第71回
長元元年(1028)。
東国で、朝廷を震撼させる大規模な反乱が始まった。
中心人物は、平忠常(たいらのただつね)。
上総・下総を中心に広大な勢力を築き、武蔵国の押領使も務めた坂東屈指の武人である。
忠常は安房国へ攻め込み、国守である安房守惟忠を焼死させた。さらに上総国府を押さえ、国司側の人々を拘束する。
朝廷はただちに追討を決定した。
ところが、ここからが長かった。
京都から送り込まれた追討使・平直方は、約3年を費やしても忠常を屈服させることができない。
戦乱は上総・下総・安房の房総三国へ拡大し、田畑は荒れ、人々は逃げ、国司の行政まで機能しなくなっていった。
そして長元4年(1031)。
朝廷はついに追討使を交代させる。
新たに選ばれた男は、源頼信。
後に源頼義、源義家、そして源頼朝へとつながっていく河内源氏の祖である。
すると不思議なことが起きた。
3年間、朝廷軍を相手に抵抗を続けた忠常が、頼信とは一度も戦わずに降伏したのである。
平忠常の乱は、「誰が強かったか」だけでは見えてこない。
なぜ忠常は反乱したのか。
なぜ平直方では鎮圧できず、源頼信なら戦わずして終わらせられたのか。
そこには、平安時代の東国で形を整えつつあった「武士の主従」という新しい力関係が見えてくる。
平将門の乱から約90年――再び坂東が動く
平忠常の乱が始まった1028年は、平将門の乱が鎮圧された940年から88年後にあたる(平将門の乱についてはこちらの記事で詳しく紹介しています)。
舞台も同じ東国である。
忠常自身も、将門と同じ桓武平氏の流れをくむ。
系譜をたどると、
高望王
↓
平良文
↓
平忠頼
↓
平忠常
となる。
祖父の平良文は、坂東に勢力を広げた武人として知られる人物である。
忠常はその地盤を受け継ぎ、上総・下総を中心に勢力を拡大した。
上総介、下総権介、武蔵国押領使などを務めた経歴を持ち、単なる一地方の豪族ではない。
朝廷の官職を持ちながら、現地では巨大な私領と武力を背景に国司をしのぐほどの存在となっていた。
『今昔物語集』は忠常について、上総・下総を思うままに動かし、朝廷へ納めるべき公事さえ意に介さないほど強大だった人物として描いている。
11世紀前半の房総には、すでに京都から派遣される国司だけでは簡単に動かせない巨大な在地勢力が生まれていたのである。
なぜ反乱したのか――「朝廷への謀反」から始まった戦いではない
平忠常の乱を理解するうえで最も大切なのは、最初から忠常が京都の朝廷そのものを倒そうとして兵を挙げた、と考えないことである。
発端にあったのは、受領と在地勢力の衝突だった。
受領とは、実際に任国へ赴き、税の徴収などを取り仕切った国司の最高責任者である。
平安中期になると、朝廷は地方から一定額の税や物資を確保する仕組みを強めた。
その徴収を担当するのが受領である。
一方、忠常のような有力者は現地に土地を持ち、武装した人々を率い、自分たちの勢力圏を築いていた。
当然、「税を取る国司」と、「土地と武力を握る在地勢力」は衝突する。
忠常は上総・下総で公事を勤めず、受領の命令にも従わないほどの勢力を持っていた。山川『日本史小辞典』も、平忠常の乱を当時各地で起きていた反受領闘争を基調とする事件と位置づけている。
しかも忠常は、単なる「地元の武装豪族」ではない。
上総介・下総権介・武蔵押領使などの肩書きを持ち、国衙の内部でも強い影響力を持つ在庁官人層の頂点にいた人物である。つまり忠常は、朝廷の地方行政から完全に切り離された存在ではなく、その仕組みの内側にいながら、巨大な土地と武力を握っていた。
京都から新しい受領が赴任してくれば、税を集めなければならない。忠常側は、父祖以来の土地、人脈、在庁職を守らなければならない。
両者の利害がぶつかるのは必然だった。
つまり平忠常の乱は、単なる「朝廷対反逆者」ではない。
地方を実際に支配しているのは誰なのか。
その主導権をめぐる争いでもあった。
