【戦い・事件編】前九年の役・前編――なぜ安倍頼時は源頼義と戦ったのか? 奥六郡の支配者、その最期

戦い・事件

第76回



1057年――奥六郡の支配者、鳥海柵で死す

天喜5年(1057)7月。

傷ついた一人の男が、鳥海柵へ運び込まれた。

安倍頼時。

現在の岩手県内陸部に広がる奥六郡を率い、6年前には朝廷側の軍勢を鬼切部で破った男である。

頼時を追い詰めたのは、源頼義との正面決戦ではなかった。頼義の調略によって北方の有力者が離反し、頼時はその切り崩しを止めるため、自ら説得に向かった。その途上で攻撃を受け、深手を負ったのである。

鬼切部では勝った。それでも最後は、自分が束ねてきた勢力の亀裂から崩れた。

なぜ奥六郡の盟主は、そこまで追い込まれたのか。

話は6年前、永承6年(1051)へ戻る。

奥六郡とは何だったのか――朝廷の北辺に生まれた巨大勢力

前九年の役を理解するには、まず「奥六郡」を知っておきたい。

奥六郡とは、陸奥国の胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波(紫波)・岩手の六郡である。現在の岩手県内陸部、北上川流域を中心とする広大な地域にあたる。

平安時代初期、朝廷は坂上田村麻呂らの遠征によって東北支配を北へ広げ、胆沢城などの拠点を築いた。それから約250年。11世紀になると、この地域で圧倒的な存在感を持つようになったのが安倍氏である。

安倍氏は奥六郡に複数の「柵」を構え、現地の俘囚たちを束ねていた。柵とは単なる砦ではない。居館、防御施設、地域支配の拠点という性格を併せ持つ施設である。

一方、陸奥国を統治する国府は多賀城、現在の宮城県多賀城市に置かれていた。安倍氏の本拠地から見れば南方にある。

つまり奥六郡は陸奥国の行政区画でありながら、現地社会では安倍氏が強大な支配力を握っていたのである。

この二重構造が、やがて国府と安倍氏を衝突させる。

安倍頼良――奥六郡を率いた男

このころの頼時は、まだ「頼時」ではない。

名を安倍頼良(よりよし)という。

安倍氏の出自は諸説ある。確かなのは、11世紀半ばまでに奥六郡を束ねる有力者へ成長し、頼良の代には奥六郡南端の衣川を越えて南へ勢力を広げていたことである。

前九年の役を伝える代表的な軍記『陸奥話記』は、頼良を奥六郡の「俘囚の長」として描く。祖父の代から武威を振るい、頼良の代には国府へ納めるべき租税を納めず、衣川以南へ進出したと記す。

『陸奥話記』は源頼義・義家父子を中心に戦いを描いた史料である。その視点を踏まえて読む必要はあるものの、頼良の時代に安倍氏と国府の対立が限界まで高まっていたことは確かである。

