第86回
1108年正月――源義家の後継者が、出雲で追い詰められる
嘉承3年(1108)正月。
山陰道を西へ進んできた軍勢が、出雲国へ入った。
大将は平正盛。
平清盛の祖父として知られる男である。
正盛自身が直接率いていた兵は、およそ240~250人。一族の武士に加え、正盛が所領を持っていた伊賀国の武士たちが中心だった。
ただし、これが追討軍の全兵力ではない。
朝廷は正盛に、
出雲・因幡・伯耆・隠岐、さらに石見または備後。
合計5か国の武士を動員する権限を与えていた。
正盛は任国の因幡から西へ進み、伯耆でも兵を集めた。そして年が明けた1108年正月6日、出雲へ入る。
討つ相手は、地方の小勢力ではない。
源義親。
「八幡太郎」源義家の次男であり、兄・義宗の早世後には河内源氏の嫡男となった人物である。
ほんの数年前までなら、河内源氏の次代を担うはずだった男だった。
それが今、朝廷の追討を受け、自分よりはるかに家格の低かった平正盛を迎え撃とうとしていた。
源義親――「八幡太郎」の後を継ぐはずだった男
義親の生年は分かっていない。
父は源義家。
母は三河守・源隆長の娘である。
義家には複数の男子がいたが、長男・義宗が早くに亡くなったため、次男の義親が嫡男となった。
父・義家は当時の河内源氏を代表する存在だった。
前九年合戦では19歳で黄海の死地を経験し、後三年合戦では陸奥守として奥州の清原氏の内紛へ介入する。戦後は東国武士から強い信望を集め、1098年には正四位下となり、白河院への昇殿まで許された。
後世、「天下第一武勇之士」と評された武将である。
その義家の武名を受け継ぐ立場にいたのが義親だった。
義親も左兵衛尉を経て、対馬守となる。
ここまでは、河内源氏の嫡男として順調な出世だった。
ところが九州へ赴いたあと、義親の人生は急激に変わっていく。
1101年――大宰府が義親を訴える
康和3年(1101)。
大宰府から京都へ、義親を告発する知らせが届いた。
義親は対馬守として九州へ入りながら、大宰府の指揮に従わず、年貢を横領するなどの行為を繰り返していた。
史料によっては、人民の殺害や略奪まで記される。
当時、西海道の行政と軍事を統括していた大宰府にとって、国司である義親がその統制を無視して独自に武力を振るうことは放置できなかった。
大宰府は朝廷へ訴えた。
しかも当時の大宰大弐は、大江匡房。
義親の父・義家と縁の深い人物である。
後世の『奥州後三年記』では、若いころ武勇に頼っていた義家に兵法を教えた人物として描かれる。
その匡房が今度は、義家の息子を追及する側に立ったのである。
父・義家も動く――それでも義親は戻らなかった
朝廷はいきなり義親へ大軍を差し向けたわけではない。
相手は源義家の嫡男である。
そこでまず、父である義家を通して事態を収めようとした。
義家も郎党を九州へ派遣し、息子を京都へ連れ戻そうとする。
ところが説得は失敗した。
派遣された者まで義親側へ入り、朝廷から送られた使者が殺される事態へ発展したと伝わる。
義家は東国で多くの武士を従えた人物だった。
その義家でさえ、自分の後継者を思い通りには動かせなかったのである。
京都から見れば、義親はもはや「義家の息子だから穏便に扱う」だけでは済まない存在となった。
1102年――河内源氏の嫡男、隠岐へ流される
康和4年(1102)12月。
義親の処分が決まった。
隠岐配流。
翌1103年3月、義親は隠岐へ送られたと松江市史は整理している。一方、出雲まで来たものの実際には隠岐へ渡らなかったとする史料もあり、配流後の足取りには違いが残る。
河内源氏の嫡男が流人になった。
これは義家にとって大きな打撃だった。
しかも当時の義家は、武将として落ち目だったわけではない。
すでに院昇殿を許され、武勇では天下第一と評されている。
父は武門の頂点に近づいている。
その息子は、朝廷から遠国へ流される。
異様な状態である。
1106年――義家、息子の問題を残したまま死ぬ
嘉承元年(1106)7月4日。
源義家が死去した。
数え68歳。
義親の問題を完全に解決できないままの死だった。
ここから河内源氏の状況は一気に厳しくなる。
