第23回
天平2年(730)正月13日。
大宰帥・大伴旅人の邸宅に、大宰府や九州諸国の官人たちが集まった。
庭には白い梅が咲いていた。
参加者たちは梅を眺めながら酒を酌み交わし、それぞれ歌を詠んだ。
後に「梅花の宴」と呼ばれる宴である。
この日に詠まれた32首は『万葉集』巻五に収められ、その前に置かれた序文の一節は、約1,300年後の元号「令和」の典拠となった。
宴を主催した大伴旅人は、歌だけを詠んで生きた人物ではない。
朝廷では中納言まで昇り、720年に南九州で隼人が反乱を起こすと、征隼人持節大将軍として派遣された。
古くから朝廷の軍事を担ってきた大伴氏の一員として軍勢を率い、晩年には大宰府の長官として再び九州へ赴く。
そこで妻を失い、山上憶良らと交流しながら、多くの歌を残した。
将軍、政治家、歌人。
一見すると異なる三つの姿が、大伴旅人の人生では一つにつながっている。
1.軍事氏族・大伴氏に生まれる
大伴旅人は天智4年(665)生まれとされる。
父は大伴安麻呂。
大伴氏は古くから朝廷の軍事を担ってきた有力氏族で、大伴室屋や大伴金村など、一族からは朝廷の中枢で活動する人物が現れていた。
旅人もその家に生まれ、官人としての道を歩んだ。
旅人の官歴が具体的にたどれるようになるのは奈良時代に入ってからである。
和銅3年(710)、正五位上・左将軍として確認される。
平城京への遷都が行われた年だった。
711年には従四位下、715年には従四位上へ進み、中務卿となる。
718年には中納言に任じられた。
旅人は50代になるころには、朝廷の高官として中央政界の中枢に入っていた。
その旅人に、大伴氏の軍事的伝統を思わせる大きな任務が与えられる。
720年。
南九州で隼人が蜂起した。
2.720年――隼人の反乱
養老4年(720)2月29日。
大宰府は朝廷に、隼人が反乱を起こし、大隅国守・陽侯史麻呂を殺害したと報告した。
『続日本紀』が伝える隼人の反乱である。
2月29日は大宰府から朝廷への報告日であり、反乱そのものが起きた正確な日や、陽侯史麻呂が殺害された詳しい状況までは分かっていない。
朝廷はすぐに征討軍を編成した。
3月4日。
中納言・正四位下の大伴旅人が征隼人持節大将軍に任命される。
副将軍には笠御室と巨勢真人が選ばれた。
旅人は天皇の権威を示す節を授けられ、南九州へ向かう征討軍の最高司令官となった。
当時の旅人は50代半ば。
すでに中納言として朝廷の中枢にいた人物である。
地方官だけに対応を任せず、中央の高官を大将軍として派遣したことからも、朝廷がこの反乱を重大な事態として受け止めていたことが分かる。
3.征隼人持節大将軍として九州へ
旅人が率いる征討軍は九州へ向かった。
『続日本紀』は、征討軍全体の兵数を記していない。
6月17日、朝廷は征討にあたる旅人らの働きをねぎらう使者を派遣した。
戦況は朝廷軍が優位に進んでいたとみられる。
そして8月12日。
旅人にはいったん京都へ戻るよう命令が下された。
同時に、副将軍以下については、隼人がまだ平定されていないため現地に残るよう命じられている。
旅人が帰京した時点で、戦争は完全には終わっていなかった。
征討はその後も続き、副将軍らが帰還するのは翌721年である。
旅人を「隼人を最後まで討ち平定した将軍」とするより、征隼人持節大将軍として反乱鎮圧の重要な段階を指揮した人物と捉える方が史料に沿っている。
隼人の反乱そのものについては、戦闘経過を扱った「隼人の反乱」の記事で詳しく追うことができる。
旅人にとって、この遠征が九州との最後の関わりになったわけではなかった。
数年後、今度は軍勢を率いる将軍ではなく、九州統治の最高責任者として戻ってくる。
4.中央政界から大宰帥へ
隼人征討から帰京した旅人は、中央政界でさらに昇進した。
720年10月には、同年8月に亡くなった藤原不比等へ太政大臣・正一位を追贈するための使者を務める。
721年には従三位。
724年には正三位へ進んだ。
軍事氏族・大伴氏の出身者でありながら、旅人の役割は軍事だけではなかった。
中納言として国政に関わり、朝廷の重要な政務や儀礼にも携わる公卿となっていたのである。
神亀4年(727)から5年(728)ごろ、旅人は大宰帥として九州へ赴任したと考えられている。
太宰府市は727年ごろ、奈良県立万葉文化館は727~728年ごろの着任としている。
720年の隼人征討に続く、二度目の九州だった。
5.大宰帥として再び九州へ
大宰府は九州諸国を統轄し、外交や防衛、外国使節への対応なども担う重要な行政機関だった。
その長官が大宰帥である。
かつて旅人は、征討軍の最高司令官として九州へ向かった。
晩年には、九州の行政と外交を担う高官として同じ土地へ戻った。
二度の九州で、旅人の役割は大きく異なる。
720年には軍事。
晩年には政治、外交、そして文化だった。
大宰府には官人や僧侶、大陸や朝鮮半島から伝わる文化が集まっていた。
その環境の中で、旅人の歌人としての姿が強く現れるようになる。
6.大宰府で妻を失う
大宰帥となった旅人は、着任後まもなく妻を失ったとされる。
『万葉集』には、妻の死を悼む旅人の歌が残る。
筑前守だった山上憶良も、旅人の妻を悼む歌を贈った。
旅人の歌作が大きく増えるのも、大宰帥として九州へ赴任してからである。