その緊張が、ついに戦争へ変わった。

1051年――藤原登任、安倍氏討伐へ

永承6年(1051)、陸奥守・藤原登任が動いた。

登任は数千の兵を集め、安倍頼良を攻撃する。さらに出羽側から秋田城介・平重成が加わり、先鋒を務めた。名は史料によって「繁成」とも記される。

前九年の役は、最初から「源氏対安倍氏」で始まった戦争ではない。開戦時の陸奥守は藤原登任であり、源氏が登場するのは国司軍が敗れた後である。

鬼切部の戦い――数千の国司軍が敗走する

両軍が激突したのが、玉造郡鬼切部である。

現在の宮城県大崎市鳴子温泉周辺に比定される。

藤原登任は数千の軍勢を率いて北上した。平重成が先鋒となり、登任自身が後軍を率いる。迎え撃つ安倍頼良は、奥六郡の兵を集めた。

『陸奥話記』が伝える戦いは凄惨である。

安倍軍は鬼切部で国司軍を撃破した。登任軍には多数の死者が出て、軍勢は敗走する。

数千の兵を動員した国司軍を正面から破った。この一戦で、安倍氏の軍事力ははっきり示された。

そして朝廷は、藤原登任を更迭する。

代わって陸奥へ送り込まれた人物こそ、河内源氏の武将・源頼義だった。

朝廷が送り込んだ男――源頼義

源頼義は、この時点ですでに東国で名を知られた河内源氏の武将である。

父は源頼信。

坂東を震撼させた平忠常の乱を収束させ、東国武士との結びつきを強めた人物である。頼義はその頼信の嫡男として武門の地盤を受け継いだ。

頼義自身も弓馬に優れ、父から東国武士との結びつきを受け継いでいた。鬼切部で国司軍が大敗した直後の陸奥に送り込まれたのは、朝廷が軍事力を期待したからである。

頼信が坂東で築いた武威を、今度は息子の頼義が奥州へ持ち込むことになる。

ところが、頼義が陸奥へ入ると、意外なことが起きた。

安倍頼良が従ったのである。

安倍頼良は、なぜ源頼義には従ったのか

鬼切部で勝った安倍氏と、新任の陸奥守・源頼義。しかし戦争はいったん止まる。

永承7年(1052)、上東門院彰子の病気平癒に伴って大赦が行われ、安倍氏も赦免の対象となった。彰子は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮、後一条・後朱雀両天皇の母である。

頼良は新任の頼義に恭順し、頼義に従う姿勢を示した。

『陸奥話記』は、ここで頼良が自分の名を改めたという印象的な逸話を伝えている。

「頼良」と「頼義」は、ともに「よりよし」と読む。

陸奥守と同じ読みの名を名乗ることをはばかり、頼良は「頼時」と改名したのである。

ここから、安倍頼時の名が歴史の表舞台に現れる。

鬼切部で朝廷側を破った男が、新しい陸奥守には礼を尽くし、自分の名まで変えた。頼時は頼義との関係を修復する道を選んだのである。

戦争は一度、終わったように見えた。

1053年――頼義、鎮守府将軍を兼ねる

天喜元年(1053)、源頼義は陸奥守に加えて鎮守府将軍を兼ねた。陸奥守と鎮守府将軍を同時に務める異例の人事である。

ここで二つの拠点を整理しておこう。

陸奥国府が置かれたのは多賀城である。陸奥国全体の行政を担う中心地だった。

一方、鎮守府の拠点は胆沢城。現在の岩手県奥州市にあり、奥六郡の南部に食い込む位置にあった。

頼義は多賀城の国府を預かる陸奥守であると同時に、胆沢城を拠点に北辺の軍事を担う鎮守府将軍となった。行政と軍事の両面から安倍氏と向き合う立場に立ったのである。

それでも、しばらく大きな戦闘は起きなかった。

約4年間の平穏――戦争はこのまま終わるはずだった

1052年の大赦から1056年まで、安倍氏と頼義の間で大規模な戦闘は確認できない。

頼時は奥六郡で勢力を保ち、頼義は陸奥守として任期を過ごした。

そして天喜4年(1056)、頼義の陸奥守としての任期が終わろうとしていた。

このまま頼義が陸奥を去れば、鬼切部から始まった争いは再燃せずに終わるはずだった。

ところが帰還の途中、一つの事件が起きた。

前九年の役を泥沼の戦争へ変えた「阿久利川事件」である。

1056年――阿久利川事件

天喜4年(1056)、頼義は胆沢城から多賀城方面へ戻る途中、阿久利川付近で野営した。

その夜、事件が起きる。

頼義の配下である藤原光貞・元貞らの陣営が何者かに襲われ、人や馬が殺傷された。

ここから疑いは急速に安倍氏へ向かう。

『陸奥話記』によれば、光貞は以前、安倍頼時の子・貞任から自分の妹との結婚を求められ、それを断っていた。光貞は今回の襲撃を、その恨みによるものだと訴えた。

疑いを向けられたのが、安倍貞任である。

頼義は頼時に対し、貞任を差し出すよう要求した。

頼時は拒否した。

貞任が襲撃を実行したと断定できる史料はない。『陸奥話記』が伝えるのは、光貞が貞任を名指しし、頼義がその訴えを受けて貞任の引き渡しを要求したという経緯である。

それでも、この疑惑が歴史を動かした。

頼時の決断――「息子を差し出すくらいなら戦う」

ここで頼時は大きな決断を下す。

頼義に従い、名まで改めてから約4年。

その頼義の要求を拒み、息子・貞任を守った。

『陸奥話記』は頼時の言葉として、親子の情は人の本性であり、貞任が愚かであっても父子の情は捨てられない、という趣旨を伝えている。

頼時にとって貞任を差し出すことは、父として息子を見捨てるだけでは済まない。奥六郡の頂点に立つ首長が、嫌疑を受けた一族を国司の要求だけで引き渡せば、配下に対する威信まで揺らぐ。家族を守る感情と、盟主としての政治的立場は重なっていた。

