【戦い・事件編】崇峻天皇暗殺――蘇我馬子、天皇を殺す

戦い・事件

第5回

崇峻天皇5年(592年)11月3日。

蘇我馬子は群臣にこう告げた。

「今日は東国からの調を天皇に献上する日である」

群臣が集まった。

そこで馬子は東漢直駒に命じ、崇峻天皇を殺害させた。

『日本書紀』は、この日の出来事を驚くほど短く記している。

天皇はその日のうちに倉梯岡陵へ葬られた。

崇峻天皇の在位は約5年で終わった。

実行役は東漢直駒。

そして『日本書紀』が暗殺を命じた人物として名を記しているのが、朝廷の大臣だった蘇我馬子である。

天皇が有力豪族との戦いで敗れて殺されたわけではない。

宮廷政治の中心にいた大臣が計画し、配下に天皇を殺害させたと『日本書紀』は記録している。

なぜ、このような事件が起きたのか。

崇峻天皇と馬子の関係をたどるには、5年前に起きた丁未の乱から見ていく必要がある。

物部守屋が死んだあと、泊瀬部皇子が即位する

用明天皇2年(587年)4月、用明天皇が死去した。

皇位継承をめぐる動きと、仏教受容をめぐる蘇我氏と物部氏の対立が重なり、朝廷は大きく揺れた。

蘇我馬子は、物部守屋と結んでいた穴穂部皇子を先に殺害する。

続いて7月、馬子は諸皇子や豪族を率いて物部守屋を攻めた。

丁未の乱である。

守屋は河内国渋川郡の本拠で抗戦した。

物部軍は強く、馬子側は何度も押し返されたと『日本書紀』は伝える。

戦いの途中、厩戸皇子は四天王像を作り、勝利すれば寺と塔を建てると誓願した。

馬子も寺院建立を誓った。

やがて迹見赤檮が木の上から指揮していた守屋を射落とし、物部軍は崩れた。

守屋は戦死する。

古くから朝廷の軍事を担ってきた物部氏は、ここで大きく勢力を失った。

戦いのあと、泊瀬部皇子が即位する。

第32代崇峻天皇である。

父は欽明天皇。

母は蘇我小姉君で、蘇我馬子とは母方を通じて血縁を持っていた。

崇峻天皇の即位後も、馬子は大臣として朝廷に残った。

物部守屋を倒した馬子は、引き続き政治の中心に立っていた。

倉梯宮と法興寺

崇峻天皇は倉梯に宮を置いた。

現在の奈良県桜井市倉橋付近である。

その治世に進められた大きな事業の一つが、法興寺の造営だった。

現在の飛鳥寺につながる寺院である。

崇峻天皇元年(588年)、百済から僧の恵総らとともに、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工らが渡来した。