この時代には、尾張国の郡司・百姓が国守藤原元命の苛政を訴えた「尾張国郡司百姓等解文」のように、地方側が受領を中央へ訴える事件が各地で起きている。
忠常の場合、その対立が上訴ではなく武力衝突へ進んだ。
そこに坂東という土地の特徴が重なった。京都から遠く、在地勢力が自前の武力を持つ東国では、争いを自力で解決する力が政治力そのものだったのである。
忠常の前にも国府を焼いた男がいた――平維良の乱
平忠常の乱だけを見ていると、1028年の事件が突然現れたように見える。
しかし、その25年前にも東国では国府を焼く事件が起きていた。
長保5年(1003)、平維良が下総国府を焼き討ちしている。
維良は、後世「余五将軍」として知られる平維茂と同一人物とみる説もある武将で、貞盛流平氏につながる勢力だった。
朝廷は維良の追討を命じたものの、この事件は最終的に大規模な処罰へ進まなかった。維良側には藤原道長や中央の軍事貴族との結びつきがあり、そうした京都の有力者との私的関係が処分に影響したと考えられている。
この前例は忠常にとって重要だった。
国司と武力衝突を起こしても、京都にいる有力貴族へ働きかければ、追討そのものを止められる場合がある。
忠常も1028年、同じように中央への工作を始めることになる。
1028年――安房守惟忠を焼き殺す
そして長元元年(1028)、ついに決定的な事件が起こる。
忠常は安房国へ攻め込んだ。
標的となったのは、国守の安房守惟忠である。
惟忠は忠常側の攻撃を受け、焼死した。
さらに忠常は上総国府を制圧した。
上総介・県犬養為政と、その妻子も忠常側に拘束された。
国司とは、天皇・朝廷の名のもとに地方を治める役人である。
その国司を殺害し、国府を押さえる。
ここまで来れば、京都側も地方の小競り合いとして処理することはできない。
長元元年(1028)6月5日。
朝廷は平忠常とその子・常昌らを追討する宣旨を出した。
平忠常の乱が、本格的な国家規模の追討戦へ変わった瞬間である。
国司を捕らえながら、朝廷への貢進は止めなかった
ここで興味深い動きがある。
忠常の行動には、一見すると矛盾するところがある。
上総国府を押さえ、上総介県犬養為政を拘束したにもかかわらず、為政から京都の右大臣・藤原実資へ送られた貢進を妨害していないのである。
国司を押さえながら、中央への貢進は通す。
これは忠常が「天皇や朝廷そのものとの全面戦争」を避けようとしていたことを考えるうえで重要な動きである。
忠常が争っていた直接の相手は、地方へ赴任してきた国司だった。
ところが安房守を殺害したことで、朝廷から正式に「追討される側」に指定されてしまった。
そこで忠常は、京都での政治工作に動いた。
忠常は郎党を京都へ送り、検非違使などへ釈明を行うと同時に、内大臣藤原教通を頼った。
教通は藤原道長の子で、当時の朝廷中枢にいる人物である。
忠常と教通の間には、日ごろから私的な主従関係があったとみられている。
忠常はその関係を使って、追討宣旨を撤回させようとしたのである。
平安中期の武士にとって、朝廷との関係は「国家対個人」だけで決まらない。有力な藤原氏の公卿に仕え、その人物を通して中央政治につながることが、生き残るための重要な手段だった。
忠常の工作は成功せず、8月5日、追討使は東国へ向かった。
朝廷は武力による追討へ進んだ。
追討使候補に「源頼信」の名前があった
長元元年(1028)6月21日。
朝廷では、誰を忠常追討へ送るかが話し合われた。
候補には、
平直方 平正輔 源頼信 中原成通
らの名前が挙がった。
ここで右大臣藤原実資は源頼信を推した。
実資は『小右記』を残した、当時屈指の実務派公卿である。
ところが関白・藤原頼通が推したのは平直方だった。
最終的に追討使となったのは、平直方と中原成通。
源頼信は選ばれなかった。
この人選が、のちに大きな意味を持つことになる。
なぜなら3年後、平直方では終わらなかった乱を、頼信は戦わずして終わらせるからである。
平直方――実は忠常と同じ桓武平氏
