第72回
長元元年(1028)、房総で一人の武士が朝廷の追討対象となった。
平忠常(たいらのただつね)である。
忠常は上総・下総に広大な勢力を築き、国司の命令さえ簡単には通らないほどの力を持っていた。安房国守が焼死し、上総国府が制圧されると、朝廷は追討使を派遣する。
ところが、忠常は約3年にわたって抵抗を続けた。
最後に追討使となったのが源頼信である。
すると忠常は戦わなかった。出家し、子息2人と郎党3人を連れて、甲斐にいる頼信のもとへ自ら出頭した。
朝廷軍には抗い続けた男が、なぜ頼信には降ったのか。
その答えを追うと、平忠常という人物だけでなく、11世紀の東国で武士がどのように生き、誰と結びつき、どうやって力を蓄えていったのかまで見えてくる。
そして忠常の物語は、1031年の敗北では終わらない。
その血筋は房総に残り、のちの千葉氏・上総氏へつながる。
約150年後、忠常の子孫たちは源頼朝を支え、鎌倉幕府成立の一翼を担うことになる。
967年――平良文の孫として生まれる
平忠常は康保4年(967)に生まれたとするのが主要な人物辞典の記載である。
父は平忠頼。祖父は平良文。
良文は桓武天皇の曾孫・高望王の子で、坂東へ勢力を広げた桓武平氏の武将である。
系譜をたどると、
桓武天皇
↓
葛原親王
↓
高望王
↓
平良文
↓
平忠頼
↓
平忠常となる。
同じ高望王の子孫には、天慶3年(940)に討たれた平将門がいる(将門についてはこちらの記事で詳しく紹介しています)。
忠常は、将門と同じ桓武平氏から出た東国武士だった。
ただし忠常が生まれたのは将門の死から27年後である。忠常が育った坂東では、将門の乱の記憶を残しながらも、武士たちの勢力関係は次の段階へ進んでいた。
京都から国司が赴任する一方、現地には何代にもわたって土地へ根を張る有力者がいる。彼らは国衙に関わり、土地を経営し、郎党を従え、自前の武力を持っていた。
忠常は、その世界に生まれた。
父・忠頼の時代から続いた「平氏対平氏」
忠常の人生を理解するには、父・忠頼の時代を知っておく必要がある。
坂東の桓武平氏は、一つにまとまっていたわけではない。
良文の系統が武蔵・下総方面へ勢力を広げる一方、平将門を討った平貞盛や、その叔父・弟たちにつながる系統も常陸を中心に力を伸ばしていた。
寛和元年(985)には、忠常の父・平忠頼とその弟・忠光が、貞盛の弟平繁盛と対立している。
『続左丞抄』に残る太政官符によれば、繁盛が大般若経600巻を延暦寺へ奉納しようとした際、忠頼・忠光側との対立が問題となり、追討官符まで出された。
忠常が18歳前後のころである。
つまり忠常は若いころから、坂東では同じ平氏同士でも土地・人脈・勢力圏をめぐって争う現実を見ていた。
この対立は約40年後の平忠常の乱にもつながる。
最初に忠常追討を命じられる平直方は貞盛流の武将である。
忠常と直方の戦いには、朝廷と反乱者という構図だけでなく、良文流と貞盛流の主導権争いも重なっていた。
下総国相馬郡を足場に、上総・下総へ勢力を広げる
忠常は父祖から受け継いだ東国の基盤をさらに拡大した。
『世界大百科事典』は、忠常の父祖伝来の基盤を下総国相馬郡とし、そこから上総・下総・常陸へ所領を広げたとする。
相馬郡は現在の千葉県北西部から茨城県南部にまたがる地域である。
やがて忠常は房総で最有力の武士の一人となった。
上総介、下総権介、武蔵国押領使を務めたと伝えられる。
とくに押領使は、地方の治安維持や武装勢力の取り締まりを担う軍事的な役職である。
ここが忠常という人物の面白いところだ。
後に朝廷から追討される男が、もともとは地方秩序を守る側の役職を持っていた。
忠常は朝廷の地方支配と無縁の山賊ではない。
国衙の仕組みに関わりながら、その仕組みでは押さえきれないほど大きくなった武士なのである。
『今昔物語集』に残った「上総・下総を意のままにする男」
忠常の強大さを生々しく伝えるのが、後世に成立した『今昔物語集』である。