頼時は衣川方面の守りを固め、再び頼義と戦う道を選ぶ。

前九年の役が、本格的に再開した。

頼義軍の中でも崩れ始める――平永衡殺害

ところが、再戦直後から頼義軍にも亀裂が走る。

その中心にいたのが平永衡である。

永衡は安倍頼時の娘婿だった。しかしこのときは頼義側についていた。

『陸奥話記』によれば、頼義軍が進軍する途中、永衡が銀の兜を着けていたことなどから、頼義は敵へ合図を送っているのではないかと疑った。

そして永衡を殺害する。

陣中にいたもう一人の頼時の娘婿は、この光景を見ていた。

藤原経清である。

藤原経清、安倍氏へ走る

藤原経清も安倍頼時の娘婿である。永衡が内通を疑われて殺された以上、自分にも同じ疑いが向く。経清は頼義の陣営を離れ、安倍氏側へ転じた。

この男の名は覚えておきたい。

藤原経清は、後に平泉を築く奥州藤原氏初代・藤原清衡の父である。

経清の子が藤原清衡である。清衡は後三年合戦を勝ち抜き、やがて平泉を拠点とする奥州藤原氏の初代となる。前九年の役の戦場に、後の平泉へつながる血筋がすでにいたのである。

永衡を失い、経清まで敵へ回った。頼義は正面攻撃だけではなく、安倍氏の勢力そのものを内側から崩す策へ動く。

頼義、安倍氏を内部から崩す

頼義が目をつけたのは、奥六郡のさらに北にいる俘囚勢力だった。

安倍富忠である。

頼義は気仙郡司・金為時を介して富忠らへ働きかけ、味方に引き入れた。

ここで戦争の構図が変わった。安倍氏の周辺にいた俘囚勢力の中から、頼義側へ動く者が現れたのである。

奥六郡における頼時の力は、各地の有力者や俘囚集団を束ねることで成り立っていた。

その結束が崩れれば、頼時の支配そのものが揺らぐ。

富忠らの離反は、頼時の支配基盤そのものを揺さぶった。頼時はこの問題を他人に任せず、自ら北へ向かった。

1057年――頼時、自ら離反者の説得へ向かう

天喜5年(1057)。

頼時は富忠らを再び自分の側へ戻そうと、自ら北方へ向かった。

奥六郡の盟主本人が説得へ出向く。それほど北方勢力の離反は重大だった。

ところが富忠側は頼時を攻撃した。頼時は深手を負う。

安倍富忠の攻撃――頼時、重傷

頼時は重傷を負ったまま退き、鳥海柵へ入った。

現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町に残る鳥海柵跡は、11世紀の安倍氏の拠点である。発掘調査では建物跡や堀跡が確認され、2013年に国史跡へ指定された。

鬼切部から6年。数千の国司軍を破った男の最期が迫っていた。

鳥海柵――安倍頼時、死す

天喜5年(1057)7月。

安倍頼時は鳥海柵で死んだ。

前九年の役が始まって6年目である。

頼義は頼時を正面決戦で討ち取ったのではない。北方勢力を切り崩し、その離反を止めようと動いた頼時が富忠側の攻撃で致命傷を負った。鬼切部で数千の国司軍を破った盟主は、最後は自らの勢力圏に生じた亀裂によって倒れたのである。

敵方の盟主を失わせた頼義は、大きな戦果を得た。

それでも戦争は、ここからさらに激しくなる。

父は死んだ。しかし安倍氏は終わっていない

頼時の後を継いだのは安倍貞任である。宗任ら兄弟、そして藤原経清も安倍氏側に残っていた。

父の死で安倍氏は崩れなかった。ここから貞任を中心とした反撃が始まる。

頼時が死んでから約4か月後の天喜5年(1057)11月、源頼義・義家父子は安倍軍を追って黄海へ向かう。

そこで頼義軍は壊滅寸前まで叩きのめされる。

前九年の役における源頼義最大の敗北――黄海の戦いである。

続きは後編へ。

【戦い・事件編】前九年の役・後編――源頼義はなぜ壊滅寸前から安倍氏を滅ぼせたのか? 黄海から厨川柵へ
1057年11月――頼時を失った安倍氏へ、頼義が迫る前編はこちら。天喜5年(1057)7月、奥六郡を率いた安倍頼時が死んだ。頼義の調略によって安倍富忠らが離反し、説得に向かった頼時自身が攻撃を受けて致命傷を負った。安倍氏を束ねてきた盟主…

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