
各地に墓や隠棲地を伝える場所が残るものの、実際の最期を確定できる記録はない。
義経が男児の誕生と死を知ったのかどうかもわかっていない。
義経はこのころ、頼朝の追討を避けて各地を転々としていた。
行家の死と奥州への逃亡
文治2年5月。
義経とともに頼朝へ対抗した源行家が、和泉国で捕らえられて処刑された。
行家はかつて以仁王の令旨を頼朝へ届けた人物だった。
その後は独自に軍勢を動かし、頼朝や木曾義仲とも対立した。
最後は義経とともに頼朝追討の宣旨を得たが、十分な軍勢を集めることはできなかった。
行家の死後も義経への追討は続いた。
義経の逃亡経路は詳しくわかっていない。
『義経記』には、弁慶らと山伏姿になり、安宅の関を越えたという有名な逸話が残る。
弁慶が勧進帳を読み上げ、義経を杖で打つことで疑いを晴らしたという話である。
しかし、この場面を実際の出来事として確かめる記録はない。
義経の消息が再び明確になるのは、奥州へ向かったという知らせが届いたときだった。
妻子を連れて平泉へ
文治3年(1187年)2月10日。
『吾妻鏡』には、義経が妻子を伴って奥州へ向かったという知らせが記されている。
伊勢や美濃などを経て、平泉へ逃れたという。
山伏や童子の姿に変装して移動したとも伝わる。
ただし、どの道を通り、どこで家族が合流したのかまではわかっていない。
義経の妻については、河越重頼の娘と考えられている。
重頼は頼朝の命によって娘を義経へ嫁がせた御家人だった。
しかし義経が頼朝と敵対すると、その縁を理由に処罰されている。
川越市立中央図書館の調査によれば、重頼が文治元年11月12日に討たれたとする文献がある一方、正確な処刑日を裏づける根拠は確認できない。
義経とともに奥州へ逃れた妻が、実際に河越重頼の娘だったのかについても慎重に考える必要がある。
義経は妻子とともに平泉へ入り、かつての庇護者・藤原秀衡を頼った。
秀衡が義経を迎える
平泉へ戻った義経を受け入れたのは、藤原秀衡だった。
秀衡は陸奥・出羽に大きな勢力を持つ奥州藤原氏の当主である。
義経が若いころ暮らしたのも、この秀衡のもとだった。
頼朝に追われる義経をかくまえば、奥州藤原氏も鎌倉との対立を深める危険があった。
それでも秀衡は義経を保護した。
しかし同年10月、秀衡が亡くなった。
跡を継いだのは藤原泰衡だった。
『吾妻鏡』には、秀衡が死に際し、義経を大将として息子たちを従わせるよう命じたという話が残る。
ただし、この遺言を同時代の記録で確認することはできない。
義経が奥州藤原氏の軍勢を自由に動かせる立場を得たのかも明らかでない。
頼朝は泰衡へ義経の引き渡しを求め続けた。
奥州藤原氏は、義経を保護することで頼朝と争う危険を抱えていた。
そして文治5年、泰衡は義経を攻撃する決断を下した。
藤原基成の衣河館
義経が亡くなった場所は、一般に衣川館と呼ばれている。
『吾妻鏡』では、義経は藤原基成の衣河館にいたと記されている。
基成は奥州藤原氏と姻戚関係を持つ人物で、秀衡の妻の父にあたる。
義経はその館に身を寄せていた。
現在、義経の最期の地として知られるのが、平泉の高館である。
北上川を望む高台に義経堂が建てられている。
ただし、現在の高館義経堂の所在地を、史料に記された藤原基成の衣河館とそのまま同一視することには慎重さが必要である。
衣川周辺の館の位置については、考古学的な調査や地形の検討が行われてきた。
義経が過ごした館の正確な場所は、なお研究の対象となっている。
義経はここで妻子とともに暮らしていたと考えられる。
しかし、その日々を詳しく伝える記録は残っていない。
文治5年閏4月30日。
泰衡の軍勢が館へ迫った。
衣川の最期
『吾妻鏡』によれば、泰衡は数百騎の兵を義経のもとへ差し向けた。
義経に従う家人たちも防戦したが、敵の攻撃を食い止めることはできなかった。
館の防衛は崩れた。
義経は持仏堂へ入ったという。
『吾妻鏡』には、義経がまず妻と娘の命を絶ち、その後、自害したと記されている。
妻は二十二歳。
娘は四歳だった。
妻の実名は記されていない。
河越重頼の娘とする見解があるが、確定したものではない。
娘についても名前はわかっていない。
静御前が鎌倉で産んだ男児とは別の子である。
『義経記』には、弁慶が最後まで義経を守り、全身に矢を受けて立ったまま死んだという逸話が残る。
しかし、『吾妻鏡』には弁慶の立往生の場面は記されていない。
義経の郎党たちが抵抗したことは伝わるものの、それぞれの最期を物語どおりに確かめることは難しい。
義経は数え三十一歳だった。
泰衡はその首を鎌倉へ送ることになる。
腰越へ送られた首
文治5年6月13日。
義経の首が相模国腰越へ届いた。
『吾妻鏡』によれば、首は酒に浸され、黒漆の櫃に納められていたという。
首実検にあたったのは、和田義盛や梶原景時らだった。
和田義盛は頼朝の挙兵を支えた有力御家人である。
梶原景時は平家追討で義経とともに行動し、壇ノ浦の後には義経の言動を批判する報告を頼朝へ送ったとされる人物だった。
二人は義経の死を確認した。
『吾妻鏡』には、その場にいた人々が義経の首を見て涙を流したと記されている。
四年前の元暦2年5月。
義経は平宗盛と清宗を伴い、腰越まで来ていた。
しかし頼朝から鎌倉入りを拒まれ、兄と会うことはできなかった。
その場所へ、今度は義経の首が運ばれてきた。
かつて義経が兄との対面を望んだと伝わる腰越で、鎌倉の御家人たちは義経の死を確かめた。
頼朝自身が義経の首と対面したという記録は残されていない。
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