第39回
天平宝字8年(764)9月18日。
琵琶湖西岸の近江国高島郡。
かつて朝廷の最高位にまで昇った藤原仲麻呂は、追討軍に追い詰められていた。
近江へ進もうとすれば橋を焼かれ、越前へ向かえば関を押さえられる。
三尾埼で追討軍に敗れた仲麻呂は、勝野鬼江から船で湖上へ逃れようとした。
しかし、石村村主石楯に捕らえられ、斬首された。
一族や与党34人も湖岸で斬られたと伝えられる。
そのわずか7日前。
9月11日の朝、仲麻呂はまだ太師・正一位という人臣最高の地位にあった。
奈良時代の朝廷で大きな権力を握った人物が、なぜわずか8日間で都を追われ、琵琶湖畔で命を落としたのか。
藤原仲麻呂の乱。
後世「恵美押勝の乱」とも呼ばれる政変は、平城京で起きた駅鈴と内印をめぐる争奪から、一気に武力衝突へ進んでいった。
1.淳仁天皇を支えた藤原仲麻呂
藤原仲麻呂は、藤原不比等の長男・藤原武智麻呂の子である。
叔母にあたる光明皇太后との関係を背景に朝廷で勢力を伸ばし、天平勝宝元年(749)には紫微令、757年には紫微内相となった。
同年の橘奈良麻呂の変では、仲麻呂に対抗する皇族・貴族の多くが処分される。
皇太子となった大炊王は仲麻呂と近い関係にあり、758年、孝謙天皇から譲位を受けて淳仁天皇として即位した。
仲麻呂は「藤原恵美朝臣押勝」の名を与えられ、760年には太師に昇る。
人臣として最高位に立った時期だった。
しかし同じ760年、仲麻呂の政治的な後ろ盾だった光明皇太后が死去する。
朝廷内部の力関係は、その後しだいに変化していった。
2.孝謙上皇と淳仁天皇の対立
761年、孝謙上皇と淳仁天皇は近江国の保良宮へ移った。
このころ孝謙上皇は病を患い、その看病にあたった僧・道鏡への信頼を深めていった。
淳仁天皇が上皇と道鏡の関係を批判したことから、両者の対立が表面化する。
762年、平城京へ戻った孝謙上皇は法華寺に入り、6月3日に政治のあり方を大きく変える宣言を行った。
国家の重要事項と賞罰は自らが扱うとし、淳仁天皇には通常の政務などを担わせるという内容だった。
淳仁天皇を支える仲麻呂にとって、上皇が再び政治の主導権を握ることは大きな変化だった。
仲麻呂は子の真先・訓儒麻呂・朝獦らを政府の要職へ進め、地方にも一族や近しい人物を配置していた。
一方、孝謙上皇の側では道鏡が763年に少僧都となる。
上皇・道鏡側と、淳仁天皇・仲麻呂側との緊張は深まっていった。
3.764年9月2日――仲麻呂に与えられた軍事権
天平宝字8年(764)9月2日。
仲麻呂は「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。
四畿内や近江・丹波・播磨、三関に関係する地域の兵士を召集・検閲する権限を持つ特別な役職だった。
仲麻呂は兵力を集めようとする。
しかし、その動きは高丘比良麻呂や大津大浦らから孝謙上皇側へ伝えられた。
仲麻呂が兵を十分に集める前に、上皇側が先に動いた。
狙われたのは、淳仁天皇のもとにあった駅鈴と内印だった。
4.9月11日――駅鈴と内印の争奪
9月11日。
孝謙上皇は少納言・山村王を淳仁天皇のいる中宮院へ送り、駅鈴と内印を回収させた。
駅鈴は駅制を利用して使者を移動させる際に必要な証明で、内印は天皇の命令などに用いられる印である。
両者は合わせて「鈴印」と呼ばれた。
仲麻呂はこの動きを知ると、子の藤原訓儒麻呂(久須麻呂)らを送り、鈴印を奪い返させた。
訓儒麻呂は一度は奪還に成功する。
しかし、孝謙上皇側の坂上苅田麻呂、牡鹿嶋足らが追撃し、訓儒麻呂を射殺した。
仲麻呂はさらに中衛将監・矢田部老を送り込むが、こちらも殺された。
同日、仲麻呂とその子孫は官位を剥奪され、藤原の氏姓も除かれた。
封戸なども没収され、鈴鹿・不破・愛発の三関を固めるよう命令が出される。
朝廷最高位にいた仲麻呂は、一日のうちに追討される側へ回った。
5.淳仁天皇を伴えず都を脱出
仲麻呂にとって大きかったのは、淳仁天皇と行動をともにできなかったことである。
孝謙上皇側に先手を取られた仲麻呂は、淳仁天皇を伴わないまま平城京を離れた。
仲麻呂は太政官印を持ち出し、宇治方面から近江へ向かう。
翌12日には、北陸道諸国に対して、仲麻呂が持ち出した太政官印を用いた命令に従わないよう勅命が出されている。
近江は仲麻呂が長く国司を務めた地域でもあった。
しかし追討側は、仲麻呂の後をそのまま追うだけではなかった。
別路を急いで先回りし、進路を封じていった。
6.勢多橋を焼かれる
仲麻呂は宇治方面から近江へ向かった。
これに対し、山背守・日下部子麻呂や佐伯伊多智らは田原道を急ぎ、仲麻呂より先に近江へ入った。
追討側は瀬田川に架かる勢多橋を焼き、仲麻呂の進路を遮った。
『続日本紀』は、橋が焼かれているのを見た仲麻呂が進路を変え、高島郡方面へ向かったと伝えている。
仲麻呂は琵琶湖西岸を北へ進むことになった。
その先にあったのが越前国だった。
7.塩焼王を「今帝」に立てる
仲麻呂は淳仁天皇を伴うことができなかった。
その逃走の途中、皇族の氷上塩焼を「今帝」として立てた。