義家が生きているうちは、義親を処分するにしても「天下第一武勇之士」と呼ばれた父の存在を無視できなかった。
その義家がいなくなった。
そして翌1107年。
義親は再び表舞台に現れる。
しかも今度は、朝廷の地方行政そのものへ武力を向けた。
1107年6月――義親、出雲へ渡る
嘉承2年(1107)6月。
義親は出雲国へ渡った。
ここからの動きは、これまで「義親が出雲で暴れた」と簡単に説明されることが多い。
実際にはもう少し大きな事件だった。
当時の出雲守は藤原家保。
その家保が現地行政を任せていた目代を、義親側が殺した。
さらに年貢などの官物を奪う。
国司の代官を殺し、国司が京都へ運ぶはずだった富を押さえたのである。
個人的な略奪とは意味が違う。
出雲国府を通して動く朝廷の地方支配そのものへ武力を向けたことになる。
義親は一人で暴れていたわけではない
ここは今回、かなり重要なところ。
義親の乱を、「乱暴者の源義親が一人で暴れた」と見ると、実像をかなり見失う。
松江市史では、義親の蜂起に際して周辺諸国にも義親へ味方した勢力が存在したことを指摘している。
追討後、義親とともに討たれ、首を切られた者は12人に及んだとされる。
つまり義親は、わずかな郎党を連れて逃げ回っていただけではない。
出雲だけでなく、その周辺にも彼を支持する人々がいた。
背景にあったのが、国司と在地勢力との対立だった。
地方の受領は任国から年貢やさまざまな収入を集め、その富を京都へ持ち帰る。
当然、現地で土地や利益を持つ有力者とは衝突する。
義親は、そうした国司・受領に不満を持つ在地勢力の大将として担がれた可能性が高い。
だから義親の乱は、一人の源氏武将による乱行だけでは終わらなかったのである。
「蜘戸の岩屋」――義親は港を押さえた
義親が立て籠もった場所として、史料には、
「蜘戸の岩屋」という名が現れる。
現在の島根県松江市美保関町雲津にあたる地域と考えられている。
雲津は海に面している。
『出雲国風土記』にも「久毛等浦」として現れ、船10艘を停泊できる港として記録された場所である。
隠岐への航路とも結びつき、日本海沿岸を東西に動く海上交通にも接続できる位置だった。
義親は、その雲津の岩屋に「城」を構えたと伝わる。
山奥へ逃げ込んだわけではない。
海へ逃れることもでき、隠岐とも連絡でき、物資も集まりやすい港を背後に持った場所だった。
これは追討する正盛にとって厄介だった。
義親を長く放置すれば、海を使って別の地域へ移動する可能性がある。
周辺の在地勢力がさらに加わる可能性もあった。
短期間で決着させる必要があった。
1107年12月19日――白河院、平正盛を選ぶ
義親が出雲へ現れてから約半年。
嘉承2年(1107)12月19日、朝廷は正式に追討を命じた。
追討使に選ばれたのは、平正盛。
当時、因幡守だった。
ここで初めて、源氏と平氏の立場が象徴的に入れ替わる。
少し前まで朝廷を代表する武将といえば源義家だった。
その義家の息子を討つために選ばれたのが、平氏の正盛である。
正盛はまだ後世の平清盛のような大物ではない。
もともとは白河院の近臣・藤原為房や藤原顕季に仕え、1090年代から受領として地位を上げた人物だった。
1097年には所領を白河院の皇女の菩提所へ寄進し、院との関係を強める。
1106年には因幡守。
そしてその翌年、「源義家の息子を討て」という大仕事を与えられた。
正盛直属は240~250人――それでも兵はもっと増える
ここから戦争を数字で見ていこう。
平正盛の直属兵は、約240~250人。
一族の武士と、正盛が所領を持っていた伊賀国の住人などで構成されていた。
この250人前後だけで出雲へ突入したわけではない。
正盛は追討使として、朝廷から周辺諸国の武士を動員する権限を与えられていた。
対象は、
出雲 因幡 伯耆 隠岐 石見または備後
の5か国。
追討使の強みはここにある。
自分の家の兵が250人しかいなくても、「朝廷の命令」という看板を持てば、各国の国衙を通じて現地武士を集められる。
正盛は京都を出ると、自分の任国である因幡へ入った。
そこから伯耆へ。
