【人物編 Vol.35】藤原隆家――花山法皇襲撃で失脚し、刀伊の入寇で九州を守った「闘う貴族」

人物

第69回



平安貴族と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろう。

華やかな装束をまとい、和歌を詠み、宮中で出世を競う男たち。

藤原隆家も、その世界の頂点に近い家に生まれた男である。

父は関白・藤原道隆。母は漢詩にも通じた才女として知られる高階貴子。姉は一条天皇の中宮となった藤原定子、兄は内大臣まで昇った藤原伊周である。

叔父には、のちに摂関政治の最盛期を築く藤原道長がいる。隆家は、まさに朝廷のど真ん中に生まれた。

ところが、この男の人生は優雅な宮廷貴族という言葉だけでは収まらない。

10代で公卿となった一方、若いころから荒々しい事件の渦中にいた。道長方との対立では従者同士の乱闘が起こり、長徳2年(996)には兄・伊周とともに花山法皇襲撃事件で処分される。

それから23年後の寛仁3年(1019)。

かつて都で騒動の中心にいた男は、九州の大宰府にいた。

海の向こうから50隻余りの武装船団が押し寄せ、対馬、壱岐、そして筑前へ襲来する。

刀伊の入寇である。

このとき大宰権帥として九州防衛の指揮を執った人物こそ、藤原隆家だった。


979年――道隆と高階貴子の子「阿古」

藤原隆家は天元2年(979)、藤原道隆と高階貴子の子として生まれた。

幼名は阿古(あこ)である。

祖父は摂政・関白となった藤原兼家。道隆、道兼、道長らは兼家の子であり、隆家は藤原北家の本流に生まれた。

永祚元年(989)、隆家は11歳で従五位下に叙される。翌正暦元年(990)には父・道隆が摂政となり、その後関白へ進んだ。

父が政権の頂点へ上がるのと歩調を合わせるように、隆家の官位も急上昇する。

正暦5年(994)8月、従三位。数え16歳で公卿に列した。

長徳元年(995)4月には権中納言へ進む。まだ数え17歳である。

姉・定子は一条天皇の中宮であり、その御所には清少納言が仕えていた。『枕草子』に描かれる華やかな定子サロンは、隆家にとって身近な世界だった。

ところが、隆家が権中納言となった同じ月、父・道隆が死去する。

中関白家の絶頂は、突然終わった。

※父・道隆を祖とする一族は、後世「中関白家」と呼ばれる。


父・道隆の死――伊周・隆家兄弟と道長の対立

道隆の死後、政権は大きく動いた。

道隆の弟・道兼が関白となるものの、ほどなく死去。次の主導権をめぐり、道隆の嫡男・伊周と叔父・道長の対立が表面化する。

一条天皇の母・東三条院詮子の支持も受けた道長は右大臣となり、さらに内覧を許された。政権の主導権は道長へ移っていく。

この対立のなかで、隆家の周囲では実力行使まで起きた。

長徳元年(995)7月、七条大路で隆家の従者と道長の従者が乱闘する。さらに8月には道長の随身が殺害される事件が起きた。

政治抗争が、宮廷の外で暴力を伴うところまで激化していたのである。

そして翌996年、兄弟の運命を決定づける事件が起こった。


長徳2年(996)――花山法皇の一行を襲う

長徳2年(996)正月、花山法皇の一行が襲撃された。

事件について後世の『栄花物語』が伝える筋書きはこうである。

伊周は故太政大臣・藤原為光の娘のもとへ通っていた。一方、花山法皇も為光の別の娘のもとへ通っていた。伊周は法皇が自分の通う女性のもとへ来ていると思い、隆家に相談した。

