第161回
寿永3年(1184年)2月7日。
摂津国一ノ谷で、平家の軍勢が源氏に敗れた。
この日、三人の息子を失った男がいた。
平経盛(たいらのつねもり)。
清盛の弟であり、朝廷では参議や修理大夫を務めた人物である。
長男の経正は琵琶の名手として知られ、次男の経俊は若狭守を務めていた。末子の敦盛は、熊谷直実に討たれた十七歳の若武者だった。
三人とも、一ノ谷から帰らなかった。
経盛自身は生き延び、平家一門とともに屋島へ退いた。
それから一年余り。
元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦。
平家の敗北が決まると、経盛は弟の教盛と手を取り合い、海へ身を投げたと『平家物語』は伝える。
かつて経盛は、自ら歌合を催すほど和歌に親しみ、宮廷で長く暮らしていた。
都落ちの後には、九州で月を眺めながら、京都に残してきた人を恋しく思う歌を詠んだという。
その秋から半年も経たないうちに、息子たちは一ノ谷で命を落とした。
平忠盛の息子として生まれる
平経盛は保安5年(1124年)に生まれたとされる。
父は平忠盛。母は源信雅の娘と伝わり、清盛とは母を異にする兄弟だった。
忠盛は白河院・鳥羽院に仕え、軍事や警護を担いながら朝廷で地位を高めた武士である。
伊勢平氏の勢力を拡大し、やがて清盛がその家督を継いだ。
忠盛には清盛のほか、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度らの息子がいた。
彼らも朝廷で官職を得て、清盛を中心とする平家一門を支えることになる。
経盛が従五位下に叙されたのは久安年間(1145〜1151年)だった。
その後も官職を重ね、宮廷で長く活動した。
父の忠盛は和歌や音楽を好み、崇徳院の歌壇とも関わりを持っていた。
経盛も和歌に親しみ、後には自ら歌合を催すようになった。
修理大夫としての経歴
保元元年(1156年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起こった。
清盛は後白河天皇方に加わり、源義朝らとともに勝利する。
続く平治元年(1159年)の平治の乱では、清盛が源義朝を破った。
二度の戦乱を経て清盛は勢力を強め、仁安2年(1167年)には太政大臣へ昇った。
経盛も平家一門の一員として昇進を重ねた。
ただし、保元・平治の乱における経盛個人の具体的な戦功については、詳しい記録が少ない。
経盛は従三位、正三位へと進み、太皇太后宮大夫や修理大夫を務めた。
修理大夫は、宮廷の建物の修理や造営を担当する修理職の長官である。
『平家物語』でも、経盛はしばしば「修理大夫」と呼ばれる。
養和元年(1181年)には参議に任じられ、公卿に列した。
同年閏2月、清盛が亡くなっている。
清盛の死後、平家一門の中心は宗盛へ移った。
経盛は弟の教盛らとともに、一門の年長者として宗盛を支えた。
このころには長男の経正や次男の経俊も成長し、朝廷の官職を得ていた。
末子の敦盛も笛を好む若者として育っていた。
経盛の家では、父子ともに和歌や管絃に親しんでいた。
歌合を催した平家の公卿
経盛は、平家一門の中でも和歌に熱心な人物として知られる。
平安時代の宮廷では、和歌は公卿たちの交流や儀礼に深く関わっていた。
歌会で作品を披露するだけでなく、歌合では左右に分かれて詠んだ歌の優劣を競った。
経盛は自ら歌合を催し、藤原俊成ら当代の歌人たちとも交流している。
平家一門では弟の忠度も歌人として知られ、藤原俊成との関係が深かった。
経盛もまた、勅撰和歌集に作品を残した人物である。
長男の経正が仁和寺の守覚法親王に仕えて琵琶を学んだことや、末子の敦盛が笛に親しんだことも、経盛の家で音楽が大切にされていた様子を伝えている。
とりわけ経盛自身の歌には、作者の名前をめぐる興味深い事情がある。
『千載和歌集』に名を伏せて残された歌
経盛の作とされる和歌が、『千載和歌集』巻第十一「恋歌一」に収められている。
第668首。
「いかにせむ 御垣が原に 摘む芹の
音にのみ泣けど 知る人のなき」
どうしたらよいのだろう。
思いを寄せる相手に心が届かず、ただ泣き続けているのに、その苦しみを知ってくれる人もいない。
「芹を摘む」という表現は、思いがかなわずに苦しむ古い歌の故事を踏まえたものだった。
芹の「根」に泣く「音」を掛け、相手に伝えられない恋心を詠んでいる。