進みながら兵を増やし、出雲国境へ迫った。
冬の山陰道――正盛軍は西へ進む
12月19日に追討命令が下る。
年が明ける。
正盛軍は因幡・伯耆を経て西へ進んだ。
現代の道路を走る旅とは違う。
冬の山陰である。山を越え、河川を渡り、馬と徒歩で兵を動かす。
しかも軍勢には武器だけでなく、兵糧も必要になる。
数百人規模でも、一人が1日に米5合前後を消費すると考えれば、500人なら1日だけで250升、およそ450リットル近い米になる。
仮に1,000人なら、その倍。
実際の食料構成や兵数は史料から確定できないが、周辺国から兵を動員して進む以上、国衙からの食料・馬・宿泊場所の供給が欠かせなかった。
義親には地元の協力者がいる。
一方の正盛には、国家の兵站網があった。
これが大きな差である。
1108年正月6日――正盛、出雲へ入る
嘉承3年(1108)正月6日。
正盛軍が出雲へ入った。
12月19日に追討命令が出てから、わずか18日後である。
年末年始を挟みながら軍を組織し、因幡・伯耆で兵を集め、出雲まで進んだ。
かなり速い。
ここから義親側との戦闘が始まる。
ただし、この戦いについては前九年合戦の『陸奥話記』のような詳しい軍記が残っていない。
どこから攻めたのか。どれだけ続いたのか。
そこまでを再現できる史料はない。
ただ、残された数字だけでも戦況の速さは十分伝わる。
1月6日から、わずか十数日――義親軍は崩れた
正盛が出雲へ入ったのが1月6日。
そして1月19日。
京都にはすでに、「源義親を討った」という知らせが届いていた。
出雲と京都は直線距離でも数百キロ離れている。
当然、討伐成功の知らせを運ぶ時間も必要になる。
つまり実際の戦闘は、1月19日より前に終わっている。
正盛が出雲へ入ってから義親側が敗れるまで、長く見ても十数日。
実際にはそれより短かった。
前九年合戦は12年。後三年合戦は5年。
それに対し、源義親の乱の最後の軍事衝突は、驚くほど短期間で決着したのである。
なぜ義親は、これほど早く負けたのか
ここには兵力以上の差があった。
義親には在地の支持者がいた。
雲津という港も押さえていた。
しかし正盛には朝廷の正式な追討命令がある。
因幡。伯耆。出雲。隠岐。さらに石見または備後。
各国の武士を「官軍」として集められる。
義親に味方すれば、今度はその人物自身が朝廷の追討対象になる。
実際、義親とともに戦った者の中から12人が討たれたとされる。
戦争が長引けば長引くほど、義親側に立ち続ける危険は大きくなる。
逆に正盛側へつけば、朝廷側として戦える。
義親の最大の弱点は、国家全体を敵に回したことだった。
「源義親、討ち取った」――正盛から京都へ届いた報告
義親がどのように最期を迎えたのか、細かい戦闘描写は残らない。
ただ、平正盛側の報告には、義親を討ち、従った者たちの首も取ったことが記された。
『中右記』関係の記録では、1月19日、京都で正盛からの戦勝報告が確認されている。
報告を受けた白河院はすぐに恩賞を検討した。
ここも異例だった。
正盛はまだ出雲にいる。
本人が京都へ帰ってきていない。
それでも、
「正盛の帰京を待たず恩賞を出せ」という方向で話が進んだ。
それほど白河院にとって、義親追討は大きな成果だった。
1月24日――正盛、但馬守へ
追討成功の報告からわずか数日。
1月24日の除目で、正盛は因幡守から但馬守へ移った。
但馬は因幡より格上の上国であり、収入も期待できる任国だった。
しかも恩賞を受けたのは正盛だけではない。
一族の平盛康には右衛門尉。平盛良には左兵衛尉。正盛の周囲にいる平氏の武士まで官職を得た。
義親追討は、正盛個人だけの出世ではなく、正盛を中心とする伊勢平氏一門の底上げにつながった。
1月29日――義親の首が京都へ入る
1月29日、正盛は京都へ戻った。
出雲到着から23日後。
そして義親らの首を携えていた。
京都の人々にとって、この光景はかなり強烈だったはずである。
わずか2年前まで、「天下第一武勇之士」とまで評された源義家が生きていた。
その息子の首を、今度は平氏の武将が持って帰ってきた。
時代の変化をこれほど分かりやすく見せる場面もない。
