【人物編 Vol.6】山背大兄王――なぜ蘇我入鹿に滅ぼされたのか? 聖徳太子の一族、最後の日

人物

第17回

643年11月1日。

蘇我入鹿の命を受けた軍勢が、斑鳩の山背大兄王を襲撃した。

王に仕える三成は数十人の舎人を率いて迎え撃ち、攻撃側の将・土師娑婆連を戦死させる。

その間に山背大兄王は妃や子どもたちを連れ、斑鳩から脱出した。

逃れた先は生駒山だった。

家臣からは東国へ向かい、兵を集めて戦う道を勧められた。

山背大兄王も、その策なら勝てるだろうと答えている。

それでも兵を挙げなかった。

自分一人のために万民を苦しませたくない。

『日本書紀』は、そのような言葉を山背大兄王の最期に残している。

数日後、王は生駒山から斑鳩へ戻り、子どもや妃たちとともに命を絶った。

厩戸皇子の死から21年。

斑鳩を本拠としてきた上宮王家は、蘇我入鹿の攻撃によって壊滅した。

しかし山背大兄王の母は、蘇我馬子の娘だった。

王自身にも蘇我氏の血が流れている。

なぜ蘇我氏と深い血縁を持つ厩戸皇子の子が、蘇我入鹿によって一族ごと滅ぼされることになったのか。

その生涯を追っていく。


厩戸皇子と蘇我馬子の娘の間に生まれる

山背大兄王の生年は分かっていない。

父は厩戸皇子。後世に聖徳太子と呼ばれる人物である。

母は刀自古郎女。

蘇我馬子の娘だった。

山背大兄王は厩戸皇子の子として生まれ、父方では天皇家、母方では当時の朝廷で大きな力を持っていた蘇我氏につながっていた。

母方の祖父にあたる蘇我馬子は、敏達、用明、崇峻、推古の四代にわたって大臣を務めた。

一方、父の厩戸皇子は用明天皇の皇子であり、推古朝で重要な地位を占めた皇族だった。

山背大兄王は、この二つの系譜を受け継いで生まれた。

のちに皇位継承をめぐって山背大兄王の名が浮上した背景には、この血統と、父から受け継いだ斑鳩の基盤があった。


601年――父・厩戸皇子が斑鳩宮を造る

推古天皇9年、601年。

厩戸皇子は大和国斑鳩に宮を造り始めた。

斑鳩宮である。

『日本書紀』によれば、厩戸皇子は605年に斑鳩宮へ移った。

その近くには斑鳩寺も建立された。現在の法隆寺につながる寺院である。

斑鳩は厩戸皇子とその家族にとって重要な本拠となった。

山背大兄王も、やがてこの斑鳩を基盤とする皇族集団の中心人物となっていく。

後世、この一族は上宮王家と呼ばれる。

父が築いた斑鳩は、のちに山背大兄王の最期の舞台となった。


622年――厩戸皇子の死

622年2月。

厩戸皇子が死去した。

山背大兄王は父を失い、斑鳩に残された王家の中心人物となっていく。

法起寺には、厩戸皇子が死に臨み、自らの岡本宮を寺とするよう山背大兄王へ遺命したという伝承が残る。

この話は『日本書紀』の記事ではない。

鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』に引用された法起寺三重塔の露盤銘に基づく由緒である。

