第18回
645年6月。
飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿が殺された。
中大兄皇子、中臣鎌足らによる乙巳の変である。
入鹿の遺体は父・蘇我蝦夷のもとへ送られた。
蝦夷の周囲には、まだ武装した東漢氏らが集まっていた。戦おうとすれば、抵抗する力は残されていた。
しかし兵たちは次第に離れていく。
翌日、蝦夷は『天皇記』『国記』などを焼き、自害した。
父・蘇我馬子の死後に大臣となり、推古末年から舒明・皇極朝にかけて政局の中心にいた男の最期だった。
蝦夷は、蘇我入鹿の父として語られることが多い。
だが628年の皇位継承では群臣の意見を集め、山背大兄王を支持した蘇我氏内部の反対派と対立した。
643年には入鹿へ大臣に相当する地位を与えながら、その入鹿が山背大兄王一族を滅ぼすと激怒している。
父・馬子から受け継いだ巨大な権力は、蝦夷の時代を経て息子・入鹿へ渡った。
その先に待っていたのが、645年の蘇我本宗家滅亡だった。
蘇我馬子の子として生まれる
蘇我蝦夷の生年は分かっていない。
父は蘇我馬子。
祖父は蘇我稲目である。
蘇我氏は稲目の時代から朝廷で勢力を伸ばし、馬子の時代には物部守屋との戦いに勝利した。
馬子は敏達、用明、崇峻、推古の四代にわたって大臣を務め、推古朝では厩戸皇子とともに政治の中心にいた。
592年には崇峻天皇暗殺にも関与し、その後に推古天皇が即位する。
蘇我氏は天皇家との婚姻も重ねていた。
馬子の娘・刀自古郎女は厩戸皇子との間に山背大兄王をもうけ、別の娘・法提郎女は田村皇子との間に古人大兄皇子をもうけている。
蝦夷が生きた時代の皇位継承には、こうした蘇我氏との血縁が複雑に絡んでいた。
626年――父・蘇我馬子の死
626年5月。
蘇我馬子が死去した。
『日本書紀』は馬子について、武略と弁才を備え、三宝を敬った人物と記している。
長く蘇我氏を率いてきた馬子の死後、その地位を継いだのが蝦夷だった。
628年には、蝦夷は大臣として朝廷の政治を動かす立場にいた。
父の死からわずか2年後。
蝦夷は最初の大きな政治問題に直面する。
推古天皇の死である。
628年――推古天皇の後継者が決まらない
628年3月。
推古天皇が死去した。
在位36年。
厩戸皇子はすでに622年に亡くなっており、次の天皇を誰にするのかが問題となった。
候補として浮上したのが、田村皇子と山背大兄王だった。
田村皇子は敏達天皇の皇子・彦人大兄皇子の子。
山背大兄王は厩戸皇子の子で、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女だった。
9月になって推古天皇の葬礼が終わっても、後継者は決まっていなかった。
『日本書紀』によれば、蝦夷は自分だけで皇位継承者を決めようとしたものの、群臣が従わないことを恐れ、阿倍麻呂と相談した。
そして群臣を自邸へ集め、推古天皇が生前に田村皇子と山背大兄王へ残した言葉を示した。
誰を天皇にするべきか。
蝦夷は群臣に意見を求めた。
田村皇子派と山背大兄王派
群臣の意見は割れた。
大伴鯨は田村皇子を支持した。
采女摩礼志、高向宇摩、中臣弥気、難波吉士身刺らも同調する。
一方、許勢大麻呂、佐伯東人、紀塩手らは山背大兄王を支持した。
蘇我倉麻呂は、その場での明言を避けた。
蝦夷は群臣の意見が一致していないことを知り、その日のうちに決着をつけることができなかった。
蘇我氏の内部にも山背大兄王を推す人物がいた。
境部摩理勢である。
摩理勢は蘇我馬子の弟とされ、蘇我氏の有力者だった。
蝦夷が誰を天皇にすべきか尋ねると、摩理勢は山背大兄王を推すと明言した。
皇位継承をめぐる意見の違いは、やがて蝦夷と摩理勢の対立へ発展していく。
山背大兄王から届いた問い
山背大兄王は斑鳩宮にいた。
蝦夷が田村皇子を天皇にしようとしているという話を聞くと、三国王と桜井臣和慈古を使者として送り、その真意を尋ねた。
山背大兄王は蝦夷を「叔父」と呼んでいる。
山背大兄王の母・刀自古郎女が蝦夷の姉妹だったためである。
蝦夷は一人で返答せず、阿倍臣、中臣連、紀臣、河辺臣、高向臣、采女臣、大伴連、許勢臣らを呼び集めた。
そして、自分が勝手に後継者を決めようとしているのではなく、推古天皇の残した言葉を群臣へ示したのだと説明させた。
