【戦い・事件編】乙巳の変――中大兄皇子はなぜ蘇我入鹿を殺したのか?

戦い・事件

第7回

皇極4年(645年)6月12日。

飛鳥の板蓋宮で、皇極天皇が出御する儀式が始まろうとしていた。

『日本書紀』は、この日を「三韓進調の日」と記す。高句麗・百済・新羅からの使者が貢物を献じ、その上表文を読み上げる場が設けられていたという。

大臣・蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿も宮中へ入った。

入鹿は普段、昼も夜も剣を身につけていたと『日本書紀』は伝える。

中臣鎌足はそこを警戒していた。

そこで俳優を使って入鹿を笑わせ、その隙に剣を外させたという。

入鹿は武器を持たずに席へついた。

宮門では人の出入りが止められた。

中大兄皇子は長槍を手にして殿の脇へ身を隠し、中臣鎌足は弓矢を持った。

箱の中に用意された二振りの剣は、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田へ渡された。

蘇我倉山田石川麻呂が前へ出て、三韓の上表文を読み始める。

これが合図だった。

ところが、二人の暗殺役が出てこない。

佐伯子麻呂らは入鹿を恐れ、食べた飯を吐き戻すほど緊張していたと『日本書紀』は記している。

石川麻呂が読み進めても、動く気配がない。

上表文は終わりに近づく。

石川麻呂の額から汗が流れ、声が震え始めた。

入鹿が気づいた。

なぜ震えているのか。

石川麻呂は、天皇のおそばに近いため緊張しているのだと答えた。

その様子を見ていた中大兄皇子が飛び出した。

剣が入鹿の頭から肩へ入る。

佐伯子麻呂も続き、入鹿の脚を斬った。

入鹿は倒れた。

まだ生きている。

血を流しながら皇極天皇の御座へ近づき、頭を下げた。

自分に何の罪があるのか。

どうかお調べください。

皇極天皇は驚き、息子の中大兄皇子へ問いかけた。

何をしているのか。

中大兄皇子は、入鹿が皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしていると訴えた。

皇極天皇は立ち上がり、奥へ入った。

その後、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を斬った。

645年6月12日。

飛鳥の政治を動かしてきた蘇我氏本宗家の後継者が、天皇のいる宮中で殺された。

後世、「乙巳の変」と呼ばれる政変である。

この暗殺だけを見ると、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏の専横に立ち上がった事件に見える。