その銘によれば、山背大兄王は大倭国の田12町、近江国の田30町を寺へ施入したという。

厩戸皇子の死から4年後。

山背大兄王の母方の祖父・蘇我馬子も世を去った。


626年――蘇我馬子の死

626年、蘇我馬子が死去した。

蘇我氏の大臣の地位は、馬子の子・蘇我蝦夷へ受け継がれていく。

山背大兄王にとって、蝦夷は母方の叔父にあたる。

馬子の死から2年後。

36年間にわたって在位した推古天皇も死去した。

次の天皇を誰にするのか。

山背大兄王は、皇位継承をめぐる争いの中心へ立つことになった。


628年――推古天皇死去

628年3月。

推古天皇が死去した。

厩戸皇子はすでに亡く、次の天皇を誰にするのかが問題となった。

有力な候補として浮上したのが二人の皇族である。

一人は田村皇子。

敏達天皇の皇子・彦人大兄皇子の子で、のちの舒明天皇である。

もう一人が山背大兄王だった。

『日本書紀』によれば、推古天皇の葬礼を終えた9月になっても後継者は決まっていなかった。

大臣・蘇我蝦夷は群臣を自邸へ集め、誰を次の天皇とするべきか意見を求めた。

そこで問題となったのが、推古天皇が生前、田村皇子と山背大兄王に語った言葉だった。

田村皇子には、天下を治めることは重大であり、慎重に行うようにという趣旨の言葉。

山背大兄王には、自分だけで騒がず、群臣の言葉に従うようにという趣旨の言葉が伝えられていた。

この二つの言葉をどう受け取るかをめぐって、群臣の判断は分かれた。


田村皇子か、山背大兄王か

蘇我蝦夷の邸宅で開かれた会合では、大伴鯨が田村皇子を支持した。

采女摩礼志、高向宇摩、中臣弥気、難波吉士身刺らも同調した。

一方、許勢大麻呂、佐伯東人、紀塩手らは山背大兄王を支持した。

蘇我氏の内部でも意見は一致していなかった。

山背大兄王を強く支持したのが境部摩理勢である。

摩理勢は蘇我馬子の弟とされ、蘇我氏の有力者だった。

『日本書紀』によれば、蝦夷から誰を天皇とすべきか尋ねられた摩理勢は、山背大兄王を推すと明言した。

皇位継承をめぐる争いは、皇族だけでなく蘇我氏内部にも亀裂を生んだ。


山背大兄王が蘇我蝦夷へ真意を問う

山背大兄王は斑鳩宮にいた。

やがて、蝦夷が田村皇子を天皇にしようとしているという話が王のもとへ届いた。

山背大兄王は三国王と桜井臣和慈古を蝦夷のもとへ送り、その真意を尋ねた。

蝦夷は、自分一人の考えで皇位を決めようとしているのではなく、推古天皇が残した言葉を群臣へ伝え、その意見を聞いていると説明した。

『日本書紀』には、このとき山背大兄王と蝦夷の間で使者を介して交わされた長いやり取りが記録されている。

山背大兄王がただちに兵を挙げた様子はない。

一方、王を支持した境部摩理勢と蝦夷の関係は急速に悪化していった。


境部摩理勢の死

当時、蘇我氏では亡き馬子の墓を造るため、一族が集まっていた。

摩理勢は墓所に設けられていた仮屋を壊し、蘇我氏の田家へ退いた。

蝦夷は摩理勢に考えを改めるよう求めたが、摩理勢は従わなかった。

その後、摩理勢は斑鳩へ向かい、泊瀬王の宮に入った。

蝦夷は山背大兄王へ使者を送り、摩理勢を引き渡して事情を調べたいと申し入れた。

山背大兄王は、摩理勢が父・厩戸皇子から親しくされた人物であることを述べたうえで、摩理勢本人に対し、一人のために天下を乱してはならないと説いた。

その際、父が臨終にあたって子どもたちへ「諸悪莫作、諸善奉行」と戒めたという言葉も挙げている。

摩理勢は斑鳩を離れ、自宅へ戻った。

十数日後、摩理勢が頼りとしていた泊瀬王が病死する。

その後、蝦夷は兵を送り、摩理勢とその子・阿椰を殺害した。

山背大兄王を支持した蘇我氏の有力者が、皇位継承争いの中で命を落とした。


629年――田村皇子が舒明天皇となる

629年1月。