ところが、『千載和歌集』ではこの歌の作者は「よみ人しらず」とされている。
経盛の名は記されなかった。
一方、平安時代末期に編まれた『治承三十六人歌合』には、経盛の歌として同じ作品が収められている。
ただし、第二句は「宮城の原に」となっており、『千載和歌集』とは異なる。
歌の異同はあるものの、経盛の作品として伝わっていたことは、この歌合によって確認できる。
『千載和歌集』は後白河法皇の命を受け、藤原俊成が編纂した勅撰和歌集である。
経盛の弟・忠度の歌も、作者名を伏せて収められている。
忠度については、都落ちの際、俊成へ自作の歌を託したという逸話が『平家物語』に残る。
経盛の歌が「よみ人しらず」とされた事情は明らかでない。
それでも経盛が歌人として活動し、作品を残していたことは、勅撰集や歌合の記録からたどることができる。
琵琶の名手となった長男・経正
経盛の長男は平経正である。
経正は父と同じく和歌や音楽を好み、とりわけ琵琶に優れていたと伝わる。
仁和寺の守覚法親王に仕え、管絃を学んだことで知られている。
寿永2年(1183年)7月、平家一門が都落ちを決めたとき、経正は仁和寺を訪ねた。
守覚法親王から預かっていた琵琶の名器「青山」を返すためだった。
『平家物語』巻第七「経正都落」「青山沙汰」に描かれた場面である。
経正は、これから西国へ向かえば、二度と京都へ戻れないかもしれないと考えていた。
戦場へ琵琶を持っていけば、失うおそれもある。
そこで守覚法親王に返し、別れを告げたという。
その場で琵琶を弾いたとも伝えられる。
経盛自身がこの別れに立ち会ったという記録はない。
しかし経正が仁和寺の法親王との関係を築き、宮廷の音楽に親しんでいたことは、歌人として知られた父・経盛の家とも結びついている。
敦盛へ伝えられた笛「小枝」
経盛の末子・敦盛も、音楽を好んだ若者だった。
『平家物語』巻第九「敦盛最期」には、敦盛が一ノ谷で討たれたとき、腰に笛を差していたと記されている。
名は「小枝(さえだ)」。
その笛には、祖父・忠盛の代からの由来があった。
『平家物語』によれば、忠盛は笛の名手で、鳥羽院からこの笛を賜ったという。
それを息子の経盛が受け継いだ。
さらに笛を得意とした敦盛が持つようになったと伝わる。
忠盛から経盛へ、経盛から敦盛へ。
三代にわたって受け継がれたという名笛だった。
後世には「青葉」と呼ばれる伝承もあるが、『平家物語』覚一本では「小枝」と記されている。
実際にこの笛が三代にわたって受け継がれたことを同時代の記録から確かめることは難しい。
しかし敦盛が一ノ谷で討たれた後、この笛は若武者の身元を伝える品として『平家物語』に登場する。
経盛から渡されたと伝わる笛を、敦盛は戦場まで携えていた。
都落ち――父子で京都を去る
寿永2年5月、平維盛らが率いた追討軍は北陸の倶利伽羅峠で木曾義仲に敗れた。
続く篠原の戦いでも平家方は敗北し、義仲の軍勢は京都へ迫った。
7月、後白河法皇が京都を脱出すると、宗盛は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ向かうことを決めた。
経盛も一門とともに京都を離れた。
父の忠盛が朝廷で地位を築き、兄の清盛が政権を握った京都だった。
経盛自身も長く官職を務め、歌会や管絃に親しみ、息子たちを育ててきた。
長男の経正は仁和寺へ琵琶を返した。
末子の敦盛も笛を携えて都を離れたと伝わる。
一門は福原を経て九州へ向かった。
しかし現地の武士たちは必ずしも平家に従わず、九州での再起は難しくなっていた。
そのころ、経盛が詠んだという和歌が『平家物語』に残されている。
九月十三夜――大宰府で都を思う
寿永2年9月13日。
平家一門は九州にいた。
『平家物語』巻第八「緒環」には、その夜、経盛らが月を眺めながら京都を懐かしんだ場面がある。
九月十三夜は、古くから名月として親しまれていた。
平家一門も京都にいたころには、月を眺め、和歌を詠むことがあった。
しかし今は都を追われ、遠く九州まで落ち延びている。
『平家物語』によれば、この夜、忠度がまず歌を詠んだ。
「月を見し 去年のこよひの 友のみや
都に我を 思ひ出づらん」
去年の今夜、一緒に月を眺めた人々は、都で自分を思い出しているだろうか。
続いて経盛が詠んだ。
「恋しとよ 去年のこよひの よもすがら
ちぎりし人の おもひ出でられて」
去年の今夜、一晩中語り合った人のことが思い出され、恋しくてたまらない。
