【人物編Vol.42】清原武則――1万余の兵を率い、前九年の役を終わらせた出羽の実力者

人物

第81回



1062年――源頼義の前に、1万余の軍勢が現れた

康平5年(1062)。

前九年の役が始まってから12年目。

源頼義は、まだ安倍氏を倒せずにいた。

5年前の黄海では安倍貞任に大敗し、自分を含めてわずか7騎ほどまで追い詰められた。その後も決定的な勝利を挙げられず、陸奥守としての任期まで終わっている。

その頼義の前に、ついに大軍が現れた。

1万余人。

率いてきた男は源氏ではない。

出羽山北の俘囚主、清原武則である。

頼義が集めた兵は3,000余人。

武則が連れてきた兵は、その3倍を超えた。

そして清原軍が参戦すると、それまで何年も動かなかった戦況が一気に変わる。

8月、小松柵。9月、衣川関。鳥海柵。そして厨川柵。

わずか2か月ほどで安倍氏の防衛線は次々と崩れ、9月17日、安倍貞任は死んだ。

「前九年の役を勝った源氏」という印象は強い。

しかし最後の2か月だけを見れば、この戦争の流れを変えた最大の存在は清原氏である。

その軍勢を率いた男こそ、清原武則だった。

出羽山北の清原氏――武則はどこから来たのか

清原武則の生年は分かっていない。

前半生についても、詳しい記録は残っていない。

はっきりしているのは、武則が出羽山北の俘囚主・清原光頼の弟だったことである。

山北とは、出羽国北部の地域を指す。

清原氏の本拠を考えるうえで重要なのが、現在の秋田県横手盆地を中心とする仙北地方である。

兄の清原光頼は、この地域に大きな勢力を築いていた。

清原氏には天武天皇の皇子・舎人親王につながる系図も伝わる。しかし、11世紀の清原氏は出羽山北に根を張った在地豪族・俘囚主として捉えるのが基本である。

そして武則は、その巨大な清原一族の軍事を担った人物として歴史の表舞台に現れる。

なぜ頼義は清原氏を必要としたのか

源頼義が最初から清原氏と組んでいたわけではない。

むしろ、頼義は追い詰められた末に清原氏を頼った。

天喜5年(1057)11月。

頼義は黄海の戦いで安倍貞任に惨敗した。

その後も安倍氏の勢いは止まらない。

藤原経清は国府側の徴税文書である「赤符」に対抗して「白符」を使い、官物の徴収にまで手を伸ばした。

頼義は援軍を求めた。

ところが中央から十分な兵は来ない。

そこで目を向けたのが、陸奥の西側、出羽に巨大な軍事力を持つ清原氏だった。

兄・光頼。そして弟・武則。

頼義はこの兄弟に何度も働きかけた。

『陸奥話記』では、頼義が珍しい品々を贈るなどして清原氏の協力を求め続けたことが語られている。

すぐには動かなかった。

清原氏から見れば当然である。

安倍氏は隣接する奥六郡の巨大勢力だった。

頼義と安倍氏の戦争に入れば、一族を挙げた大戦になる。

どちらが勝つか分からない段階で、簡単に兵を出す理由はなかった。

横手市の解説でも、清原氏は頼義からの協力要請を長く受けながら慎重な態度を取っていたことが紹介されている。

頼義は何度も贈り物をした――清原氏が動くまで

頼義の働きかけは一度では終わらなかった。

『陸奥話記』は、頼義が光頼・武則兄弟へ「甘言」を尽くし、さらに珍しい品々を繰り返し贈ったと記している。それでも清原氏はすぐには参戦を決めず、長く態度を保留した。

頼義にとっては、それでも頼み続けるしかない。黄海で大敗して以降、自前の兵力だけでは安倍氏を崩せなかったからである。

康平5年(1062)7月、ようやく清原氏が動いた。

