第36回
757年(天平勝宝9歳)7月2日。
藤原仲麻呂のもとへ、一人の官人から密告が入った。
告発したのは上道斐太都。
橘奈良麻呂らが藤原仲麻呂を排除し、皇太子・大炊王を退け、新たな天皇を立てようとしているという内容だった。
翌3日。
奈良麻呂をはじめ、黄文王、安宿王、塩焼王らが相次いで拘束される。
計画されていたとされる襲撃は、実行に移される前に止められた。
しかし、事件はここでは終わらない。
光明皇太后の詔によっていったん許された者たちも、翌4日の尋問をきっかけに再び厳しく追及された。
その過程で黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人らが杖下に命を落とす。
一方、事件の中心人物とされた橘奈良麻呂本人について、『続日本紀』はその最期を明記していない。
後世「橘奈良麻呂の変」と呼ばれる政変は、なぜ大規模な戦闘へ進むことなく終わったのか。
その背景には、10年以上続いていた皇位継承をめぐる緊張と藤原仲麻呂の台頭、そして計画内部から相次いだ密告があった。
1.橘諸兄の子・奈良麻呂
橘奈良麻呂は、左大臣まで昇った橘諸兄の子である。
母は藤原不比等の娘・多比能とされる。
740年に従五位下となり、その後、大学頭、摂津大夫、民部大輔、参議などを歴任した。
757年6月には右大弁となっている。
奈良麻呂は、父・諸兄が政権の中心にいた時代に官人として成長した。
しかし朝廷内部では、藤原仲麻呂がしだいに勢力を拡大していく。
755年、諸兄は酒席での発言を密告される。
聖武太上天皇は罪に問わなかったものの、諸兄は翌756年に左大臣を辞任し、757年1月に亡くなった。
奈良麻呂が事件へ踏み込むころ、父が築いた政治的基盤はすでに失われつつあった。
ただし、奈良麻呂が皇位継承問題へ関わろうとしたのは757年になってからではない。
その動きは、少なくとも745年までさかのぼる。
2.745年――皇位継承をめぐる最初の計画
天平17年(745)。
聖武天皇が重い病に伏した。
757年7月の尋問記録によれば、このころ奈良麻呂は佐伯全成に接触し、皇位継承をめぐる計画への協力を求めたとされる。
奈良麻呂は黄文王を皇位候補として意識し、大伴氏や佐伯氏の力を借りようとしていたという。
これは、12年後に行われた尋問によって知られる内容である。
しかも757年の尋問では、後に拷問による死者まで出ている。
そのため、供述に記された計画の細部すべてを、そのまま745年当時の事実として受け取ることには慎重であるべきだろう。
それでも、奈良麻呂が757年になって突然皇位問題へ関心を持ったわけではないことは、この供述からうかがえる。
3.756年――聖武太上天皇の死
天平勝宝8歳(756)5月。
聖武太上天皇が亡くなった。
遺詔によって皇太子に立てられたのが道祖王である。
道祖王は天武天皇の皇子・新田部親王の子で、孝謙天皇の後継者となる立場に置かれた。
しかし翌757年3月29日、道祖王は皇太子を廃された。
『続日本紀』では、聖武太上天皇の服喪中の行状などが問題とされたと記されている。
後継の皇太子を誰にするかをめぐって、朝廷内部では再び皇族の選定が行われた。
右大臣・藤原豊成や藤原永手は塩焼王を推し、大伴古麻呂らは池田王を推したとされる。
その中で選ばれたのが、大炊王だった。
4.4月4日――大炊王が皇太子となる
757年4月4日。
大炊王が皇太子となった。
大炊王は舎人親王の子で、天武天皇の孫にあたる。
立太子以前から藤原仲麻呂の田村第で暮らしており、仲麻呂と深い関係にあった。