経盛が思い出した相手の名は記されていない。
都に残してきた人との別れを惜しむ歌である。
さらに長男の経正も詠んだ。
「わきてこし 野辺の露とも 消えずして
思はぬ里の 月を見るかな」
野辺の露のように消えてしまうこともなく、思いもしなかった土地で月を眺めている。
経盛と経正が、同じ月を見ながら歌を詠んだという逸話だった。
都落ちから二か月足らず。
経盛も経正も、この先どこまで西国を転々とすることになるのかわからなかった。
九州での再起が難しくなると、平家は讃岐国屋島へ向かった。
西国での反攻と福原への進出
平家は屋島を拠点として、再び勢力を盛り返した。
寿永2年閏10月、備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破る。
11月には播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利した。
平家は摂津国福原まで進出し、清盛がかつて都を置こうとした土地へ戻った。
その一方、京都では木曾義仲が後白河法皇と対立し、法住寺を襲撃していた。
やがて源範頼・義経の軍勢が京都へ入り、義仲を破った。
源氏方はそのまま平家追討へ向かう。
寿永3年(1184年)2月、平家は生田森から一ノ谷にかけて陣を構え、源氏を迎え撃つことになった。
経盛の息子たちも軍勢に加わっていた。
長男の経正は皇后宮亮を務め、琵琶の名手として知られていた。
次男の経俊は若狭守。
末子の敦盛は、まだ十代の若者だった。
2月7日、源氏軍が平家の陣地へ攻めかかった。
一ノ谷――経正と経俊の戦死
寿永3年2月7日。
源範頼・義経の軍勢は、生田森から一ノ谷にかけて布陣した平家軍を攻撃した。
平家は各地で防戦したものの、源氏方の攻撃によって陣が崩れた。
多くの公達が討ち取られ、平家は大きな損害を受ける。
その中に経盛の長男・経正がいた。
経正は都落ちの直前、仁和寺へ琵琶の名器「青山」を返した人物だった。
宮廷では仁和寺の守覚法親王に仕え、琵琶や和歌に親しんでいた。
その経正も、一ノ谷では武装して源氏方と戦い、命を落とした。
『吾妻鏡』には、経正の討取りが安田義定の軍功として報告されたことが記されている。
一方、『平家物語』には経正の討死について別の描写があり、誰が直接首を取ったのか、詳しい経過までは定めにくい。
さらに次男の経俊も戦死した。
経俊は若狭守を務めたが、兄の経正や弟の敦盛ほど多くの逸話は残っていない。
『平家物語』などには、経俊も一ノ谷で討ち取られたと記されている。
経盛は二人の息子を同じ日の戦いで失った。
そして、末子の敦盛も一ノ谷で討たれることになる。
敦盛の最期と父の笛
平家の軍勢が敗走すると、敦盛は海辺へ向かった。
沖には平家の軍船がいた。
敦盛は馬を海へ乗り入れて船へ向かおうとしたが、後ろから源氏方の武士に呼び止められた。
熊谷次郎直実だった。
『平家物語』によれば、敦盛は引き返し、直実と戦って組み伏せられた。
直実が兜を押し上げると、相手は自分の息子と同じ年ごろの若者だった。
直実は助けようとしたものの、後方から味方の兵が迫っていた。
結局、敦盛の首を取ったという。
敦盛は十七歳だったと伝わる。
直実が敦盛の身につけていたものを調べると、錦の袋に入った笛が見つかった。
「小枝」である。
その日の明け方、平家の陣地からは管絃の音が聞こえていた。
直実はそれを思い出し、戦場へ笛を持ってきた若者の最期を嘆いたという。
笛を源義経のもとへ届けると、周囲の者たちも涙を流したと『平家物語』は伝える。
後に討たれた若者の名が明らかになった。
修理大夫・平経盛の子、敦盛。
忠盛から経盛へ、そして敦盛へ伝えられたという名笛は、十七歳の若者の最期を語る場面に残された。
三人の息子を失った経盛
一ノ谷の戦いで、経盛は三人の息子を失った。
経正、経俊、敦盛。
長男の経正は仁和寺で琵琶を学び、末子の敦盛は笛を好んだ。
経俊も若狭守として朝廷の官職を得ていた。
京都で暮らしていたころ、息子たちは宮廷に出入りする平家の公達だった。
しかし都落ちの後は、平家の武将として西国で戦うことになった。
経盛自身が三人の戦死を知ったとき、何を語ったのかは記録されていない。
同じ一ノ谷では、弟の教盛も長男の通盛と三男の業盛を失っていた。
経盛の三人と教盛の二人。
兄弟の家から、合わせて五人の息子が一日の戦いで命を落とした。
経盛はその後も平家一門に従った。
