第77回
1057年11月――頼時を失った安倍氏へ、頼義が迫る
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天喜5年(1057)7月、奥六郡を率いた安倍頼時が死んだ。
頼義の調略によって安倍富忠らが離反し、説得に向かった頼時自身が攻撃を受けて致命傷を負った。安倍氏を束ねてきた盟主が消えた以上、頼義がここを好機と見たのは当然である。
ところが4か月後、壊滅寸前まで追い込まれたのは頼義だった。
11月、頼義は貞任を討つため北へ進む。『陸奥話記』の代表的な本文では、その兵力を1,800余人と記す。写本によって数字に異同があるものの、安倍軍が頼義軍を大きく上回っていた点は共通している。
迎え撃つ貞任は、金為行の河崎柵を拠点とし、精兵4,000余人を集めた。決戦の地は黄海。現在の岩手県一関市藤沢町黄海周辺である。
しかも時は11月。『陸奥話記』は「風雪甚だ励しく、道路艱難」と記す。頼義軍は雪と悪路に苦しみ、兵糧も乏しく、人も馬も疲れ切っていた。一方の安倍軍は土地を知り、休養した馬を使える。
兵数でも、地の利でも、兵の状態でも安倍軍が上だった。
黄海の戦いが始まった。
黄海の戦い――1,800余対4,000余
戦いは一方的になった。
疲れ切った頼義軍へ、貞任の軍勢が襲いかかる。『陸奥話記』は官軍の死者を数百人と記した。隊列は崩れ、兵は四散し、頼義自身の乗馬まで矢を受けて倒れた。
大将が戦場で馬を失う。
藤原景通が別の馬を用意し、頼義を乗せて窮地から救った。その近くでは長男・源義家の馬も矢を受けて倒れ、藤原則明が敵馬を奪って義家に与えている。
このとき義家は1039年生まれ。数え年なら19歳、満年齢では18歳前後である。
『陸奥話記』は、その義家の騎射を「神の如し」とまで称える。敵陣へ入り込み、左右へ駆けながら大きな矢を放ち、射れば必ず敵を倒したという。源氏側の武勲を強く称える軍記の表現ではあるが、黄海で義家が激戦の中心にいたことを伝える印象的な場面である。
それでも戦況は覆らない。
頼義の周囲に残ったのは、義家、藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季、藤原則明の6騎。頼義を加えて、わずか7騎だった。
そこへ安倍軍200余騎が追いつき、左右から包囲する。
義家は敵の指揮を執る者を狙って矢を放ち、残った武者たちも必死に応戦した。頼義はどうにか包囲を脱し、生き延びる。
勝ったのは安倍貞任である。
頼義は兵1,800余を率いて出陣しながら、自分の周囲に6騎しか残らないところまで追い込まれた。前九年の役における最大の敗北だった。
主君のもとへ戻った老武者――佐伯経範
黄海には、佐伯経範という武者の逸話も残る。
『陸奥話記』によれば、経範は頼義に30年仕えてきた老臣だった。敗走の途中で頼義の姿を見失い、「将軍は敵に囲まれ、従う者は数騎しかいない」と聞く。
経範は逃げるのをやめた。
長年仕えた主君が討たれるなら、自分もそこで死ぬ。
数騎を率いて戦場へ引き返し、安倍軍へ突入する。十数人を倒した末、経範らは全員戦死した。
頼義は生き延びていた。それを知らないまま、主君と死ぬために逆走したのである。
この黄海の敗戦は、後に源氏と東国武士との結びつきが語られる際、象徴的な場面となった。
黄海のあと――藤原経清は国府の徴税まで奪う
頼時が死んでも安倍氏は崩れなかった。黄海で頼義軍を破った貞任は主導権を握り、宗任や藤原経清も勢力を広げる。