隆家側は法皇の一行を襲撃し、矢を射かけた。『栄花物語』では、放たれた矢が法皇の衣の袖を射抜いたと描かれる。

一方、同時代史料である藤原実資の日記『小右記』には、伊周・隆家と花山法皇側との「闘乱」が起こり、法皇側の童子2人が殺されたという情報も記録されている。

相手は出家した元天皇である。事件は兄弟にとって致命傷となった。

さらに兄弟には、東三条院詮子への呪詛など複数の嫌疑が重なった。

こうして伊周・隆家兄弟が失脚した一連の事件を、長徳の変という。


996年――出雲権守へ左遷

長徳2年(996)4月24日、処分が下った。

兄・伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守へ左遷された。

隆家は数え18歳。わずか2年前には従三位となり、前年には権中納言まで進んだ青年が、一気に都を追われたのである。

隆家は出雲へ向かったものの、病を理由として途中の但馬国にとどまった。

現在の兵庫県北部である。

翌長徳3年(997)3月、東三条院詮子の病気平癒を願って大赦が行われ、4月には伊周・隆家の召還が許された。

隆家は帰京する。

そして長徳4年(998)10月には兵部卿に任じられた。

失脚から復帰までの速さも、隆家の人生の特徴である。


定子と伊周の死――中関白家の後退

隆家自身は官界へ戻ったものの、中関白家の勢力は次第に後退した。

長保2年(1000)、姉・定子が死去する。

寛弘7年(1010)には兄・伊周も37歳で世を去った。

その間、叔父・道長は娘の彰子を一条天皇に入内させ、外戚として権力を固めていく。

隆家はその道長政権下でも官位を回復した。

長保4年(1002)に権中納言へ復帰。寛弘4年(1007)には従二位、寛弘6年(1009)には中納言へ進んだ。

そして長和4年(1015)には正二位となる。

長徳の変で地方へ追われた青年は、再び公卿社会の上層へ戻っていた。

ただし、隆家の官歴は中納言で頭打ちとなる。摂政・関白へ進んだ叔父・道長とは、まったく違う道を歩むことになる。

その隆家を九州へ向かわせた直接のきっかけが、眼病だった。


眼病が人生を変えた――大宰権帥を望んだ隆家

三条天皇の時代、隆家は眼病を患った。

当時、大宰府には宋の商人が来航していた。隆家は宋人の医師から治療を受けるため、自ら大宰府への赴任を望んだと伝えられる。

長和3年(1014)11月7日、隆家は大宰権帥に任じられ、翌1015年に九州へ下った。

大宰府は九州諸国を統轄し、大陸・朝鮮半島との外交や西海道の防衛を担う重要機関である。

隆家が赴任してから4年ほどが過ぎた寛仁3年(1019)、その防衛機能が試される日が来た。


1019年――50隻余りの「刀伊」が襲来

寛仁3年(1019)3月末、異民族の武装船団が対馬へ現れた。

船団は50隻余り。

日本側は彼らを「刀伊」と呼んだ。

「刀伊」は高麗で異民族を指した語に由来するとされ、襲来者は沿海州方面を活動圏とした女真系の集団と考えられている。

刀伊は対馬で住民を殺害し、多数を連れ去った。続いて壱岐へ襲来する。

壱岐では国司の藤原理忠が兵を率いて迎撃し、戦死した。島では僧侶や住民にも大きな被害が出た。

刀伊はさらに筑前へ進み、怡土郡や志摩郡方面を襲撃。博多湾へ迫った。

ここから、隆家の戦いが始まる。


大宰府の総指揮官――九州の武者を動かす

異賊襲来の報を受けた隆家は、中央へ急報すると同時に現地で防衛態勢を整えた。

戦場の最前線で奮戦した者として史料に名が残るのが、大蔵種材、平為賢、藤原友近らである。

隆家は大宰府の官人や九州の武装勢力を指揮し、博多の警固所を中心に防衛線を築いた。

4月、刀伊は博多湾の能古島にも姿を現した。