645年までの政治をたどると、もう少し複雑な光景が現れる。

入鹿が殺された背景には、蘇我氏の力だけではなく、誰が次の大王になるのかという王位継承をめぐる争いが長く続いていた。

蘇我氏は四代にわたって王家と結びついていた

入鹿の曽祖父は蘇我稲目である。

6世紀半ば、欽明天皇の時代に大臣を務めた。

稲目は娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇の后妃とし、大王家との婚姻関係を深める。

堅塩媛からは用明天皇、推古天皇らが生まれ、小姉君の系統からは崇峻天皇が出た。

蘇我氏の血を引く皇族が増えていく。

稲目の子・馬子の時代になると、蘇我氏は朝廷政治の中心にさらに深く入った。

用明2年(587年)、蘇我馬子は物部守屋との戦いに勝つ。

丁未の乱である。

物部氏という有力な対抗勢力が敗れたあと、馬子は推古天皇、厩戸皇子らとともに長く朝廷を支えた。

馬子は崇峻天皇の暗殺にも関わっている。

崇峻5年(592年)、馬子の命を受けた東漢直駒が天皇を殺害したことを、『日本書紀』は明記している。

それでも蘇我氏が王家を倒して自ら大王になったわけではなかった。

推古天皇が即位し、厩戸皇子が政治に参加する。

蘇我氏は王家との婚姻と、大臣という地位を通して政治を動かしていた。

推古34年(626年)、馬子が死去する。

跡を継いだのが蘇我蝦夷だった。

そして蝦夷の後継者として政治の表舞台へ出てきたのが入鹿である。

推古天皇の死後、王位をめぐる争いが始まる

推古天皇は推古36年(628年)に亡くなった。

次の大王をめぐって、有力な候補が二人いた。

田村皇子。

山背大兄王。

田村皇子は後の舒明天皇である。

山背大兄王は厩戸皇子の子だった。

どちらも蘇我氏との血縁を持っている。

蘇我蝦夷は田村皇子を支持した。

田村皇子が即位し、舒明天皇となる。

ここで山背大兄王が政治の世界から消えたわけではない。

厩戸皇子の子として大きな声望を持ち、次の王位を考えるうえでも無視できない存在として残った。

舒明13年(641年)。

舒明天皇が亡くなる。

再び王位継承の問題が起こった。

このとき即位したのが、舒明天皇の皇后だった宝皇女である。

皇極天皇。

舒明天皇との間には、中大兄皇子と大海人皇子がいた。

一方、舒明天皇には別の妃との間に生まれた古人大兄皇子もいる。

山背大兄王も健在だった。

皇極天皇の即位によって王位継承問題が消えたわけではなかった。

次の大王になり得る皇子が何人も残っていた。

その争いに入鹿が深く関わっていく。

蘇我入鹿はどこまで大きな力を持っていたのか

皇極元年(642年)、『日本書紀』は蘇我蝦夷が祖先の墓を造るため、多くの人々を動員したと記す。

翌皇極2年(643年)には、蝦夷が病気を理由に朝廷へ出なくなり、入鹿へ紫冠を与えて大臣の位になぞらえたという記事がある。

正式な手続きを経た大臣任命として書かれているわけではない。

『日本書紀』は、蝦夷が私的に息子へ高い地位を与えたものとして描いている。

皇極3年(644年)になると記述はさらに激しくなる。

蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べて建てた。

蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼んだ。

子どもたちを「王子」と称した。

家の外には柵を巡らせ、門の近くには武器庫を設け、兵士を置いた。

蝦夷が畝傍山の東にも家を造り、池を掘って城としたという記事まである。

これだけ読むと、蘇我父子が大王家に代わろうとしていたように見える。

『日本書紀』はまさにその印象を作るように記事を並べている。

ところが、この史書が完成したのは養老4年(720年)。

入鹿暗殺から75年後である。

暗殺を実行した中大兄皇子は後の天智天皇。

中臣鎌足の子孫である藤原氏も、8世紀の政治で大きな力を持っていた。

現在残る乙巳の変の詳しい物語は、入鹿を倒した側へ連なる王権のもとで編纂された史書によって伝えられている。

蘇我父子の邸宅や武装そのものをすべて作り話とする理由もないが、「皇位を奪おうとする逆臣」という評価まで、そのまま事実として受け取ることはできない。

入鹿の行動で比較的はっきり見えるのは、王位継承への強い関与である。

そのために一人の有力皇族が滅ぼされた。

643年、山背大兄王を襲う

皇極2年(643年)11月1日。

入鹿は巨勢徳太臣、土師娑婆連らを斑鳩へ送り、山背大兄王を攻撃した。

『日本書紀』によれば、入鹿は古人大兄皇子を次の大王にしようとしていた。

その障害となる山背大兄王を排除するための攻撃だったと記されている。

斑鳩では戦闘になった。

山背大兄王に仕える三成という人物が数十人の舎人を率いて抵抗し、攻撃側の土師娑婆連が矢に当たって死亡した。

蘇我方の軍勢はいったん退く。