最初の追討使となった平直方も武門の名門出身だった。
直方は、平将門を討った平貞盛の系統に属する。
一方、忠常は平良文の系統。
つまり両者は同じ桓武平氏でありながら、別の流れに属していた。
忠常=良文流 直方=貞盛流
である。
この乱には、受領と在地勢力の対立だけでなく、坂東平氏内部の主導権争いという側面もあった。
しかも両者の対立は1028年に突然始まったものではない。
忠常の父・平忠頼と、常陸に勢力を持つ平繁盛との間では、すでに前代から武力衝突が起きていた。忠常の良文流と、貞盛流・常陸平氏は、父祖の代から競争関係にあったのである。
直方は貞盛流平氏の中央軍事貴族であり、相模・伊豆方面にも勢力を持っていた。忠常を倒せば、房総から南関東に広がる良文流の勢力を弱め、自らの一族が坂東平氏をまとめる大きな機会になる。
一方の忠常から見れば、朝廷への降伏と同時に、代々争ってきた平氏のライバルへ屈服することになる。
だから忠常にとって、直方への降伏は単なる朝廷への服従では済まない。
坂東における平氏同族間の力関係にも関わる問題だったのである。
山川『日本史小辞典』も、平忠常の乱には反受領闘争とともに、坂東平氏内部の主導権争いという性格があったとしている。
追討軍はわずか200余人――8月5日、京都を出発
追討使に選ばれた平直方らは、すぐに出発したわけではない。
準備や追討条件をめぐる調整が続き、出発は8月までずれ込んだ。
8月5日。
平直方と中原成通は京都を出発する。
従えた兵は200人と記録されている。
もちろん東国へ入れば現地の国司や武装勢力を動員できるため、「200人対忠常軍」という単純な戦いではない。
それでも、上総・下総に巨大な勢力を持つ忠常を討つための中央からの初動としては、決して大軍とはいえない。
翌長元2年(1029)2月には、朝廷が東海・東山・北陸道諸国に追討への協力を命じた。
同月23日には直方の父・平維時が上総介として京都を出発する。
追討使の息子が前線で戦い、その父が反乱の中心地である上総の国司になるという異例の体制である。直方・維時父子は、国衙の軍事力と中央の追討権力を同時に握った。
さらに朝廷は諸国へ兵士や兵糧の供出を求め、忠常包囲を進めた。
ところが戦争は終わらなかった。
長元2年(1029)6月には「忠常の暴悪もっとも盛ん」として三度目の追討官符が出される一方、同じ月には早くも平直方の更迭が朝廷で議題になっている。
派遣から1年もたたないうちに、京都では追討作戦への疑問が出始めていたのである。
もう一人の追討使・中原成通も軍事貴族ではなく、追討に消極的な姿勢を見せ、長元2年12月8日に解任された。
追討は、ほぼ直方と坂東の軍事勢力に委ねられていく。
下総守や常陸の武士、上総・安房の国司側勢力も追討軍へ加わった。
しかし、忠常は倒れなかった。
なぜ平直方は勝てなかったのか
平直方は坂東での軍事経験を持つ武人である。
それでも忠常を屈服させられなかった。
理由は一つではない。
第一に、忠常が現地に深く根を張っていたことである。
忠常は上総・下総の各地に私領や拠点を持ち、多くの在地勢力を味方につけていた。
朝廷軍が京都から兵を連れてくるのに対し、忠常側は自分たちの土地で戦う。
地理を知り、人間関係を握り、兵糧を確保する基盤もある。
第二に、忠常が房総の山岳地帯を利用して抵抗したことが挙げられる。
『小右記』には、忠常が随人20~30騎ほどを率いて「伊志見山」と記された山地に入ったことが見える。現在の千葉県夷隅郡周辺の山岳地帯と考えられている。
国府や平野部を正面から守り続けるのではなく、山地へ入り、必要に応じて軍勢を動かす。
長元3年(1030)3月27日には、忠常側が再び安房国へ進攻した。新たな安房守藤原光業は国印と正倉の鍵を捨て、京都へ逃げ帰っている。
反乱開始から約2年たっても、忠常軍は国守を任国から追い出すだけの力を残していた。
第三に、追討戦そのものが地域の生産力を食い潰したことである。
追討軍側も土地から食料や兵糧を調達する。
