【戦い・事件編】刀伊の入寇――1019年、日本が襲われた。対馬・壱岐を蹂躙した50余隻の船団

戦い・事件

第68回



元寇より254年前、日本はすでに海の向こうから大規模な襲撃を受けていた

寛仁3年(1019)。

京都では藤原道長が絶頂期を迎えていた。

前年の寛仁2年(1018)10月、道長は娘・威子が後一条天皇の中宮となった夜、

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んでいる。

摂関政治が最も華やかな時代である。

ところが、そのわずか半年後。

京都から遠く離れた西の海に、50隻を超える船団が現れた。

狙われたのは対馬、壱岐、そして北部九州。

船から降りた者たちは集落へ押し入り、人を殺し、家を焼き、食糧を奪い、生き残った人々を船へ連れ去った。

事件全体の被害について、『山川 日本史小辞典』は、

死者365人、拉致された者1289人という数字を挙げている。

別史料の集計では死者が400人を超えるため数字には異同がある。それでも、1000人を超える人々が連れ去られた大規模な襲撃だったことは動かない。

後世、この事件はこう呼ばれる。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)。

文永11年(1274)の文永の役より255年前、弘安4年(1281)の弘安の役より262年前。

平安時代の日本は、すでに大陸方面から大規模な海上襲撃を受けていたのである。


「刀伊」とは何者だったのか

「刀伊」は国名でも民族の正式名称でもない。

高麗で異民族を指して使われた言葉に由来し、日本でもその呼称が使われた。

1019年に日本へ来襲した刀伊の主体は、現在の中国東北部からロシア沿海州方面に暮らしていた女真系集団である。

女真といえば、約100年後の1115年に完顔阿骨打が建国した金が有名だ。

ただし、1019年の刀伊を後の金軍と同一視する話ではない。

当時の女真系集団の一部は高麗沿岸にも侵入し、略奪を繰り返していた。

そして1019年、その一団が海を越えて日本列島へ向かった。

目的は日本征服ではない。

人間と物資の略奪である。

だから行動は速かった。

集落を襲う。食糧を奪う。人間を捕らえる。

そして次の土地へ移動する。

刀伊の入寇は、領土獲得を目指した後世の蒙古襲来とは性格の異なる事件である。


50余隻――その数から見えるもの

船団の規模については、かなり具体的な記録が残る。

50余隻。

船の大きさは8~12尋ほど。一艘につき櫂が30~40本。

乗っていた人数についても、一艘につき30~40人、あるいは50~60人という記録がある。

上陸すると、弓を持つ者と盾を持つ者が組になり、10~20組ほどの集団となって山野を動き回った。

かなり組織化された襲撃集団だったことが分かる。

対する日本側には、この船団を海上で迎撃する常備海軍が存在したわけではない。

襲われた土地ごとに、人々が対応することになる。

そして最初の標的となったのが、日本列島の西端に位置する島だった。


3月末――最初に対馬が襲われた

寛仁3年3月末。

刀伊の船団が対馬へ現れた。

現在の長崎県対馬市。

朝鮮半島まで約50キロという、日本と大陸を結ぶ海上交通の最前線である。

交易や外交では玄関口。

外敵が来れば、最初に攻撃を受ける土地でもある。

刀伊は島へ上陸すると、住民を殺害し、家々を襲い、人々を捕虜にした。

牛や馬、さらに犬まで殺して食べたことが記録されている。

穀物も奪った。そして捕らえた人々を船へ乗せる。

対馬を襲った刀伊は、さらに南へ進んだ。

次の標的は、壱岐。

ここで戦いはさらに激しくなる。


壱岐守・藤原理忠、147人を率いて出陣する

壱岐には、島の行政を担当する国司がいた。

壱岐守・藤原理忠(ふじわらのまさただ)である。

刀伊襲来の報を受けた理忠は、逃げる道を選ばなかった。