山背大兄王は馬の骨を寝所へ置き、自分が死んだように見せかけたうえで、妃や子弟を連れて脱出した。

生駒山へ逃れる。

追手は焼け跡に残った骨を山背大兄王のものと思い込み、包囲を解いた。

山中で四、五日。

山背大兄王たちは十分な食事も取れない状態になった。

家臣の三輪文屋君は、東国へ向かうよう勧めた。

深草の屯倉へ移り、そこから東国へ行って兵を集めれば勝てる。

『日本書紀』には、そのような進言が記されている。

山背大兄王は拒んだ。

自分一人のために百姓を苦しめることは望まないという趣旨の言葉を残し、斑鳩へ戻った。

そして一族とともに自害した。

厩戸皇子の子孫にあたる上宮王家は大きな打撃を受ける。

この事件について、『日本書紀』は入鹿の「独断」を強調している。

父の蝦夷は息子を叱った。

山背大兄王を滅ぼしたことで、いつか自分の身も危うくする、と。

この父子のやり取りが実際に交わされた言葉なのかは分からない。

それでも興味深いのは、蘇我蝦夷と入鹿を最初から一つの意思で動く父子として描いていないことである。

蘇我氏内部にも政治路線の違いがあった可能性を考えさせる記事になっている。

そして山背大兄王がいなくなったあとも、王位候補は一人ではなかった。

古人大兄皇子と軽皇子

入鹿が支持したと『日本書紀』が記す古人大兄皇子は、舒明天皇の皇子だった。

母は蘇我馬子の娘・法提郎女。

蘇我氏ときわめて近い。

もう一人、有力な皇族がいた。

軽皇子。

皇極天皇の同母弟であり、後の孝徳天皇である。

そして皇極天皇の息子、中大兄皇子もいた。

645年、数え20歳ほど。

山背大兄王が消えても、次の王位をめぐる状況は整理されていなかった。

このなかで中臣鎌足が動く。

鎌足は中大兄皇子だけを見ていたわけではなかった

皇極3年(644年)。

中臣鎌足は神祇伯への任命を辞退し、病気と称して摂津の三島へ退いたと『日本書紀』は記す。

そのころ軽皇子も脚を患い、朝廷へ出ていなかった。

鎌足は軽皇子と以前から親しかった。

軽皇子の宮へ泊まりに行くと、軽皇子は寵妃の阿倍氏に命じて別殿を清め、新しい敷物を用意させ、鎌足を厚くもてなした。

鎌足はその待遇に感激した。

『日本書紀』では、軽皇子を天下の王にしないでおられようか、という趣旨の言葉まで語ったことになっている。

軽皇子もこれを聞いて喜んだ。

その直後、『日本書紀』は鎌足と中大兄皇子の出会いへ話を移す。

有名な蹴鞠の場面である。

法興寺の槻の木の下

法興寺――現在の飛鳥寺付近。

槻の木の下で皇族たちが蹴鞠をしていた。

中大兄皇子の履物が脱げた。

鎌足が拾い、手のひらに載せて跪き、差し出した。

中大兄皇子も跪いて受け取った。

そこから二人は親しくなった、と『日本書紀』は書く。

あまりにもよくできた出会いの場面である。

後の天智天皇と藤原氏の祖・鎌足、その二人の関係の始まりを語る逸話として整えられている可能性は考えておく必要がある。

二人が政治的に接近したこと自体は、その後の動きから確認できる。

人目を避けるため、南淵請安のもとへ学問に通い、その往復の道で相談したという。

鎌足はさらに蘇我倉山田石川麻呂を仲間へ引き入れようとした。

石川麻呂は蘇我氏の一族である。

中大兄皇子に石川麻呂の娘を娶らせ、婚姻関係を結んだ。

乙巳の変を実行した側には、蘇我氏自身も入っていた。

政治対立の線は、「蘇我氏」と「反蘇我氏」の間にだけ引かれていたわけではない。

蘇我氏の内部にも走っていた。

6月12日を選んだ理由

皇極4年(645年)6月8日。

中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂へ計画を明かした。

『日本書紀』によれば、三韓からの貢物が献上される日に石川麻呂が上表文を読み、その場で入鹿を斬ることになった。

4日後の6月12日。

皇極天皇が『日本書紀』にいう「大極殿」へ出御する。

古人大兄皇子もそこにいた。

入鹿も来た。

計画側は入鹿の性格まで考えて準備している。

入鹿は疑い深く、いつも剣を持っている。

俳優を使い、笑わせながら剣を外させた。

中大兄皇子は宮門を閉ざし、十二の門を一斉に鎖したと『日本書紀』はいう。

中大兄自身は長槍を持つ。

鎌足らは弓矢で備える。

海犬養勝麻呂が箱から二振りの剣を取り出し、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田へ渡した。

逃げ道を塞ぎ、入鹿から武器を外し、暗殺役を宮中に配置する。

かなり周到な計画だった。

それでも、実行の瞬間になると予定通りには進まなかった。

石川麻呂の声が震える

蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始める。

暗殺役の佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は出てこない。