すると農民や在地住民の負担は増え、地域全体が疲弊していく。
『左経記』には、後に上総介辰重が、忠常の住国だった上総について、追討使平直方と諸国の兵士が3年間にわたり物資を徴発し、「一塵も残さない」ほどだったと語った記録が残る。
忠常軍だけが房総を荒らしたのではない。
朝廷の追討軍もまた、兵糧や物資の徴発によって地域を疲弊させた。
忠常を討つための戦争が、忠常の基盤そのものと、そこに暮らす人々の生活を同時に破壊していったのである。
房総三国が「亡国」のようになった
平忠常の乱の凄まじさを伝えるのは、合戦の死者数だけではない。
戦乱によって、上総・下総・安房の房総三国そのものが荒廃したことである。
長元3~4年(1030~1031)になると、房総では人々の逃散と飢餓が深刻になった。
長元4年(1031)3月、下総守藤原為頼は、忠常追討によって国内が「亡弊」し、食料備蓄が尽きて飢餓に及ぶ状況を訴えている。為頼自身の妻子にも、道中で命を落とした者がいた。
さらに乱後の長元7年(1034)、上総介藤原辰重が報告した数字は衝撃的である。
乱以前、上総国には、2万2980町余りの耕作田があった。
ところが平維時の任期末に調査された耕作田は、わずか18町余り。
本田2万2980町余りに対し、実際に耕作されていたのは約0.08%である。
『左経記』には、「将門の乱の時もひどく荒廃したが、今回ほどではなかった」という趣旨の言葉まで残る。
平将門の乱から約90年後、房総はそれ以上とも評された打撃を受けたのである。
辰重が赴任した時点でも約50町。
復興を進め、逃げていた人々を呼び戻し、長元7年(1034)にはようやく約1200町まで回復した。
それでも乱以前の水準には遠く及ばない。
朝廷は上総国の復興のため、4年間にわたって官物を免除し、その後も負担を分割して納めさせる措置を取った。
平忠常の乱は、武将同士が戦っただけの事件ではない。
一つの地域社会そのものを壊した戦争だった。
1030年――忠常はすでに講和を探り始めていた
長元3年(1030)。
乱が始まって、すでに2年以上が経過していた。
平直方を中心とする追討軍は、決定的な成果を挙げられない。
忠常の勢力は依然として房総に残り、地域の荒廃だけが進んでいった。
長元3年(1030)5月、平直方は朝廷へ4度目の追討官符を求めた。
しかし関白・藤原頼通はこれを認めなかった。
「伊志見山」にいる忠常の兵力が減っているという情報があり、同月20日には忠常が出家したという知らせまで京都へ届いている。
6月23日に直方・平維時・武蔵守平致方らが提出した解文からも、忠常側が講和を望んでいることが読み取られた。
戦争の終わりは、すでに見え始めていた。
そして7月8日、朝廷は平直方の召還を決定する。
直方は約2年間の追討で忠常を捕らえることができず、京都へ呼び戻されることになった。
同年9月、後任の追討使に選ばれたのが、2年前にも候補となっていた男である。
源頼信。
当時、頼信は甲斐守を務めていた。
源満仲の子で、兄には「頼光四天王」で知られる源頼光がいる。
そして頼信こそ、後世の武家社会に巨大な影響を残す河内源氏の祖となる人物だった。
なぜ源頼信だったのか――忠常は頼信に「名簿」を差し出していた
頼信が選ばれた理由は、単に「武勇に優れていたから」ではない。
頼信はそれ以前から東国とのつながりを持っていた。
常陸介など東国の国司を経験し、坂東の武士たちとの人脈を形成していたのである。
そして何より重要なのが、平忠常自身が頼信と以前から私的な主従関係を結んでいたことである。
世界大百科事典が引く史料では、忠常は乱以前に頼信へ「名簿(みょうぶ)」を差し出して従者となっていたとされる。名簿とは、自分の姓名を書いた文書を主人に差し出し、奉仕を誓う行為である。
山川『日本史小辞典』も忠常を「頼信の家人」と記している。
さらに『今昔物語集』『宇治拾遺物語』には、頼信がかつて常陸介だったころ、命令に従わない忠常を攻めて屈服させたという説話が残る。