兄・光頼は弟の清原武則を送り出す。

武則が率いたのは、子弟を含む1万余人の軍勢だった。

頼義が何年も待ち続けた援軍が、ついに陸奥へ入ったのである。

頼義3,000余、武則1万余――主客が逆転するほどの兵力

1062年7月26日。

頼義は3,000余人を率いて国府を出発した。

8月9日、栗原郡営岡で武則と合流する。

すでにそこには清原軍が待っていた。

1万余人。

単純に合わせれば1万3,000余人。

もちろん中世以前の軍記に出る兵数は、そのまま近代的な軍籍簿の数字として扱うものではない。

それでも、『陸奥話記』が頼義軍3,000余、清原軍1万余と明確に書き分けている意味は大きい。

頼義の軍より、武則の軍の方がはるかに大きかったのである。

そして武則は、ただ兵を貸したのではない。

自分自身が戦場へ出た。

七つの陣――武則は「一族ごと」戦争へ来た

8月16日。

頼義・武則連合軍は軍勢を七陣に分けた。

ここを見ると、清原氏の規模がよく分かる。

第一陣は清原武貞。武則の子である。

第二陣は橘貞頼。

第三陣は吉彦秀武。

第四陣は橘頼貞。

第五陣には源頼義、清原武則、陸奥国の官人たちが入った。

第六陣は吉美候武忠。

第七陣は清原武道。

武則本人だけではない。

子や親族、清原氏と結びついた出羽の有力者たちが軍を率いている。

つまり頼義が手に入れたのは「武則という武将一人」ではなかった。

出羽山北に築かれた清原氏の軍事ネットワークそのものだった。

「命を惜しまない」――武則が軍勢の前で誓った言葉

『陸奥話記』は、出陣前の武則を印象的に描く。

武則は都の方向へ向かって拝礼した。

そして天地と八幡神に誓う。

自分は子弟を率いて将軍の命に応じた。

節義を守るために来た。

命を惜しんで戦わなければ、神罰を受けてもかまわない。

そういう趣旨の誓いである。

軍記らしい劇的な場面ではある。

しかし、清原氏にとってこの参戦が軽い援軍ではなかったことはよく伝わる。

一族の兵1万余を動かした以上、中途半端なところで帰るわけにはいかない。

武則は、安倍氏を倒すところまで戦うつもりで来ていた。

8月17日、小松柵――「今日は攻めない」という空気を武則が変えた

最初の大きな戦場が小松柵である。

現在の岩手県一関市周辺。

翌8月17日、連合軍は小松柵から五町余り離れた萩の馬場まで進んだ。

ところが到着した時間が遅く、そのうえ日取りもよくない。

頼義側には、この日は本格攻撃を行わない空気があった。

ところが偵察中の兵が安倍側と接触し、戦闘が始まってしまう。

ここで武則が動く。

『陸奥話記』では、頼義が武則へ意見を求めた際、武則は敵の攻撃を受けて兵たちの怒りが高まっている以上、今こそ攻めるべきだという趣旨を答えている。

予定を守って翌日まで待つのではない。

兵の感情と戦場の勢いを見て、その場で攻撃へ切り替える。

武則は、兵を率いて小松柵を包囲した。

20余人が崖を登る――小松柵攻略

小松柵は天然の要害だった。

東南には深い流れ。西北には岩壁。

騎兵も歩兵も簡単には近づけない。

そこで大伴員季ら20余人が動く。

剣で崖を削り、武器を支えにして岩場を登った。

そして柵へ取りつき、内部へ突入する。

安倍方は混乱した。そこへ安倍宗任が800余騎を率いて城外へ出撃する。

疲れた先陣が押される。

連合軍は頼義直属の坂東武者まで投入した。

激戦の末、宗任軍は敗れた。小松柵は焼けた。

この戦いで『陸奥話記』が記す損害は、安倍方の戦死60余人。

