古代

人物

【人物編 Vol.3】蘇我馬子――なぜ崇峻天皇を暗殺できたのか? 聖徳太子と飛鳥時代を動かした男

592年11月3日。第32代・崇峻天皇が殺された。実行したのは、東漢直駒。そして『日本書紀』は、その背後にいた人物の名を明確に記している。蘇我馬子である。崇峻天皇は、馬子自身が即位に深く関わった天皇だった。その天皇と対立すると、馬子は東漢直...
戦い・事件

【戦い・事件編】白村江の敗戦後――天智天皇の防衛網と、壬申の乱への道

天智2年(663年)8月。倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。倭国軍は朝鮮半島から撤退し、百済の人々の中には海を渡って倭国へ移る者も...
戦い・事件

【戦い・事件編】白村江の戦い――なぜ日本は戦ったのか?

天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。唐軍は百済復興勢力の本拠・周留城へ向かう陸軍と歩調を合わせながら水路を進み、倭国から来...
戦い・事件

【戦い・事件編】古人大兄皇子――乙巳の変後、なぜ中大兄皇子に討たれたのか

645年6月12日。飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。乙巳の変である。入鹿の死を目の当たりにした一人の皇子が、自らの宮へ走って戻った。舒明天皇の皇子・古人大兄皇子である。『日本書紀』は、この時の古人大兄皇子の言葉を記している。「韓人、鞍作臣...
戦い・事件

【戦い・事件編】乙巳の変――中大兄皇子はなぜ蘇我入鹿を殺したのか?

皇極4年(645年)6月12日。飛鳥の板蓋宮で、皇極天皇が出御する儀式が始まろうとしていた。『日本書紀』は、この日を「三韓進調の日」と記す。高句麗・百済・新羅からの使者が貢物を献じ、その上表文を読み上げる場が設けられていたという。大臣・蘇我...
戦い・事件

【戦い・事件編】山背大兄王襲撃――蘇我入鹿はなぜ聖徳太子の一族を滅ぼしたのか?

皇極天皇2年(643年)11月。大和国斑鳩に、蘇我入鹿が差し向けた軍勢が押し寄せた。狙われたのは山背大兄王。厩戸皇子の子であり、かつて皇位継承をめぐって田村皇子と並んで名前が挙がった有力皇族だった。山背大兄王側も抵抗した。数十人の舎人を率い...
戦い・事件

【戦い・事件編】崇峻天皇暗殺――蘇我馬子、天皇を殺す

崇峻天皇5年(592年)11月3日。蘇我馬子は群臣にこう告げた。「今日は東国からの調を天皇に献上する日である」群臣が集まった。そこで馬子は東漢直駒に命じ、崇峻天皇を殺害させた。『日本書紀』は、この日の出来事を驚くほど短く記している。天皇はそ...
人物

【人物編Vol.2】物部麁鹿火――継体天皇を支え、筑紫君磐井を討った大連

継体21年(527年)8月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)は筑紫君磐井の討伐を命じられた。『日本書紀』によれば、継体天皇は麁鹿火に斧鉞を授け、「長門より東」は自ら治め、「筑紫より西」は麁鹿火に委ねると告げた。翌528年11月11日、両者は...
人物

【人物編Vol.1】筑紫君磐井――北部九州最大の古墳を築き、ヤマト王権と戦った男

6世紀前半。現在の福岡県八女市に、北部九州最大の前方後円墳が築かれた。岩戸山古墳である。墳丘長135メートル。周濠などを含めた全長は170メートル以上に及ぶ。古墳の北東には一辺約43メートルの「別区」と呼ばれる方形区画があり、墳丘やその周辺...
戦い・事件

【戦い・事件編】丁未の乱――蘇我馬子と物部守屋、最後の決戦

用明天皇2年(587年)7月。大和から河内へ、蘇我馬子を中心とする軍勢が進んだ。軍には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子ら皇族が加わり、大伴・阿倍・平群・坂本・春日などの豪族も兵を率いて従った。目指したのは河内国渋川郡。現在の大阪府八尾市周辺に...
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