なかでも経清の動きは大胆だった。
経清は衣川より南へ進出し、国府が官物を徴収するときに用いる「赤符」に対し、自らの「白符」で徴収を進めたと『陸奥話記』は記す。
国府の命令を無視するだけではない。陸奥守が握るべき徴税の仕組みにまで手を伸ばしたのである。
陸奥守である頼義は、これを止められなかった。
頼義は勝てない――出羽の清原氏へ何度も援軍を求める
黄海からの約5年間、頼義は安倍氏を決定的に崩せなかった。
中央へ兵粮や軍兵を求めても、十分な援助は届かない。頼義だけで戦争を終わらせるのは難しかった。
そこで頼義が何度も援軍を求めた相手が、出羽山北地方に大勢力を築いていた清原氏である。中心人物は清原光頼と、その弟・武則だった。
康平5年(1062)春には頼義の陸奥守としての任期も終わり、後任に高階経重が任じられた。ところが『陸奥話記』によれば、経重は陸奥まで下ったものの、現地の人々が前任者の頼義に従っている状況を見て京へ帰ってしまう。
頼義はそのまま戦場に残った。
そして1062年7月、ついに清原氏が動く。
1062年――清原武則、1万余の兵を率いて参戦
清原光頼の弟・清原武則は、子弟と1万余人の兵を率いて陸奥へ入った。頼義も3,000余人を率い、7月26日に国府方面から出発する。
8月9日、両軍は栗原郡営岡で合流した。
『陸奥話記』が描く最後の攻勢では、軍勢は七陣に編成される。頼義自身も一軍を率いたが、清原氏の武将たちが前面に立っている。
ここからの戦争を「源氏が安倍氏を滅ぼした」とだけ見ると実態を外す。
勝敗を変えた最大の要因は、出羽清原氏の参戦である。黄海で1,800余の兵を率いて惨敗した頼義の側に、今度は1万余の大兵力が加わった。
小松柵の戦い――20余人が崖を削って突入する
連合軍が攻めた小松柵は、現在の岩手県一関市周辺に比定される。『陸奥話記』によれば、東南には深い流れ、西北には切り立った岩壁があり、歩兵も騎兵も簡単には取りつけない要害だった。
ここで大伴員季ら20余人が前へ出る。
剣で岸壁を削り、鉾を杖代わりにして岩を登り、柵の下部を破壊して内部へ乱入した。安倍方は混乱する。
すると安倍宗任が800余騎を率いて城外へ出撃。疲れた先陣だけでは押し返せず、頼義側はさらに兵を投入した。『陸奥話記』が「坂東精兵」と称える武者たちもここで戦っている。
宗任軍は崩れ、小松柵は焼かれた。
記録された損害は、安倍方の戦死60余人。頼義・清原連合軍は13人戦死、150人負傷である。
勝った側にも軽くない損害が出た。安倍氏の柵を一つ奪うだけでも、それだけの血が流れたのである。
9月5日――貞任、8,000余の兵で反撃する
大軍を抱えた連合軍には弱点もあった。食料である。
頼義は兵糧を確保するため、各地へ兵を分散させた。『陸奥話記』によれば、栗原郡へ1,000余人、磐井郡仲村方面へ3,000余人を送り、稲を刈らせるなどして軍糧を集めている。
その結果、本陣に残った兵は6,500余人まで減った。
貞任はこの情報をつかんだ。
9月5日、精兵8,000余人を率いて一気に襲来する。数だけなら安倍軍が上回った。
ところが清原武則は、貞任の出撃を好機と見た。安倍氏が柵にこもれば、遠征軍は兵糧不足で苦しむ。逆に大軍を率いて外へ出てくれば、野戦で決着をつけられる。
戦闘は昼から夕方まで続いた。義家、義綱らも前線に立つ。
やがて安倍軍が崩れた。
逃げる兵は川へ殺到し、転落する者、溺れる者、追撃で討たれる者が相次いだ。『陸奥話記』は、道に人馬の死体が続いたと描く。