蘇我蝦夷と群臣は天皇の璽印を田村皇子へ献じた。

田村皇子は一度辞退した後、群臣の要請を受けて即位する。

第34代・舒明天皇である。

山背大兄王は皇位につかなかった。

628年の皇位継承は、田村皇子と山背大兄王の二人だけで決まったものではない。

推古天皇の言葉をどう受け取るかをめぐって群臣の意見が割れ、蘇我氏内部でも山背大兄王を支持する者が現れた。

その中で田村皇子が選ばれた。

山背大兄王は斑鳩に残った。

その後、舒明天皇の在位中に山背大兄王が大規模な政治行動を起こしたことは、『日本書紀』には記されていない。


641年――舒明天皇死去

641年10月、舒明天皇が死去した。

翌642年、舒明天皇の皇后だった宝皇女が即位する。

第35代・皇極天皇である。

蘇我氏では蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の中心へ進出していた。

『日本書紀』は皇極元年の記事で、蝦夷が自らと入鹿の墓を造らせ、そのために多くの人々を動員したことなどを記している。

そして皇極2年、643年。

入鹿は上宮王家の排除へ動いた。


643年――入鹿は古人大兄皇子を天皇にしようとする

『日本書紀』は、蘇我入鹿が上宮王らを廃し、古人大兄皇子を天皇に立てようと企てたと記している。

古人大兄皇子は舒明天皇の皇子だった。

母は蘇我馬子の娘・法提郎女であり、古人大兄皇子にも蘇我氏の血が流れていた。

一方の山背大兄王は、628年の皇位継承で有力候補となった人物である。

父は厩戸皇子、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女。

斑鳩には父から受け継いだ上宮王家の基盤が残っていた。

『日本書紀』は、入鹿が上宮王らの威名が天下に広がっていることを深く忌んだとも記している。

643年11月。

入鹿は武力による排除へ動いた。


643年11月1日――斑鳩襲撃

11月1日。

入鹿は小徳・巨勢徳太臣と大仁・土師娑婆連に兵を率いさせ、斑鳩にいた山背大兄王らを襲わせた。

『日本書紀』には、別伝として巨勢徳太臣と倭馬飼首を将軍とする記録も載せられている。

王に仕える三成は、数十人の舎人を率いて迎え撃った。

三成たちの抵抗は激しかった。

攻撃側の土師娑婆連が矢を受けて戦死する。

軍勢は恐れて退いた。

『日本書紀』は、兵士たちが三成について「一人で千人に当たる者とは、この人物のことだろう」と語り合ったと伝えている。

その間に、山背大兄王は斑鳩から脱出した。


馬の骨を残し、生駒山へ逃れる

山背大兄王は宮殿の寝所に馬の骨を置き、妃や子ども、一族を連れて脱出した。

三輪文屋君、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿部堅経らも王に従った。

一行は生駒山へ逃れた。

攻撃軍は宮を焼いた。

焼け跡から骨を見つけると、それを山背大兄王の遺骨だと思い、包囲を解いて退いた。

寝所に残した馬骨によって、自分が焼け死んだように見せかけたのである。

山背大兄王は生き延びた。

しかし一行は山中で4、5日を過ごし、十分な食べ物や飲み物も得られなかった。

そこで家臣の三輪文屋君が一つの策を進言する。


「東国へ行けば、勝つことができる」

三輪文屋君は山背大兄王に、深草屯倉へ移り、そこから馬に乗って東国へ向かうよう勧めた。

東国には王家に属する乳部がある。

そこを頼って兵を集め、入鹿と戦うという策だった。

山背大兄王は、その方法なら勝つことができるだろうと答えた。

しかし王は戦争を選ばなかった。

『日本書紀』によれば、山背大兄王は、自分一人のために百姓を長く労役に使うことを望まず、後世の人々から「山背大兄王のために父母を失った」と言われたくないという趣旨の言葉を語った。

