第38回
天平12年(740)10月9日。
豊前国を流れる板櫃川を挟み、二つの軍勢が向かい合っていた。
西岸には藤原広嗣。
その兵力は1万余。
東岸には朝廷の追討軍6,000余が布陣していた。
広嗣は大宰少弐として九州に赴任していた藤原氏の貴族である。
約40日前の8月29日には、政治の得失を論じ、玄昉と吉備真備を中央政界から除くよう求める上表文を送っていた。
しかし10月、広嗣は朝廷軍と川を挟んで対峙していた。
広嗣軍には九州諸国の兵だけでなく、大隅・薩摩の隼人も加わっていた。
その一方、三方向から豊前へ進ませた別働隊はまだ本隊へ合流していない。
朝廷軍はすでに主要な軍事拠点を押さえ、板櫃川では広嗣側から投降者が現れ始める。
1万余の兵を集めた広嗣は、なぜ決戦を前に軍勢をまとめ切れなかったのか。
その背景は、天然痘によって藤原氏の中心人物たちが相次いで亡くなった737年までさかのぼる。
1.737年――藤原四兄弟の死
天平9年(737)。
天然痘の流行によって、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで亡くなった。
藤原広嗣の父・藤原宇合もその一人だった。
四兄弟は藤原不比等の子として聖武天皇の朝廷で大きな力を持っていた。その全員を同じ年に失ったことで、中央政界の勢力関係は大きく変化する。
政権の中心となったのが橘諸兄だった。
諸兄のもとでは、唐から帰国した吉備真備や僧・玄昉も重用されるようになる。
広嗣は藤原式家を開いた宇合の長男だった。
737年に従五位下となり、翌738年4月には式部少輔から大養徳守を兼ねる。
しかし同年12月、大宰少弐へ遷任された。
この人事の背景については、広嗣と玄昉・吉備真備との対立や、藤原氏内部での広嗣の孤立などが指摘されている。
広嗣の挙兵に、藤原氏全体が同調したわけではなかった。
2.大宰少弐となった広嗣
大宰少弐は、大宰府の次官にあたる官職である。
大宰府は九州諸国を統轄し、外交や西国防衛も担う重要な役所だった。
広嗣はこの地で約2年間を過ごす。
天平12年(740)8月29日。
広嗣は大宰府から朝廷へ上表文を送った。
『続日本紀』によれば、広嗣は政治の得失を指摘し、天地の災異について述べたうえで、僧正・玄昉と吉備真備を中央政界から除くよう求めた。
玄昉と真備はともに唐で長く学んだ経験を持ち、橘諸兄政権のもとで重用されていた人物である。
広嗣の要求は、この二人の排除を求めるものだった。
しかし中央政府からの返答を待たず、広嗣は8月末ごろまでに挙兵へ踏み切ったと考えられている。
3.9月3日――朝廷が広嗣を「反」と判断
9月3日。
8月29日付の広嗣の上表が都へ届いた。
朝廷は広嗣の行動を「反」と判断し、ただちに征討軍を編成する。
大野東人が大将軍、紀飯麻呂が副将軍となった。
さらに東海・東山・山陰・山陽・南海の五道から1万7,000人を動員するよう命令が出された。
『続日本紀』も同日の記事に「広嗣遂に兵を起して反く」と記している。
ただし、九州から都への情報伝達には時間が必要だった。
9月3日を、広嗣が現地で初めて兵を動かした日と考える必要はない。
朝廷側ではこの日、広嗣を軍事的に鎮圧する方針が明確になったのである。
4.三方向から豊前へ
広嗣は軍勢を三つに分けた。
一隊は広嗣自身。
一隊は弟の藤原綱手。
もう一隊を多胡古麻呂が率いた。
目標となったのは、豊前国に置かれていた登美・板櫃・京都の三つの鎮だった。
広嗣の本隊は鞍手道を進む。
綱手は筑後・肥前などの兵5,000人を率い、豊後道から豊前へ向かった。
もう一隊は田河道方面から進んだ。
三方向から豊前へ進み、朝廷軍に対抗しようとしたのである。