そこでは忠常が多くの私兵を持ち、上総・下総を思うままに動かし、公事を軽んじ、国守の命令にも従わない人物として描かれている。
説話なので細部まで同時代記録として扱うものではない。それでも、忠常が後世まで「国司でも簡単には動かせない大武者」と記憶されたことはよく分かる。
忠常の力を支えたのは武勇だけではない。
土地を持ち、郎党を従え、国衙にも人脈を持ち、地域の有力者と結びつく。
京都の国司は任期が終われば去っていく。
忠常の一族は土地に残り続ける。
この差が、11世紀の東国で大きな政治力になっていた。
忠常の本拠――大友・相馬・大椎に残る伝承
忠常の本拠については、後世さまざまな伝承が生まれた。
千葉県香取郡東庄町の大友、下総国相馬郡、さらに後世の千葉氏と結びつく大椎などである。
千葉市の公式資料では、忠常が大友城などを拠点として上総・下総へ勢力を振るったと紹介されている。
一方、現在残る中世城郭をそのまま忠常時代の館と結びつけられるわけではない。大椎に残る城郭遺構も、考古学的には16世紀後半のものとみられている。
人物編ではここを混ぜないほうがいい。
忠常の時代に確実なのは、一つの城に籠もる領主ではなく、上総・下総の複数地域に勢力を張る広域的な武士だったという点である。
源頼信――忠常の人生を最後に決める男
忠常の生涯で、乱が始まる前から重要だった人物がいる。
源頼信である。
頼信は源満仲の三男。後に河内源氏の祖と位置づけられる武将である。
『今昔物語集』には、頼信が常陸介として東国にいたころの忠常との逸話が残る。
忠常は頼信の命令にも従わないほど勢力を誇っていた。そこで頼信は、息子の頼義らわずかな人数を率いて忠常の館へ向かった。
忠常側は船を隠し、水を渡れないようにした。
ところが頼信側は浅瀬を見つけ、そのまま館へ迫る。
忠常は頼信の胆力に屈し、名簿を差し出して従ったと物語は描く。
名簿とは、自分の名を書いた文書を差し出し、主人への奉仕を誓う行為である。
『今昔物語集』の場面は説話として脚色を含む。一方、『日本大百科全書』も、この説話は乱以前から頼信と忠常の間に主従関係があったことを反映するとみている。
のちに忠常が平直方には抵抗し、頼信には戦わず降伏する背景が、ここにある。
藤原教通とも結びつく――平安武士の「複数の主人」
忠常には、源頼信とは別の中央人脈もあった。
藤原道長の子、藤原教通である。
平安中期の武士は、後世の戦国武将の家臣のように一人の主君だけと結びついていたわけではない。
地方では国衙に関わり、軍事貴族に従い、京都では有力公卿の家人となる。
複数の人間関係を持つことが、土地と地位を守るための現実的な方法だった。
忠常も房総で巨大な勢力を持ちながら、京都との政治的なつながりを必要としていた。
この教通との関係は、1028年に忠常が追討対象となったときにはっきり表れる。
1028年――安房国守の死から、すべてが変わる
長元元年(1028)。忠常は数え62歳だった。
若い血気盛んな武者が突発的に兵を挙げたわけではない。
半世紀近く東国で生き、土地と人脈を築き上げてきた老練な武士が、朝廷の追討対象になったのである。
発端となったのは安房国での事件だった。
安房守惟忠が忠常側の襲撃を受け、焼死する。
さらに忠常側は上総国府を押さえ、上総介県犬養為政側も制圧した。
国府は、その国の政治・徴税を行う行政の中心である。
そこを武力で押さえる意味は大きい。
長元元年6月、朝廷は忠常とその子らの追討を決めた。
ここから約3年に及ぶ平忠常の乱が始まる。
「京都を倒す」反乱ではなかった
忠常の行動を見ると、平将門とは大きな違いがある。
将門は「新皇」を名乗り、自らの政権を東国に作ろうとした。
忠常はそこまで進んでいない。
上総国府を押さえながら、京都の有力公卿へ向かう貢進を通している。さらに郎党を都へ送り、自分の立場を説明し、藤原教通らへ追討停止を求めた。
忠常が求めたのは、京都の天皇に取って代わることではなかった。