さらに、自らの身を捨てて国を固めることこそ丈夫の行いであると続けている。

この発言を実際の言葉としてそのまま受け取ることはできない。

『日本書紀』は山背大兄王の最期を描くなかで、王を民のために戦争を避けた人物として顕彰している。

一方で、東国へ逃れて兵を集めるという具体的な再起案が記されている。

山背大兄王には、戦う道も示されていた。

王はそれを選ばなかった。


山背大兄王の生存を知った入鹿

生駒山に隠れていた山背大兄王を、遠くから見つけた者がいた。

王が生きているという知らせは入鹿へ届いた。

入鹿は驚き、高向国押に生駒山へ向かって王を捕らえるよう命じた。

国押は、皇極天皇の宮を守る任務があるとしてこれを拒んだ。

入鹿は自ら山へ向かおうとした。

そこへ古人大兄皇子が現れる。

入鹿から事情を聞いた古人大兄皇子は、

「鼠は穴にいれば生き、穴を失えば死ぬ」

という趣旨の言葉を語った。

入鹿は自ら出陣することをやめ、軍勢を山へ送った。

しかし山背大兄王を見つけることはできなかった。


山背大兄王、斑鳩寺へ戻る

山背大兄王には、東国へ逃れて兵を集める道が残されていた。

王は生駒山を下り、斑鳩へ戻った。

向かった先は斑鳩寺だった。

父・厩戸皇子が建立した寺である。

入鹿側の軍勢は斑鳩寺を包囲した。

山背大兄王は三輪文屋君を使者として送り、自らの考えを伝えた。

自分が兵を起こして入鹿を討てば、勝つことはできる。

しかし自分一人のために民を傷つけることは望まない。

だから自分の身を入鹿へ与える。

『日本書紀』は、そのような言葉を王の最期に記している。

そして山背大兄王は、子どもたちや妃妾とともに自ら命を絶った。


上宮王家の滅亡

『日本書紀』は山背大兄王の最期について、子弟や妃妾が同時に自ら命を絶ったと記している。

王一人の死ではなかった。

山背大兄王と行動をともにしていた近親者たちも命を絶ち、厩戸皇子を中心として斑鳩に形成されてきた上宮王家は壊滅した。

現在の法隆寺東院伽藍が建つ一帯は、厩戸皇子の斑鳩宮があった場所とされる。

父が宮を構えた斑鳩で、その子・山背大兄王と一族は最期を迎えた。


五色の幡蓋が空に現れたという説話

山背大兄王らの死について、『日本書紀』は不思議な出来事も続けて記している。

王と一族が命を絶ったとき、五色の幡蓋やさまざまな伎楽が空に輝き、寺の上へ垂れ下がったという。

人々は空を見上げて驚き、そのことを入鹿へ知らせた。

すると幡蓋は黒い雲に変わり、入鹿には見ることができなかった。

これは史実として扱うものではない。

山背大兄王を顕彰し、その一族を滅ぼした入鹿を批判する色彩を持った『日本書紀』の説話である。


父・蘇我蝦夷は入鹿を叱責する

山背大兄王らが全滅したという知らせは、蘇我蝦夷にも届いた。

入鹿の父であり、蘇我氏本宗家の当主だった。

『日本書紀』によれば、蝦夷は激怒した。

そして入鹿に対し、あまりにも愚かであり、暴悪をほしいままにしたため、お前自身の命も危うくなるだろうという趣旨の言葉を浴びせた。

628年の皇位継承では、蘇我氏の境部摩理勢が山背大兄王を支持して命を落とした。

643年には入鹿が上宮王家を滅ぼし、その行動を父・蝦夷が激しく非難した。

山背大兄王と蘇我氏の関係は、最後まで複雑だった。

山背大兄王自身が蘇我馬子の孫であり、その山背大兄王を滅ぼした入鹿も馬子の孫だった。


645年――蘇我入鹿の最期

山背大兄王の死から2年後。

645年6月。

皇極天皇が出御する飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿は中大兄皇子や中臣鎌足らによって襲撃された。

乙巳の変である。

入鹿は宮中で殺され、翌日には父・蝦夷も自邸に火を放って死んだ。

蘇我氏本宗家はここで滅亡する。

『日本書紀』が山背大兄王の死を描いた直後に置いた蝦夷の言葉は、2年後の入鹿の最期を予告するような構成になっている。

山背大兄王が実際にどれほどの軍事力を動かせたのかは分からない。

史料から確認できるのは、628年の皇位継承で群臣の一部から支持され、643年には入鹿が軍勢を送り込んで排除したことである。

最後には東国へ逃れ、兵を集めて戦う道も示された。

『日本書紀』の山背大兄王は、その道を選ばない。

生駒山を下り、父の残した斑鳩へ戻った。

643年11月。

厩戸皇子の死から21年後、斑鳩を本拠としてきた上宮王家は、山背大兄王とともに政治の表舞台から姿を消した。

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山背大兄王/小原良文/著

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