【戦い・事件編】山背大兄王襲撃――蘇我入鹿はなぜ聖徳太子の一族を滅ぼしたのか?

戦い・事件

第6回

皇極天皇2年(643年)11月。

大和国斑鳩に、蘇我入鹿が差し向けた軍勢が押し寄せた。

狙われたのは山背大兄王。

厩戸皇子の子であり、かつて皇位継承をめぐって田村皇子と並んで名前が挙がった有力皇族だった。

山背大兄王側も抵抗した。

数十人の舎人を率いて戦った三成は、入鹿方の土師娑婆連を矢で討ち取る。攻撃側の兵が恐れて退くほどの戦いになった。

その隙に山背大兄王は一族を連れて斑鳩宮を脱出し、生駒山へ入る。

家臣は東国へ向かい、兵を集めて反撃するよう進言した。

山背大兄王は勝てる可能性を認めながら、それを選ばなかった。

数日後、王は自ら斑鳩へ戻る。

そして斑鳩寺で、子弟や妃妾とともに命を絶った。

厩戸皇子の血を引く上宮王家は、ここで大きな打撃を受ける。

なぜ蘇我入鹿は、山背大兄王をここまで追い詰めたのか。

その背景をたどると、推古天皇の死から15年にわたって続いた皇位継承をめぐる政治対立が見えてくる。

厩戸皇子の子――山背大兄王

山背大兄王は、厩戸皇子の子として生まれた。

母は刀自古郎女。

蘇我馬子の娘である。

父方では用明天皇の孫にあたり、母方では蘇我馬子の孫でもあった。

皇族として高い血統を持ち、当時の朝廷で大きな力を持っていた蘇我氏とも深い血縁関係にあった。

622年、父の厩戸皇子が死去する。

626年には蘇我馬子も死去し、その子の蘇我蝦夷が大臣として蘇我氏を率いるようになった。

そして628年3月、推古天皇が崩御する。

このとき、次の大王が決まっていなかった。

有力な候補として浮上したのが、田村皇子と山背大兄王だった。

628年――田村皇子か、山背大兄王か

田村皇子は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の子。

後の舒明天皇である。

一方の山背大兄王は用明天皇の孫で、厩戸皇子の子だった。

『日本書紀』によれば、病床の推古天皇は崩御直前に田村皇子と山背大兄王をそれぞれ呼び、言葉を残していた。

田村皇子には、天下を治めることは軽々しく口にするものではないとして慎重に考えるよう告げた。

山背大兄王には、自分の考えだけで騒がず、群臣の意見に従うよう諭した。

この言葉をどう受け取るかが、その後の争点となった。

推古天皇の葬儀が終わった9月になっても後継者は決まらない。

大臣の蘇我蝦夷は群臣を集め、誰を大王とするべきか意見を求めた。

大伴鯨らは田村皇子を支持した。

一方、許勢大麻呂・佐伯東人・紀塩手らは山背大兄王を推した。

朝廷の意見は割れていた。

さらに蘇我氏の内部でも、蝦夷の叔父にあたる境部摩理勢が山背大兄王を支持した。

皇位継承問題は、蘇我氏内部の対立にも発展していく。

境部摩理勢の死

境部摩理勢は、以前から山背大兄王を次の大王に推す考えを蝦夷に伝えていた。

田村皇子擁立へ傾く蝦夷との対立は次第に深まった。

摩理勢はやがて山背大兄王側へ身を寄せる。

『日本書紀』では、山背大兄王自身が摩理勢に対して、彼一人のために天下が乱れることを避けるよう諭した場面も記されている。

それでも両者の対立は収まらなかった。

蝦夷は兵を送り、摩理勢を殺害する。

その後、629年1月に田村皇子が即位した。

舒明天皇である。

山背大兄王は皇位につかなかった。

しかし、斑鳩には厩戸皇子の一族が残り、山背大兄王も有力皇族として存在し続けた。

そして641年、舒明天皇が崩御する。

皇位継承をめぐる情勢が再び動き始めた。

皇極天皇即位――力を強める蘇我入鹿

舒明天皇の死後、642年に宝皇女が即位した。

皇極天皇である。

このころ、蘇我氏の政治を前面で動かすようになっていたのが、蘇我蝦夷の子・蘇我入鹿だった。

一方、皇族には古人大兄皇子がいた。

古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、母の法提郎媛は蘇我馬子の娘だった。

山背大兄王も蘇我馬子の外孫。

古人大兄皇子も蘇我馬子の外孫。

ともに皇位につながる血統を持ち、蘇我氏とも深い関係にあった。

『日本書紀』は、この時期の入鹿について、上宮王家の名声が天下に広がっていることを強く警戒していたと記す。

そして皇極天皇2年、643年。