しかし三隊は、予定どおり同時に集結することができなかった。
この遅れが、後の板櫃川で大きな意味を持つことになる。
5.遠賀郡家――広嗣軍の前進拠点
広嗣の本隊は筑前国の遠賀郡家へ進んだ。
現在の福岡県遠賀町周辺である。
『続日本紀』によれば、広嗣はここに軍営を設け、兵器を集め、烽火を上げて兵士を徴発していた。
広嗣軍の前進拠点となった場所だった。
広嗣のもとには筑前などの兵に加え、大隅・薩摩の隼人も集まった。
当初の広嗣本隊は5,000人余とされるが、板櫃川で朝廷軍と対峙した段階では1万余に達していた。
大規模な軍勢だった。
しかし広嗣が兵を集めている間に、朝廷軍は関門海峡を渡り、豊前へ進んでいた。
6.三つの鎮を先に奪われる
追討軍の動きは速かった。
9月22日。
朝廷軍は登美・板櫃・京都の三営を掌握した。
24日付の大野東人の報告では、三営の兵1,767人を捕らえたことが記されている。
広嗣軍が三方向から向かっていた拠点は、主力が到着する前に朝廷側へ押さえられたのである。
9月25日には、豊前国の郡司らが兵を率いて朝廷軍へ帰順したことも報告された。
板櫃川で本格的に対峙する前から、広嗣側は軍事拠点と地域の協力者を失い始めていた。
それでも広嗣は前進する。
10月9日。
板櫃川を挟んで両軍が向かい合った。
7.10月9日――板櫃川の戦い
板櫃川の西岸には広嗣軍1万余。
東岸には朝廷軍6,000余が布陣していた。
広嗣軍には大隅・薩摩の隼人も加わっている。
広嗣は隼人らを率いて川を渡ろうとした。
しかし朝廷軍から弩を射かけられ、西岸へ押し戻されたと伝えられる。
兵数だけを見れば、広嗣側が朝廷軍を上回っていた。
しかし1万対6,000の軍勢が全面的に衝突する大規模な会戦には発展しなかった。
朝廷軍は広嗣側へ投降を呼びかける。
ここから広嗣軍の内部が崩れ始めた。
8.「朝廷に反逆する意思はない」
勅使・佐伯常人は、川の対岸から広嗣に挙兵の理由を問いただした。
『続日本紀』によれば、広嗣は玄昉と吉備真備を除くことが目的で、朝廷そのものに反逆する意思はないという趣旨の主張をした。
その後、広嗣側にいた隼人3人が川を泳いで朝廷軍へ投降した。
続いて隼人や騎兵の離反が相次ぎ、投降者は30人に達したとされる。
投降した隼人から、さらに重要な情報がもたらされた。
弟・藤原綱手と多胡古麻呂が率いる別働隊が、まだ広嗣本隊へ到着していなかったのである。
広嗣は1万余の兵を集めていた。
それでも三方向から進ませた軍勢すべてをそろえて、朝廷軍との決戦に臨むことはできなかった。
9.なぜ1万余の広嗣軍は崩れたのか
広嗣軍の敗北は、兵士の数だけでは説明できない。
広嗣は軍勢を三方向へ分けて豊前へ進ませた。
その間に朝廷軍は関門海峡を渡り、目標だった登美・板櫃・京都の三鎮を先に掌握した。
豊前の郡司層にも朝廷側へ帰順する動きが起きている。
板櫃川で本隊が朝廷軍と向かい合った時、綱手・多胡古麻呂の別働隊は未着だった。
さらに隼人や騎兵が広嗣側を離れ、朝廷軍へ投降した。
広嗣は多数の兵を集めることには成功した。
一方、朝廷軍は主要拠点を先に確保し、広嗣の三軍が集結する前に本隊と対峙した。
板櫃川で起きたのは、長時間の激戦による壊滅ではなかった。
軍事拠点の喪失、別働隊の未着、現地勢力の帰順、軍内部からの離反が重なり、広嗣軍は組織的な戦闘を続けることができなくなった。
広嗣は西へ逃れた。
10.値嘉島へ――海外への逃走
板櫃川から敗走した広嗣は、弟・綱手らとともに肥前国松浦郡方面へ向かった。
そこから値嘉島へ渡り、さらに海の向こうへ逃れようとした。
この航海については、後に捕らえられた広嗣の従者・三田兄人らの供述が伝わっている。