安倍方の死者は100余人。連合軍は馬300余頭を奪った。
黄海では頼義を追撃した貞任が、今度は北へ退く側になった。
夜襲――武則は貞任を休ませない
武則は追撃を止めない。
精兵800余人を選んで夜間も圧力をかけ、さらに兵を潜入させて安倍方の陣へ火を放たせた。暗闇の中で炎が上がり、複数方向から鬨の声が響く。
安倍軍は混乱し、高梨宿、石坂柵方面を捨てて衣川関へ退いた。
頼義軍が何年も越えられなかった安倍氏の南の防衛線が、数日のうちに迫ってくる。
9月6日、衣川関――30余人が川を渡る
翌9月6日、連合軍は衣川関へ迫った。
衣川は安倍氏の勢力圏を南から守る重要な防衛線である。『陸奥話記』は、道が狭く険しく、木を切り倒して道を塞ぎ、崖を崩して通路まで断っていたと記す。長雨で川も増水していた。
連合軍は三方向から攻める。清原武貞が関道、橘頼貞が上津衣川道、武則が下道を担当した。
未の刻から戌の刻、現在の感覚なら午後から夜まで攻撃が続いた。それでも正面から抜けない。連合軍は9人戦死、80余人負傷の損害を出した。
武則は川岸を見回し、両岸へ張り出した木に目をつける。
命を受けた久清が木の枝を伝って対岸へ渡り、縄と葛を使って30余人を引き渡した。兵たちは安倍方の藤原業親の柵へ忍び寄り、火を放つ。
背後から炎が上がった。
安倍軍は動揺し、衣川関を捨てて鳥海柵へ退く。久清らがこの奇襲で討った安倍方は70余人と『陸奥話記』は記している。
安倍氏の南の扉が破られた。
鳥海柵――頼時が死んだ拠点も放棄する
9月11日、連合軍は鳥海柵へ進んだ。
1057年7月、頼時が重傷を負った末に死んだ安倍氏の重要拠点である。
宗任や藤原経清らはここで決戦せず、鳥海柵を放棄してさらに北へ退いた。
『陸奥話記』には、柵内に酒が数十壺残されていたという妙に生々しい話がある。兵が飲もうとすると、頼義は毒を警戒した。まず少人数に飲ませ、安全を確かめてから兵たちにも飲酒を許したという。
連合軍はその後も北上し、安倍氏の諸柵を落としていく。
最後に残った大拠点が、盛岡の厨川柵だった。
9月15日――厨川柵を包囲する
9月14日、連合軍は厨川柵へ向かい、翌15日の酉の刻、夕方ごろに到着した。
厨川柵と嫗戸柵。『陸奥話記』によれば二つの柵は7~8町ほど離れていた。現在の盛岡市西部一帯が候補地となっているが、11世紀の厨川・嫗戸両柵の位置は現在も研究が続いている。
『陸奥話記』が描く防御は凄まじい。
西北には大きな沢があり、二面は川に囲まれる。川岸は3丈余、約9~10メートルの断崖。そこへ柵を築き、上には楼櫓を設けて精兵を置いた。
川と柵の間には堀を掘り、その底には刃を逆さに立てる。地上には鉄菱をまき、遠くの敵には矢、近づけば石、柵下まで来れば熱湯と刀で迎え撃つ。
15日の夜、連合軍は二つの柵を包囲した。
翌16日、卯の刻、日の出ごろから総攻撃が始まる。
矢と石が飛び交い、攻撃は終日、さらに夜まで続いた。それでも落ちない。
『陸奥話記』は、この一日だけで頼義側の死者が数百人に達したと記している。
安倍氏最後の砦は、それまで落としてきた柵とは比べものにならない堅さだった。
9月17日――頼義、火で厨川柵を落とす
翌17日、頼義は正面攻撃を続けるのをやめた。
周辺の村落から建物を壊して木材を運ばせ、大量の萱を刈らせる。それを川岸や堀に投入し、火を放った。
『陸奥話記』は、頼義が八幡神へ祈ると風が起こり、火が柵へ燃え移ったと劇的に描く。源氏の八幡信仰を強く意識した記述である。
炎は柵へ広がった。