二人は入鹿の威勢を恐れていたという。

水で飯を流し込もうとして吐き出した。

鎌足が叱咤する。

それでも動けない。

石川麻呂は焦った。

読み終えれば、入鹿をその場に留めておく理由がなくなる。

全身から汗が流れ、手が震え、声まで乱れた。

入鹿が尋ねた。

「なぜ震えている」

石川麻呂は答える。

天皇のおそばにおりますので、恐れ多く、汗が出るのです。

中大兄皇子は、暗殺役がまだ動かないのを見た。

自分から出た。

中大兄皇子が入鹿を斬る

中大兄皇子と佐伯子麻呂らが一気に入鹿へ迫った。

中大兄の剣が入鹿の頭と肩を傷つけた。

入鹿は立ち上がる。

佐伯子麻呂が剣を振り、脚を斬った。

入鹿は皇極天皇の御座へ近づき、頭を下げた。

ここからのやり取りは、『日本書紀』が乙巳の変をどのような事件として後世へ残そうとしたのかがよく表れている。

入鹿は自分の罪を知らないと訴える。

皇極天皇も驚き、中大兄皇子へ何事なのかと尋ねる。

中大兄皇子は伏して答えた。

入鹿――鞍作が皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとしている。

皇極天皇は奥へ入った。

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を斬り殺す。

雨が降り、水が庭にあふれていたため、入鹿の遺体には障子などを掛けたとも『日本書紀』は記している。

蘇我入鹿は天皇の目の前で殺された。

事件当時の入鹿の年齢は分からない。

皇極天皇は暗殺計画を知っていたのか

ここには、今も答えの出ない問題がある。

皇極天皇は事前に計画を知っていたのか。

『日本書紀』だけを読むなら、知らなかったように描かれている。

入鹿が斬られると驚き、中大兄皇子へ理由を尋ねている。

その描写がそのまま事実だったと証明する同時代史料はない。

皇極天皇は中大兄皇子の母であり、暗殺のわずか2日後には退位する。

その一方で、事件後に殺害側が皇極天皇を排除したわけでもなかった。

後には重祚し、斉明天皇となる。

乙巳の変における皇極天皇の位置づけは、事件の大きな論点の一つとして残る。

もう一人、宮中にいた人物も重要である。

古人大兄皇子だった。

「韓人が入鹿を殺した」

入鹿暗殺を目撃した古人大兄皇子は、自邸へ走って戻った。

『日本書紀』によれば、

「韓人、鞍作臣を殺しつ」

と語った。

ここでいう「韓人」が誰を指すのかについては諸説ある。

古人大兄皇子はそのまま寝所へ入り、門を閉じたという。

中大兄皇子側は法興寺へ移る。

皇族や諸臣が次々と集まった。

中大兄皇子は城郭のように法興寺を固め、蘇我蝦夷との衝突に備えた。

入鹿暗殺が成功した時点では、まだ政変の勝敗は決まっていない。

蝦夷には兵力が残っていた。

蘇我氏に従う東漢氏らもいる。

翌6月13日。

その均衡が崩れた。

入鹿が死んだ翌日、蝦夷から兵が離れた

蘇我蝦夷のもとには、東漢氏らが集まっていた。

中大兄皇子側は巨勢徳太臣らを送り、帰順を働きかけた。

やがて蝦夷を守っていた兵たちが武器を捨て、離れていく。

抵抗できるだけの勢力を失った蝦夷は、自邸に火を放った。

6月13日。

蘇我蝦夷は自害した。

『日本書紀』は、このとき蘇我氏が保管していた『天皇記』『国記』などの文書も焼けたと記す。

そのうち『国記』だけは船史恵尺が火の中から取り出し、中大兄皇子へ渡したという。

どのような内容の文書だったのか、現在は残っていない。

蝦夷の死によって、稲目から馬子、蝦夷、入鹿へ続いた蘇我氏本宗家の政治的な支配は終わった。

蘇我氏全体が滅亡したわけではない。

入鹿暗殺に参加した蘇我倉山田石川麻呂は、その直後の政権で右大臣になる。

蘇我氏の別系統は朝廷に残った。

2日後、皇極天皇が退位する

6月14日。

皇極天皇は皇位を譲ることを決めた。

最初に考えた相手は中大兄皇子だったと『日本書紀』は記す。

ところが中大兄皇子は即位しない。

鎌足に相談すると、鎌足は王位継承の順序を問題にした。

古人大兄皇子は中大兄皇子の兄にあたり、軽皇子は叔父にあたる。

その二人を差し置いて中大兄皇子が即位すれば、人々が納得しない。

そこで軽皇子を立てるよう勧めたという。

皇極天皇は軽皇子へ譲位した。

軽皇子は一度、古人大兄皇子へ皇位を譲ろうとする。

古人大兄皇子は辞退し、その場で刀を外し、法興寺へ向かって剃髪した。

軽皇子が即位した。

孝徳天皇である。

乙巳の変から、わずか2日後だった。

中大兄皇子は皇太子となる。

阿倍内麻呂が左大臣。

蘇我倉山田石川麻呂が右大臣。

中臣鎌足は内臣。

高向玄理と僧旻が国博士に任じられた。

入鹿を倒したあと、蘇我氏を完全に政治から排除する政権が作られたわけではない。

蘇我氏の石川麻呂が右大臣として政権中枢に入っている。

645年の政変が「皇族対蘇我氏」という単純な戦いではなかったことが、事件直後の人事からも見えてくる。