塩焼王は天武天皇の皇子・新田部親王の子で、757年には皇太子候補にも挙げられた人物である。
『続日本紀』は、仲麻呂が塩焼王を「今帝」としたことを記している。
淳仁天皇と離れた仲麻呂側は、孝謙上皇側とは別の皇位を掲げて対抗する形になった。
そのころ追討軍は、仲麻呂が次に向かおうとした越前にも先回りしていた。
8.越前への道――愛発関
越前国守は、仲麻呂の子・藤原辛加知だった。
仲麻呂は琵琶湖西岸を北上し、越前方面へ向かおうとする。
近江から越前へ通じる北陸道には、鈴鹿関・不破関と並ぶ三関の一つ、愛発関が置かれていた。
その正確な位置は現在も確定していない。
追討側の佐伯伊多智らは仲麻呂より先に越前へ入り、越前守・辛加知を殺害した。
愛発関方面も追討軍によって押さえられる。
仲麻呂はまず数十人の兵を送り込み、関を突破しようとした。
しかし追討軍に撃退される。
越前へ進む最初の試みは失敗した。
9.塩津へ向かう船――二度目の突破
仲麻呂は別の進路を探した。
船で琵琶湖北岸の塩津方面へ向かおうとしたのである。
しかし風に阻まれ、船は思うように進まなかった。
仲麻呂一行は上陸し、今度は山道から再び愛発関方面へ向かった。
ここでも佐伯伊多智らの軍に阻まれた。
『続日本紀』系の記録では、仲麻呂側の8~9人が矢に当たって死亡したと伝えられる。
勢多橋を塞がれ、越前への道も突破できなかった仲麻呂一行は、近江国高島郡の三尾埼方面へ退いた。
10.9月18日――三尾埼の戦い
9月18日。
仲麻呂側と追討軍は、近江国高島郡の三尾埼付近で激突した。
追討側には佐伯三野、大野真本らがいた。
戦闘が続く中、追討側には藤原蔵下麻呂の軍勢も加わった。
仲麻呂側はこの戦いで崩れ、琵琶湖岸の勝野鬼江へ退いていく。世界大百科事典も、三尾埼で仲麻呂が追討軍主力に挟撃され、その後勝野鬼江へ逃れた流れを伝えている。
仲麻呂が都を出てから、追討軍は進路の先にある要地を次々と押さえていた。
三尾埼での敗北によって、残された逃走路もさらに狭まった。
11.勝野鬼江――藤原仲麻呂の最期
三尾埼で敗れた仲麻呂一行は、勝野鬼江へ退いた。
勝野鬼江は現在の滋賀県高島市勝野周辺に比定されている。
ここでも追討軍との戦闘が続いた。
仲麻呂は船で琵琶湖へ逃れようとしたが、石村村主石楯に捕らえられた。
藤原仲麻呂は斬首された。
一族・与党34人も湖岸で斬られたと伝えられる。
「今帝」とされた氷上塩焼も命を落とした。
9月11日の鈴印争奪から9月18日まで。
わずか8日間で、藤原仲麻呂の軍事行動は終わった。
12.なぜ仲麻呂は8日で敗れたのか
仲麻呂は乱の直前まで太師・正一位という人臣最高の地位にあり、一族や近しい人物を中央政府や地方の要職へ配置していた。
それでも、政治的な地位を十分な軍事力へ変える前に主導権を失った。
9月11日、孝謙上皇側は鈴印を押さえた。
仲麻呂は淳仁天皇と行動をともにできないまま都を離れる。
近江へ向かえば勢多橋を焼かれた。
越前では国守だった子の辛加知を失い、愛発関への進出も阻まれた。
進路を変えても追討軍が先回りし、三尾埼では主力軍に阻まれる。
仲麻呂が逃走先で大規模な軍勢をまとめ直す前に、追討側が交通路と要地を次々に押さえていったことが、8日間という短期間での敗北につながった。
吉備真備も孝謙上皇側の軍事対応に関わり、仲麻呂の進路を遮断する側で動いたとされる。
仲麻呂の敗北は、9月18日の最後の一戦だけで決まったものではなかった。
9月11日に都で先手を取られたところから、敗北への流れは始まっていた。
13.淳仁天皇の廃位と称徳天皇
仲麻呂が討たれた後、朝廷の政治体制も大きく変化した。
9月20日。
道鏡は大臣禅師に任じられる。
10月9日、淳仁天皇は廃位され、淡路国へ送られた。
孝謙上皇は重祚し、称徳天皇となった。山川日本史小辞典も、称徳天皇としての在位を764年10月9日からとしている。
淳仁天皇は翌765年、淡路で逃亡を試みた後に亡くなったと伝えられる。
道鏡は称徳天皇のもとでさらに地位を上げ、765年には太政大臣禅師、766年には法王となっていく。
9月2日に広い軍事権を与えられた藤原仲麻呂は、その16日後には琵琶湖西岸で命を落としていた。
孝謙上皇と淳仁天皇の対立から始まった政局は、鈴印争奪を境に武力衝突へ変わり、勢多橋、愛発関、三尾埼、勝野鬼江へと戦場を移した。
仲麻呂の死後、淳仁天皇は皇位を追われ、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位する。
764年9月の8日間は、藤原仲麻呂という一人の権力者の最期だけでなく、奈良朝の政治の中心が大きく入れ替わる転換点となったのである。
権力の頂点に立った藤原仲麻呂は、なぜ最後に兵を挙げたのか。
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藤原仲麻呂 古代王権を動かした異能の政治家[本/雑誌] (中公新書) / 仁藤敦史/著
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