それによれば、一行は値嘉島を出て4日間ほど航海し、済州島付近まで進んだものの、逆風に遭って遠値嘉島の色都島へ吹き戻されたという。
10月23日。
広嗣は肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられた。
その報告が大野東人に届き、10月29日付で中央へ送られる。
広嗣の逃走はここで終わった。
11.11月1日――藤原広嗣の処刑
11月1日。
藤原広嗣と弟・綱手は、肥前国松浦郡で斬刑に処された。
その報告は11月5日付で中央へ送られている。
広嗣は藤原式家・宇合の長男だった。
しかし挙兵に際して藤原氏全体の支援を得ることはなく、乱の失敗によって式家は一時的に大きな打撃を受けた。
広嗣が上表で排除を求めた吉備真備と玄昉も、この時点では失脚しなかった。
広嗣の政治的要求は実現しないまま終わった。
翌天平13年(741)1月22日には、広嗣の与党に対する処分が行われた。
太宰府市が『続日本紀』をもとに作成した年表では、死刑26人、没官5人、流刑47人、徒刑32人、杖刑177人とされている。
広嗣一人の処刑で終わらず、多くの関係者が処罰されたのである。
12.乱の最中に始まった聖武天皇の行幸
広嗣が九州で戦っていたころ、中央では聖武天皇の行幸準備も進められていた。
10月19日には伊勢国の行宮造営を担当する官人が任命される。
23日には行幸の指揮にあたる官人と騎兵400人が準備され、26日には聖武天皇自身が大野東人へ、月末から関東へ向かうことを伝えた。
そして10月29日。
聖武天皇は平城京を出発した。
その時点で広嗣は10月23日にすでに捕らえられていた。
しかし捕縛の報告は、まだ天皇へ届いていなかった。
11月3日。
伊勢国河口の頓宮にいた聖武天皇のもとへ、広嗣捕縛を知らせる10月29日付の報告が到着した。
天皇はその後も平城京へ戻らず、伊賀・伊勢・美濃・近江を巡る。
12月15日には山背国の恭仁宮へ入り、その後、恭仁京の造営が進められた。
この行幸を、藤原広嗣の乱だけを理由とする行動と断定することはできない。
737年の疫病、その後の政治的不安、740年の広嗣の乱などが続く中で、聖武天皇の治世は大きく揺れていた。
藤原広嗣は玄昉と吉備真備の排除を求め、九州で1万余の軍勢を集めた。
しかし朝廷軍は三鎮を先に押さえ、豊前の郡司層からも帰順者を得た。
板櫃川では別働隊が到着しないまま本隊が朝廷軍と対峙し、広嗣側から隼人や騎兵が離反する。
大規模な兵力を集めながら、それを一つの軍勢として決戦に投入することができなかった。
740年11月、広嗣は肥前で処刑された。
そのころ聖武天皇はすでに平城京を離れ、12月には恭仁へ入っていた。
九州で起きた藤原広嗣の乱は鎮圧されたが、740年に表面化した政治の動揺は、その後の遷都と国家体制の変化へ続いていった。
![]()
続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫) [ 宇治谷 孟 ]
![]()
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫) [ 宇治谷 孟 ]
藤原広嗣の乱の舞台となった北九州。
板櫃川で激突した両軍を思い浮かべながら、現在の北九州名物・明太子を味わってみるのも面白いですね。
歴史を知ったあとに、その土地の味を楽しんでみてはいかがでしょうか。
![]()
楽天グルメ大賞受賞 ふくや 家庭用明太子 440g 110g×4 選べる辛さ お中元 御中元 夏ギフト ギフト 送料無料 小分け 無着色 着色 お得 切れ子 のし対応 博多グルメ お土産 辛子明太子 たらこ ご飯のお供 お取り寄せ プレゼント 誕生日*訳ありではありません

コメント