中には兵だけでなく、多くの男女がいた。逃げようとして川へ飛び込む者、炎の中から飛び出す者、連合軍に討たれる者が続く。
それでも安倍方の数百人は甲冑を着け、刀を抜いて包囲へ突撃した。
ここで清原武則は、あえて包囲の一部を開かせた。
出口ができたと見た安倍軍がそこへ集中する。その側面を連合軍が襲った。
火と包囲と追撃。
厨川柵の防衛線は、ついに崩れた。
安倍貞任、34歳――厨川柵で死す
厨川柵が崩れるなか、安倍貞任も最後まで戦った。
『陸奥話記』では、貞任は刀を抜いて戦い、深手を負った状態で捕らえられ、頼義の前へ引き出されたのちに死んだとされる。享年は34歳。
1057年の黄海で頼義軍を壊滅させた男は、5年後の1062年9月17日、厨川柵で生涯を終えた。
貞任には後世、有名な歌の逸話が加わる。
衣川で義家に追われた際、義家が、
「衣のたてはほころびにけり」
と呼びかけると、逃げていた貞任が、
「年を経し糸のみだれの苦しさに」
と即座に上の句を返したという話である。
義家はその見事さに感じ入り、矢を放つのをやめたという。
この歌問答は『陸奥話記』にはなく、後世の『古今著聞集』などに伝わった逸話である。
同時代の戦闘記録とは別の伝承だが、貞任が後世に単なる敗者ではなく、武勇と教養を備えた敵将として語られていったことがよく分かる。
藤原経清――頼義が鈍刀で処刑させた男
藤原経清も捕らえられた。
かつて頼義の軍にいたにもかかわらず安倍氏へ離反し、その後は国府の赤符に対抗して白符で官物を徴収した人物である。
『陸奥話記』では、頼義が経清を前にして白符の件まで持ち出し、痛烈に責めたとする。
そして経清は処刑された。
その方法が苛烈である。『陸奥話記』は、頼義が鈍刀を使って経清の首を斬らせたと記す。通常の斬首より苦痛の大きい方法をあえて選んだという描写であり、軍記が頼義の経清に対する強い怒りを伝える場面である。
しかし経清の血筋はここで終わらない。
息子の藤原清衡が生き残った。
清衡はこのとき7歳ほど。母とともに清原氏の家へ入り、後に清原氏内部の争いである後三年合戦を生き抜く。そして平泉を築き、奥州藤原氏の初代となる。
父を頼義に処刑された少年が、約20数年後には奥州の覇者へ向かって歩き始めるのである。
宗任は生き残った――安倍氏の戦争は終わる
貞任の弟・宗任、家任らは厨川柵陥落後も生き残り、のちに降伏した。
1063年、頼義は戦功によって伊予守、義家は出羽守となり、清原武則は鎮守府将軍に任じられる。安倍氏を倒す決定打を与えた清原氏は、奥州でさらに大きな存在となった。
宗任らの処遇が決まるのは康平7年(1064)である。3月29日の太政官符では、宗任らと従者を頼義の任国である伊予国へ移すことが命じられた。のちに宗任らの一部はさらに大宰府方面へ移されていく。
1051年の鬼切部から数えれば12年。後世「前九年の役」「前九年合戦」と呼ばれる戦争は、1062年9月17日の厨川柵陥落によって決着した。
ここで奥州の主役が入れ替わる。
安倍氏に代わって勢力を広げるのは清原氏。その清原氏の家中には、藤原経清の遺児・清衡がいる。
そして黄海で父とともに死線を越えた源義家も、やがて陸奥へ戻ってくる。
永保3年(1083)、義家は陸奥守として再び奥州へ入った。
安倍氏を倒した清原氏の内部では、すでに一族同士の争いが始まっていた。
前九年の役の勝者たちが、今度は敵味方に分かれる。
後三年合戦である。



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