連合軍は13人が戦死、150人が負傷した。

勝った側にも相当な被害が出ている。

そして前九年の役終盤は、ここから急速に動き始める。

1万余の大軍が抱えた弱点――兵糧不足

1万余の援軍は戦況を変えた。一方で、大軍を動かせば兵糧の消費も一気に増える。

しかも奥州では長雨が続いた。

頼義・武則軍は兵糧不足に苦しみ、兵を各地へ送り、稲を刈らせて食料を集めた。

そのため本陣の兵力が減った。

安倍貞任はそこを狙う。

9月5日、貞任は8,000余人を率いて攻撃に出た。

頼義側の本陣に残っていたのは6,500余人。

兵数では安倍軍が上である。

普通なら危機である。

ところが武則は、貞任が出てきたことを喜んだ。

「出てきてくれた」――武則は貞任の攻撃を好機と見た

なぜ喜んだのか。

安倍軍が堅い柵に籠もっている限り、困るのは攻める側である。

遠征軍は兵糧を消費する。

雨が降る。補給路も長い。

時間が経つほど頼義・武則側が苦しくなる。

しかし貞任が大軍を率いて平地へ出れば、要害に守られていない状態で決戦できる。

武則はそこを見た。

9月5日、両軍は激突する。

戦いは昼から夕方まで続いた。源義家、義綱も戦場に立った。

そして安倍軍が崩れる。

逃げる兵は川へ殺到した。

川へ落ちる者。溺れる者。追撃される者。

『陸奥話記』は、逃走路に人馬の死体が続いた光景を描く。

安倍方の死者は100余人。

頼義・武則軍は馬300余頭を奪った。

黄海以来、頼義を苦しめ続けた貞任の軍が、ここで大きく崩れた。

勝っても止まらない――武則は夜の追撃へ移る

武則は勝ったところで攻勢を止めなかった。逃げる敵に、陣を立て直す時間を与えなかったのである。

武則は精兵800余人を選び、夜の追撃へ出した。

さらに兵を潜入させ、安倍軍の陣へ火を放つ。

夜の暗闇。突然上がる炎。複数方向から響く鬨の声。

混乱した安倍軍は、高梨宿や石坂柵方面を捨てて北へ退く。

武則は、勝った直後に攻勢を止めなかった。

安倍氏が再び柵へ入り、防御を整える前に追い続けたのである。

この追撃によって、安倍軍は防衛線を立て直す余裕を失っていく。

9月6日――衣川関を三方向から攻める

翌9月6日。

頼義・武則軍は衣川関へ迫った。

安倍氏の本拠・奥六郡へ入る南の扉である。

道は険しい。

木を倒して通路を塞ぐ。

崖を崩す。長雨で川も増水していた。

連合軍は三方向に分かれた。

武則の子・清原武貞が関道。

橘頼貞が上津衣川道。

そして武則自身が下道を受け持つ。

午後から夜まで攻撃しても抜けない。

頼義・武則軍は9人戦死、80余人負傷の損害を出した。

正面突破は難しい。そこで武則は川岸を調べた。

目についたのが、両岸へ伸びる木だった。

30余人を川向こうへ――衣川を破った奇襲

武則は兵を対岸へ渡らせる。

最初に久清が木を伝って川を越えた。

さらに縄や葛を使い、30余人が続く。

少人数の兵は安倍方の背後へ回った。

そして藤原業親が守る柵へ火を放つ。

正面では頼義・武則軍が攻めている。

その最中に背後から炎が上がる。

安倍軍は崩れた。

この奇襲で討たれた安倍方は70余人と『陸奥話記』は記す。

貞任らは衣川を捨て、鳥海柵へ退いた。

何年も頼義を阻んできた奥六郡南端の防衛線が、清原氏参戦から1か月もたたないうちに突破されたのである。

鳥海柵――頼義が認めた武則の働き

9月11日。

軍勢は鳥海柵へ進んだ。

安倍頼時が5年前に息を引き取った重要拠点である。