奈良文化財研究所の年表でも、4月4日に田村第から大炊王を迎えて皇太子としたことが確認できる。
745年ごろから皇位継承への関与を試みていたとされる奈良麻呂にとって、この立太子は大きな政治的変化だった。
その後、奈良麻呂は大伴氏・佐伯氏・多治比氏などの人物と接触し、藤原仲麻呂排除へ向けた動きを強めていったとされる。
5.黄文王――長屋王の子
奈良麻呂らの計画で重要な位置にいた皇族が黄文王である。
黄文王は聖武天皇の皇子ではない。
父は長屋王。
天武天皇の曾孫にあたる。
729年の長屋王の変で父・長屋王が自害した際、黄文王は兄の安宿王、弟の山背王らとともに助命された。
母が藤原不比等の娘だったことが、その背景にあったとされる。
757年の尋問記録では、奈良麻呂がすでに745年の段階から黄文王を皇位候補として意識していたとされる。
また、事件発覚後の供述には、黄文王ら4人の皇族から新たな天皇を立てる構想があったと記録されている。
皇位継承問題が、この事件の重要な要素だったことが分かる。
6.757年6月――繰り返された密議
6月。
奈良麻呂らは複数の場所で密議を重ねたとされる。
奈良麻呂の邸宅、図書寮付近、太政官院などで話し合いが行われた。
参加者には奈良麻呂のほか、黄文王、大伴古麻呂、小野東人、多治比犢養、賀茂角足らがいたとされる。
一方、朝廷側もまったく無警戒だったわけではない。
光明皇太后は不穏な動きを察知し、軽率な行動を慎むよう戒めていたとされる。
計画が進む一方、その気配はすでに外部へ漏れ始めていた。
7.6月28日――黄文王の弟・山背王が告発
6月28日。
孝謙天皇側へ重要な告発が入った。
告発者は山背王。
黄文王の弟であり、同じ長屋王の子である。
山背王は、奈良麻呂らが武器を準備し、藤原仲麻呂の田村第を包囲しようとしていると訴えた。
奈良麻呂側には黄文王が加わり、その実弟である山背王は計画を告発する側へ回った。
それでも、密議は完全には止まらなかった。
翌29日の夜には、黄文王らが太政官院へ集まったとされる。
後の尋問で安宿王は、兄・黄文王に連れられて太政官院へ行き、奈良麻呂らとともに天地を拝したと供述した。
安宿王自身は、詳しい事情を知らず、欺かれて参加したと主張している。
最初の告発が入った後も、計画に関係したとされる人々の動きは続いていた。
8.7月2日――上道斐太都の密告
7月2日。
上道斐太都が藤原仲麻呂へ計画の詳細を密告した。
この情報を得た仲麻呂側は、計画が実行に移される前に動いた。
事件後の小野東人らの供述によれば、奈良麻呂らはまず仲麻呂の田村第を襲撃して仲麻呂を殺害し、皇太子・大炊王を退ける計画だったとされる。
続いて皇太后宮の鈴印を奪い、孝謙天皇を退け、黄文王ら4王の中から新たな天皇を立てる構想があったという。
ただし、この詳細な筋書きは事件発覚後の尋問によって得られた供述である。
その尋問では実際に拷問が行われ、多くの死者が出た。
したがって、計画のすべてが最初から供述どおりの順序で決められていたと断定することはできない。
確認できるのは、藤原仲麻呂排除と皇位継承をめぐる計画が存在すると告発され、その情報を得た仲麻呂側が実行前に動いたことである。
9.7月3日――一斉拘束と赦免
7月3日。
橘奈良麻呂をはじめ、黄文王、安宿王、塩焼王らが相次いで拘束された。
しかし、光明皇太后の詔によって、いったん許された。
これで事件が終わったわけではない。
関係者への調査は続けられた。
そして翌4日。
小野東人らの供述をきっかけとして、再び厳しい追及が始まった。
10.7月4日――尋問と拷問
7月4日。
小野東人をはじめとする関係者への尋問が行われた。