地方国司との衝突を、中央の人脈を使って自分に有利な形で終わらせることだったのである。
この感覚は、11世紀の武士を理解するうえで重要だ。
忠常は朝廷の外に新国家を作ろうとした革命家ではない。
朝廷の制度と中央貴族との関係を利用しながら、地方で最大限の自立を保とうとした武士だった。
平直方との戦い――同じ桓武平氏だからこそ譲れない
朝廷が最初の追討使に選んだのが平直方である。
直方も桓武平氏だが、忠常とは系統が違う。
忠常は良文流。
直方は、将門を討った貞盛流である。
忠常の父・忠頼と貞盛の弟・繁盛は985年に対立していた。
つまり忠常と直方の背後には、父祖の代から続く平氏内部の競争があった。
忠常にとって直方へ降ることは、単なる朝廷への降伏ではない。
坂東の平氏内部で、長年争ってきた一族に屈することでもあった。
長元元年(1028)8月、直方らは約200人を率いて京都を出発した。
その後、東国の国司や在地勢力も追討側へ動員される。
それでも忠常は降らなかった。
20~30騎で山へ――大軍同士の決戦ではない戦い
忠常の乱では、後世の合戦のような巨大な一大会戦が記録されているわけではない。
忠常は地の利を生かし、房総の山地へ入りながら抵抗した。
『小右記』には、忠常が20~30騎ほどを率いて「伊志見山」と呼ばれる地域へ入ったことが見える。
現在の千葉県夷隅地方周辺とみる説がある。
国府を占拠したまま正面決戦を待つのではなく、山地へ入り、追討軍をかわしながら勢力を保つ。
長元3年(1030)3月27日には忠常側が再び安房へ進出し、安房守藤原光業は国印と正倉の鍵を残して都へ逃げた。
乱開始から約2年後でも、忠常には国守を任国から追い出す力が残っていた。
勝っているのに、国が死んでいく
直方は忠常を捕らえられない。
忠常も決定的な勝利を得られない。
その間に壊れていったのが、忠常自身の地盤だった。
追討軍は現地で兵糧や物資を徴発する。忠常側も戦争を続けるために人と食料を必要とする。
結果として房総三国は急速に疲弊した。
乱後、上総介藤原辰重が報告した数字は凄まじい。
乱以前、上総国の田は2万2980町余り。
ところが戦乱末期に実際に耕作されていた田は、わずか18町余りだった。
計算上は約0.08%である。
数字をそのまま現代の耕地統計のように扱うことはできない。それでも、当時の朝廷が上総の荒廃を異常な事態として認識していたことは明らかである。
忠常が守ろうとした房総そのものが、長期戦で壊れていった。
1030年――出家して講和へ動く
長元3年(1030)、忠常は戦争を終わらせる方向へ動き始める。
5月20日には、忠常が出家したという情報が京都へ届いた。
同年6月には、追討側から提出された文書にも忠常の講和意思が読み取られた。
一方、平直方も約2年にわたり忠常を捕らえられない。
7月8日、朝廷は直方の召還を決定した。
そして9月、新たな追討使に選ばれた人物がいる。
源頼信。
20年以上前から忠常との関係が伝えられる、あの頼信である。
この人選によって乱の結末は決まった。
1031年――頼信には、一戦もせず降った
長元4年(1031)4月。
忠常は子息2人、郎党3人を伴い、甲斐にいた頼信のもとへ出頭した。
頼信軍と忠常軍の大決戦は起きていない。
約3年間、朝廷側の追討に抗した男が、頼信には戦わずに降った。
理由は一つではない。
房総はすでに疲弊していた。忠常自身も前年から講和を探っていた。
そして頼信は、以前から忠常が従っていた人物だった。
直方に降れば、敵対してきた貞盛流平氏に屈する形になる。
頼信に降れば、以前からの主従関係へ戻る形を取れる。
忠常にとって、戦争を終わらせる相手として頼信は格好の人物だった。
後に頼信は石清水八幡宮への願文で、兵を激しく動かすことも、弓を張ることも、矢を放つこともなく忠常を従わせたという趣旨を誇っている。
頼信が勝ったのは、単に軍勢が強かったからではない。
敵を自分の前へ降らせるだけの威望と主従関係を持っていた。