山背大兄王側も、推古天皇から自分が聞いた言葉はそれとは少し違うと反論している。
628年の皇位継承では、推古天皇の言葉そのものについて双方の認識が一致していなかった。
蝦夷は群臣と山背大兄王の間で使者を往復させながら、後継者を決めようとしていた。
境部摩理勢との決裂
対立が激しくなったのは境部摩理勢だった。
当時、蘇我氏の一族は亡き馬子の墓を造っていた。
摩理勢は墓所に設けられていた仮屋を壊し、蘇我氏の田家へ退いた。
蝦夷は使者を送り、考えを改めるよう求めた。
それでも摩理勢は従わず、斑鳩にある泊瀬王の宮へ入った。
蝦夷はさらに使者を山背大兄王へ送り、摩理勢が泊瀬王宮にいる事情を調べたいと申し入れた。
山背大兄王は、摩理勢が父・厩戸皇子から親しくされた人物であることを述べたうえで、摩理勢本人に対し、一人のために天下を乱してはならないと説いた。
その際、父が子どもたちへ「諸悪莫作、諸善奉行」と戒めたという言葉も挙げている。
摩理勢は斑鳩を離れ、自宅へ戻った。
十数日後、頼りとしていた泊瀬王が病死する。
その後、蝦夷は兵を送った。
摩理勢は次男の阿椰とともに自宅の門前で待ち、来目物部伊区比によって絞殺された。
長男の毛津も逃亡した末、畝傍山で自ら首を刺して死んだ。
皇位継承をめぐる蘇我氏内部の対立は、同族の死にまで発展した。
629年――田村皇子を天皇へ
629年1月。
蝦夷と群臣は天皇の璽印を田村皇子へ献じた。
田村皇子は一度辞退した後、群臣の要請を受けて即位する。
第34代・舒明天皇である。
山背大兄王は皇位につかなかった。
蝦夷はその後も大臣として政権に残った。
舒明朝の『日本書紀』にも、蝦夷が政治に関わる記事が見える。
636年には、大派王が群臣や官人の朝参が怠慢になっているとして、朝廷への出仕時間を鐘で定めるよう蝦夷へ求めた。
しかし『日本書紀』は、蝦夷がこれに従わなかったと記している。
父・馬子から受け継いだ大臣の地位は、舒明朝でも蝦夷の政治的基盤となっていた。
641年――舒明天皇の死
641年10月。
舒明天皇が百済宮で死去した。
翌642年1月、皇后だった宝皇女が即位する。
第35代・皇極天皇である。
蝦夷は引き続き大臣だった。
だが『日本書紀』は、皇極天皇即位の記事で蝦夷の子・入鹿を強く取り上げている。
入鹿が自ら国政を執り、その威勢は父を上回ったという。
盗賊さえ恐れ、道に落ちた物を拾わなかったと記されるほどだった。
蘇我氏の政治的な中心は、父から息子へ移り始めていた。
642年――生前に「大陵」と「小陵」を造る
皇極元年、642年。
『日本書紀』は、蝦夷が葛城の高宮に祖廟を建て、八佾の舞を行わせたと記している。
同じ年、蝦夷は国中の民と百八十の部曲を動員し、今来に二つの墓を造らせた。
蝦夷の墓を「大陵」。
入鹿の墓を「小陵」と呼んだ。
『日本書紀』によれば、その目的は自分たちが死んだ後、人々を墓造営の労役に使わないためだった。
ところが墓造営には、山背大兄王ら上宮王家に属する乳部の人々まで動員された。
これに上宮大娘姫王が怒った。
『日本書紀』は、蘇我氏が国政をほしいままにし、無礼な行為を重ねているという批判を彼女の言葉として載せている。
この記述には、後に滅亡する蘇我氏へ向けられた『日本書紀』の厳しい視線も表れている。
同時に、蝦夷と入鹿父子が大規模な人員を動員できる力を持っていたこともうかがえる。
643年――蝦夷が入鹿へ紫冠を与える
643年10月。
蝦夷は病気を理由に朝廷へ出なくなった。
その際、異例の行動を取った。
『日本書紀』によれば、蝦夷は息子・入鹿へ私的に紫冠を授け、「大臣の位に擬した」。
天皇による正式な大臣への任命ではなかった。
蝦夷が自らの権威によって、息子を大臣に相当する地位へ置いたのである。
さらに入鹿の弟を「物部大臣」と呼ばせたとも記されている。
蝦夷から入鹿への権力移譲は、ここまで進んでいた。
その直後、入鹿は山背大兄王の排除へ動く。
入鹿、山背大兄王を滅ぼす
『日本書紀』によれば、入鹿は上宮王らを廃し、古人大兄皇子を天皇に立てようと企てた。
さらに、上宮王らの威名が天下に広がっていることを深く忌んだとも記している。
古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、母・法提郎女は蘇我馬子の娘である。