『続日本紀』に残る供述では、奈良麻呂が藤原仲麻呂排除と皇位継承計画の中心人物として描かれている。
尋問では杖による厳しい拷問が行われた。
黄文王。
道祖王。
大伴古麻呂。
小野東人。
多治比犢養。
賀茂角足。
これらの人物は、拷問によって杖下に死亡したと伝えられる。
黄文王は、729年の長屋王の変を生き延びた皇族だった。
道祖王は、わずか3か月ほど前まで皇太子だった。
皇位継承と藤原仲麻呂排除をめぐる政変は、多くの皇族・貴族・官人が命を失う事件へ発展した。
11.橘奈良麻呂の最期は明記されていない
橘奈良麻呂本人の最期については、史料の扱いに注意が必要である。
奈良県立万葉文化館や日本大百科全書などでは、奈良麻呂が厳しい尋問や拷問を受け、獄中で死亡した人物として整理されている。
一方、『続日本紀』は黄文王や道祖王らが杖下に死亡したことを記しながら、奈良麻呂自身がいつ、どのように死亡したのかを明記していない。
世界大百科事典も、奈良麻呂のその後は『続日本紀』に見えないと指摘している。
事件後、奈良麻呂の名は政治の表舞台から消える。
一般には事件の尋問過程で死亡したと考えられているが、その最期を一次史料から明確にたどることはできない。
12.なぜ計画は実行前に潰れたのか
橘奈良麻呂の変では、大規模な合戦は起きなかった。
奈良麻呂らが武力を本格的に動かす前に、計画が外部へ漏れたからである。
6月28日には山背王が告発した。
その後も関係者の動きは続いたが、7月2日には上道斐太都がさらに詳しい内容を仲麻呂へ伝える。
翌3日には、奈良麻呂らが拘束された。
奈良麻呂らは大伴氏・佐伯氏など、軍事に関わる氏族の人物を計画へ引き込もうとしていたとされる。
しかし、その力を実際の武力として動かす前に中心人物が押さえられた。
さらに計画に近い皇族・官人の中から、山背王や上道斐太都のように情報を朝廷側へ伝える者が現れた。
757年の政変が大規模な武力衝突へ発展しなかった最大の要因は、戦場で敗れたことではない。
実行前に計画を察知され、主導権を奪われたことにあった。
13.藤原仲麻呂政権の確立へ
事件の処分は橘氏だけに及んだわけではない。
大伴氏、佐伯氏、多治比氏をはじめ、多くの皇族・貴族・官人が処罰された。
安宿王や大伴古慈斐らは流罪となった。
さらに藤原仲麻呂の兄で右大臣だった藤原豊成も、計画を知りながら朝廷へ奏上しなかったとして大宰員外帥へ左遷された。
後の宝亀元年(770)の太政官奏では、この事件に関係した「逆党」443人が名簿に記されていたことが確認できる。
事件の影響が広い範囲に及んだことが分かる。
一方、藤原仲麻呂に対抗し得る皇族・貴族層は大きな打撃を受けた。
翌758年。
大炊王は孝謙天皇から譲位を受け、淳仁天皇として即位する。
藤原仲麻呂は「藤原恵美朝臣押勝」の名を与えられ、その後、人臣最高位の太師まで昇っていった。
757年夏。
藤原仲麻呂を排除し、皇位継承の流れを変えようとした計画は、武力が動き出す前に密告によって崩れた。
そして7年後。
今度は政権の頂点に立った藤原仲麻呂自身が孝謙上皇と対立し、兵を挙げる。
橘奈良麻呂の変で反対勢力を退けた仲麻呂も、764年の藤原仲麻呂の乱では都を追われる側となった。
757年に始まった皇位と政権をめぐる争いは、そこで終わらなかった。
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藤原仲麻呂 古代王権を動かした異能の政治家 (中公新書 2648) [ 仁藤 敦史 ]
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