奈良県立万葉文化館では、旅人の作品を長歌1首、短歌65首と数えている。『懐風藻』にも漢詩1首が残る。
中央政界で長く活動してきた旅人が、大宰府で妻との死別、老い、都への思いを歌に残すようになった。
その作品には、政治家や将軍という肩書だけでは見えない旅人自身の感情が現れている。
7.山上憶良と筑紫歌壇
大宰府周辺には、旅人以外にも歌を詠む官人たちが集まっていた。
代表的な人物が山上憶良である。
憶良は筑前守として九州に赴任し、旅人と交流した。
小野老、沙弥満誓、大伴坂上郎女らも含め、筑紫では多くの歌が詠まれた。
後世、この文化的な交流は「筑紫歌壇」と呼ばれるようになる。
太宰府市は、728年から730年ごろの旅人を中心に、山上憶良らが盛んに歌を詠んだ活動を「万葉集筑紫歌壇」として紹介している。
大宰府は政治と外交の拠点であると同時に、大陸から新しい文化が入ってくる場所でもあった。
旅人の文学も、その環境の中で育っていった。
そして730年正月、旅人は自らの邸宅で大きな宴を開く。
8.730年正月13日――梅花の宴
天平2年(730)正月13日。
大伴旅人の邸宅に、大宰府や九州諸国の官人たちが集まった。
庭では梅が咲いていた。
当時の梅は中国大陸から伝わった珍しい花で、先進的な文化を象徴する植物の一つでもあった。
参加者たちは梅を眺め、酒を酌み交わしながら歌を詠んだ。
この日に詠まれたのが「梅花の歌三十二首」である。
旅人自身も一首を残している。
「わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」
庭に散る白梅を、空から流れてくる雪に見立てた歌である。
『万葉集』巻五・822番歌として収められ、太宰府市は漢詩の表現を踏まえた歌であることを紹介している。
梅花の宴は、大宰府に集まった官人たちが漢文学の教養を共有しながら、和歌を詠んだ場でもあった。
旅人の政治家としての立場と、文学者としての教養が交わった宴だった。
9.梅花歌序と「令和」
梅花の歌32首の前には、漢文で書かれた序文が置かれている。
その中に「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」という一節がある。
2019年、この文中の「令」と「和」が新元号「令和」の典拠となった。
「令和」の直接の典拠は、旅人自身の和歌ではない。
旅人の邸宅で行われた梅花の宴に付された『万葉集』の序文である。
この序文を書いた人物は確定していない。
大伴旅人説、山上憶良説、宴に参加した別の官人とする説などがあり、古くから議論が続いている。旅人説を有力とする研究も多いが、作者不詳とする見方もある。
一方、宴を主催した人物が旅人だったことは確認できる。
政府は2019年、「令和」を歴史上初めて日本の古典を典拠とした元号と説明した。梅花歌序そのものには、中国古典や漢文学からの影響も指摘されている。
720年、旅人は征討軍を率いて九州へ向かった。
その10年後。
同じ九州で開いた宴の記録が、1,300年近い時間を経て新しい元号につながることになった。
10.酒と漢文学
旅人の作品でよく知られているものに「讃酒歌」と呼ばれる一連の13首がある。
酒を題材とし、世間の理屈や名誉よりも酒を楽しむ姿勢を詠んだ作品群である。
その背景には、中国の文学や思想から受けた影響も指摘されている。
旅人は和歌だけの人物ではなかった。
『懐風藻』には漢詩も残る。
梅花歌序にも中国文学の表現が数多く取り込まれている。
朝廷の高官として政治や外交に関わり、大陸文化が集まる大宰府で暮らした旅人の教養は、晩年の文学にも現れている。
歌人としての旅人と、政治家としての旅人は別々の存在ではなかった。
長く朝廷に仕えた人生の中から、その歌は生まれていた。
11.730年11月――大納言として帰京
梅花の宴から約10か月後。
天平2年(730)11月、旅人は大納言に任じられた。
『万葉集』の題詞では、大宰帥を兼ねたまま上京したとされる。
奈良県立万葉文化館も、11月に大納言となって大宰府から帰京したと整理している。
大納言は太政官の上位に位置する高官である。
大伴氏の旅人は、晩年に朝廷最高幹部の一人まで昇った。
翌天平3年(731)1月には従二位へ進む。
しかし、都へ戻った後の時間は長くなかった。
同年7月25日、大伴旅人は死去した。
『懐風藻』は67歳だったと伝える。
旅人の子・大伴家持は、後に越中守などを務めながら数多くの歌を残し、『万葉集』の編纂に深く関わった人物と考えられている。
父・旅人が大宰府で歌を交わした山上憶良らの作品も、後世まで『万葉集』に残った。
旅人が最初に九州へ向かった720年、彼は隼人征討軍を率いる将軍だった。
730年、大宰府を去る直前の旅人は、梅花の宴を開いた歌人であり、九州の政治・外交を担う大宰帥だった。
軍事氏族・大伴氏の一員として朝廷に仕え、政権中枢まで昇りながら、晩年には奈良時代を代表する歌を残した。
大伴旅人の生涯には、奈良時代の軍事、政治、外交、そして文学が同じ一本の人生として刻まれている。
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大伴旅人が愛した「梅」。
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