同じ年、馬子は飛鳥の衣縫造祖樹葉の家を壊し、法興寺の造営を始めた。

日本で本格的な伽藍を備えた寺院を建設するため、百済から技術者まで招いて進められた事業だった。

587年の丁未の乱では、蘇我氏と物部氏の争いに仏教をめぐる対立も重なっていた。

守屋が死んだ翌年から、その馬子が大寺院の建設を進めている。

592年10月には、法興寺の仏堂と歩廊を建て始めたことも『日本書紀』に記されている。

その同じ月、崇峻天皇と馬子の間で事件が起きた。

ただし、その前にもう一つ見ておきたい。

崇峻天皇の晩年、朝廷は2万を超える軍勢を動かしていた。

591年、2万余の軍勢が筑紫へ向かった

崇峻天皇4年(591年)8月、天皇は群臣を集めて尋ねた。

「任那を再び立てたいと思う。お前たちはどう考えるか。」

『日本書紀』では、群臣も天皇の考えに賛成したとする。

11月4日、朝廷は実際に軍を動かした。

紀男麻呂宿禰。巨勢猿臣。大伴囓連。葛城烏奈良臣。

この4人を大将軍とし、各氏族の臣・連を副将や部隊として編成する。

『日本書紀』が記す兵力は、

2万余。

軍勢は九州の筑紫まで進み、そこで待機した。

同時に吉士金を新羅へ、吉士木蓮子を任那へ派遣し、任那をめぐる情勢を探らせている。

実際に朝鮮半島へ2万人が渡って戦争を始めたわけではない。

軍は筑紫にとどまった。

それでも『日本書紀』の記述に従えば、崇峻朝の末期には複数の有力豪族を大将軍とする大規模な軍事動員が行われていた。

この軍勢は崇峻天皇が死んだときにも、まだ筑紫にいた。

その状態で592年を迎える。

猪の首を見た崇峻天皇

崇峻天皇5年(592年)10月4日、天皇のもとへ山猪が献上された。

『日本書紀』によれば、崇峻天皇は猪を指して言った。

いつになったら、この猪の首を斬るように、自分が憎いと思う者を斬ることができるのか。

誰の名も挙げていない。

ところが『日本書紀』は、その直後にもう一つの記事を置いている。

天皇が多数の武器を用意しており、普段とは様子が違っていたという。

それから6日後。

10月10日、馬子が動いた。

馬子は天皇の言葉を聞き、「自分が憎まれている」と恐れた。

そして仲間を集め、天皇を殺害する計画を立てた。

『日本書紀』本文では、この順序で事件が記されている。

猪を見た天皇の発言。宮中に集められた武器。馬子の恐怖。

そして暗殺計画。

ただし、『日本書紀』は別の伝承も残している。

馬子へ知らせたのは大伴小手子だったのか

崇峻天皇には大伴小手子という妃がいた。

大伴糠手子の娘で、崇峻天皇との間に蜂子皇子と錦代皇女をもうけたとされる女性である。

『日本書紀』が「或本」の記事として載せる話では、小手子は天皇からの寵愛が衰えたことを恨んでいた。

そこで人を馬子のもとへ送り、天皇の様子を伝えたという。

山猪が献上されたとき、天皇が猪を指して首を斬る話をしたこと。

さらに宮中で盛んに武器を作らせていること。

それを聞いた馬子は驚いた。

『日本書紀』本文と「或本」では、馬子が天皇の発言を知った経緯が異なる。

小手子の密告が実際にあったのかも確認できない。

それでも『日本書紀』が残した二つの伝承には共通する部分がある。

592年秋、崇峻天皇が誰かを強く憎んでいることを示す発言をし、宮中には武器が集められていた。

馬子はその動きを自分への危険と受け取った。

その約3週間後、天皇は殺される。

11月3日――「今日は東国の調を献上する」

崇峻天皇5年11月3日、馬子は群臣へ知らせた。

今日は東国から届いた調を天皇へ献上する。

調とは、各地から朝廷へ納められる貢納物である。

献上の儀式があるとなれば、天皇のもとに群臣が集まっても不自然ではない。

『日本書紀』は、馬子が群臣を「詐った」と記す。

東国の調を利用したのは、天皇を殺す機会を作るためだった。

実行役に選ばれたのが東漢直駒である。

東漢氏は渡来系の氏族として知られ、飛鳥を中心にヤマト王権へ仕えていた。

駒は馬子の命令を受け、崇峻天皇を殺害した。

『日本書紀』には、どのような武器を使ったのか、何人で襲ったのか、天皇が抵抗したのかといった場面は書かれていない。

残されている記述は簡潔である。

馬子が群臣を欺いた。

東漢直駒に命じた。

駒が天皇を殺した。

ここから先を戦闘場面のように膨らませることはできない。

そして同じ日の記事に、もう一行ある。