源氏の嫡流が討たれ、平氏の武将が凱旋する。
1108年の京都で起きたのは、単なる犯罪者の処刑ではなかった。
武門の勢力図が変わり始めた瞬間だった。
それでも残った疑問――「本当に義親なのか?」
ところが、この戦争には妙な後味が残った。
義親は、父譲りの武勇を持つ人物として知られていた。
それを平正盛が、あまりにも短期間で討った。
しかも戦闘の詳しい経緯が京都へ十分伝わっていない。
そこで、「正盛が討った男は、本当に義親だったのか」という疑いが生まれた。
義親の首が京都へ運ばれても、その疑念は消えなかった。
実際、その後も各地に、「自分こそ源義親である」と名乗る人物が現れる。
1117年――討たれたはずの義親が現れる
義親追討から9年。永久5年(1117)。
越後国に「源義親」を名乗る人物が現れた。
その後も常陸、近江などで同じような人物が登場し、1130年ごろまで義親生存説は消えなかった。
全員が本物だったはずはない。
重要なのは、「義親を名乗れば人が集まる」状況が残っていたことである。
松江市史では、この背景に受領や朝廷への反発があったと指摘している。
義親は単なる逃亡犯ではなかった。
国司に不満を持つ地方勢力にとって、「八幡太郎義家の息子」という名前そのものが、中央へ抵抗する旗印になり得たのである。
義親が死んだとき、息子・為義は13歳だった
義親には息子がいた。
源為義。
1096年生まれ。
義親が討たれた1108年には、数え13歳だった。
祖父・義家はすでに死んでいる。
父・義親は朝敵として討たれた。
河内源氏の名声を支えてきた二人が、わずか2年の間に相次いで姿を消したことになる。
それでも河内源氏には、義家の別の息子・源義忠がいた。
義忠が一族をまとめれば、まだ立て直せる余地はあった。
ところが翌年。1109年。
その義忠まで京都で襲われる。
源義忠暗殺事件である。
河内源氏の本当の崩壊は、義親の死だけでは終わらなかった。
正盛から忠盛、そして清盛へ
一方、勝者となった平正盛は、その後も白河院の軍事を担った。
正盛の子が平忠盛。
忠盛は父から受領としての地盤と院との関係を受け継ぎ、さらに西国の海上交通や貿易にも関わりながら勢力を伸ばしていく。
その忠盛の息子が、平清盛。
1108年の源義親追討の時点で、清盛はまだ生まれていない。
それでも流れはここから始まった。
源義家の息子を討つ。正盛が但馬守になる。平氏一門に官職が与えられる。
院の軍事を担う家として地位を高める。その蓄積を忠盛が受け継ぎ、さらに清盛へ渡す。
後世の「平家の天下」は、突然清盛一代で生まれたものではない。
祖父・正盛の時代から、一段ずつ足場を作っていたのである。
源氏の嫡男を討った平氏――1108年、流れが変わる
源義親の乱には、前九年合戦のような数千人対数千人の大決戦はない。
黄海や厨川柵のように、死者数や部隊配置を細かく記した軍記も残らない。
それでも、数字を追うとこの戦いの性格がはっきり見える。
1107年6月、義親が出雲で蜂起。
12月19日、正盛に追討命令。正盛直属兵は240~250人。朝廷は5か国から兵を動員。
1108年1月6日、正盛軍が出雲へ到着。
1月19日には討伐成功の知らせが京都へ届く。
1月24日、正盛が但馬守へ栄転。
1月29日、義親らの首を携えて京都へ凱旋。
追討命令から帰京まで、わずか41日。
出雲へ入ってから帰京までは23日だった。
八幡太郎義家が何十年もかけて築いた河内源氏の武名。
その後継者だった義親は、父の死から2年もたたないうちに朝敵として討たれた。
そして義親を討った正盛は、それまで河内源氏の陰にいた伊勢平氏を中央政界へ押し上げる。
義親の敗北と正盛の出世は、同じ戦争の表と裏だった。
源氏が沈み始めたその場所で、平氏が伸び始めたのである。
しかも河内源氏には、まだ次の悲劇が待っている。
義親が討たれてからわずか1年。
今度は義家の後を継いだ源義忠が、京都で暗殺される。
河内源氏をさらに深い内紛へ落とす、次の事件が始まる。

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