大宰府軍は警固所周辺などでこれを迎撃し、刀伊を押し返した。

10代のころ都で暴力事件の渦中にいた隆家が、数え41歳となった1019年には、国家の西辺を守る側に立っていたのである。


刀伊を撃退――死者365人、拉致1289人

大蔵種材らの奮戦によって、刀伊は博多湾周辺から退いた。

その後、刀伊船団は朝鮮半島方面へ戻り、高麗軍とも戦った。高麗側は刀伊に連行されていた日本人の一部を救出し、日本へ送り返している。

しかし、日本側が受けた被害は大きかった。

大宰府から朝廷へ報告された数字では、殺害365人、拉致1289人、牛馬380頭、焼失家屋45宇に達した。

死者と拉致された人々だけで1654人である。

刀伊の入寇は、平安中期の日本社会に大きな衝撃を与えた対外襲撃事件となった。


「勅符が届く前に戦った者にも恩賞を」――実資が支えた現場の論理

刀伊撃退後、朝廷では戦功者への恩賞が問題になった。

現地の武者たちは、朝廷から追討を命じる勅符が届く前から戦っている。そこで、正式な命令以前の戦闘を恩賞の対象にするかが議論となった。

ここで隆家と親しかった右大臣・藤原実資が重要な役割を果たす。

実資は、かつて新羅の賊を撃退した先例を挙げ、勅符到着以前に戦った者にも恩賞を与えるべきだと主張した。

現場では、京都から命令が届くのを待っていては間に合わない。

結果として、大蔵種材ら戦功者への恩賞が認められた。

隆家が現地の武力を束ね、実資が都でその功績を評価する論陣を張る。刀伊の入寇は、地方武士の軍事力が国家防衛で大きな役割を果たした事件でもある。


『枕草子』にも登場――隆家と「くらげの骨」

隆家には、戦いや政争とはまったく違う顔も残っている。

姉・定子に仕えた清少納言の『枕草子』には、隆家が登場する有名な場面がある。

隆家は定子のもとで、珍しい扇の骨を手に入れたと得意げに語り、「世にない骨」だという趣旨の話をする。

すると清少納言は機転を利かせ、「それならくらげの骨のようですね」という趣旨で切り返した。

骨のないクラゲを持ち出した洒落である。

隆家はこの返答を面白がり、姉・定子に「これは自分の言葉にしてしまおう」といった調子で喜んだ。

荒々しい逸話が目立つ隆家である一方、定子のサロンでは清少納言との軽妙なやり取りを楽しむ宮廷人でもあった。

この振れ幅も、隆家という人物の面白さである。


1019年12月――九州を去る

寛仁3年(1019)12月、隆家は大宰権帥を辞任した。

翌年には京都へ戻る。

刀伊撃退という大功を立てたものの、それによって大納言や大臣へ昇進することはなかった。

治安3年(1023)には中納言を辞し、その後は大蔵卿などを務めた。

長暦元年(1037)8月には、再び大宰権帥に任じられる。最初の赴任から20年以上が過ぎていた。

長久3年(1042)1月に大宰権帥を辞任。

そして寛徳元年(1044)正月1日、藤原隆家は死去した。

享年66。

数え16歳で公卿となり、18歳で長徳の変によって失脚。

20代で権中納言へ返り咲き、30代半ばで大宰権帥となり、数え41歳で刀伊の入寇に直面した。

藤原道長と同じ藤原北家に生まれながら、隆家が歴史に刻んだ名声は摂政・関白としてのものではない。

若き日は花山法皇襲撃事件で失脚し、壮年期には大宰府で九州の武者たちを指揮した。

その人生の両端には、同じ男とは思えないほど対照的な二つの姿がある。

996年、都で法皇の一行を襲った18歳の青年。

1019年、博多湾へ迫る異賊に対し、大宰府の軍勢を動かした41歳の公卿。

都で名を荒らし、九州で武名を上げた。

藤原隆家は、平安貴族の世界から飛び出すような生涯を送った男である。

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