入鹿はついに武力による排除へ動いた。

643年11月――入鹿、斑鳩へ兵を送る

『日本書紀』皇極天皇2年11月条には、襲撃の経過がかなり詳しく残されている。

蘇我入鹿は小徳・巨勢徳太臣と大仁・土師娑婆連を送り、斑鳩にいた山背大兄王らを襲撃させた。

別伝では、巨勢徳太臣と倭馬飼首を将軍としたとも記されている。

軍勢が斑鳩へ押し寄せる。

山背大兄王側も、ただ包囲されていたわけではなかった。

王に仕えていた三成が、数十人の舎人を率いて迎え撃った。

「一人で千人に当たる」――三成の抵抗

斑鳩で戦闘が始まった。

山背大兄王側の三成と数十人の舎人が、入鹿方の軍勢に立ち向かう。

この戦いで土師娑婆連が矢を受けて戦死した。

指揮官の一人を失った軍勢は恐れて退いた。

『日本書紀』は、兵士たちが三成について、

「一人当千」

と語ったと記している。

一人で千人を相手にするほどの強者、という意味である。

山背大兄王は、この機会を利用して斑鳩宮から脱出することにした。

王は馬の骨を寝殿に置く。

そして妃や子弟らを連れ、隙を見て宮を抜け出した。

向かったのは生駒山だった。

燃える斑鳩宮――馬の骨に欺かれた追討軍

山背大兄王が脱出したあと、巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。

宮殿は炎に包まれる。

やがて兵たちは灰の中から骨を発見した。

山背大兄王が寝殿に残した馬の骨だった。

追討軍はそれを王の遺骨だと思い、山背大兄王は死んだと判断した。

包囲を解いて撤退する。

そのころ山背大兄王は、一族や側近とともに生駒山に潜んでいた。

同行していた人物として、『日本書紀』は三輪文屋君、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿部堅経らの名を挙げている。

生駒山で4、5日――食料も尽きる

山背大兄王一行は、生駒山に身を隠した。

その期間は4、5日。

『日本書紀』は、その間に食べ物を口にすることもできなかったと記している。

追われながら山中に潜伏する厳しい状況だった。

そこで三輪文屋君が、山背大兄王に再起を進言する。

まず深草屯倉へ向かう。

そこから馬に乗って東国へ行く。

東国にいた乳部を基盤として軍勢を集め、再び戻って入鹿と戦う。

文屋君は、そうすれば必ず勝てると主張した。

山背大兄王自身も、勝利の可能性を否定しなかった。

しかし、王は戦うことを選ばなかった。

「私一人のために、万民を苦しめたくない」

『日本書紀』が伝える山背大兄王の言葉は、この事件でも特に印象的な場面である。

三輪文屋君の策を実行すれば、戦いには勝てるだろう。

山背大兄王はそう認めた。

そのうえで、自分一人のために万民を苦しめることは望まないと語った。

後世の人々から、

「あの王のために自分の父母を失った」

と言われるような戦いも望まなかった。

戦って勝つことだけが立派な男の姿なのか。

身を捨てて国を安定させることもまた、立派な行いではないか。

『日本書紀』は、山背大兄王がそのような考えから挙兵を断念したと伝えている。

東国へ逃れて再起する道は、ここで自ら閉ざした。

しかし、入鹿側も山背大兄王が生きていることに気づく。

入鹿、山背大兄王の生存を知る

山中の山背大兄王たちを目撃した者がいた。

その情報が入鹿のもとへ届く。

『日本書紀』では、山背大兄王が生きていると知った入鹿は「大いに恐れ」、急いで兵を動かしたと記される。

入鹿は高向国押に、山へ向かって王を捕らえるよう命じた。

国押は天皇の宮を守っているため外へ出られないと拒んだ。

そこで入鹿自身が山へ向かおうとした。

そのとき現れたのが古人大兄皇子だった。

古人大兄皇子は入鹿に行き先を尋ね、事情を聞く。

そして、

「鼠は穴に隠れて生き、穴を失えば死ぬ」

という趣旨の言葉を告げた。

入鹿は自ら山へ向かうことをやめ、軍勢を生駒へ送った。

それでも山背大兄王を見つけることはできなかった。

その後、山背大兄王は自ら山を下りた。

向かったのは斑鳩だった。

山背大兄王、斑鳩寺へ戻る

生駒山を出た山背大兄王は、斑鳩寺へ入った。

『日本書紀』にいう斑鳩寺であり、聖徳太子によって建立された寺院、現在の法隆寺につながる寺である。古い伽藍については、現在の西院伽藍南東に残る若草伽藍跡との関係が考えられている。