同年11月1日。
入鹿は巨勢徳太臣と土師娑婆連らに兵を率いさせ、斑鳩の山背大兄王を襲撃した。
山背大兄王は生駒山へ逃れた後、斑鳩寺へ戻り、子どもや妃たちとともに自ら命を絶った。
厩戸皇子を祖とする上宮王家は壊滅した。
この知らせを聞いた蝦夷は激怒した。
『日本書紀』によれば、蝦夷は入鹿に対し、あまりにも愚かで、暴悪をほしいままにした、お前自身の命も危うくなるだろうという趣旨の言葉を浴びせた。
蝦夷自身が入鹿へ紫冠を与え、大臣に相当する地位へ押し上げていた。
その蝦夷が、上宮王家を滅ぼした入鹿を激しく非難した。
父子の政治判断は、ここで食い違っていた。
644年――甘樫丘の邸宅
644年11月。
蝦夷と入鹿は甘樫丘にそれぞれ邸宅を築いた。
『日本書紀』は、蝦夷の家を「上宮門」、入鹿の家を「谷宮門」と呼び、そこに仕える男女を「王子」と呼ばせたと記している。
邸宅の外には城柵を設け、門のそばには兵庫を置いた。
各門には火災に備えて水を入れた舟と木鉤を用意し、力の強い者に武器を持たせて警護させた。
蝦夷が外出するときには、50人の兵士が周囲を警護したとも記される。
『日本書紀』が描く蝦夷・入鹿父子の邸宅は、武器と兵を備えたものだった。
蘇我氏の権勢が頂点に達していた時期である。
中臣鎌足と中大兄皇子
644年。
中臣鎌足は中大兄皇子へ接近した。
『日本書紀』では、法興寺の槻の木の下で蹴鞠をしていた際、中大兄皇子の革靴が脱げ、鎌足が拾って差し出したことから二人が親しくなったとする。
二人は南淵請安のもとへ学びに通う道中で、密かに相談を重ねた。
やがて蘇我倉山田石川麻呂も計画へ加わる。
石川麻呂は蘇我氏の一族だった。
蝦夷・入鹿父子に対抗する側にも蘇我氏の一員が加わっていた。
そして645年6月。
計画が実行に移された。
645年6月12日――入鹿暗殺
645年6月12日。
皇極天皇が出御した飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿は中大兄皇子・中臣鎌足らによって殺された。
乙巳の変である。
入鹿の遺体は、その日のうちに蝦夷のもとへ送られた。
中大兄皇子は法興寺へ入り、そこを拠点として備えた。
皇子、王、群臣らが次々と中大兄皇子側へ集まっていく。
一方、蝦夷のもとには東漢氏らが集まった。
彼らは甲冑を身につけ、武器を手にして軍陣を構えた。
入鹿は殺された。
しかし蝦夷のもとには、まだ戦う者たちが残っていた。
蝦夷のもとから兵が離れていく
中大兄皇子側から説得が行われると、蝦夷側の陣営は崩れ始めた。
『日本書紀』によれば、高向国押は東漢氏らに対し、自分たちは入鹿のために処刑されることになるだろう、蝦夷も今日か明日には討たれる、それなのに誰のために戦って皆殺しにされるのかという趣旨の言葉を語った。
国押は剣を外し、弓を投げ捨てて立ち去った。
兵たちも後に続いた。
武装した者たちに囲まれていた蝦夷は、急速に孤立していった。
翌日。
討伐を目前にして、蝦夷は最後の行動に出る。
645年6月13日――蘇我蝦夷の最期
6月13日。
『日本書紀』は、蝦夷らが処刑されようとするなか、『天皇記』『国記』と珍宝をことごとく焼いたと記している。
そのとき船史恵尺が、燃やされようとしていた『国記』を急いで取り出した。
『国記』は中大兄皇子へ献上された。
『天皇記』は、その後の記録に姿を見せない。
蝦夷はこの日、自害した。
そして『日本書紀』は、蝦夷と入鹿の遺体を墓へ葬ることが許され、一族が泣いて死を悼むことも認められたと記している。
蘇我氏そのものが消滅したわけではない。
乙巳の変に協力した蘇我倉山田石川麻呂をはじめ、蘇我氏の傍系はその後も朝廷に残っていく。
ここで政治の中心から消えたのは、馬子から蝦夷、入鹿へ続いた蘇我氏本宗家だった。
628年、推古天皇が死去したとき、蝦夷は群臣を集め、次の天皇を決める政局の中心にいた。
それから17年。
自ら大臣に相当する地位へ押し上げた息子は宮中で殺され、武装して集まった人々も蝦夷のもとを離れた。
645年6月13日。
蘇我馬子から巨大な政治的基盤を受け継いだ蝦夷は、『天皇記』『国記』を焼き、その生涯を終えた。


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