兵を集めた。

その数、147人。

そして刀伊を迎え撃った。

相手は50余隻で押し寄せた武装集団である。

戦力差は大きかった。

戦闘の末、理忠側は壊滅する。

藤原理忠も戦死した。

壱岐では多数の住民が殺され、さらに多くの人々が船へ連れ去られた。

『日本大百科全書』には、襲撃後の壱岐について、

「残る者わずか35人」と報告されたことが記されている。

一つの島から人が消えるほどの被害である。

刀伊の入寇が単なる「外国船との小競り合い」ではなかったことが、この数字だけでも分かる。


寺の僧侶まで武器を取った

壱岐で抵抗したのは、藤原理忠だけではない。

島には壱岐島分寺があった。

ここでも刀伊に対する抵抗が起きた。

中心となったのが僧の常覚である。

刀伊の襲撃を受け、寺側も戦った。

常覚は最終的に島を脱出し、筑前へ渡って大宰府側へ危急を知らせた。

国司が戦死する。寺院でも戦闘が起こる。

住民が殺され、捕らえられる。

1019年の壱岐では、島全体が戦場になった。

そして刀伊は、壱岐で止まらない。

船団はさらに南へ向かった。

九州本土である。


刀伊、筑前へ上陸

対馬、壱岐を襲った刀伊は、筑前国へ迫った。

現在の福岡県北西部である。

刀伊は怡土郡・志摩郡・早良郡などへ侵入し、略奪を続けた。

さらに能古島方面へも進出する。

人家を焼く。食糧を奪う。人を捕らえる。

事件全体では45棟の民家が焼かれたという記録も残る。

このまま博多湾周辺を荒らされれば、その先には九州統治の中心である大宰府がある。

ここで、一人の貴族が動く。

藤原隆家。

刀伊の入寇を語るうえで、絶対に外せない人物である。

藤原隆家の生涯そのものはこちらの記事で詳しく紹介しています。


藤原隆家――京都で問題を起こした男が、九州防衛の責任者になっていた

藤原隆家は天元2年(979)生まれ。

父は関白藤原道隆。兄は藤原伊周。

姉は一条天皇の中宮となった藤原定子である。

『枕草子』の清少納言が仕えた定子の弟、といえば分かりやすい。

つまり隆家は、藤原氏の中でも超一流の家柄に生まれた貴族である。

ところが若い頃から血気盛んだった。

長徳2年(996)。

兄・伊周と隆家は、花山法皇に矢を射かける事件を起こす。

いわゆる長徳の変である(この事件についてはこちらの記事で詳しく紹介しています)。

当時17歳ほど。

隆家はこの事件によって出雲権守へ左遷された。

その後、政界へ復帰。

やがて大宰権帥として九州へ赴任する。

そして寛仁3年(1019)。40歳になった隆家のもとへ、「海の向こうから賊が来た」という知らせが飛び込んできた。

隆家は979年生まれで、996年の長徳の変で左遷され、復帰後に大宰権帥として1019年の刀伊襲来に対応している。


隆家は、なぜ大宰府にいたのか

隆家が大宰府へ赴任した背景には、有名なエピソードがある。

目の病である。

隆家は眼病を患い、九州に来ていた大陸系の医師による治療を期待して大宰府への赴任を望んだと伝えられている。

京都から見れば、大宰府は遠い。

隆家にとっても、人生の中心となるはずの赴任ではなかっただろう。

ところが、この赴任によって隆家は日本史に名前を刻むことになる。

1019年。

日本の西の防衛責任者の座にいたのが、たまたま藤原隆家だった。


「京都の命令を待つ」という選択肢はなかった

対馬と壱岐が襲われたという情報が大宰府へ届く。

隆家は中央政府へ急報した。

同時に、現地で防衛態勢を整える。

ここが重要である。

大宰府から京都へ知らせる。京都で公卿が集まる。対応を決める。命令を九州へ送り返す。

その間にも、刀伊は移動する。

敵は朝廷の手続きを待ってくれない。

隆家は現地の判断で兵力を動かした。

大宰府の官人を警固所へ送り、九州の武力を持つ者たちを組織して迎撃する。

この判断が、筑前での戦いを大きく変える。


九州には、すでに「戦える人間」がいた