説話が描く細部と、1031年の出来事をそのまま重ねることはできない。それでも、頼信と忠常の間に以前から特別な関係があったことは、乱の終結を理解する重要な材料になる。
ここが、平直方との決定的な違いだった。
平直方は忠常にとって、坂東平氏の別系統からやってきた追討者である。
一方の頼信は、以前から自分が従っていた主君だった。
朝廷は武力で忠常を倒せなかった。
そこで最後に選んだのが、忠常本人を従わせることのできる人間関係を持つ武将だったのである。
頼信は房総へ着く前に勝った
ここからの頼信の行動が面白い。
追討使となったからといって、すぐ大軍を率いて房総へ突入したわけではない。
頼信は当時甲斐守だった。
追討使となった頼信が坂東へ向かう際には、忠常の子の法師を伴っていたことも史料に見える。
そして決定的なのは、忠常が頼信の軍と房総で戦う前に降伏したことである。
つまり頼信は、正面から忠常軍を叩き潰すより先に、「降伏できる道」を作ったのである。
約3年間、平直方を相手に徹底抗戦した忠常。
ところが頼信が追討使になると、状況は一変する。
1031年4月――忠常、子2人・郎党3人を連れて甲斐へ
長元4年(1031)4月。
忠常は出家した姿で、子息2人、郎党3人を伴い、甲斐にいる頼信のもとへ出頭した。
降伏である。
大規模な決戦は起きなかった。
頼信が後に石清水八幡宮へ奉納した願文には、
兵を駆り立てず、太鼓を打たず、旗を振らず、弓を張らず、矢を放たず、攻撃することもなく、
賊を捕らえた、という趣旨で自らの功績を記している。
頼信自身が自らの功績を強く演出した文章ではある。それでも、忠常が頼信との大規模戦闘を経ずに降伏したという事件の核心は、同時代の記録とも一致する。
平直方が約3年戦っても倒せなかった男を、頼信は一戦もせず従わせた。
武力だけではなく、「誰に従うか」という主従関係が戦争の行方を決めた象徴的な場面である。
『今昔物語集』には、別の「頼信対忠常」が描かれる
後世の『今昔物語集』には、頼信と忠常の関係を伝えるさらに劇的な説話がある。
そこでは頼信父子が、常陸の有力武士平惟基が率いる数千騎の軍勢とともに忠常へ迫り、忠常を屈服させる姿が描かれている。
ただし、これは1031年の乱終結そのものを記録した同時代史料とは内容が異なる。
頼信の願文や公卿の日記から確認できる1031年の実像は、忠常が甲斐へ出頭して降伏したという流れである。
『今昔物語集』の物語は、頼信が以前から東国で築いていた武威や忠常との関係を反映した説話として読むと面白い。
史実と説話。
二つを重ねると、当時の人々が頼信を「戦わずとも坂東の武士を従わせる人物」と見ていた理由が見えてくる。
6月6日――忠常、美濃で死ぬ
降伏した忠常は、頼信によって京都へ護送されることになった。
しかし、忠常が再び京都の土を踏むことはなかった。
長元4年(1031)6月6日。
美濃国の野上付近まで来たところで病死した。
頼信は忠常の首を携え、6月16日に京都へ入った。
約3年間、房総三国を揺るがした男の最期である。
ところが事件は、忠常の死だけでは完全には終わっていない。
房総には忠常の子常昌・常近らが残り、なお帰順していなかった。
6月27日の朝議では彼らを追討するかが議論されたものの、最終的に大規模な追討は行われず、子どもたちは赦される方向へ進んだ。
その血筋も絶えなかった。
忠常の子孫からは、後に房総を代表する武士団である千葉氏や上総氏につながる系統が成長していく。
「反乱を起こした一族だから滅亡」という単純な結末ではないところにも、平安時代の武士社会の特徴が表れている。
頼信が得たもの――「戦闘の勝利」ではなく坂東の威望
平忠常の乱で、最も大きく名声を高めた人物。
それが源頼信である。
頼信は大規模な決戦で忠常を討ち取ったわけではない。
むしろ逆である。
戦わずして乱を終わらせた。
だからこそ、その威名は大きかった。