福原を失った一門は、再び屋島へ退いた。
一ノ谷で三人の息子を失ってから、一年余り。
経盛は壇ノ浦で最後の戦いを迎えることになる。
屋島を失い、長門国へ
一ノ谷の敗戦後、平家は讃岐国屋島を拠点としていた。
しかし元暦2年(1185年)2月、源義経の軍勢が四国へ渡って屋島を攻撃する。
平家は海上へ退き、屋島を失った。
一門はその後、長門国彦島方面へ向かった。
経盛も宗盛や知盛、弟の教盛らと行動をともにした。
平家は安徳天皇と三種の神器を奉じ、海上で源氏との決戦に臨む。
元暦2年3月24日。
長門国壇ノ浦で、源氏と平家の船団が衝突した。
戦いはやがて源氏方が優勢となり、平家の軍船は次々と制圧されていった。
安徳天皇は海に沈み、平家一門の人々も次々と入水したと伝えられる。
経盛もこの戦いで最期を迎えた。
弟・教盛と手を取って壇ノ浦へ
経盛のそばには、弟の平教盛がいた。
教盛も一ノ谷で二人の息子を失っていた。
長男の通盛と三男の業盛だった。
経盛は経正、経俊、敦盛を失い、教盛は通盛と業盛を失った。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」には、兄弟の最期が記されている。
「門脇の平中納言教盛卿、修理大夫経盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取り組んで、海へぞ入りたまひける」
二人は鎧の上に重い碇を背負い、互いの手を取った。
そしてそのまま海へ身を投げたという。
教盛は58歳。
経盛は61歳だったとされる。
ただし、経盛の最期については『吾妻鏡』に異なる記録がある。
元暦2年3月24日条によれば、経盛はいったん戦場を離れて陸地へ上がった。
そこで出家し、その後、再び海へ戻って入水したという。
『平家物語』に描かれた弟・教盛との入水とは経過が異なる。
また、経盛が山へ入って自害したという別の伝承もある。
その最期を一つの経過に定めることは難しいが、経盛が壇ノ浦の敗戦に際して命を落としたことは諸史料に伝わっている。
播磨に残る平家の落人伝説
経盛には、壇ノ浦から生き延びたという伝承も残されている。
兵庫県赤穂郡上郡町の小野豆地区に伝わる話である。
伝承によれば、経盛は家人たちを連れて播磨国へ逃れ、山深い小野豆の里に身を隠した。
源氏方の追手は経盛たちを探したが、居場所を見つけられなかった。
ところが、川上から茄子や箸が流れてきた。
追手は川上に人が住んでいることを知り、谷をさかのぼった。
さらに鶏の鳴き声を頼りに、経盛たちの隠れ場所を突き止めたという。
経盛は家人たちの助命を願い、自分は切腹して果てたと伝えられる。
家人たちは許され、村に住み着いた。
経盛の墓と伝わる場所は「平家塚」と呼ばれ、地域で供養されてきた。
また、この一件にちなみ、小野豆では茄子を作らず、鶏を飼わないという風習が伝えられている。
ただし、経盛が実際に壇ノ浦から逃れて小野豆で暮らしたことを示す同時代史料はない。
『平家物語』や『吾妻鏡』に記された壇ノ浦での入水とは異なる、地域に残る落人伝説である。
九月十三夜の歌
経盛は清盛の弟として朝廷に仕え、参議や修理大夫を務めた。
自ら歌合を催し、藤原俊成ら歌人たちとも交流した。
長男の経正は琵琶の名手として知られ、末子の敦盛も笛に親しんだ。
しかし源平合戦が始まると、一門は京都を追われ、経盛も息子たちとともに西国へ下った。
寿永2年9月13日。
九州にいた経盛は、忠度や経正と月を眺め、都に残してきた人を思って歌を詠んだと『平家物語』は伝えている。
それから五か月足らず。
一ノ谷で経正、経俊、敦盛の三人が戦死した。
経盛は屋島へ退き、その後も平家一門から離れなかった。
元暦2年3月24日、壇ノ浦。
『平家物語』では、経盛は弟の教盛と手を取り合って入水したと記されている。
一方、『吾妻鏡』では、いったん陸地で出家した後、再び海へ入ったという。
経盛が九州で詠んだと伝わる一首がある。
「恋しとよ 去年のこよひの よもすがら
ちぎりし人の おもひ出でられて」
前年の九月十三夜。
経盛が思い出したのは、まだ京都で暮らしていたころ、ともに夜を過ごした人だった。
その歌を詠んだ秋には、経正も父のそばにいた。
翌年の九月十三夜を迎える前に、経盛も経正もこの世を去っていた。
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