しかし安倍宗任や藤原経清らは、ここでは戦わなかった。

柵を捨て、さらに北へ退いた。

鳥海柵には酒が数十壺残されていた。

『陸奥話記』によれば、頼義は毒を警戒してすぐには兵に飲ませず、安全を確認してから酒を許している。

ここで頼義は武則に、長年名だけを聞いていた鳥海柵へ今日初めて入れたのは「卿の忠節」によるものだ、という趣旨の言葉をかけた。武則は功を頼義へ譲ろうとしたが、頼義は武則が子弟を率いて堅陣を破ってきた働きを改めて称えている。

『陸奥話記』の中でも、頼義が武則の戦功を直接認める印象的な場面である。

最後の要塞――厨川柵

安倍氏が最後に集まったのが厨川柵である。

現在の盛岡市西部付近。

厨川柵と嫗戸柵は近接しており、『陸奥話記』では二つの柵が7~8町ほど離れていたとする。

防御は強固だった。

川。断崖。堀。柵。櫓。

そして弓矢、石、熱湯。

9月15日、頼義・武則軍は厨川・嫗戸両柵を包囲した。

16日、朝から総攻撃を開始する。しかし落ちない。

『陸奥話記』は、この日の頼義側の死者を数百人と記す。

1万余の清原軍を加えても、正面攻撃だけでは落とせなかった。

9月17日――厨川柵、炎上

翌17日、攻め方が変わった。

周辺から木材と萱を集め、火を放つ。

『陸奥話記』では、頼義が八幡神へ祈ると風が起こり、炎が柵へ燃え移ったと描く。

火は櫓へ広がった。

柵内から人々が飛び出す。

それでも数百人の安倍方が甲冑を着け、刀を手に包囲を突破しようとした。

ここで武則が一つの命令を出す。

包囲の一部を開ける。

逃げ道を作ったのである。出口を見た兵が殺到する。

そこを連合軍が側面から襲った。

敵を完全に囲んで最後まで抵抗させるのではなく、逃げ口を作って陣形を崩し、出てきたところを討つ。

厨川柵の防衛は崩壊した。

安倍貞任は深手を負って捕らえられ、頼義の前で死んだ。

享年34。

藤原経清も捕らえられ、処刑された。

前九年の役は、ここで決着した。

合流から39日――戦線は厨川まで北上した

数字だけを並べると、武則参戦の衝撃がよく分かる。

1057年11月、頼義は黄海で大敗。

そこから1062年まで、およそ5年間、安倍氏を倒せなかった。

1062年7月、武則が1万余人を率いて参戦。

8月9日、頼義と合流。

8月17日、小松柵攻略。

9月5日、貞任8,000余を撃破。

9月6日、衣川関突破。

9月11日、鳥海柵へ。

9月17日、厨川柵陥落。

合流から厨川柵陥落まで39日。

合流から厨川柵陥落まで39日。頼義が黄海以後およそ5年間崩せなかった戦線は、一気に盛岡付近まで北上した。

頼義が率いた坂東武士、陸奥国府の軍勢、そして武則が連れてきた1万余の清原軍。その中でも、清原氏の参戦が戦局を決定的に変えたことは、『陸奥話記』の戦闘経過からもはっきり読み取れる。

1063年――武則、鎮守府将軍になる

康平6年(1063)2月27日。

前九年合戦の論功行賞が行われた。

源頼義は正四位下に昇叙され、伊予守となった。

源義家は出羽守。義綱は左衛門尉。

そして清原武則にも大きな恩賞が与えられる。

従五位下。そして、鎮守府将軍。

鎮守府将軍は、陸奥北部の軍事を担う重要な官職である。

かつて坂上田村麻呂らが務めた職でもある。

出羽山北の俘囚主だった武則は、前九年合戦の戦功によって、朝廷から東北軍事の責任者として認められる位置まで登った。『百錬抄』にも、1063年2月27日に武則が昇叙され、鎮守府将軍に任じられたことが記されている。