崇峻天皇を倉梯岡陵へ葬った。

殺されたその日に葬られた天皇

崇峻天皇は、暗殺された11月3日のうちに葬られたと『日本書紀』は記す。

陵は倉梯岡陵。

宮が置かれた倉梯と同じ地域である。

古代の天皇が死去した場合、すぐに埋葬されるとは限らない。

殯と呼ばれる期間を経て葬送される例が『日本書紀』には数多く見える。

崇峻天皇の記事には、その期間がない。

殺害。そして同日、埋葬。

『日本書紀』の記述だけを見ると、異例の速さで処理されたことになる。

さらに目を引くのは、天皇を殺したと明記された馬子が、この事件で処罰されたという記事がないことである。

馬子はその後も大臣として朝廷政治に残った。

『日本書紀』が書く暗殺の経過をそのまま読めば、馬子は天皇殺害を命じながら失脚しなかったことになる。

この点から、崇峻天皇殺害を馬子一人の秘密の暗殺計画として理解できるのか、ほかの有力者がどこまで関与していたのかという問題も研究上議論されてきた。

史料からその全容を復元することはできない。

ただ、『日本書紀』自身は暗殺の首謀者を曖昧にはしていない。

「馬子宿禰、群臣を詐り」と書き、

「東漢直駒をして天皇を殺したてまつらしむ」と続けている。

天皇が殺されても、2万余の軍は筑紫にいた

暗殺から2日後、11月5日。

朝廷から筑紫へ早馬が出された。

前年11月に派遣された2万余の軍勢は、まだそこにいた。

将軍たちに伝えられた命令を、『日本書紀』はこう記している。

「内乱によって、外事を怠ることなかれ」

天皇が殺された直後である。

それでも筑紫にいる軍へ、朝鮮半島をめぐる任務を続けるよう命じた。

誰がこの命令を決定したのか、『日本書紀』の記事には明記されていない。

崇峻天皇が死んでも朝廷の機能そのものは止まらず、地方に展開していた軍へ命令を届ける体制も維持されていた。

『日本書紀』が崇峻天皇の死を「内乱」と表現していることも目を引く。

11月3日に天皇が殺され、5日には筑紫へ使者が走った。

暗殺後の朝廷が、ただちに次の政治へ動いていた様子がここから見える。

実行役・東漢直駒も殺された

崇峻天皇を殺した東漢直駒も、その後長く生きたわけではなかった。

『日本書紀』によれば、駒は蘇我馬子の娘・河上娘をひそかに連れ出し、自分の妻とした。

馬子は当初、娘が死んだと思っていたという。

やがて駒が河上娘と関係を持っていることが発覚する。

馬子は駒を殺した。

崇峻天皇暗殺の実行役は、同じ月のうちに姿を消したことになる。

『日本書紀』が記す駒殺害の理由は、崇峻天皇暗殺の口封じではない。

河上娘を奪ったことへの処罰として書かれている。

口封じに殺したという見方もできる。

結果として、崇峻天皇を直接殺した人物もほどなく殺された。

馬子だけは政治の中心に残った。

崇峻天皇の死後、推古天皇が即位する

崇峻天皇の死後、皇位についたのは豊御食炊屋姫尊だった。

敏達天皇の皇后であり、崇峻天皇の異母姉にあたる。

のちの推古天皇である。

推古天皇元年(593年)、厩戸皇子が皇太子となり、政治に加わる。

そして蘇我馬子は大臣として残った。

崇峻天皇を殺害したと『日本書紀』に名指しされた人物が、そのまま次の天皇のもとでも大臣を務めたのである。

推古朝では法興寺の造営が進み、遣隋使の派遣、冠位十二階、十七条憲法など、後世まで知られる政策が相次ぐ。

馬子は推古天皇34年(626年)に死去するまで政治の中心にいた。

崇峻天皇暗殺によって蘇我氏が失脚することはなかった。

592年11月3日。

馬子は「東国の調を献上する」と群臣を集め、東漢直駒に天皇を殺させた。

『日本書紀』が残した記事は短い。

それでも、暗殺前後の日付を追うと事件の輪郭はかなり鮮明になる。

591年11月、2万余の軍勢が筑紫へ向かう。

592年10月4日、崇峻天皇が猪を前に「憎い者の首を斬りたい」と口にする。

10月10日、馬子が天皇殺害を計画する。

11月3日、東漢直駒が崇峻天皇を殺す。

天皇はその日のうちに倉梯岡陵へ葬られる。

11月5日、筑紫の将軍へ「内乱によって外事を怠るな」と命令が届く。

そして翌593年、推古天皇が即位する。

崇峻天皇を殺したと記された馬子は、その新しい朝廷にも大臣として立っていた。

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