「朝廷の軍でも抑えられない東国の大武士を従わせられる男」
という評価を得たのである。
そしてこの成功によって、頼信の子孫は東国武士との結びつきをさらに強めていく。
ここで重要なのは、頼信の勝利を「頼信が最強の軍勢で忠常を圧倒した」と理解しないことである。
1030年の時点で忠常側はすでに疲弊し、講和を模索していた。直方が召還され、以前から主従関係のあった頼信に追討使が交代したことで、忠常にとって屈服できる相手が現れた。
頼信はその状況を利用し、戦場で敵を大量に討つことなく乱を終わらせた。
だからこそ武名が上がった。
武士に必要なのは、自分一人が強いことだけではない。
敵対していた武士まで自分のもとへ従わせる力。
頼信が坂東で示したのは、この「棟梁」としての力だった。
頼信の子が源頼義。孫が「八幡太郎」と呼ばれる源義家である。
頼義・義家父子は、のちに東北で起こる前九年の役・後三年の役を通じて武名を高める。
さらにその系譜から、
源義朝
↓
源頼朝
へとつながっていく。
約160年後、源頼朝が東国武士を率いて鎌倉に武家政権を築く。
そのはるかな出発点の一つに、1031年の平忠常降伏があったのである。
敗れた平直方と源氏が婚姻する――ここから義家が生まれる
さらに、この乱の後には興味深い縁が生まれる。
最初の追討使だった平直方は、その後、源頼信の子源頼義と関係を深める。
直方の娘は頼義の妻となった。
直方の娘と頼義の間には、のちに「八幡太郎」と呼ばれる源義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光らが生まれる。
また後世の伝承では、直方が鎌倉の館・所領を頼義へ譲ったとされる。
後世、源頼朝が本拠とする鎌倉である。
平忠常の乱で追討に失敗した平直方。
その直方の家と、乱を終わらせた源頼信の家が婚姻で結ばれる。
追討使として忠常を倒せなかった平直方の家と、忠常を降伏させた源頼信の家が、乱後には婚姻によって結びついたのである。
11世紀前半の東国では、合戦だけでなく、婚姻・主従・所領の継承によって武士の勢力図が作られ始めていた。
1031年――「官符」だけでは東国を動かせない時代へ
平忠常の乱は1028年から1031年まで、約3年間続いた。
朝廷は何度も追討官符を出し、追討使を送り、東海・東山・北陸道の諸国まで動員した。
それでも2年以上、忠常を屈服させられなかった。
房総三国は荒廃し、上総では乱後、一時18町しか田が耕作されていないと報告されるほどの惨状となった。
そこで最後に朝廷が頼ったのが、源頼信だった。
頼信と忠常の間にあったのは、中央政府の官職だけではない。
武士同士の主従関係である。
忠常は頼信の前に出ると、戦わずして降伏した。
この瞬間、時代の変化がはっきり見える。
京都から官符を出すだけでは東国を動かせない。
現地の武士を動かすうえで、中央の官職と同じくらい、誰と私的な主従関係を結んでいるかが大きな意味を持ち始めていた。
平忠常の乱を境に、源頼信の家――河内源氏は東国で大きな存在感を持ち始める。
その約30年後には、頼信の子・頼義と孫・義家が前九年の役へ向かう。
そして東国武士と源氏の結びつきは、さらに強くなっていく。
平将門の乱では平氏が東国を揺らした。
平忠常の乱では、その反乱を鎮めた源氏が東国へ根を伸ばした。
そして平忠常の血筋も消えなかった。
忠常の後裔からは、後に千葉氏・上総氏など房総を代表する武士団が成長する。彼らは約150年後、源頼朝の挙兵と鎌倉政権の成立を支える重要な勢力となる。
反乱を起こした平氏の子孫と、その反乱を終わらせた源氏の子孫。
1031年以後、両者は東国で主従関係を深めていく。
平将門の乱から88年。
坂東を揺らした二度目の大反乱は、朝廷の地方支配の弱点を露わにすると同時に、源氏と東国武士が結びついていく時代の入口を作ったのである。
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