隆家が指揮した軍勢の中心には、大宰府・国衙と関係を持つ官人や、地方に基盤を持つ武装豪族がいた。

その一人が、大蔵種材(おおくらのたねき)。

筑前を基盤とする人物で、前大宰少監。

刀伊の入寇では隆家らとともに戦い、さらに敵を追撃した。

戦功によって、後に壱岐守へ任じられている。

さらに大宰大監藤原蔵規(まさのり)も奮戦した。

蔵規は戦功によって対馬守となる人物で、後の肥後菊池氏の祖につながる人物としても注目される。

この二人の経歴を見ると、刀伊の入寇が武士の歴史でも重要な理由が分かる。

戦う。功績を挙げる。朝廷から評価される。官職を得る。

その官職を足掛かりに地方で地位を高める。


筑前では状況が変わった

対馬と壱岐では、刀伊が圧倒的な被害を与えた。

ところが筑前へ入ると、事情が変わる。

大宰府側がすでに防衛態勢を整えていたからである。

警固所へ兵が入る。現地の武装勢力が集まる。

刀伊は警固所を焼こうとした。さらに筥崎宮への攻撃も試みた。

しかし、ここでは撃退された。

対馬・壱岐で一方的に人々を襲ってきた刀伊が、初めて組織的な抵抗にぶつかったのである。


「高麗軍かもしれない」――最初は敵の正体さえ分からなかった

現代なら、敵がどこの勢力なのか情報がすぐ入る。

1019年は違う。

海の向こうから突然、大船団が現れた。

日本側は当初、「高麗の軍勢ではないか」と疑った。

当時の日本と高麗の間には正式な国交がなく、情報も限られていた。

戦いながら捕虜を取り、相手の言葉や装備、行動を調べる。

その過程で、襲撃者が高麗軍ではなく「刀伊」と呼ばれる集団だと分かっていった。

ここで隆家は慎重だった。

追撃する際にも、高麗領へ侵入してはならないという趣旨の指示を出している。

目の前の敵を追うあまり、高麗との国家間紛争を起こすことを避けたのである。

荒々しい若者として知られた隆家が、40歳になると外交問題まで考えて軍を動かしている。

この変化も面白い。


刀伊、日本から撤退する

筑前で抵抗を受けた刀伊は、さらに肥前国松浦郡方面へ移動した。

ここでも現地勢力が抵抗する。

そして刀伊は日本列島から離れていった。

対馬への襲来から、日本近海を離れるまでおよそ1週間。

短期間である。

しかし、その一週間に残された被害は甚大だった。

死者数百人。

拉致された者1000人以上。

焼かれた家々。奪われた食糧。

対馬と壱岐では、とりわけ深刻な被害が出た。

刀伊の船団は、人々を乗せたまま海の向こうへ去っていった。

普通なら、ここで物語は終わる。

ところが刀伊の入寇には、その後にもう一つ大きな展開がある。


今度は高麗が刀伊を攻撃した

日本を離れた刀伊は朝鮮半島方面へ向かった。

そこで戦った相手が、高麗軍である。

日本側が最初に「敵かもしれない」と警戒していた高麗が、今度は刀伊と戦った。

そして刀伊が日本から連れ去った人々を、高麗が救出する。

高麗側は救出した日本人を保護し、日本へ帰還させた。

『高麗史』にもこの動きが記録されている。

刀伊の入寇は、日本対刀伊だけで終わる事件ではない。

日本。高麗。女真系集団。

三者の動きが絡む、11世紀東アジアの海域世界で起きた事件なのである。


連れ去られた女性が、日本へ帰ってきた

ここには、一人ひとりの人生も残っている。

筑前国志摩郡の安楽寺領板持庄に住んでいた女性、内蔵石女(くらのいわめ)。

石女も刀伊によって連れ去られた一人だった。

その後、高麗を経て日本へ帰還する。

そして寛仁3年(1019)7月13日、高麗への往復や現地の状況を報告した。

この報告は『小右記』の記事に関係史料として残されている。

「拉致1289人」

数字だけを見れば統計になる。

しかし、その一人一人に名前があり、家族があり、暮らしがあった。

石女の記録は、そのことを現在まで伝えている。


母を残して逃げた男は、もう一度海を渡った