安倍氏が消えた奥六郡――そこへ入ったのは清原氏

戦後、清原氏は安倍氏の旧勢力圏だった奥六郡へ力を伸ばした。

それまでの地盤は出羽国の雄勝・平鹿・仙北三郡を中心とする山北地方である。そこへ奥六郡が加わり、清原氏は陸奥・出羽にまたがる奥羽最大級の勢力へ成長した。

前九年合戦は、安倍氏を滅ぼしただけの戦争ではない。奥州の主役を安倍氏から清原氏へ入れ替えた戦争でもあった。

敵将・藤原経清の妻と子も、清原家へ入った

戦後の清原氏を語るうえで、もう一つ重要な出来事がある。

厨川柵で処刑された藤原経清には妻と幼い息子がいた。

妻は安倍頼時の娘。

息子は藤原清衡。清衡は当時7歳ほどである。

経清の妻は、武則の子・清原武貞と再婚した。

そのため清衡は、清原家の中で育つことになる。

自分の父を倒した側の一族へ、敗者の子が入ったのである。

そして武貞と頼時の娘の間には、清原家衡が生まれる。

武貞の家では、藤原経清の子・清衡と、武貞の実子・家衡が異父兄弟として育つことになる。

この二人の関係が、20年以上後の奥州を大きく揺らす。

武則の死――いつ亡くなったのか

清原武則の没年は分かっていない。

ここは無理に年を入れられない。

確かなのは、前九年合戦のあと、武則自身が後三年合戦の戦場には登場しないことである。

後三年合戦が始まるのは永保3年(1083)。そこに現れるのは、武則の子・武貞や武衡、その後の真衡・家衡、そして清原家で育った藤原清衡ら、武則より後の世代である。

前九年合戦で武則が押し広げた清原氏の勢力を、次の世代が受け継いだ。

ところが、あまりに大きくなった一族は内部から割れていく。

「その弓を見せてくれ」――武則が驚いた義家の強弓

『陸奥話記』には、前九年合戦後の武則と源義家の間に興味深い話が残る。

武則は義家に、その弓の威力を試してみたいと申し出た。

『陸奥話記』では、堅い甲冑を重ねて木に掛け、義家に射させたところ、矢は甲を貫いた。武則はその強弓を見て、義家を「神明の変化」とまで称えて驚嘆したという。

黄海以来、源義家の弓の腕は『陸奥話記』の中で繰り返し称えられている。

しかし武則自身も、1万余の兵を率いて安倍氏を追い詰めた歴戦の武将である。

その武則が若い義家の弓を見て感嘆する。

源氏の武勇を称える軍記的な表現ではあるが、前九年合戦を勝利へ導いた老練な武則が、若い義家の武勇を認める場面として印象深い。

武則の勝利が、次の戦争の舞台を作った

1062年、武則は1万余の兵を率いて頼義軍に加わり、39日後には安倍氏最後の厨川柵を落とした。翌年には従五位下・鎮守府将軍となり、清原氏の勢力は出羽山北から奥六郡へ広がる。

その清原家には、父・藤原経清を厨川で失った清衡も入った。武則の子・武貞のもとで、清衡と家衡は異父兄弟として育つ。

武則の没年は分からない。後三年合戦が始まる1083年には、武則自身は史料の表舞台から姿を消している。

残ったのは、前九年合戦の勝利によって巨大化した清原氏だった。

やがてその家中で、真衡、清衡、家衡、武衡らが敵味方に分かれる。そして陸奥守として奥州へ戻ってくるのが、武則が強弓に驚いた源義家である。

武則が終わらせた戦争の勝者たちは、およそ20年後、今度は同じ清原一族の内部で刃を向け合う。

後三年合戦である。

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