この成功が、河内源氏の東国での名声を大きく高めた。
出家後の名――「常安」と「昌安」
降伏時の忠常は僧形になっていた。
出家後の名については辞典によって表記が分かれ、「常安」とするものと「昌安」とするものがある。
『世界大百科事典』や『日本人名大辞典』は常安、『日本大百科全書』は昌安と記す。
ここは一つに決めつけるより、史料・辞典上の表記差として押さえるのが正確である。
967年生まれなら、このとき忠常は数え65歳。
上総・下総を動かした老武者は、最後には髪を下ろし、かつての主君のもとへ降った。
1031年6月6日――京都へ着く前に美濃で死去
降伏した忠常は、頼信に伴われて京都へ向かった。
朝廷の裁きを受けるためである。
しかし長元4年(1031)6月6日、忠常は途中の美濃国野上で病死した。
現在の岐阜県関ケ原町周辺にあたる。
享年65。
頼信は忠常の首を携えて進み、6月16日に京都へ入った。
房総で約3年間、朝廷の追討軍を苦しめた男は、都で裁きを受けることなく生涯を終えた。
忠常が死んでも、反乱は「一族滅亡」にならなかった
忠常の死後も、房総には息子たちが残っていた。
史料には常昌・常近らの名が見える。
6月27日には、まだ帰順していない忠常の子らを追討するかどうかが朝廷で議論された。
最終的に一族を根絶やしにする大規模な追討は行われず、忠常の子孫は房総に残った。
ここが平忠常という人物の歴史的な面白さである。
本人は反乱者として死んだ。
しかし父祖以来の土地、人脈、在地社会との結びつきまで消えたわけではない。
子や孫たちは、戦乱で荒廃した房総の再開発を進めながら再び勢力を築いていった。
忠常の子・常将から千葉氏へ
忠常の子孫は、やがて両総平氏と呼ばれる大きな武士団へ成長する。
千葉市の資料では、忠常の子平常将、その子孫の常兼・常重らへと系譜が続き、上総・下総の各地へ勢力を広げたとされる。
大治元年(1126)6月1日、忠常の子・常将の曾孫にあたる千葉常重が千葉へ本拠を移したと伝えられる。
その子が千葉常胤である。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて房総へ逃れると、常胤は頼朝を支持した。
さらに忠常の後裔からは上総氏も成長し、上総広常は頼朝挙兵期に大軍を率いて加わる。
忠常の血筋は、敗北から約150年後、鎌倉幕府を支える東国武士の中心に立っていた。
1031年の降伏が、1180年へつながる
忠常の人生で最も象徴的なのは、最後に源頼信へ降ったことである。
1031年、忠常は頼信へ降伏した。
その約150年後、忠常の子孫である千葉常胤や上総広常は、頼信の子孫である源頼朝を支えた。
頼信から頼義、義家へ。
忠常から房総平氏、千葉氏、上総氏へ。
11世紀に生まれた源氏と東国武士の結びつきが、12世紀の鎌倉政権へつながっていく。
平忠常は、その流れの途中にいた人物である。
平将門のように新皇を名乗ったわけではない。
源頼朝のように新しい武家政権を作ったわけでもない。
それでも忠常の生涯には、後の武士社会を形づくる要素がすでに揃っている。
土地を持つ。
郎党を従える。
国司と争う。
京都の有力貴族と結ぶ。
軍事貴族へ名簿を差し出し、主従関係を作る。
そして朝廷の追討軍を相手に、自分の勢力圏で戦う。
朝廷の地方支配の中から育ち、その支配では簡単に押さえられないほど大きくなった武士。
それが平忠常である。
忠常が死んで20年後の永承6年(1051)、源頼信の子・源頼義と孫・源義家は奥州の前九年の役へ向かう。
源氏と東国武士の結びつきは、さらに強くなっていく。
一方、忠常の子孫も房総で力を取り戻していった。
1031年、美濃で死んだ一人の反乱者の血筋は消えなかった。
その先には、千葉常胤、上総広常、そして源頼朝が生きる武士の時代が待っていたのである。
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