さらに強烈な話がある。

長嶺諸近(ながみねのもろちか)である。

対馬の判官代を務めていた人物で、刀伊に家族とともに捕らえられた。

諸近自身は脱出に成功する。

ところが、母親を残してきた。

諸近は母を案じた。

そして渡航の禁令を破り、自ら高麗へ渡った。

母を探すためである。

その後、捕虜となっていた女性たちを伴って日本へ帰国し、現地の状況を報告した。

11世紀の記録の中から、一人の息子が母を捜す姿が突然浮かび上がる。

刀伊の入寇が単なる「外国勢力との戦争」ではなく、家族を引き裂いた事件だったことを伝えるエピソードである。


敵を追い払った後、京都では「恩賞を出すのか」が問題になった

刀伊は退いた。

そこで隆家は朝廷に求めた。

戦った者たちへ恩賞を与えてほしい。

大蔵種材らは命を懸けて戦った。実際に敵を撃退している。

ところが京都では、意外な議論が起きた。

問題になったのは、朝廷から追討命令が届く前に戦闘が終わっていたこと。

正式な命令を受けて戦ったわけではない。

だから恩賞を与える必要はない――。

公卿の中から、そうした意見が出たのである。

現地では敵が目の前にいる。京都では手続きを議論している。

この温度差は、刀伊の入寇を象徴する場面の一つである。


藤原実資が言った――「命令前だからこそ褒美を出すべきだ」

この議論で存在感を示したのが、藤原実資。

当時を代表する公卿で、『小右記』を書いた人物である。

実資は、朝廷の命令が届く前に敵を撃退したから恩賞を与えない、という考えに反対した。

むしろ、命令が来る前に戦い、国を守ったからこそ賞するべきだという立場を取った。

実資は藤原道長の権勢にも安易に迎合しない人物として知られ、「賢人右府」と称された。

刀伊の入寇でも、現地で実際に戦った者たちの功績を評価した。

この結果、大蔵種材は壱岐守、藤原蔵規は対馬守になるなど、戦功を挙げた者たちが官職を得ていく。


1019年、「貴族が武士を利用する時代」はここまで進んでいた

ここで前回の平維衡・平致頼の争いから流れをつなげてみたい。

998年。平維衡と平致頼は伊勢で武力衝突を起こした。

二人は郎等を抱え、自前の武力を持っていた。

しかし、私闘を起こせば朝廷に呼び出され、処分される立場である。

政治の主役は貴族。武士はその下で武力を担う。

それから21年、1019年。

海の向こうから刀伊が来た。

京都から軍隊が駆けつけたわけではない。

大宰権帥・藤原隆家が指揮を執り、大宰府の官人と、九州に根を張る武装豪族が実際に戦った。

『世界大百科事典』も、大宰府軍の主力を現地の武士的豪族の兵力とみている。

この頃の武士は、まだ政治を動かす主役ではない。

しかし、いざ戦いになれば、彼らが必要になる。

そして戦功を挙げれば官職を得る。

地方で地位を築く。

一族の勢力を伸ばす。

貴族が武力を必要とすればするほど、武力を持つ者の価値は上がっていく。

武士は、こうして少しずつ力を蓄えていった。


そして9年後――朝廷は一人の武士を頼る

刀伊の入寇から9年後、長元元年(1028)。

今度の敵は海の向こうから来ない。

東国で、一人の有力武士が朝廷に反旗を翻す。

平忠常。

上総・下総・安房を中心に大きな勢力を持った人物である。

朝廷は追討使を送り込む。

それでも反乱は終わらない。

戦いは3年以上続く。

そして長元4年(1031)。

最後に忠常を降伏させる人物が現れる。

源頼信。

源満仲の子である。

1019年の刀伊の入寇では、藤原隆家という貴族が現地の武装勢力を指揮した。

1028年から始まる平忠常の乱では、朝廷が一人の武士の持つ人脈と威名そのものを必要とするようになる。

貴族が武士を使う時代から、武士でなければ解決できない時代へ。

その変化が、いよいよ東国ではっきりと姿を現す。

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