乙巳の変と「大化改新」は同じ出来事ではない

6月19日。

孝徳天皇、皇極前天皇、中大兄皇子らは群臣を集め、政治を正すことを誓ったと『日本書紀』は記す。

同じ年には「大化」という年号が使用される。

翌大化2年(646年)正月には、有名な「改新の詔」が出された。

土地や人民の支配。

地方行政。

戸籍や計帳。

税制。

後の律令国家へつながる制度が並ぶ。

かつては、645年の入鹿暗殺を「大化改新」の始まりとして、その直後に中大兄皇子と鎌足が中央集権国家を一気に作ったように説明されることが多かった。

現在では、その描き方はかなり修正されている。

『日本書紀』に記された改新の詔についても、645~646年当時の内容がそのまま残されたものなのか、後の制度を踏まえて文章が整えられたのか、長く議論が続いてきた。

7世紀の国家制度は、その後の天智・天武・持統朝まで数十年かけて整備されていく。

乙巳の変は、その長い変化の途中に起きた政治クーデターとして見る方が実態に近い。

入鹿はなぜ殺されたのか

『日本書紀』が示す答えは明快である。

蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、山背大兄王一族を滅ぼし、古人大兄皇子を擁立して皇位を自分の思うままにしようとした。

中大兄皇子と中臣鎌足が、それを阻止した。

この筋書きだけで645年を説明するのは難しくなっている。

乙巳の変について、現在の研究では王位継承をめぐる対立が重視されている。

実際、事件の周囲には何人もの皇位候補がいた。

山背大兄王。

古人大兄皇子。

軽皇子。

中大兄皇子。

643年には山背大兄王が滅ぼされ、645年には入鹿が殺される。

その2日後に軽皇子が即位し、中大兄皇子は皇太子となった。

鎌足は事件以前から軽皇子と親しい関係にあり、中大兄皇子とも結んでいた。

蘇我氏内部からは石川麻呂が暗殺計画へ加わった。

いくつもの勢力が入り組んでいる。

さらに7世紀前半の東アジアでは、唐が急速に勢力を拡大していた。

朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が激しく争い、倭国も半島情勢と無関係ではいられない。

国内の王位継承と豪族間の関係に加え、対外情勢へ対応できる政治体制をどう作るかという問題も重なっていた。

乙巳の変は、そうした7世紀半ばの政治状況のなかで起きた。

入鹿を殺した側が残した物語

現在、乙巳の変を詳しく知るうえで『日本書紀』を外すことはできない。

暗殺の準備から実行まで、驚くほど細かく書かれている。

石川麻呂が汗を流したこと。

佐伯子麻呂らが恐怖で飯を吐いたこと。

入鹿の頭と肩、脚が斬られたこと。

血を流した入鹿が皇極天皇へ訴えたこと。

そこまで詳しい。

ただし、『日本書紀』が完成した720年には、中大兄皇子はすでに天智天皇として歴代天皇の一人になっていた。

鎌足の子・藤原不比等も朝廷で大きな力を持つ時代である。

入鹿を倒した側につながる国家が編纂した歴史書だった。

そのため現在の研究では、『日本書紀』の文章を捨てるのではなく、何が起きたという記録なのか、後世の評価や物語化がどこに含まれているのかを分けながら読む。

入鹿が本当に天皇位を奪おうとしていたのか。

皇極天皇は暗殺計画を知らなかったのか。

山背大兄王襲撃は入鹿一人の判断だったのか。

鎌足は最初から中大兄皇子を次の政治の中心と考えていたのか。

確定できない部分は多い。

確かなのは、645年6月12日に宮中で入鹿が殺され、翌日に蝦夷が自害し、2日後には皇極天皇が退位したことである。

わずか三日の間に、飛鳥の政治を動かしていた人間関係が大きく組み替えられた。

現在の奈良県明日香村岡には飛鳥宮跡が残る。

かつて「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた場所である。

発掘調査が進んだ結果、ここには舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮など、複数時期の宮殿が重なっていたことが明らかになり、2016年に史跡名が「飛鳥宮跡」へ変更された。

現在地表に復元されている石敷広場や井戸は、入鹿が殺された645年そのものの遺構ではなく、より新しい飛鳥浄御原宮期のものとされる。

地面の下には、何代もの王宮が重なっている。

その一時期、ここに皇極天皇の宮があった。

645年6月12日。

その宮中で中大兄皇子が剣を抜き、蘇我入鹿へ斬りかかった。

蘇我氏本宗家が政治の中心から消え、孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足らによる新しい政権が生まれる。

後に天智天皇となる中大兄皇子は、このときまだ数え20歳ほどだった。

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