入鹿方の軍勢は寺を包囲した。

ここで山背大兄王は、三輪文屋君を通じて軍将たちに自らの意思を伝えた。

自分が兵を起こして入鹿を討てば、勝つことはできる。

しかし、自分一人のために民を傷つけることは望まない。

そのため、自分の身を入鹿に与える。

そして山背大兄王は、子弟や妃妾らとともに自ら命を絶った。

皇極天皇2年(643年)11月のことである。

上宮王家の滅亡

山背大兄王の死によって、厩戸皇子の子孫である上宮王家は大きな打撃を受けた。

『日本書紀』は山背大兄王らの死を描いたあと、空に五色の幡や蓋、さまざまな伎楽が現れて寺の上を覆ったという不思議な現象まで記している。

これは『日本書紀』に収められた説話的な描写である。

その知らせは、入鹿の父・蘇我蝦夷にも届いた。

蝦夷の反応は激しかった。

「お前の命も危うい」――蘇我蝦夷が入鹿を叱る

山背大兄王らが入鹿によって滅ぼされたと聞いた蘇我蝦夷は、息子を叱責した。

『日本書紀』では、

「噫、入鹿、極甚愚癡、専行暴悪」

と記される。

入鹿よ、お前はあまりにも愚かで、勝手に暴悪を行った。

さらに、

「儞之身命、不亦殆乎」

お前自身の命も危ういのではないか。

そう告げた。

この場面は重要である。

『日本書紀』の記述では、山背大兄王襲撃を入鹿自身の行動として描き、その結果を父の蝦夷が激しく非難している。

「蘇我氏が一枚岩となって聖徳太子の一族を滅ぼした」という単純な構図ではない。

同じ蘇我氏のなかでも、628年には境部摩理勢と蝦夷が皇位継承をめぐって対立し、643年には蝦夷が入鹿の行動を叱責している。

蘇我氏内部にも政治的な立場の違いがあった。

なぜ入鹿は山背大兄王を滅ぼしたのか

『日本書紀』は襲撃直前、入鹿が「上宮王等」の名声が天下に広がっていることを深く警戒していたと記している。

山背大兄王は単なる厩戸皇子の遺児ではなかった。

628年の皇位継承問題では、実際に複数の群臣から次の大王候補として推されている。

蘇我氏の有力者だった境部摩理勢も山背大兄王を支持した。

田村皇子が舒明天皇として即位したあとも、山背大兄王は斑鳩を基盤に生き続けていた。

643年になっても、皇位継承を考えるうえで無視できない存在だった。

ただし、入鹿がどのような政治構想のもとで山背大兄王を排除したのかについては、『日本書紀』が乙巳の変で滅ぼされる入鹿を強く批判的に描いていることも踏まえて読む必要がある。

史料からはっきり追えるのは、入鹿が山背大兄王らの名声を警戒し、643年11月に実際に兵を送り、上宮王家を滅亡へ追い込んだという流れである。

山背大兄王の死から2年――乙巳の変

山背大兄王一族が滅びてから、およそ1年7か月後。

皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で大きな事件が起こる。

蘇我入鹿が、中大兄皇子・中臣鎌足らによって宮中で殺害された。

乙巳の変である。

翌日、父の蘇我蝦夷も自邸に火を放ち、自害した。

643年11月。

入鹿が軍勢を送り込んだ斑鳩では、山背大兄王が東国で再起する道を退け、一族とともに最期を迎えた。

645年6月。

今度はその入鹿が、飛鳥の宮中で襲撃される。

推古天皇の死後から続いてきた皇位継承と権力をめぐる対立は、山背大兄王襲撃を経て、やがて乙巳の変へとつながっていった。

さらに詳しく📖↓

 
歴史読本2014年10月号電子特別版「古代最強の豪族蘇我氏」 【電子書籍】[ 歴史読本編集部 ]

コメント

タイトルとURLをコピーしました